प्रज्ञापारमिता

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懈怠と慈悲

2018年12月23日 | 仏典の言葉
『摂大乗論釈真諦訳』

精進の行は久遠時の中に於て、一切の善を修す。若し衆生に於て慈悲心無ければ、自身を愛惜し、修行する所に勝れたる功徳有ることを見ざるが故に、修行する所の中に於て疲怠の心を生ず。此の心有るに由りて精進すること能ず、即ち是れ懶惰なり。懶惰は即ち是れ退弱心の因なり。

…………………………

なぜサボるか。
なぜ「俺じゃだめだろうな」と思うのか。

大悲がないからだ。

菩提心というのにも色々な定義があるけれど、ある定義によればそれは、

・布施心
・三解脱門…空観
・慈悲心

とされている。
そうしてその実際上の根本は慈悲心に他ならないのであって、これがなくては菩提心がないということであり、菩提心がなければ当然、仏道において本当の意味で精進するなどは不可能だ。
「本当の」と言うのは、たとえば自己顕示や自己満足、虚飾や自慢や支配のためにそれを「しているように見える」場合があるからであって、大抵はそれは無自覚で自分みずから誤認していたりするので、そこに慈悲があるのかを常に再確認しながらやったほうが良い。
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人間とは何か

2018年12月19日 | 仏教・思索
誰でも仏になる可能性(仏性)はあり、その器である(如来蔵)。
ただその器は空っぽ(阿羅耶識)なのであって、そこには本来、毒も薬も甘露の水も入っていない(無自性)。毒=悪を入れれば毒=苦の人間になり、薬=善を入れれば薬=楽の人間となる(縁起)。そうして、地獄乃至天界に行くことになる(輪廻)。甘露の水を入れれば(下種)、菩薩となり仏となる。
器は相変わらず器で、何であれ入れることができ、何かが入るから器である(空)。
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六波羅蜜の解説

2018年12月17日 | 仏典の言葉
大乗仏教の実践の基本は六波羅蜜です。
原理的に波羅蜜乗と真言乗を分離していく考え方もあるのですが、如何にしても現実生活においては具体の実践方便は重要であって、その根本はやはり六波羅蜜であります。
この六波羅蜜は様々な経論に説かれておりますが、この度は無著菩薩『摂大乗論』からご紹介します。この論書の第四章(入因果勝相)では十一節に渡って六波羅蜜を説いていきます。

この中から、第五節・第七節を取り上げましたが、非常に明快簡潔に六波羅蜜を解説されていますので、参考になさってください。

以下は岡野守也・羽矢辰夫による現代語訳からです。


……………………………


第五節 名称について

どのような意味で、六波羅蜜という名称を立てるのか。どのような意味として見るべきか。
一切の、世俗、声聞、独覚の布施などの善の機能のなかで、もっとも勝れ最高だからであり、〔悟りの〕彼の岸へ到りうるから、それゆえに共通して波羅蜜と呼ぶ。
物惜しみ、嫉妬、また貧困、下賎の苦しみを破滅するので、「陀(da)」という。また、大資産家になることができ、また富と徳の資源を誘引するので、「那(na)」という。こうした意味があるので、「陀那(Dana)」(布施)という。
誤った戒律や悪しき道を鎮めるので、「尸(si)」と名づける。また、善き道と三昧を得ることができるので、「羅(la)」という。
瞋りと恨みの心を除くことができるので、「犀(ksa)」と名づける。また、自他の平和を生み出すので、「提(ti)」という。
怠惰ともろもろの悪しき存在を除くので、 (vi)」と名づける。また、いいかげんでないということを実行し、限りない善き存在を生み育てるので、「梨耶(rya)」という。
注意散漫を除くことができるので、「持訶(dhya)」と名づける。また、心を 導いて内面に集中させるので、「那(na)」という。
一切の〔誤った〕見方を滅ぼし、誤った知恵を除くことができるので、「般羅(pra)」という。真実の相を対象として、その種類に従って、一切の存在を知るので、「若(na)」という。

