प्रज्ञापारमिता

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すーくんとお地蔵さま

2019年06月21日 | 閑話休題
今回ご紹介するのは、ある檀家さんが書かれた童話です。
許可をいただき、掲載いたします。


……………………………

『すーくんとお地蔵さま』

あるまちに、すーくんというおとこのこがいます。
すーくんは、とてもあかるくて、げんきいっぱい、やさしさあふれるにんきものです。
そんなすーくんは、ふしぎとおじぞうさまのこえがきこえるのです。


ふしぎなおはなしのはじまり…

すーくんは、2さい。
すーくんのおうちのまえには、ポツンとさみしそうなおじぞうさまがいます。

すーくんは、おさんぽのとき、おじぞうさまをみつけると、だれもおしえてないのに、かならずしゃがんで、ちいさなてをあわせておがみます。
ことばをはなせるようになったあるひ、ママはすーくんにききました。
「おじぞうさんは、なんていってた?」
すーくんはいいました。
『おじぞうさんは、ごはんたべたいって』
すーくんはそのころ、たべたいということばがいえず、ぱべたいといっていました。
ママは、ちいさなおさらにおこめをいれておそなえしました。

おじぞうさまは、ふるくてかおがみえないくらいすりへっています。
おじぜうさまのまえは、むかしながらのみちと たんぼがありますが、そこをとおるひとはほとんどいません。
おじぞうさまのうしろがわにはどうろがあり、くるまがびゅんびゅんはしっています。

すーくんは6さいになりました、
ママは、すーくんにいいました。
「おじぞうさんに、しょうがっこういくんよっていいにいこうか?」
『うん』
すーくんはスタスタとおじぞうさまにちかづき、
『どーしたの〜? なきよるの〜?』
おじぞうさまをさすりはじめたのです。
『おなかがすいちょるんて。
あぁ〜おかおが…どうしたの〜?
あしがいたいの〜?』
すーくんは、しんぱいそうにおじぞうさまのぜんしんをなでていました。
そして、とてもやさしくはなしかけるのです。
ママは、すーくんがしていることをぼうぜんとみていました。
6さいになったし、もうなにもいわないかとおもっていたけど、あんなふうにしぜんにおじぞうさまにふれることができるのは、やっぱりすーくんだなと、ママはおもいました。
いえにかえり、ゲームをしはじめるすーくんにききました。
「すーくん、おこめじゃなくて、りんごでもいい?」
『いいよ。ママがおいてきてよ。あしがつかれたからすーくんはいけない』

ママは、りんごをうさぎのかたちにきりました。
そして、すーくんのおとうとをつれておじぞうさまにおそなえしにいきました。

すーくんは9さいになりました。
おうちをたててひっこしをし、2ねんのつきひがたっていました。

ママは、ふとおじぞうさまのことがきになりました。
そして、そのよるゆめをみました。
  「すーくんはすごいこですね
   ちゃんとかんじとれるこ。
   おじぞうさまにあいにいってあげて…
   おなかはがすいているみたいよ。
   あとね、どうろがうるさいからかべがほしいみたい…
   むりなら、ぬのでおおってあげて
   たべものは、ひとがたべるのとおなじようにしてあげて…」
ゆめにでてきたのは、キラキラとした、めがみさまのようでした。

つぎのひ、ママはおじぞうさまのところへいきました。
まえは、おはなだけはいけてありました。
いまはくさだらけ…おはなもありません。
どうやら、おせわをしていたひとがだれもいなくなったようです。
ママは、くさをぬき、よういしてきたおおきなくさもちを、たべやすいようにほうちょうではんぶんにきりました。
ヤクルトにストローをさし、おにぎりはラップからはずしておそなえしました。
そして、おじぞうさまのからだに、ピンクのふろしきをまきました。
そのすがたは、とてもかわいらしくみえました。

すーくんにおじぞうさまのことをはなしました。
もちろんおぼえていました。
むかしは、おこめをそのままあげていましたね。
「おにぎりがよかったみたいよ」
というと
『そりゃーそうかもね…』

9さいのすーくんはいうのです。
『たべるものがなかったから、くさをたべるしかなかったんよ』
そんなこともいっていました。
すうじつご、すーくんをつれておじぞうさまにあいにいきました。
すーくんは、
『めがなくなった…』
といいました。
ママは、びっくりしました。

おじぞうさまに、おにぎりとヤクルト、おせんべいをおそなえしました。
すーくんに、おじぞうさまと おなじおにぎりをわたしていっしょにたべました。
やさしいかぜがふき、とてもおだやかなじかんがすぎていきました。

すーくんは11さいになりました。
それからも、すーくんとママは、おじぞうさまのために たべものをおそなえするようになりました。

そんなあるひ、ふたりはきづいたのです。

『あれ? おじぞうさまのおかおが…
まるくなってる!』

たべものわおそなえするようになり、おじぞうさまのかおはまるくなっていったのです。

すーくんはいいました。
『ありがとう…っていってる』

おじぞうさまには、めも はなも くちもないけれど、そのすがたはまるでほほえんでいるかのようにみえました。


めにみえないものが、みえる、きこえる

あなたはしんじられますか?

