प्रज्ञापारमिता

𝔇𝔥𝔞𝔯𝔪𝔞 𝔗𝔞𝔩𝔨, 𝔅𝔲𝔡𝔡𝔥𝔦𝔰𝔪, 𝔗𝔥𝔦𝔫𝔨𝔦𝔫𝔤, 𝔞𝔫𝔡 𝔱𝔥𝔢 𝔚𝔬𝔯𝔡

お寺は水飲み場

2019年07月26日 | 法話関係
『百喩経』という、様々な説話を集めたお経があります。仏教を喩えを使ってわかりやすく説いたものです。
『百喩経』の説話はなかなか面白いものがたくさんありますが、今日はその中からひとつ短いものを、ご紹介します。わかりやすく訳された『ブッダの小ばなし』(多田修編訳、法蔵館、2019)からの引用です。

…………………………

夏のことです。
この日は特別に暑くて、あちこちに熱中症になりそうな人がいます。この人ものどがカラカラで、フラフラしながら歩いています。

「あそこに水がある! なんだ、かげろうで景色がゆれているだけか…」

それでも歩いていると、ついに大きな川にたどり着きました。
でもこの人、川の水を飲もうとしません。そばにいた人が聞きました。

「のどがかわいてるんでしょ。なんで水を飲まないの?」

「飲もうと思ったのですが、多すぎて飲みきれません。だから飲みません」

…………………………

「そんなバカはいないだろ〜」と皆さん、たぶんそう思われるかも知れません。確かに、実際にこんな状況になったら、皆さんも私も水を飲むと思います。

しかしこの話は、「譬喩、もののたとえ」です。
仏教を学ぶ、あるいは実践する時によく考えてみてくださいね、というお話なんです。

仏教にはたくさんの経典があります。一生かけてもぜんぶは読み切れません。ものすごい分量です。
また、研究書や解説、論文まで入れたら、どのくらいあるかわかりません。使われる言語も多様ですし、難解で哲学的なものもたくさんあります。
実践するにしても、真言念誦、念仏、題目、瞑想、座禅、たくさんあり、それぞれひとつをやるにも一生ものです。また、戒律もあります。

これらはすべて、私達の魂の渇きや苦しみを乗り越えさせるためのものですが、あまりにも膨大で、説話の主人公の前を流れる大きな川のようで、私達も仏教という大河を前に呆然としてしまいそうです。

そうして、「私に仏教は難し過ぎるわ」

と、一切を「私に関係ない」と捨ててしまう人もおります。
でもそうじゃない、大河すべてを飲み干さなくても、渇いた分だけを手で掬って飲めばよいのです。自分に縁があった「ひとつの教え」「ひとつの実践」を見つけ、それをコツコツとやるだけです。
僧侶は川の専門家です。だから川の全体をちゃんと学ばなくてはなりませんが、渇きを癒やすためならば、必ずしも川すべて飲まなくても良いのです。

この説話は、川の大きさにびっくりして、ひと掬いの水すら捨ててしまうというお話でしたが、それはまったく愚かでもったいない話です。仏の教えを学びまた実践することも実はまったく同じなんだ、という喩え話で、そうやって仏教すべてを捨てるのは非常にもったいないことだ、と教えてくださっています。

お寺は「川岸」です。
仏教はいつもお寺に流れています。行事だけでなく、うちのお寺では毎月、法話会や御詠歌をしています。それ以外でも、いつでも水が飲みたくなれば来てください。

お寺は川岸、仏教の水飲み場です。

コメント

ハーモニー

2019年07月18日 | 法話関係
未だあらじ 一味美膳を作し
片音妙曲を調うる者は

「性霊集十 種智院式」


ひとつの味だけで美味しい料理を作ったり、ひとつの音だけで素晴らしい曲を演奏したりすることなど、未だかつて一度もない。

…………………………


令和に入って数カ月が経ちましたが、相変わらず嫌なニュースばかりが目につきます。平成が終わり、新たな時代は前向きに明るく…と願っていますが、なかなかうまくいかないようです。