第七節 六波羅蜜の違いについて

もろもろの波羅蜜の違いはどのようなものだと知るべきであろうか。
それぞれに三種あることによって、その違いを知る。
布施の三種とは、第一は真理の教えの施し(法施) 、第二は財産の施し(財施)、第三は恐れのない心の施し(無畏施)である。
持戒の三種とは、第一は抑制し防御する戒(守護戒)、第二はあらゆる善を包摂する戒(摂善法戒)、第三は衆生を受容し利益する戒(摂利衆生戒)である。
忍辱の三種とは、第一は他者の辱めや攻撃に堪える忍(他毁辱忍) 、第二は苦しみを安らかに受けとめる忍(安受苦忍)、第三は真理を洞察する忍(観察法忍)である。
精進の三種とは、第一は積極的に努める精進(勤勇精進)、第二はいっそう実行する精進(加行精進) 、第三はあきらめて撤退することがなく、壊されることなく、自己満足することのない精進(不下、難壊、無足精進)である。
禅定の三種とは、第一は安らかなる心に止まる禅定(安楽住定) 、第二は神通力を引き出す禅定(引神通定) 、第三は他者を利益する禅定(随利他定)である。
般若(智慧)の三種とは、第一は無分別に到る行の般若(無分別加行の般若) 、第二は無分別の般若[そのもの] 、第三は無分別[智]の後に得られる般若である。
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QUEEN、イラン、仏教

2018年12月16日 | 仏教・思索
映画『ボヘミアン・ラプソディ』がヒットしていますが、僕もQUEENは昔から好きなバンドのひとつでした。
音楽性も好きでしたけれど、フレディ・マーキュリーの生い立ちに関心を持ったのも理由の一つです。

ご存じのように、QUEENはイギリスのバンドですが、フレディはイラン系インド人です。イスラームの迫害を逃れた祖先がイランからインドに移住し、そこでフレディが生まれ(誕生はザンジバル)、後には一家でイギリスに移住。一家はムスリムではなく、イラン古来のゾロアスター教です。
つまりでイラン人としてはマイノリティ。同じく(恐らく)イラン人としては皇帝派であったのもイラン革命以降はイラン人の中でもマイノリティ。インドにおけるゾロアスター教コミュニティも無論マイノリティ。イギリスにおけるイラン人はマイノリティ。そして、ゲイであったのもマイノリティ。
ありとあらゆる点でマイノリティの立場に置かれていたわけです。
その彼が、「We are the Champion」を歌うわけです。コンサートではユニオンジャックとともに、イラン国旗がたなびく。
全くレベルは違うけど、社会や周囲からの疎外感を味わっていた僕も、多少の感情移入が避けがたかったわけです。

ところで、イラン。

フレディの一家はゾロアスター教でした。イスラーム化以前はイラン・ペルシャはゾロアスター教の国。そうしてゾロアスター教とは、光の宗教です。そうして、イラン人、あるいは中央アジアのイラン系民族の中には仏教徒もかつて多くいました。
思えば漢訳仏典の翻訳者として記憶される僧侶にはイラン人もたくさんおりましたし、中国華厳宗の大成者・法蔵もイラン人です。彼らのセレクトした仏典や論書には、光のイメージ、天使、炎、そういうものが横溢しています。非常にイラン的であり、大乗仏教的です。
ダルマというのは言語以前・概念以前です。それをそれぞれの時代や文化、言語構造のコンテクストにおいて言語化していくのが「具体の教説」なわけですが、大乗仏教においては、この「イラン的なるもの」をもっと知るべきなのかもしれません。
イラン・イスラームにおいても、いわゆるアラブ・イスラームとは異質な「光の哲学」の体系がありますが、洋の東西に及ぼされたイランの影響力はあらゆる思想の底流に、今もあるでしょう。正直、過小評価されていると思うのです。概念表象の枠組みの大きな部分を、イラン的なるものが担っています。
光背がイラン起源だ、とかいう細部だけではなく、大日如来や無量光如来、浄土、光明の概念、華厳経の中央アジアにおける編纂、…ダルマを言挙げしていく段階において、イランの力は無視できません。

仏教学の分野でもちょっとづつイランを視野に入れた研究がなされ始めているとは聞きます。この傾向は決して悪いものではないので、これから進展に期待していきたいものです。
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善悪苦楽

