प्रज्ञापारमिता

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技芸

2018年11月30日 | 仏典の言葉
不退転の菩薩大士は……世間的な芸術や技術の事柄、そのすべてをも、智慧の完成のおかげで、ものの本性(法性)と一致させる。かれはさとりの世界(法界)と関わりのないような如何なるものも見ないで、あらゆるものがそれに導いていくと見る。

『八千頌般若経』

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比丘は歌舞音曲も絵画もNGだし、厳密にはスポーツ観戦や詩文、世俗の物語の類もアウトである。しかし大乗仏教はそもそも当初より芸術的な傾向が濃厚な中から生まれてきた。
それはダルマの俗化ではなく、俗の…誤解を恐れずに言えば、俗の聖化でなくてはならない。在俗のダルマ・バーナカ、居士法師のあり方と同じだ。常にそこを意識していなければ、いつでも僕らは仏教を俗な目的のための消費材にしてしまうし、自己満足の道具、渡世の手段にすらしてしまうのだから。

ちなみに「菩薩大士」というのは、自利利他円満の大乗仏教者を言う。覚りに向かう菩薩だけなら声聞にもあり、利他に邁進する大士だけなら無宗教者でもいる。兼ねて合わせて、はじめて大乗の菩薩大士である。
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フェイスブックから

2018年11月23日 | 仏教・思索
最近投稿したフェイスブックの記事からいくつか。

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ベルグソンによると、愛たるものは個人→家族→国家と拡張していく、という。民族や地域社会、あるいは会社だの宗派だの党派だのも随時この中に差し挟まれるだろう。
しかし「人類愛」というのは個人→家族→国家という拡張の先には「ない」と言う。国家(あるいは民族)の先に、人類愛、普遍的愛というものは位置しておらず、それは個人愛からの直接の飛躍によってのみ成立する、という主張だ。そこに倫理や道徳と違う、宗教の立場がある。

まぁそうなのだろうと思うし、自我意識をいくら拡大してもそれは常に対立するものを必要として、こちらの自我の拡大に応じて相手も拡張させていかざるを得ないのだから、永遠に普遍には達しない。
どうしても、飛躍というものが必要になる。

真言密教における大楽思想というものも構造は似ていて、よく小欲を大欲に…など言うけれど、やはり単なる拡張ではそれは行き詰まる。飛躍…跳躍することがいずれ必要なのだし、そのジャンピングボードは、どうしたって「自己」というものに置かねばならないのだと思う。最終的に自己をどう扱うかはともあれ。
少なくとも、セクトだの集団に軸足を置いているならば、頭打ちになることは自明である。

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何にせよ、順境の時は偉いことを言えるものだけれど、逆境になった時にそれが自分自身に差し返される。

僕ら僧侶も、まぁなんとSNSでもリアルでも書物でもテレビでも大上段にエラソーなことをみんな書いてますし言ってますが、「いざ」という時にはだいたい屁垂れますよね(笑)
イケイケドンドンで煽る奴ほど真っ先に逃げてさっさと転向するのは世の常ですが、僕ら僧侶なんかはもっともアブない所に立っております。
とりわけ僕なんか根性なしの屁垂れの標本なわけであって、まぁ今のヌルい環境で仏教の真似事をやって、やれ法事だの行事だので上座に座らされて通り一遍のおべんちゃらでも言われれば、「ありがたい御法話」のひとつもやって立派な僧侶然としてるわけだけど、一皮剥げばどうなるこっちゃら。
軽く迫害でもされて右の頬をぶっ叩かれれば、キチジローほどの信仰心もなく、さっさと「うまいこと」転身しては自己正当化する己が明瞭に見えますわな。
安全地帯でぎゃんぎゃん言うのは本当に簡単。

そうしてそれは、ありがたいことでもあるのだけれども。
その環境を活かせたら、ね。

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仏教の世界にあっても「肩書きとビジュアル」にとことん弱いのは人間の性ってところだろうけど、そういうのを見ていると正直、アイドル歌手を「あばたもえくぼ」よろしく無条件に崇拝してひれ伏すだけの思考停止の追っかけとどう違うのだろうか、と思うね。