みなさんのおうちのちかくにもおじぞうさまはいますか?
もしいたら、はなしかけてあげてください。
きっとよろこんでくれますよ。
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信、知、思い遣り

2019年06月14日 | 仏教・思索
仏教…のみならず、宗教においては一般的には信仰・信心が重要とされています。然り、それは正しい。信心為本、仏法へは信を以って能入とする、などという言葉もあります。
しかし、とりわけ仏教においては、何でも信じれば良い、わけではありません。「信」には色々な意味合いがありますが、常に知性を忘れてはならないのです。道理に合っているか、思い込もうとしていないだろうか、その信仰・信心は一種の取引や逃げの口実になっていないか。きちんと自己批判しながら吟味してゆく知性が大切です。

では、信心と知性があれば十分でしょうか?

まったく不十分です。

信心や信仰熱心でありながら戦争をする、他者を排除したり傷つける行為は古来いくらでもありました。知性があっても、それを使って同じように自己利益を図り他者を貶める所業を為す者は後を絶ちません。知性がある敬虔な信者が、他者を迫害する歴史は枚挙に暇がないのです。
外国の話ではなく、日本でもたくさんありましたし、今もあります。

大切なことは、信仰・信心と知性を両輪として、それをしっかり操縦する運転手、御者が必要である、ということになります。運転手が暴走すれば、信仰・信心と知性を両輪とする車は他者を轢き殺す凶器になり得ます。

ではその運転手とは何か。

それこそが、慈悲です。あるいは、愛と表現する宗教もあるでしょう。その慈悲、愛、より一般的には、思いやり。他者と共に生きる覚悟。想像力。傷つけ合わない平凡な幸せを互いに保証し合おうとする協働。穏やかな平安。我ひとり、ではなく、みんなが安心して起き眠りにつけるよう気を遣う。

この心こそが、運転手・御者です。
その運転手・御者がいればこそ、信仰・信心や知性は最大限の幸せをあなたや世界にもたらす力を発揮します。だめな運転手・御者であれば、事故は必然です。
そして、良き運転手・御者にはよき車が必要です。信心・信仰と知性は、自分の出来る限りは磨き続けなくてはなりません。定期的な車検を受けるように、メンテナンスも大切です。

信心・信仰、知性、それと慈悲・愛。

およそ宗教なり信仰なりを意識する者であるならば、仏教であれキリスト教であれイスラームであれ、この三つは必ず必要です。また、仮に特別な信仰がなかったとしても、たとえば「信念・目的、知性、慈悲・愛」の三つが、幸せな人生には必要でしょう。構図は普遍的なものです。

つづめれば、思い遣り。
陳腐に聞こえたとしても、やはりこれが根本です。
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変成男子

2019年06月08日 | 仏教・思索
某SNSで「変成男子」の話題がありました。

『無量寿経』だと確かに極楽は男の園だったかと思うんですが、『法華経』の場合は女のままで成仏できるんですよね。龍女については誤解があるけど、男子になったのは成仏の後の上座弟子への「折伏」のためで(あれは性別だけでなく、「子供」「ナーガ」差別にも関わると思う)。『維摩経』の天女の段にしても女人成仏を妨げてないし、「男女を論ぜず」の弘法大師のように、真言密教でもそこは同じ。そもそも釈尊自体が女性について宗教的資質が劣ることを明快に否定している。そう言えば日蓮聖人も霊山往詣について語る時、女性は女性のままであり、男子に変わるなど一言も述べていないように記憶している。

要はインドから東アジア世界における一般的な女性蔑視が後代に部分的に混入しただけで、部派と最初期の一部の大乗思想を除く原理的な仏教思想のメインライン(釈尊と大乗)に女性差別はもともとはない。が、仏教史上、強固な一般社会の女性蔑視を解消するために、しかし抜き難い男性優位観念に無意識に囚われた状態でそれやろうとしたから、なんだか複雑な理屈や描写になってしまったけど、要は表現の表面にとらわれずに「何を言わんとしてたのか」を考えれば、また見えてくるものもあろうかな、と。
もちろん現場レベルは世の常識に沿って動いてしまうから、ひどい差別は世間並みに行なわれたであろうことはわかるけど。
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他人の病