2018年12月15日 | 弘法大師聖句
因果は信ぜずんばあるべからず
罪福は慎まずんばあるべからず
鐘谷の応まことにゆえあり

「十住心第三」

原因と結果は信じなければならない法則であり、罪と福は慎み方の結果である。この道理は鐘が谷にこだますることと同じである。

…………………………

仏教における道徳律はこれに尽きる。
罪と福というのは、苦楽と言い換えてもいいけれど、善悪は必ず罪福・苦楽として自分がそれを受けなくてはならない。そうして苦と楽は常にセットだ。
一時はそこから逃れることは出来たとしても、どれほどわずかなものであれ、必ず実を結ぶ。
本当は善悪苦楽を超えて行かなくてはならないけれど、一足飛びには難しい。だから善悪苦楽を超える道を求め歩むための環境を、まずは整えなくてはならない。そのためにはなるべく福・楽なる状態でなくては、そういう気持ちすら起こすことは難しい。
だから、善を為せ。
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毀誉褒貶

2018年12月12日 | 仏典の言葉
ひとは、他人のことばによって(他人が「お前は盗んだ!」といったからとて)盗人であるのではない。ひとは、他人のことばによって聖人であるのではない。自分がその人のことを知っているように、神々もまたかれのことを知っている。

「テーラ・ガーター」

…………………………

釈尊の十大弟子のひとり、マハーカッチャーヤナの言葉です。
根拠もなく盗人呼ばわりされて「その通りだ」と受け入れる者はいないのに、根拠もなく褒め上げられるとすぐさま有頂天になったり「そうかも知れない」と思ってしまうとしたら、それはまったく愚かな話だ。しかしそれはよくある光景でもある。
お世辞を言い合うことの気持ちの悪さは、この構造を誰も理解していないところにある。
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さとり

2018年12月06日 | 法話関係
12/8は、釈尊・お釈迦様がさとりを開かれた記念の日、成道会になります。

さて、その「さとり」とは何であるかには様々な表現がありますし、また色々に理論化されているのですが、基本的には「私たちの人生は苦である」けれども、「どうしてそうなのか」をしっかりと見据えられたところに、必ず苦は消滅して平安安楽の境地が実現する方法があるのだ、ということを釈尊ははっきりわかられた、ということです。
それはつまり、私たちの様々な曲がったものの見方や煩悩、執着や怒り…そういうものが苦の原因であり、それをどうコントロールして苦をなくしていけるのか、を釈尊は教えられたわけです。
もちろんこれは「説明」ですから、「さとりの体験」そのものではありません。リンゴを知らない人にリンゴの説明をするようなもので、言葉を超えた「さとり」の境地を完全には説明できないのです。しかし人は言葉を使わなくては伝えられないので、釈尊はこのように教えられました。

そういう「さとりの世界」を、弘法大師は大日如来の光明によって説明しています。

大日の光明廓として法界に周く
無明の障者忽ちに心海に帰せん
無明忽ち明となり 毒薬たちまちに薬となる

『三昧耶戒序』


「大日如来の光明は、全宇宙を照らし、闇で迷っている者を仏の世界へいざない、絶望が希望になり、毒がたちまち薬に変わる」。これは苦の世界・闇の世界にある私たちが、「さとりの境地」=大日如来の光明によってすべて照らされて、苦しみが安楽平安に変わっていく、ということです。

ここで大切なことは、大日如来は空の向こうの神様ではなく、私たちの心の本質こそが仏であり、大日如来の智慧と慈悲の光そのものである、ということなのです。私たち自身が本当は仏であり、釈尊や弘法大師の教えによって修行をして迷いを離れてしまえば、自ずから身も心も輝き出します。苦が消えていき、穏やかで清らかな、安楽平安の心で満たされていきます。

そのためには実践が必要です。下ろせない預金はないのと同じ、仏性という財産があっても、引き出す方法を知り、手段がなくては意味がありません。
その方法には「十善戒」「六波羅蜜」「座禅や念仏」など色々とありますが、基本的には「慈悲を心掛けて人のために動くこと」「自己中心を離れて譲る気持ちで生活すること」「悪口を言わずに怒らないこと」を考えながら、毎日少しでも「心から湧き出る仏の光」を意識して「真言を念誦する」ことです。
そして、数ある真言の中でも、光明真言はとても素晴らしい真言のひとつです。
この真言によって私たちは体中から光を発し、罪や煩悩をさとりの心に転換していけます。現世には安楽平安の境地を得させ、死に臨んでは必ず仏様の光によって善趣に赴くことが出来る、非常に功徳のある真言なのです。
慈悲を磨き身と口を心を整えながら日々に感謝して真言を念誦する生活には、絶対に間違いはありません。堅くそれを信じ、一歩でも二歩でも進んで参りましょう。必ず素晴らしい仏の光に満たされた穏やかなさとりが実現していきます。
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ムカつく?