犯罪や戦争や差別、いじめなどはなぜなくならないのでしょうか。
仏教では、答えは簡単です。それは、

・三毒(貪・瞋・痴)があるから
・自他を分けて自分、あるいは自分たちだけを重視するから

このふたつに尽きます。
これをまとめて煩悩と言いますが、108あるとされる煩悩の根本は、三毒と自他分別にまとめられます。
そしてこれをひとつにまとめると、それは

・「自我意識」

…となります。
自分自身をなくせ、ということではなく、「私が、私の、私を」と、常に自分を中心に置いて喜怒哀楽に右往左往する「自己中心的な心」をなくせ、ということです。

政治問題もそう、宗教戦争や差別問題もそうですが、争いの根本は「私は正しい、私を尊重しろ」と、多様な考えや様々な人がいることに耐えられず、わがままな自分を振り回すところにあります。

弘法大師の仰るように、どれだけ素晴らしい調味料でも、それひとつではどうしようもないし、美しい音も「ド」しかなかったら、曲にはなりません。
「私が、私の、私を」を振り回すのではなく、身の回りの他者や色々なものを受け止め取り入れながら、違いを楽しむくらいの心でお互いを尊重し感謝して暮らしていければ、すぐには難しくても、少しずつ平和平穏な社会になっていくのではないでしょうか。
まずは自分の身の回りから、新たな時代を暖かく穏やかなものにして参りましょう。
コメント

2019年07月12日 | 仏教・思索
Twitterで、以下のような話があった。

…………………………

空がよくわからない
と、とあるお坊さんに聞いたら
かたよらないこと
とおっしゃったけど
なかなか実感できない

…………………………


以下、僕のリプライから。

…………………………

よくそんな説明がされますが、「ドーナツとは何ですか」と聞かれて「基本は小麦粉です」と言われてもピンと来ないだろうなぁ、とは思います。間違いではないけど…と。



なかなか説明は難しいですが、万物や精神も含め、すべて縁起つまり相互依存的にのみ成り立ち、他から完全に別な非依存的に自立した存在はない、というあり方で現象的一時的に成立している状態、を空と一応ラベリングする、というところでしょうか。
ざっくりですが。



たとえばゴルフのネットがあって、右から3つ目、上から7つ目の穴があるじゃないですか。それは大きさも形もありますが、それだけ抜き出して持ち出せないですよね。その穴は周りに依存して成り立ってますから。実体もないし。
僕らみんなそういう存在ですよ、そのあり方を空と言う、ってことです。

…………………………


以上。

まぁこれはこれで良いんですが、たとえば次に「そういう相互依存的、つまり相対的ではない存在はあるのか、つまり、神であるとか」なんて論題があり得るかと思います。

しかしそれは論題になりません。

たとえば「絶対的な神」、何ものにも依存しない神、なるものを考えた時、それは既に「私に対置」されて、依存的な概念にならざるを得ません。それは絶対ではなく、相対、既に「空なる存在」です。
つまり、「絶対的な神」が「いる」としても「いない」としても、そもそも前提とされる「神」が措定された以上、それは絶対ではないので、論題としてナンセンスなんです。
だから仏教においては基本的には、神あるいは「絶対的存在」については、語りません。語れないからです。語れば、あるいは考えてしまえば、その瞬間に絶対ではなくなるからです。

法身、あるいは「果分可説」など細かい議論はまたあるわけですが、ざっくりと言えばまぁ、こんなところでしょうか。

宗派や人によって様々な立場があり、考え方も色々とあるとは思いますから、あくまでひとつの意見として読んでいただけたら幸いです。
コメント

開山忌

2019年07月11日 | 閑話休題
7/26(金)は「福楽寺開山忌」。
当寺の開山上人は奈良時代、行基菩薩です。

午前9時くらいから卒塔婆受付開始、正午前くらいから昼食のお接待を行います。その後、13:10から法話、14:00から開山忌法会、14:50頃から初盆特別施餓鬼、15:30頃から卒塔婆供養です。

