प्रज्ञापारमिता

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阿難と提婆達多

2019年04月15日 | 法話関係
お釈迦様のお弟子さんはたくさんいましたが、今日はその中から、アーナンダとデーヴァダッタのふたりを取り上げます。

まずアーナンダ。
彼はお釈迦様の秘書、随行、という立場の弟子ですが、経典によると、ずっと近くにいたために却ってお釈迦様の教えがわからず、覚るのがおそかったとされています。つまり、お釈迦様は「対機説法」で、目の前の人に合わせて相応しく説いたのですが、アーナンダはそれを逐一すべて聞いてしまったため、なかなか整理がつかなかった…ということなのでしょう。

そしてデーヴァダッタ。
彼はキリスト教における「ユダ」のような立場で、お釈迦様を殺した後に取って代わってトップに立とうとし、アジャータシャトル(阿闍世)王を説き伏せて目的を遂げようとした悪人で地獄に堕ちた、とされています。

品行方正で真面目、優れた弟子たちが多い中、このふたりはそれぞれ違う意味で異色です。

さて、では実際はどうだったのでしょうか。

このふたりについては、もちろん経典に書かれています。経典には、上のように描写されています。

しかしながら、事態はそう単純ではありません。

まずデーヴァダッタですが、彼をブッダとして崇める教団が後世、恐らく数百年に渡って東インドに存在していました。もし単なる悪人であれば、これだけ信奉者が存続したでしょうか。
経典をよく見てみると、彼は恐らく仏教以前の苦行を大切にする保守派で、お釈迦様の中道を理解せずに苦行を主張したのではないかと思えます。それがお釈迦様に受け入れられなかったので、分離独立をした分派だったのではないでしょうか。同調者がそれなりにいて、後代まで対立構図が続いたために、経典では極悪人のように扱われたのかも知れません。

アーナンダ。
実はアーナンダはかなり優秀かつざっくばらん、しかもイケメンな僧侶で、経典を見るかぎりかなり人望があった。お釈迦様と常にセットで行動もし、目立った人物でもあった。
一方、お釈迦様の後継者とされたマハーカッサパは極めて真面目かつ厳正な年長の人物だったようで、教団とは少し離れて修行に打ち込んでいた。その孤高の性格は尊敬はされども、一般の信徒の人気はアーナンダに及ばなかったように見えます。
このアンバランスを、教団維持と和合のためにどう調整するか…という時に、アーナンダは修行者としてはまだまだ半人前だったのだ、という位置付けがなされたのではないでしょうか。

アーナンダにせよデーヴァダッタにせよ、事実はどうあれ、それでお釈迦様の説かれた教えが変わるわけではないし、枝葉末節の話かも知れません。
しかし、経典を離れて考えみますと、私たちの日常においてもさまざまな「人物評」があり、噂や思い込みで他人を「ああだこうだ」と判断批評し、やれあれは良い人、これは悪い人、あれは優秀、これは取るに足らない…と相手を決めつけていないでしょうか。
実際には、完璧な善人も悪人もいないし、優秀な人も取るに足りない人もいないです。それはあくまで決めつけと、「自分の都合にとって役に立つか立たないか」「好きか嫌いか」「意見が同じか違うか」に過ぎなかったりするものです。

改めて身の回りの人を眺めてみましょう。冷静に見てみれば、違う面が見えてきます。またこれは、自己評価についても同じです。自分自身がどういう人間か、それもまた冷静に振り返ってみれば、勝手に「自分はこうだから」と限界を設定して縛っていたものが、本当に自分をしばっていたのか、自分自身でそう決めつけていただけではないか、そのあたりも新しい見え方がしてくるかも知れません。
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2019年04月14日 | 東亜仏典の言葉
遇い難き仏法に遇えり。このたび出離の業を植えずば、いつをか期すべきと思うべきなり。

法然『十二箇条問答』


…………………………

釈尊在世の時代に巡り合わなかった、あるいは龍樹菩薩なり祖師の時代から今は遠く隔たり、仏教も形骸化してどこもかしこも金策やら社会的位置づけの如何に汲々として、果たして仏教はどこにあるのだろうか…という嘆きは、恐らく心ある人たちの共通した思いかもしれない。
これは日本だけではなく、海外の仏教を眺めても大なり小なり似たような感慨を抱いてしまう。現代社会においては仏教は間違いなく斜陽だし、人々もまた、仏教を奉じながら内実におけるダルマへの随順は希薄化して硬直化する一方だ。何かしらの紙一枚にまとめられた「正解」を求めて、インスタントにコトバに頼る。

そんな現状であれ、しかしそれでもダルマはいささかも衰えてはいない。加持は変わらずに働き続けていて、要は我々の受持力が細くなり、加持が一方通行になりゆき、勝手に我々が道から目を逸しているだけなのではないか。