2018年12月04日 | 閑話休題
僕は典型的な瞬間湯沸かし器で、キレやすい現代っ子そのもの(笑)です。誤魔化すのは得意なので「怒らなさそう」と檀家さんには言われますが、そんなことないんです。
しかし冷静なときに冷静に考えてみますと、怒る、というのは成立しないんですよね(社会悪に対する正しい怒り、とかいうのは別にして)。そもそも原理的に「自分などない」とか主客分別が云々、ということもありますが、取り敢えず目先の現実に沿って考えてみます。

まず怒ると言うときには、大抵の場合、他者から不愉快な言動あるいは雰囲気を投げられたときですね。その場合、大雑把にざっくり分けてみると、それをされる原因として大きく2パターンあり、ひとつは「自分に原因がある場合」。もうひとつは「相手に原因がある場合」です。まぁ100%、ってことはないのですが、ざっくりと。

で、前者、自分に原因がある場合は怒る資格ないですね。手前勝手ながら相手になすりつけて怒るんですが、少なくとも2回に1回は自分に責任があるはずです。
相手に原因がある場合は、こちらに非がないのに怒るというのは非常に我が強いというか、三毒が強いわけです。それではきっと普段からかなり苦に迫られた精神状態のはずです。そのうちその果をどっさり受けなくてはならず、非常に恐ろしい状況に陥ることは必定。そんな執行猶予のような状況の人に怒るなんて、慈悲がなさ過ぎますね。
しかも自分を顧みれば、自分こそ執行猶予中みたいなもので、御同病、怒るのではなくてむしろ連帯して向上していかねばならない仲間みたいなものです。鏡に向かって怒っても生産的ではありません。

結局、具体的な問題があれば粛々と解決を模索したらいいのであって、怒りを原動力にする必要はないし、往々にして怒りはされた以上の報復になります。心の中で「着けられた火」以上に燃え上がらせてから他者に向かうからです。
また逆に、他人に火を着けておいて「何を燃えてるんだよ(笑)」と煽るのも怒りの表現の一種です。他人を軽視する、自分と違うものバカにする、請われもしないのに指導しようとする、無視する、様々なパターンがありますが、すべて三毒に根ざしています。

僕も昔に比べれば随分と穏やかになったと思いますが、まだまだです。
観想と地道な牛歩の実践を粘り強くやり、少しずつ進むしかありません。成果は必ずありますから。
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2018年12月04日 | 仏教・思索
読書は素晴らしい。しかし10時間の読書もわずか5分の観想や、慈悲で世界を覆う3分の思念にすら匹敵しない。
知識を得ることは旅の準備のうちのひとつに過ぎない。旅に出る時に地図とスニーカーを準備するようなものだ。歩き始めなければすべて無駄になるのだし、地図とスニーカーだけでは飢え渇き死んでしまうだろう。
歩くという実践をはやく始め、慈悲により食を得て、如来により甘露の水を浴びる。
地図とスニーカーは必要だから疎かにはできない。しかし目的地にたどり着くためには、決して単なる地図やスニーカーのコレクターであってはならない。
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我慢と忍耐

2018年12月03日 | 法話関係
「我慢」とは、大辞泉によれば、

【一】
感情や欲望のままに行動するのを抑え堪え忍ぶこと。辛抱すること。
【二】
① 〘仏〙 七慢の一。実際には存在しない我が自己の中心にあると考え、それを根拠として行動する思い上がった心。
② 我意を通すこと。わがまま。強情。


…と定義されています。
一般的には【一】ですが、ちょっと微妙にずれているかな、と思えます。自分の行動を抑制して…というか、むしろ「抑制させられて」というほうがしっくり来る場合があるかも知れません。
仏教的には【二】①ですが、現在一般的に使われる用法とは違います。

いずれにせよ「我慢」と言う場合、辛抱にせよ我意を通すにせよ、その主体としての「自我」を前提として中心に置き、外部と対比して考えていく感覚があります。
そしてこういう考え方は苦を招くのみであり、誰も幸せにせず、悪しき業を積み上げていくことにしかなりません。