本堂はめっさ暑いです☀が、助法諸大徳様方ともに、頑張って勤めますので、ご参詣ください。昼食を食べたら帰る方のほうが多いのが現状ですが、法話〜法会にも是非…。

コメント

水のちから

2019年07月08日 | 法話関係
感星銀漢は下灑の功深し
湖水天池は上潤の徳普し
故に能く屮卉これに因って鬱茂なり
蟲卵これに頼って長生す

(性霊集二益田池碑)


雨を降らす星々、万物を潤す湖や海によって、草木が茂り、生き物たちが生き生きとする。

…………………………

雨の季節です。
雨は言うまでもなく水ですが、人間の身体の70%は水で出来ています。少々は食べなくても人は死にませんが、水は数日飲まなければいのちの危険に晒されます。水はいのちの源です。
この水、地球を太古の昔から循環していまして、雨が降り、川となりまた地下水となってまた海に流れ込み、蒸発して雲を作り、また雨となって降り注ぐ。自然の摂理です。
人間や動植物は、その偉大な大自然の水の循環の途中に立って、幾ばくか必要な水を頂きながらいのちを保っています。おおきな水の大循環、つまり「いのちの源の偉大な巡り」の中に入れさせて頂くことで、私たちはなんとか生きているわけです。
感謝しないではいられませんが、果たして感謝は足りてるでしょうか? 水を単なる道具か何かのように考えていないでしょうか。地球の水の循環を崩してまで手に入れる「豊かな生活」は、最後には私たちのいのちを脅かすことになるでしょう。

さて、水はいのちの源ではありますが、集中豪雨による洪水や、あるいは津波などによって、水は人のいのちを奪うこともあります。
ものごとには常に二面があり、「与えるもの」は「奪うもの」と表裏一体です。片方だけで完結することはありません。ましていのちを与えるほどの強い力を持つならば、その力は逆にも大きく働きます。ものごとは万事それです。

人間も、「悪に強い者は善にも強い」と言われます。
人間には誰にも強い力があります。なにしろ70%が、偉大な水で構成されていますから。もとがいのちの塊なのです。
だから私たちにも、他者を生かす力があるし、殺す力もあります。いずれにしても力があるので、あとはそれを「どう使うか」。自然の摂理はコントロールし切れませんが、自分自身を作り上げている力をコントロールすることは可能です。それを、善く、他者のためにコントロールして活かさなくてはなりません。
その活かし方を教えるのが、仏教です。仏の教えです。
まず自己の内に秘めた力を整えるのが、十善戒。それを他者のために働かせるやり方が、四無量心です。
このふたつの指針を常に胸に置いて、自分が持っている力を発揮し、破壊ではなく互いに生きるために使って、幸せな生活、明るい生活にして参りましょう。

…………………………

十善戒

不殺生…すべての生き物を無益に殺さない。恨まない、憎まない。排斥しない。
不偸盗…盗まない。他人の物を欲しがらない。
不邪淫…不倫をしない。異性に対して邪な思いを抱かない。
不妄語…嘘をつかない。
不綺語…きれいごとを言わない。
不悪口…悪口を言わない。
不両舌…二枚舌を使わない。
不慳貪…物惜しみをしない。ケチにならない。
不瞋恚…怒らない。イライラしない。
不邪見…仏教の教えを正しく学び、般若空の正しいものの見方をする。

四無量心

慈…楽を他者に与えたいという心。
悲…他者の悲しみや苦しみを抜いてあげたいという心。
喜…他者の喜びを自分の喜びとまったく変わらずに喜ぶ心。
捨…「私が・あなたに・何々を」の区別心を捨てた平等心。




コメント