時代のせいにしてはならない。
いつだって、指針はある。それは変わらない。何なら、現代ほどダルマ「についての」指針(無駄話も多いけれど)が溢れている時代はない。
その洪水の中から真に大切な水の流れを見出し、その後は、我々が如何に考え、如何に動き、如何に語るのか。いつか、ではく、今から間髪を入れずに、「あるべきよう」に、生きていたいものだ。
それはいつだって完璧に可能な生き方なのだから。
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智慧、慈悲

2019年04月11日 | 仏教・思索
言語道断の智慧・彼岸の光明は、それが世俗世界に分節顕現する時には、思想哲学という形を「取らない」。それは必ず慈悲の絶えざる連鎖として伸びていく。智慧と慈悲は対置したり併置できない。一体なのだから。
思想哲学などは、それを書き写した「地図の走り書き」以上のものではない。その紙を睨んでいくら解析したり他人の地図の出来を論評したところで、それだけでは意味がない。「地図の走り書き」を見ながら、慈悲の絶えざる連鎖である仏道を「自分自身がちゃんと」歩いているかどうか、だ。
思想哲学オタク、修行オタク、それはそれで楽しいし役に立つことはあるけれど、隣人や違う立場の相手に心から思い遣りを持って、愛語を持ち、加持された慈悲を自心の中に伸ばせないならば、どうであれ無意味だろう。
逆にそれがあれば、思想哲学や修行は限りなく活きてくる。
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2019年04月10日 | 仏教・思索
「仏教では神の存在は認めるが意義は認めない」とか、「一神教とまったく概念が違うのが仏教」という説にはどうにも違和感があるんだよなぁ。
だいたい、天部の神を一神教のゴッドと対置できるのだろうか。むしろ天使の類ではなかろうか。
創造主としてのゴッドは、ある次元では神話的なものだけど、それこそある次元では阿弥陀如来も久遠実成の釈迦牟尼仏も通俗的なゴッド的受け止められ方をしていないだろうか? そしてより高い次元では、ゴッドも「ありてあるもの」で法身的な感じになるし、「人格以前の」言語道断のそれ、象徴としての光とか、ほとんど比較や相違を絶したポイントにたどり着く。
意外に突き詰めた極限では、そこまで違いはないのではなかろうか。
ゾクチェンの水晶の喩えではないが、光のスペクトルの現れ方の違い、文化規定の表層構造に幻惑されているだけで…。
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天上天下唯我独尊

2019年04月07日 | 法話関係
天上天下唯我独尊。

文字通りに読むと、「この全宇宙において、ただこの私だけが尊い」となり、いささか傲慢な感じを与える言葉です。
この言葉は、お釈迦様がご誕生されてすぐに七歩歩いて、天と地を指差しながら言われた言葉だとされていますが、本当にお釈迦様はこんな自己中心的なことを言われたのでしょうか。
そもそも生まれてすぐの赤ん坊が、こんなことを言えるものでしょうか。…しかし後世の伝説ならばなおさら、この言葉には仏教の大切な意味が表されているはずです。後の人が「お釈迦様はこんなに傲慢だった」などと言うはずがないからです。

では、どう考えたら良いでしょうか。

まず「天上天下」ですが、これは全世界・全宇宙、それも仏様の世界から地獄までを含めた、目に見える世界・目に見えない世界まですべて含んだありとあらゆる世界、ということです。
その世界の中で、「唯だ我れ独りのみ尊し」ということなのですが、「我れ独り」というのは、「この私という存在だけで尊い」と言うことではないでしょうか(縁起を突き詰めるならば、「私という存在だけが」でも実は良いのですが、今は「だけで」と読んでおきます)。
つまり、私達は「お金・容姿・人種・地位・職業・学歴・名誉」などによって誰かを、あるいは自分を尊く感じたり卑しく感じたりしてしまいがちなのですが、本当はそうではなく、この私は【何も付け足さなくても】最初から本当は完成されていて尊い存在なのです。それを腹の底からわかれば、「あぁ、この世界の中でこの私だけが尊いのだ、そしてそれは他の人も同じだ」「そこに気づいてそのように考え生きられるかどうかだけの問題だ」とわかるのだ、とお釈迦様は教えておられるのです。

私たちはどうしても、人を「その人自身の存在だけ」で尊く感じられず、お金持ちや地位のある人を尊く感じてしまいます。それがない人を低く見てしまいます。しかも、「自分にとって利益があるかないか」すらをも付け足しながら、人物評価をします。それは自分自身にも向けられ、傲慢になったり卑下したりしているのが実際です。

私たちは、ただ自分自身であるだけで皆ほんとうは尊く、完成されています。ただそれに気づかず、油断したら上下左右をつけてしまい、色々なものを付け足しながら迷っているのではないでしょうか。
何も付け足されていない、名前も肩書も財産も何もない、素の自分、根っこの自分、揺れ動く心の表面を引き剥がした心の根っこに横たわる無差別の自分、この宇宙に比較するもののない独りの自分とは何かを知り、比較せず、ただいつも尊くありなさい、ということを教えるために、お釈迦様はご誕生になられたのです。
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