では仏教においては、「我慢すること」は悪なのでしょうか。

はい、上記の定義に則る限りにおいて、それは悪です。

では自由気儘にわがままでいいのかというと、もちろん違います。
「我慢」にせよ「わがまま」にせよ、どちらも中心に「私」「私が」「私の」がどっかり腰を据えて居座っています。ここが問題なのです。

仏教における実践の基準に「六波羅蜜」というものがあります。「布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧」の六つの実践ですが、この中の「忍辱」が、いわゆる「我慢ではない、正しい忍耐」のありかたを示しています。
これは自我を振り回さない忍耐のことで、我慢とは違うものです。この正しい忍耐こそ、慈悲であり苦を超える仏教者の道であって、自他共に幸せになる道です。

つまり我慢というものは自我に引きずられた感情であって、苦をもたらす。忍耐は自我の束縛を脱した慈悲の行であって、苦を超えて幸せをもたらす。
そこはたとえば「自他交換の瞑想」などで涵養していくべきことであり、知識を得る得ないの問題ではなく、あるいは出来る出来ないではなく、実践するかしないか、の問題なのです。

『般若経』には、こう書かれています。

須菩提よ、求道者・偉大な人は初めてさとりに向う心を発してから、さとりを得る身となるまで、その道程において、たといだれかが瓦・石・刀・杖で危害を加えようとしても、その時、彼は、怒りの心を瞬時も発すことがない。
およそ、求道者たる者は、次の二種の忍耐を修めるべきである。一には、たとい人びとが悪口をいい、謗り罵ったり、あるいは、瓦・石・刀・杖で危害を加えたりしても、怒りの心を発さないように修めることである。二には、あらゆるものは不生・不滅の空のものであるとさとること、すなわち「無生法忍」を修めることである。
たとい人びとから悪口をいわれたり、危害を加えられたりしても、その時かれは、このように考察すべきである。「わたしを罵る者はだれか。謗り咎める者はだれか、打ちのめす者はだれか。罵りや謗りを受ける者はだれか」と。そして、かれはあらゆるものの真実の相を、このように考察すべきである。「すべてのものは究極的に空である。事物もその実体がなく、人もその実体がない。すでに事物に実体がないのであるから、どうして人に実体があろうか」と。


これは「敗北主義」ではありません。
理不尽に抑圧されることを甘んじて受け入れることではありません。あくまでも、このような心を基本として、争いの心を去り、万人が幸せになるにはどうすべきかを考え行動していく基盤となるものです。「我が我が」と闘争することは、一時の成功を通過した後に必ず敗北をもたらします。これこそが「敗北主義」です。

『三十七の菩薩の実践』には、こう書かれています。すこし抜粋します。

11.
あらゆる苦しみは自らの幸せを追い求めることより生じ
悟りは他者のためを思うことより生ずる
それゆえ、自己の幸せと他者の苦しみをまさしく交換する
これが菩薩の実践である

14.
ある者が私に対してさまざまな非難中傷を
三千大千世界に遍くふれ回ったとしても
慈しみの心で繰り返しその者の功徳を賞賛する
それが菩薩の実践である

16.
わが子のように大切に育てた者が
私を敵のように見なしたとしても
病気のわが子に接する母のようにより一層の愛情を注ぐ
それが菩薩の実践である

18.
生活に困窮し、常に人より軽蔑され
ひどい病苦や悪霊に憑かれても
それでも一切衆生の罪業と苦を受けて疲れをしらない
それが菩薩の実践である

20.
自身の中にある怒りという敵を調伏しないなら
外の敵を倒しても憎しみはますます増大するばかり
それゆえ、慈悲という軍隊で自身の心を征服する
それが菩薩の実践である


最初から「自我」の不毛さを離れることはできません(「自分など無いのだ」ということでは決してありませんよ。縁起・無自性・空として「自分」は厳然とあります。ただその自分というものは、仮に現象するものであり、大切ではありますが、究極の拠り所にはならないかりそめ無常のものです)。
「自我」離れて自由になるためには、だから11.のように「自他交換の瞑想」実践します。最大の敵は20.にあるように、「怒り」です。
これを続けていれば、少しずつ、「我慢」から「忍耐」に変化していくでしょう。数日で変わらないかも知れない。10年かかるかも知れない。死ぬまで無理かも知れない。でも3秒やれば、やはり3秒は前に進んでいくのです。そこが大切なことです。
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