प्रज्ञापारमिता

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思いやりを育む

2019年01月29日 | 法話関係
何かを信じ一心不乱に打ち込む心は大切です。しかしその心が柔軟さを失ってしまっては、いつか折れてしまったり、周りが見えなくなって人間関係を損なってしまうこともあります。

弘法大師は、以下のように仰っています。

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もし人あってこの一の三昧に入って修行すれば
即ちこの一門より直に如来の所証に至る


(雑問答八)

仏様によって示された無数にある教えのひとつに従って修行すれば、速やかに仏の世界に入ることができる。

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一つのことに打ち込むのは尊いですが、他の道ややり方にも敬意を払い、同じように尊いものだという見方が、人を柔和にし、人間関係を円滑にします。道はひとつではない、との教えです。

この弘法大師の言葉は仏教の修行について述べられたものですが、「自分の道ややり方にこだわる」気持ちは、何も修行に限りません。「私の経験」「俺のやり方」「私の思い」「これしかない」「あなたもこうしなくてはならない」と、たったひとつのものさしを振り回して押し通そうとする根性は、誰しも持っています。
根本にあるのは、「我」です。いつも自分中心に、自分の目でしか周りを見ていないのです。
他者に対する想像力、思いやり、そして「様々な価値観ややり方がある」のを理解し、表面的なもので違いを見るのではなく、常に動機を見るようにしましょう。
やり方や考え方が違っても、動機が「思いやり、優しさ、慈悲、幸せになりたい」というところにあるならば、みんな同じ場所を目指しているのです。なのに、表面的な部分に引っかかって仲違いしたりするならば、まったくもったいないですし、教えを下さった仏様やお大師様にも申し訳ないことではないでしょうか。

自分勝手な「我」を、思いやりあるものに変化させていく修行にも、お大師様が言われるようにたくさんのものがありますが、今日は最後に、1つだけ、紹介します。誰でも簡単に、寝ててもできる修行です。
それは、考えながら呼吸をしてみる、というものです。何を考えるかというと、「慈悲喜捨」(四無量心)です。

吐く息 … 慈観 体の中にある慈の光が息とともに全宇宙に行き渡る
止息 … 喜観 その光で衆生が救われたことを喜ぶ
吸う息 … 悲観 世のすべての苦を吸い込み身に受ける
止息 … 捨観 その汚れが体の中で慈の光に変わっていく

最初から「宇宙」は広すぎますから、まずはその光を、大切な人に向けてみてください。それから、テレビで見るような悲惨な境遇の人へ、最後はあなたが嫌いだったり苦手な人を思い浮かべながら、その苦しみを想像し、自分とその人がともにひとつの光の中で、慈悲によってひとつになります。
最後には世界宇宙すべてが、慈悲の光に包まれていきます。
呼吸をするたびに、みんなが救われていきます。自分勝手な「我」がだんだんおとなしくなります。思いやりの心が育まれます。世界の苦しみをすべて引き受け、自分の心の中で光に変えていくという修行ですが、やり方は難しい修行ではありませんから、一日に一分でもよいので、やってみてください。必ず、幸せになる方法です。
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実践

2019年01月22日 | 仏典の言葉
若し法身は無始の時より無差別無数量なるも
法身を得んが為には、応に功用を作さざるべからず


「摂大乗論」

仏の究極的な法身は本来的に時間を超え分別次元を超えていると雖も、自分自身が法身となる、つまり覚りブッダとなるには、努力し実践しなくては意味はない。

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いくら銀行口座に莫大な資産があっても、それを忘れていたらないも同然、知っていても引き出し方を知らねばないも同然、引き出し方を知っていても実際に引き出さなければないも同然。
通帳の数字だけ数えながらホクホクして餓死しかけていないか、我が身を顧みてみたい。
たとえば、十善戒を知り解釈することが大切なわけではない。やさしく思いやりを持ち、怒らず、悪口を言わずに明るく生活できているか、だ。エラソーに説教し優劣を競うよりも、穏やかに慈悲を持ち今日を生きるほうが圧倒的に尊い。知識は根拠だから大切だが、根拠だけでは意味はない。
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2019年01月19日 | 弘法大師聖句
三界の業報 六道の苦身
即ち生じ即ち滅して念々不住なり


「吽字義」

これまでの行いの結果としてこの世で来る心で生きている。生命は生滅を繰り返して一瞬たりとも留まることがない。

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カルマ、業については差別の問題があり、近年は避けられがちなテーマではあるけれど、善因楽果・悪因苦果は過ちなき事実であるというのが仏教の立場であれば、たとえば今の苦しみや境遇は過去のカルマの結果であることは疑いはない。
ただ気をつけなくてはならないのは、因は一つではなく複合的であること、共業というものがあること、そして「現在の結果」は実は結果ではなく、過程にあるということ。今の業が未来に働きかけていく。念々不住。そこに本質も解答もなく、プロセスの一部を切り取り固定化して差別をするならば、した者こそがいずれ苦の果を結ぶだろう。
いずれにせよ業は動くのだから、今為すことがすべてだ。さらに言えば、人間に生まれている時点で、仏道を歩む・また触れる機縁があり、これは生半可なことではなく、それだけで過去に善業あったればこそ。
同じ時代、同じ地球にともに生きている仲間は、みな大なり小なり苦に引かれながら、過去の業を消化し、また現在に業を形成して生きていく。手を取り合い、助け合いながら生きるしかないし、慈しみ睦み合う社会を作らなくてはならない。みな大同小異なのだから。
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崩れゆく

2019年01月14日 | 弘法大師聖句
百の媚の巧なる笑も枯れ曝せる骨の中には更に値うべきこと難く 
千の嬌の妙なる態も腐ち爛れたる体の裏には誰かまた敢えて進まん

