प्रज्ञापारमिता

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末法

2019年02月26日 | 仏教・思索
「末法」って言葉、当たり前のように使いますけれど、修行の果の問題として、真言宗や禅宗系ではまったくそれ認めてないのです。浄土系や日蓮系での問題設定で末法というのはその限り理はあることなんですが、一般化しては語れません。
私としても、末法かどうかは現状の自分のあり方の問題であり、客観化された時代性として一律に適用できないと思っています。客観的な時間や世界なんかそもそもあり得ないわけですし…。

たとえば『正法眼蔵随聞記』には、以下の言葉があります。

「世間の人、多分云、「学道の志あれども、世の末也、人くだれり、我根劣也。不可堪如法修行。只随分にやすきにつきて、結縁を思ひ、他生に開悟を期すべし」と。今云、此言は全非也。仏法に正像末を立事、しばらく一途の方便也。真実の教道はしかあらず。依行せん、皆うべき也。在世の比丘、必しも皆な勝たるに非ず。不可思議に希有に浅増き心ろ子、下根なるもあり。仏、種々の戒法等をわけ給事、皆なわるき衆生、下根の為也。人々皆仏法の機なり。非器也と思ふことなかれ。依行せば、必ず可得也」。

弘法大師も『教王経開題』に、

「人法法爾 興廃何時 機根絶絶 正像何別」

と書かれています。
確かに末法について弘法大師が述べられた言葉もありますが、密教の観点から見れば結局は関係ない、という結論に至ります(因みに男女貴賤の別もまったくない、と断言されています)。
…まぁそれを言ったら、日蓮系も同じようなとこあるわけですけれど。
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幸福と不幸

2019年02月10日 | 仏教・思索
トルストイの『アンナ・カレーニナ』に、「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」という有名な言葉がありますが、宗教においても、愛なり慈悲なりに満たされた信仰にある人は似たような根源的な考え方や幸せに至るものなのでしょう。

しかし私達は現実として愛や慈悲に満たされていないわけで、理想からは隔たっています。
そうして、その隔たりをどう考えて扱うか、という課題が出てくるわけですが、そこで慣習だの文化だの、あるいは組織だの支配だの慢心だの優劣だのを振り回して「角を矯めて牛を殺す」ような話が噴出し、幸せになるためにやったつもりで、どんどん不幸のバリエーションだけが増えていく…。

どの宗教においても、我を振り回して優劣の巷に勝利することが幸せへの道だ、と教えるものはないはずです(あるとしたら、それは間違った教えだと私は思っています)。しかし私達は「不幸への指向性」が心底身に付いていますから、毎日毎日、牛を殺し続けているのです。
そうして、その間違いを根源的な地点から指摘するのはやはり宗教なのであって、間違いなく力あるものです。だからこの力の「使い方」を間違えて宗教によって牛を殺すのであれば、その時、もはや「幸福な家庭」は美しき抑圧の地獄絵図にしかならず、逃げ場もなくなってしまいます。

宗教でなくても幸せへの道はあるかも知れません。しかし宗教ほどこの問題に何万年も密接にコミットしてきたものはないし、私たち宗教者はやはりこの「古径」を歩くしかないわけですから、改めてよくよく考えたいものではあります。
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