2019年06月07日 | 法話関係
如何が己身の膏肓を療せずして たやすく他人の腫脚を発露すや

『三教指帰』


どうして自分の重病を治療もしないで、他人の腫れた脚をとやかく言うのか。

…………………………

「病、膏肓に入る」と言いますが、これは病気が重く深刻になることです。膏は心臓の下、肓は横隔膜の上あたりで、身体の一番奥深い部分と言われています。

ただここでお大師さまが仰っているのは、身体の病のことではなく、心、精神、つまり私たちは自分自身が煩悩や不完全さを抱えていながら、それを軽く見て他人の欠点ばかり直してやろうとしていないか、ということです。
しかもそれは相手を思いやるより、自分自身が気持ち良くなりたい、思うように他人をコントロールしたい、という欲でしかなかったりするものです。

他人の欠点を見る前に、それに負けないくらいの自分の欠点に気づきなさい、という教えです。

聖書(ルカによる福音書6章41・42節)にも似たような言葉があります。

「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる」

つまり、自分の欠点を軽く見たり無視するならば、相手に通じるものも通じないのです。「あなたに言われたくない」となるのがオチです。
逆に、自分自身がちゃんと「善い人間」になる努力をしていれば、敢えて他人に「脚の腫れを治せ」「目のおが屑を取り除け」など言わずとも、いずれ自然に相手に伝わっていくものです。

弘法大師は、他人よりまず自分を見つめなさい、と教えておられます。良い部分はますます伸ばす、悪い部分は徐々に良き方向に向けていく。他人に優しく、自分に厳しく。当たり前の話ですが、なかなかできないのが私たちです。
しかしとても大切なことですから、お互いにちょっとずつ、頑張って参りましょう。
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情報とは

2019年06月06日 | 弘法大師聖句
一切世間は但し是くの如くの字相のみを知って 未だ曾つて字義を解せず この故に生死の人と為す

『吽字義』


人々は言語による説明だけで仏を理解していて、仏界の真相を知らない。だから生と死に一喜一憂している。

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言葉の上だけで表面的な理解をしている…ならばまだマシで、いわゆる間違った知識や一知半解での「知ったかぶり」を目にする機会が非常に多いのが世の常です。
テレビなどを見ていると、健康番組や文化、宗教、歴史、科学…様々な情報が溢れています。インターネットや書物の世界でも同じです。

たとえば健康番組。
あの類の番組にはお医者さんが出演していたりしますが、他の医者がそれを見てあまりの酷さに憤慨することも多々あるそうです。

仏教の番組もあります。
控え目に言っても、テレビやインターネットに流れている仏教の情報の大半はいい加減だったり間違ったものが多くあります。僧侶が出演していても同じで、けっこう適当で偏った話をよく見ます。

歴史や科学番組も似たりよったりで、専門家が見たらあまりの酷さにびっくりするものがかなりあるようです。
しかし私達には、それがわかりません。
私も仏教や宗教についてならばある程度は判断できますが、科学や医学番組の情報が正しいか間違っているかはなかなかわからないものです。わからないのですが、仏教番組はかなりひどいですし、他の番組もそれぞれの専門家の方たちが憤慨されていますから、推して知るべし、なのだと思われます。

どうしてそうなるのか。

まさしく「知ったかぶり」、あるいは僅かな知識を組み合わせて「もっともらしく」勝手に整理してわかったつもりになる、思い込みや世間の噂程度の話を事実であるかのように考えてしまう、狭い自分の経験だけでものを見る、自分で確かめずに他人の言うことを受け売りする…そんなところでしょう。
これでは、弘法大師のいう「言語による説明だけで理解する」以前の話です。表面的な理解にすら届いていません。

安易に思い込まない、勝手に「こうだ」と判断しない、肩書や雰囲気に騙されない、常識も間違っていることはある。
だから、何事も軽々しく断定したり決めつけたりせず、まずは自分で冷静に調べてみたりする。色々な観点から考えてみる。そうしてきちんとした情報を得るように努力して、その上で「表面的ではない本当の意味」…つまり、それらの情報がコトバ上の単なる情報ではなく、「生きて死ぬ、まさにこの自分自身にとって」コトバにならない体感の次元どのような意味を持っているのか、をしっかりつかめるまで考えてはじめて、真実にものを知った、と言えます。

なかなかそこまで「深く知る」のは難しいですが、少なくとも言葉には限界がある、世の中には間違った情報が溢れているから安易に信じない、ということは大切です。
他愛もない話ならどうでも良いでしょうが、医学や仏教は心身の健康にも関わりますから、気をつけたいものです。
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