「三教指帰下」


なまめかしく笑っていたあの美人が、今では骨になって会いにくる人もいない。さまざまに愛嬌をふりまいたあの美女も、腐ちてその肢体に誰も振り向かなくなった。

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美しい美男美女、のみならず、美しい伝統芸術、儀礼、服飾、音楽、自然の景色であれ親しい人間関係であれ、愛情や友情であれ、この自分自身すら、すべては移り行き、過ぎ去り、朽ち崩れてしまい、いずれ跡形もなく消え去る。だからこそ「美」やあらゆる観念には価値があるのだが、いつか…いや、今も崩れ行きつつあると、ここに留まることはないと、心底、理屈ではなくて心の底から、わかっておいたほうが良い。
そこから開ける幸せは、深い。
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人間崇拝

2019年01月11日 | 東亜仏典の言葉
当に知るべし、衆生は自ら度するべきものにして、仏は度すること能わざることを。努力よや、努力よや。自ら修して他の仏力に椅ることなかれ。経に云はく、夫れ法を求めむ者は仏に著いて求めず。

『頓悟要門』

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「日本仏教の特徴の一つは人間崇拝にある」とは中村元先生の指摘を俟つまでもなく、インドや中国の仏教を鑑みても確かにそれはそういう傾向があるかな、とは思う。確かにどの国や宗教についてあってもカリスマ崇拝はありうるし、また現にあるわけだけれど、理屈や思想的基盤を突き詰めるよりも、現前の人や事態に随順する傾向はやはり強め、とは言えるだろう。
「信」についての日本独特の(信を初門ではなく究極の立場に置く)信中心主義、たとえば日蓮における「以信代慧」「末代幼稚の頸に…」などは典型だし、また真宗などもそうだけれど、智慧より信、ダルマより人格的仏、仏より現前の人、原理原則より状況、という抜き難い傾向、これを長所と考えるか短所とするかは様々な立場があるだろうけど、まぁ、日本仏教の特徴のひとつとは言えるだろうかな。
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宇宙

2019年01月07日 | 法話関係
あけましておめでとうございます。

昨年末に、中国の無人宇宙船が月の裏側への着陸に成功した、というニュースがありました。素晴らしいことですが、宇宙全体の広大さに比べたら、月などはまだ地球の玄関の内側程度のことで、私たち人類はまことにちっぽけな存在に過ぎません。
地球は太陽を一年かけて一周します。そして太陽が銀河系を一周するのには、約25億年かかるそうです。その銀河系も実は無数にある他の銀河系に比べたら特別に大きなものではないようで、宇宙のことを考えると少し怖いような、圧倒されるような気分になってきます。

さて、「宇宙」という漢字ですが、宇は空間、宙は時間を表します。空間と時間が組み合わさって、私たちの生きる宇宙・世界は成り立っています。これはもちろん物理的な世界もそうですが、精神的・こころの世界も同様です。
私たちのこころの世界を作るのは、必ずまずつながりが必要です。家族や友人や地域・職場の人とのつながりです。それがあってはじめて、私たちのこころが動き始めます。生まれてからすぐ砂漠の真ん中で、誰にも会わず、言葉も何も教えられなければ、こころは動き出しません。これは「宇宙の宇=空間」のようなことです。
次に、こころは過去と未来があるから、動きます。過去も未来もない世界がもしあれば、こころどころか、物の運動もないのです。過去の時代の蓄積や経験があって文化や歴史があり、私たちは人間らしくなり、未来を想像しながらこころを動かします。これが「宇宙の宙=時間」です。

仏教では、この「宇宙の宇=空間」でこころを人間らしく活かすためには慈悲が必要と教え、「宇宙の宙=時間」を見つめてこころを人間らしく活かすためには智慧が必要と考えます。
「仏様・御本尊」とは、この空間と時間の無限が、つまり完璧な慈悲と智慧が、私たちにもわかるように現れて下さったお姿なのです。つまり、私たちのこころがあるのは、すべて仏様の働きがあってこそ、なのです。
そして、動いているこの私たちのこころとは、実際には仏様の無限の慈悲と智慧の働きと別のものではありません。ただ、煩悩や無知によって私たちがそこに気づいていないだけですから、その汚れをいつも掃除しながら、自分自身が仏様の慈悲と智慧そのものだ、その光と一体なのだと念じながら手を合わせていくと、必ず無限の空間、無限の過去未来を目の前に見ることができます。そこには、昔亡くなった懐かしい顔も見られるし、遠くの大切な人も目の前に見えてくるのです。

本当は誰もひとりではなく、同じなのです。みなすべて、ここにおります。
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あけまして

2019年01月01日 | 閑話休題
あけましておめでとうございます

旧年中はお世話になりました

本年もどうぞ宜しくお願い致します



毎年、ことしはどういう一年にしようかと考えたりしますが、考えたところでそのように進むわけではなく、取り敢えずは右往左往して心が折れそうになりつつ、なんとか一年を乗り切って新年を迎えられたこと、ホッとしてます。
未だに「生きること」に慣れないままで生活することに精一杯、善知識にならなあかん坊さんとしては皆様に申し訳ない気持ちですが、もがいてます。

今年は元号も変わるし、僕自身、色々と変えていく必要も痛感しておりまして、アウトプットを減らしてインプットにシフトした一年にしたいと考えてます。知識面という意味だけではなく、何と言うか、階梯…僧侶としてもそうだし、人としての。階梯を一段、上がりたい。惰性もあり、停滞気味で辛い。

そんな感じで。

頑張ります。
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