彼・彼女にとって仏教って何なのだろうね。

もちろんそれは基本的には崇拝されている側の問題ではなくて、勝手に酔って崇め奉り、返す刀でライバル(と認定したもの)をこき下ろす側の問題。聖子ちゃん至高で明菜うざいから消えろ、というのとメンタルはそう変わらない(古いな)。聖子ちゃんが悪いんじゃない。実は明菜ちゃんと仲良しだったりするんだから、結局は取り巻きの阿呆な思い込みでしかなかったりする。
テレビに出てる「カリスマ僧侶」であれ、ダライ・ラマ法王であれ、スマナサーラ長老であれ、そのエピゴーネンはだいたいが見苦しい。エピゴーネン…うーん、hangers-onというか。そうじゃないちゃんと学ぶ人もたくさんいるのは承知だけど。
聖子ちゃんは歌がうまくてかわいい。だから好きだ。ファンクラブに入るぞ。それは良いよ。確かにそうなんだから。で、明菜は関係なくねーか? 明菜ちゃんは明菜ちゃんで、聖子ちゃんとは違うけどスペシャルじゃん。そうしてどちらも偉大なアイドルスピリットを持ってることに変わりはない。
別に聖子ちゃんファンに対して、明菜ちゃんファンクラブに入れと言うわけじゃない。まぁ入ってもいいとは思うけど、別に入らなくてもいい。でも明菜ちゃんをわざわざ貶めるなんてことが必要なのかな? 
崇め奉るあまり、表層だけを見て思考停止してるんじゃないのかな。違いは多様性と受け止めて、麗しきアイドルスピリットにこそ参入して、もっと深く考えていって欲しいと思う。

そうそう、聖子ちゃんだって便所に行くんだよ。
考えないようにしてるんだろうけど。

【まとめ】
わし、完全に明菜派です。

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かつて出会った人で今は消息不明の「懐かしく思い出す人」、ってのは何人かいるが、もう一度会ってみたいなぁ、というほどの人はほとんどいない。というか、一人しかいない。
それは、立正大学大学院に留学していた韓国曹渓宗の尼僧・空海スニムである。東国大学で既に講師もされていたと記憶している。
2度しか実際に会ったこともないし、それほど深い話をしたわけでもない。最初は東京・新大久保の韓国料理屋で話をし、もう一度は高野山を一泊二日で案内しただけの関係ではある。もう15年も前の学生時代のこと。
しかし今の自分の仏教への態度というか僧侶としてのあり方を考える時、とても影響を受けたことがあり、今でも時に思い出すことがあるのだ。
高野山の霊宝館を案内したとき、僕と、空海スニムと、スニムの信者さん1名、霊宝館職員(むろん僧侶)の4人で最初の仏像の前に立ったのだが、職員の説明が始まろうかと口を開いた刹那、ものすごく自然にスニムは五体投地を始めた。そうして順番に、仏像の一つ一つを丁寧に拝み、一周回ってはじめて、説明文を読み始めた。スニムの信者さんもそれについて礼拝をしていたのだけれど、僕と職員はアホみたいに呆然と立ち尽くしてただただそれを眺めて待っていた次第。

仏像を拝むという、何と言うことはない当たり前の行為。

しかし僕はなんとも絶望的にそういう当たり前の地点に立っていないことだろうか、と。この光景が、ボディーブローのようにこの15年、ずっと頭の隅に効き続けている。
美術館に「陳列された」仏像にだって「開会式法会」だので拝むことはあるだろう。美術館でも手を合わせることはあるだろう。
でもここまで自然に、何の躊躇も衒いもなく当たり前に美術館で拝む人を見たのは、日本では後にも先にもこの時だけだ。非常に美しかった。

今さら空海スニムに会ったところで別に用事はないのだし、あちらはこちらを覚えているかどうかもわからない。
ただもう一度会って、あの美しさの有り様をもう一度、五感で感じてみたい。そうして出来れば、一緒に手を合わせてみたいな、と思うだけである。

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「あなたの宗派は何ですか」と言われることがあるけれど、最近ホントにそのあたりどうでも良くなってきた。見るべきは仏法そのものであって、それをどこぞの窓(宗派や経典など)を通して観ているのであって、別に窓自体に本来的な意味があるのではない。凡夫のうちは窓から観ていくしかないけれど、中に(外に)入るなり出るなりしてみれば、窓の大きさや形は役割を終えてしまう。
当たり前の話に過ぎないのだけど、どうしてもセクトや見解に執して、「仏法そのもの」ではないそれ以前の手段や枠組みの素晴らしさに幻惑されてしまうことは、僕にもあったりする。
いや、何なら窓を本当に離れれば、そもそも「仏法という概念」すら邪魔になる地点があるかも知れない。ならばなおのこと、「宗派」だの「日本」だの「チベット」だのに自分のアイデンティティをへばりつけて固着するのは愚かなことなのだろう、と思う。
ただし、人はどこかの窓からはじめるしかないのも事実であって、そこを疎かにしてはならない。凡夫である自分の性質や欠点に相応しい窓がある。ただ、他の窓も別にそれ自体上下優劣を言っても仕方がなく、それぞれが目前の窓から見える仏法に取り組んでいくしかないのだろう。
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仏典

