प्रज्ञापारमिता

𝔇𝔥𝔞𝔯𝔪𝔞 𝔗𝔞𝔩𝔨, 𝔅𝔲𝔡𝔡𝔥𝔦𝔰𝔪, 𝔗𝔥𝔦𝔫𝔨𝔦𝔫𝔤, 𝔞𝔫𝔡 𝔱𝔥𝔢 𝔚𝔬𝔯𝔡

見よ。

2018年10月31日 | 仏典の言葉
762
さらに《楽》であると言うものを、
尊ぶべき人たちは《苦》であると言う。
さらに《苦》であると言うものを、
尊ぶべき人たちは《楽》であると知る。
理解しがたい道理を考えよ。
無知な人々はここでまごついている。

763
覆われた人々には闇があり、
よく見ない人々にとっては暗黒がある。
深く考える人々には開かれている。
あたかも、よく見る人々には視界が開けるように。
真理に至る道について正しい知識を持たない人々は、
それを目の当たりにしても解らない。


「スッタ・ニパータ」

……………………

仏教の真骨頂は、いわゆる「ジョーシキ」で考えてはわからない。
道徳だとか倫理だとか慣習、伝統や前例や「みんなそうだから」とか、あるいはそもそも感覚的な「前提・常識・普通」というものの欺瞞や虚構。そういうものを簡単に受け入れてはならない。
しかしそれは反発しろ、ということではない。反発するということは、「それら」を実は受け入れていることのネガなのだから。

見よ、見よ。

………

しかし、いったい「誰が」「何を」見ることなどできようか?

ここが分水嶺だ。

そうやって、ようやくあなたはすべてを見ることになるだろう。
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真言は素晴らしい

2018年10月31日 | 弘法大師聖句
真言は一切の法の母たり
一切の法の帰趣なり

「十住心第九」


真言はすべての教えの母であり、すべての教えは真言に帰結する。

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僕自身がずっと念持している真言があるのですが、その内容…字面の解釈だけではなく、誦するにつれて徐々に繋がって大きくなっていく世界、それが収斂して根源に触れていく世界というか、そういうふうに毎日稚拙ながら行じていると、本当にこの弘法大師の言葉は真実に「そうだなぁ」、と思わされる。
文義解釈、そして観想…という階梯は踏むんだけど、そこから念誦して階梯を離脱していく中ではじめて、少しずつ、歩き始めていける。
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宗論はどちらが…

2018年10月30日 | 東亜仏典の言葉
摩訶般若波羅蜜多とは、洞達にして底なく、虚豁にして辺なく、心行処滅、言語道断なり。数術を以て求むべからず、意識を以て知るべからず。

……………………………

立派な文章ですが、仏典の言葉ではありません。
僧侶の文でもありません。
これは梁の武帝によるもので、『大品般若経』注釈に皇帝自ら序文を書いたものの一部です。
仏智とは限りなく広く深く清浄なもので、心で推し量ることもできず、言葉で表現することもできず、数字で確定的に提示もできず、つまり主客相対の認識という枠ではどうこうできないものなのである、ということです。
根本です。
ところが、そういう表面上の仮の便宜に過ぎないものを振りかざして争う、慢心し蔑視する、そういうことが仏教においても延々と繰り広げられてきたし、今もそうです。
「宗論はどちらが勝っても釈迦の恥」というのは、なぁなぁで穏便に、ということではまったくなく、そもそも争いの根底にある僕たちの認識に関わる誤謬にこそ、その問題の根っ子があることを示しているのではないでしょうか。
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精進

2018年10月29日 | 弘法大師聖句
海を酌むの信 鎚を磨するの士に非ざるよりは
誰か能く一覚の妙行を信じて三磨の難思を修せん

「性霊集十 理釈経答書」


海水を汲み尽くしてしまうほどの強い信心と、鎚を磨いて針にするほどの努力がなければ、悟りを信じて深い瞑想に入ることはできない。

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大阪大学第十一代総長・山村雄一の言葉に、「樹はいくら伸びても天まで届かない。それでも伸びよ、天を目指して」という言葉があり、これはこれですばらしい言葉です。
しかし仏教においては、上に伸びること(世俗的な努力)ももちろん大切ですが、それとともに、いや本質的にはそれ以上に、自己の心をこそ深く自覚(すなわち仏法への精進)しましょう、と言います。
そうして心中の深みを極めたところ、実に「天また地すなわち自己なり」「他者すなわち我」で、天上天下唯我独尊という言葉の真実の意味が開顕されてくるのだと思います。
一世界一仏でありながらこの私が仏でありうるのはどうしてなのか、それをわかるには行学の努力と三力加持の信心が必要なのです。
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ことば

