प्रज्ञापारमिता

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真言、マントラ

2019年05月15日 | 仏教・思索
真言・マントラというのは素晴らしいものです。僕はほとんど「mantra yogin」…と言うのは僭越で言い過ぎなんですが、自行の根底は真言念誦です。

さて、真言というのは陀羅尼→真言→種字と推移するだとか、密意語だから意味は考えるな云々と言われますが、もちろん中途半端なものだとか無意味というわけではなく、観想と一体で行ずる勝義世俗の分水嶺に位置する「ことば」であります。
つまり、真言には観想がなくてはならず、その限り意味があります。文法的に解析した意味もありますが、それ以上に、実践を重ねる中で真言自体が立ち上がり動き出し、より深い意味を開示していきます。そうして、最終的には具体の意味が無化されていき、その時点で「真言の文言には意味がない」と言われるのだと思われます。決して、最初から無意味な音の羅列に過ぎないわけではない(本当に無意味なら、外国語の例文集でも意味もわからず無心に暗記したほうが役立ちます)。

真言密教の実践は難解で一般人には出来ないや…と思われがちですが、真言念誦がαでωです。然るべき人に教えを乞い、一つの真言を死ぬまで保持して一心に念ずることには、絶大な意味があります。
何の真言か…というのは縁によりますが、たとえばチベットではオンマニペメフン、でしょうか。ターラーの十字真言もありますね。
真言密教ならば、光明真言でしょう。簡単な観想の仕方はありますから、それをやりながら光明真言を暇があれば唱える生活をしてみるのもまた、善き人生の基盤になろうかと思います。
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法身説法

2019年05月14日 | 仏教・思索
「法身説法」と言ってイメージするのは、風や花、鳥や月なんかを眺める中で仏の言葉を聞く…なんていう非常に情緒的な話になり、まぁそれはそれで間違いじゃないし結構なことなんですが、裏付け的な話でなかなか面白い文章があったので、紹介します。


「周知のように、全ての密教の中でツォンカパが最も重視したのは、『秘密集会タントラ』の聖者流である。そして、その実践は、観想や念誦を主とする準備的な行としての生起次第と、精神生理学的な瑜伽によって風と識をコントロールすることにより、自らの身心を仏の色身と法身へ転換する本行としての究竟次第という、いわゆる「二次第」から成る。その内、究竟次第については彼の『五次第明灯』に詳しいが、その最終段階「双運次第」で仏果を得る「無学双運」では、行者は光明を証悟して法身を得ると同時に、その所依としての風と識から成る色身である受用身をも得るが、これら二身は同一の本質であって、ただ様相のみが異なり、故に、これを「無二の智身」と名づけ、ここから多くの化身を化作するとする。ここには、風や識などの無上瑜伽独自の要素が見られるが、法身と受用身(=根源的な色身)が一体となった「無二の智身」としての仏身は実質的に、空海が言う「自性受用仏」と同じである。この「無二の智身」または「自性受用仏」と言われる仏身が行う働き(業用=カルマ)こそが、空海の言う「法身説法」にほかならない」

安元剛『密教美術形成史』(起心書房)p.495-496



真言密教が決して半端な段階のものではなく、きちんとインド以来の根っこを押さえたものであることの一旦が垣間見えないでしょうか。無上瑜伽については考え方が多々あり、それを重視しない立場もあるのですが、いずれにしても真言密教の根底にあるポイントはきちんと底まで届いたものなのでしょうね。
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篤く三宝を敬え

2019年05月07日 | 法話関係
【今回は、副住職の法話です】


令和元年5月8日。
元号が改まってから初めての法話会です。ゴールデンウィーク中は令和ゆかりの地がたくさんの人で賑わっていました。

さて、日本の元号はぜんぶで248ありますが、一番最初の元号は何だったか覚えているでしょうか。

そう、大化です。
西暦645年、初めての元号が「大化の改新」のあの大化です。豪族の政治から天皇の政治に移行する重要な事件でした。また、令和の出典として話題になった日本最古の歌集「万葉集」の編纂がされたのも同じく7世紀のことです。
つまり、政治的・文化的に日本という国の形がだんだんと作られてきた、我が国のスタートの時期というのが7世紀頃なのです。

その7世紀の初め頃、日本という国のスタート地点に活躍された方が聖徳太子です。
聖徳太子は冠位十二階を定め、法隆寺や四天王寺を創建されたほか、「十七条の憲法」を制定して「日本の国というのはこういうあり方である」と日本の進むゆく方向を示されました。
その第2条に「篤く三宝を敬え。三宝とは仏法僧なり」という風に始まる条文があります。その後はこのように続きます。

「生きとし生けるもの最後に行き着くところは、どこの国でも究極の宗教です。どの時代でも、どんな人でも仏教を尊ばないものは無い。人間に悪い者は少ない。良く教えれば正道に従う。仏教に帰依しないで、何で曲がった心を正すことができようか。」

つまり、「仏法僧の三宝を敬い生活することが、人が人として生きていくための社会の大切な基本理念である」という風に示されたのです。

ではその三宝とは何かといいますと、まず仏様、それから仏様の教え、そしてそれを身をもって実践されている人々の集まり、というこの3つです。仏教徒とはこの仏法僧の三宝を信じて、自分も従って行きますという決心をするところから仏教というものが始まります。
3というのはつまり仏道を歩む始まりの数字なのです。この三つを信じて敬うというところから、仏教や信心が始まります。日本のスタートに聖徳太子が示されたこの三宝の教えは、私たちが信心を持って仏道を歩むまず第一歩目のスタートのための教えでもあるのです。

さてでは、スタートがあるのなら、ゴールはどこになるのでしょうか? 三宝の3がスタートの数字。では仏教のゴールの数字は何でしょうか?

先月4月8日はお釈迦様のお誕生日でありました。お釈迦様がお生まれになった時、7歩歩いて天上天下唯我独尊というふうにおっしゃったと言われています。これは六道輪廻、つまり地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・・・という6つの迷いの世界を超えた7番目の覚りの世界に私は至ろう、という宣言なのです。
迷いを超えた安楽の7つ目の仏の世界、悟りを開いた先にある完成の数字、ゴールの数字が7ということになります。

ですから仏教では3と7という数字をとても大切にします。だから法事は、3と7にまつわる年にやるのです。

3は始まりの数字、7はゴールの数字。信心を始める人がしっかりとその道を歩き始めるために、三宝つまり「仏様とその教えとそれを実践する人々=仏法僧」を信じて敬って従いますと決意しスタートを切る。そして六道輪廻の世界を超えた7つ目の仏の世界に安楽の境地、浄土に至る。

3から7に歩くための資格は誰にでもあります。私たちは生まれながら「仏の子」です。仏様のこころ、いのちはちゃんと最初から心の中に備わっているのです。それは、心中の「光」です。
どうか普段の生活の中でこの光が自分の心中にあると意識して、仏様の心、自分の中に備わる仏の心を大いに発揮していきましょう。

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