2018年11月19日 | 仏典の言葉
佛は独り我が為に法を説く

『大品般若経』

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仏教には「八万四千の法門」と称されるような膨大な聖典があります。
もっとも基本となる大正新脩大蔵経は、分厚い大判の漢文びっしり三段組みで100冊近くありますが、それですべての文献を収載しているわけではない。それほど膨大であります。
で、どうしてこんなにたくさんあるのか、ですが、仏教学的には様々な回答が可能でしょう。歴史的な増広だの発展を跡づけて行けばいいのです。
しかしそれは学問の話であって、仏教者としてはすべてこれダルマの顕現です。そう受け止めなくてはならない。
ではなぜこれほどの数、種類があるのか。それは「この私」が右往左往して落ち着かず、絶えずふらふらきょろきょろして生き方の背骨が定まらないから、ダルマが色々な現れかたで顕現されていて、縁に応じて目の前に「どん」と座ってくださるのです。「おまえ、聞け!」と。
膨大な仏典は、そういうわけですから、今ここで、この自分にのみ、直接に語りかけているブッダの慈悲にほかなりません。ならばこそ、威儀を正してそれを読むに当たり、面前にブッダがおわすと知らねば、仏典を読んだとは言えないのです。こちらの姿勢がすべてで、仏典を直説とするか単なる文献とするかは、ひとえにそこにのみ関わっています。
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事釈と理釈

2018年11月13日 | 仏典の言葉
我が滅後において五百年は諸の比丘なお我が法において解脱堅固なり。次の五百年は我が正法の禅定三昧堅固に住するを得るなり。次の五百年は読誦多聞堅固に住するを得るなり。次の五百年は我が法中において多くの塔寺を造りて堅固に住するを得るなり。次の五百年は我が法中において闘諍・言訟し白法隠没し損減して堅固なり。

『大集月蔵経』

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いわゆる「末法思想」にもいくつかパターンがあり、「正法・像法乃至末法」の三時説が主流ですが、ここに挙げた「五五百年説」というものも有名なものです。
これを事釈のみで考えると、さていつからが末法であるか、後五百歳であるか、などという末節の議論になり、仏滅年代がああだこうだと隘路にはまっていきます。
こういうものは自己一身においてどう考え如何に作用進展するのか、という理釈こそ重要であって、自分自身の境の浅深がそのまま解脱堅固乃至白法隠没堅固に他ならず、たとえば五姓各別であれ諸々の教判であれ「西方浄土や地獄」であれ、事釈で考えてしまったらあまり有意義なことにはなりません。
経典に描かれる「荒唐無稽な話」なども同様で、事釈であれば無意味、精々が単なる比喩表現になってしまいます。しかし理釈によってこれら受け止めるとき、すべてが真実の教法になって立ち上がってきます。
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徘徊

2018年11月12日 | 仏教・思索
何とはなしに今日の後には明日があるとか、来年の計画を立てていたりとか、好きなあの子がずっとこのままとか、常見っぽい感覚で人は生きている一方、死んだら何もなくなっておしまい、所詮は地球も宇宙もおわって無になってしまう…というのも頭の隅にあったりする断見。
ぼやっとこの両極を行きつ戻りつ生活して、時間が経って、年を喰って病気になって「あんたの余命は…」と言われて泡を食ってさめざめと泣く。

行きつ戻りつうろうろするのをやめて、立ち止まればいいだけなのに。

アングリマーラは釈尊に「止まれゴルァ」と言ったけれど、実際にはアングリマーラが動き回って景色がぶれぶれだっただけ。
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加持、利他

2018年11月06日 | 法話関係
供養や祈願、祈祷の心構え。

「お任せ」ではいけない。

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一手拍を成さず 片脚歩むこと能わず
必ず彼此の至誠によってすなわち感応を致す
然らずんば徒に財物を費やすれども修法何の益かあらん
慎まずんばあるべからず


『高野雑筆 五五』

片手で拍手、片足で歩くことが出来ないように、僧俗一体の心によって祈祷祈願の効験は現れる。ただ布施をするだけでは修法の効果も弱いことに留意すべきである。

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加持と祈祷、供養。

加持の心構えこそが重要。鼎。
祈祷というものも、あるいは供養も、加持の心がなければ単なる願望であって、実際の効果は薄い。
加えて、利他の心。慈悲こそすべてが動きはじめる根拠。他者なくしては水は淀み、心も腐っていく。そうして、何も動かず、はじまらない。

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論争の無益

2018年11月01日 | 仏典の言葉
実に悪意でものを言う人々がいる一方、
また他方では、真心からものを言う人々もいる。
しかしムニは、議論が起こっても、それに近づかない。
だからこそ、ムニは何があってもこころが乱されることはない。

人はどのようにして、自分だけの見方を超えるのだろうか。
人は欲に導かれ、好みに捉われて、自ら決めつけてしまう。
そのような人は、何でも解っているように語るであろう。


「スッタ・ニパータ 780-781・悪意の経」

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悪意はもとより、善意ですら無明による執着、偏見を免れない。それによって何をか語るならば、いずれにしてもあなたは業を形成しているのであって、輪廻の軛を逃れることはないだろう。
たとえ「そうではない」と思ったとしても、業はそういう「思い」で軽くなったり消えてしまうものではないのだから。
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