2018年10月25日 | 仏典の言葉
世尊はこのように言われた。
「ビクたちよ! 四つの特徴を具えた、よく説かれたことばがある。智者たちからみて、悪く言われたのではなく、過ちなく、非難すべきものではない。
ビクたちよ! ビクはーー
よく説かれたことばのみを語って、不快なことばを語らない。
理法を語って、理法に反することを語らない。
喜ばしいことばを語って、喜ばしくないことばを語らない。
真実のみを語って、偽りを語らない。
ビクたちよ! 実にこれが四つの特徵を具えたよく説かれたことばなのである。智着たちにとりて、不快なことばでもなく、過ちなく、非難すべきものではない」

<中略>

ヴァンギーサは……師を褒め称えた。
「安らぎを得、苦を終わらせるために説かれたブッダの安らかなことばは、実に、さまざまなことばのうちで最高のものです」と。


スッタ・ニパータ「見事に説かれた経」序・454

…………………………


僕自身、昔からけっこうバッサリ喋ってしまうことが多く、原理的な立場でツッコミをしてしまいがち。あながちそれが間違ってるとは思わないのだけれど、残念ながらそういう言い方で誰かの考えを変えさせたり、心服させる、ということはほとんどない。つまり、自己満足に過ぎないわけだ。

そもそもどうして他人の考えを変えさせようと思ってしまうのか。

大上段から文句を言う時には、いずれにしても相手を自分の思想に染めたいか、それを見ている第三者に自分の正しさをアピールしたいか、何にせよマウントを取りたいか、だいたいがそのいずれかである場合が多い。

特にSNSなどそうだ。

だいたい、実際の面識すらない者同士で何を争うのか、どうしてマウントを取ろうとするのか、いちいち自己アピールせなあかんのか。しかもタメ口…ならまだいいけれど、教え諭してやろうとか、喧嘩腰とか、そういうものが本当に多い。
僕自身も油断するとそうなってしまう場合がある。
しかし、こういうのは不快なだけで実際、意味があまりない。

文章など所詮は書かれたことしか意味していない。
その限られた範囲のことで相手の何がわかるか。言われていないことは隠されている。そういう基本的なことがわからないまま、自分のフィルターで勝手に「読み込んで」読み間違えて、それでマウントを取ったつもりでふんぞりかえって。

僕が交流サイト(まぁ2ちゃんねるから始めたわけだが)なるものを使い始めて約20年になるけれど、僕自身まったく進歩していないし、書き込む人たちもそう大して進歩はしていない。
なんか自分にがっかりしながら、この釈尊の言葉を読みました。

皆さんはどうですか?
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起床!

2018年10月22日 | 仏典の言葉
「奮い立つ経」 スッタ・ニパータ331~334

奮い立て、座れ!
眠ることに何の利益があるのだ。
矢に射られて傷つき苦しんでいる者にとって、
どうして眠ることなどあろうか。

奮い立て、座れ!
平安を得るためにしっかり修行せよ。
死王があなたがたを屈服させ迷わせたのであるということを知って、
不注意でないようにしなさい。

神々や人間がよりどころとしたり、
とどまったり、しがみついている欲望がある。
このこだわりを超えなさい。
時が空しく過ぎ去ることのないように。
実に彼らは、時を無駄に過ごして、地獄に堕ちて悲しむのである。

怠慢は塵垢である。
怠慢に陥ることが塵垢である。
勤勉さと智慧によって、己に刺さった矢を引き抜きなさい、と。

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朝、起きるときにこれを唱えてみようかな。
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形式と内実

2018年10月21日 | 弘法大師聖句
法は本より言なけれども 言に非ざれば顕われず
真如は色を絶すれども 色を待って乃ち悟る

「請来目録」


仏法は本来ことばを離れているが、言語手段がなければ我々には理解ができない。真理も形から隔絶されているが、形によって悟ることができる。

…………………………

曼荼羅や仏像の役割に関わる話ももちろんそうなのですが、いわゆる儀礼全般についてもこれは言えます。「形式主義」というのはカタチだけ整えて内実がないことですが、しかしそうは言っても、言語や形式を超えたダルマを我々の認識次元に顕さなくては、まったく凡俗には手掛かりすらなくなってしまいます。
内実と形式は一体です。
既定の形式は言語における文法のようなものであり、どのようなものであれ、ひとつひとつに意味があり、表明している内実を伴っており、実際の用大があります。決して、疎かにしてよいものではありません。
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疑い

2018年10月16日 | 弘法大師聖句
甚深の大乗経典の通解せざる処に於いて 疑いを生ずべからず 凡夫の境界にあらざるが故に

「秘密仏戒儀」


奥の深い経典の意味が理解できない箇所があっても、疑いを起こしてはならない。仏の世界は凡人を超えているからである。

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これは疑念を差し挟んだり質問をしたりするな、という意味ではもちろんありません。仏教においては、常に適切な疑問や問いを大切にし、ひとつひとつ丁寧に考え実践していきます。
しかし人は往々にして、自分の狭い知見で仏教を量っては否定したり、こういうものだと決めつけて奥を見ようとしません。「犬」を理解しようとして、その漢字の成り立ちを調べて語るようなものであったり、自分が飼ってるスピッツだけを見てハスキーについて語るようなものです。
それ自体は別に間違っていないのですが、所詮は狭い狭い知見なのです。
そこを理解せずに、そんな知見で仏教そのものを知った風に考えてしまう。わからないところは「それは間違っている、戯言だ」と決めつける。そしてああだこうだと疑い、否定して、自分の見解に固執する。
そういうことを、弘法大師は戒めておられるのです。
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智慧と慈悲

2018年10月15日 | 東亜仏典の言葉
口先に説くだけで実行しなければ、<道>を体得するわけがない。たとえば、高い山に登ろうと思えば、道に迷わないように、また足を傷つけないように気をつけて、歩いていくだけでよい。そして、歩き続けて休まなければ、山頂に達する機会をもつことができるようなものである。このごろの者が、仏法を体得することができないのは、ただ教理の深浅や教説の優劣を論ずるだけで、実際に修行しないからである。たとえば、高い山に登ろうとしておりながら、麓にいて山上の景色の素晴らしいことを話したり、あるいはまだ一歩も登らないのに山道の曲折を論じたりするようなものである。おそらく話しているうちに、日はとうに暮れてしまうであろう。

『十善法語』


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実践しない知識は無意味である、という当たり前のことが書いてあるだけですが、ちょっと違う角度から考えてみたいと思います。

仏教は「智慧と慈悲の教え」と言われます。
智慧と知恵と知識の相違は大きいのですが、ここで言う「智慧」とは要するに、「縁起・無自性・空」を確実に覚する、ということです。我・我所執を立てない。分別心を遠離することです。
まずこれが重要です。
そうして、この智慧あるところ、自然に分け隔てがあり得ない苦を脱した境地が現前し、大慈悲心が出てきます。
もし大慈悲心が出てこない、やはり私とあなたは違う別のものだという感覚が湧いてくるならば、智慧はまったく完成されていない、ということです。これは知識をどれだけ積んでも、分別心を基本とした知恵をいくら発達させても、届かないのです。

俺は仏教がわかってる、空も縁起も理解している、といくら誇ったところで、慈悲の行動(身口意)にそれが繋がれていかないのであれば、何の役にも立ちません。

実践というのは、何も念仏や座禅が実践ではないのです。僕たち山に登らせるのは、大慈悲心なのです。それ以外のものは、たとえば地図であったり食料であったりアイゼンであったりテントであったり資金であったり…それらは不可欠ですが、それをいくら揃えても山には登れないのです。大慈悲心という「この脚」を動かすことが根本です。

脚を動かして実際に登ること、慈悲の心、愛語、行動こそが、仏法なのです。あそうしてこの登山するという脚を動かす動機が智慧であり、それ以外は助縁です。無論すべて重要ですが、根本を見失ってはならないのです。
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暑さ寒さ

2018年10月08日 | 東亜仏典の言葉
ある僧が洞山大師に問うた。
「暑さ寒さがやってきたら、どのようにこれを避けたらよろしいでしょうか」
洞山は答えた。
「どうして暑さ寒さのないところにいかないのか」
僧はいった。
「暑さ寒さのないところとは、どのようなところでしょうか」
洞山は答えた。
「寒い時は寒いだけ、暑い時は暑いだけだ」

『碧巌録』


…………………………

暑い寒いを云々して悩むのは、いつも「今ここにないもの」と比較してああでもないこうでもないと思い煩うからだ。
貧乏も美醜も地位もなにもかも、「今ここ」に生きていないから、いつも過去や未来、よそにあって手が届かない何ものかと比べているからだ。
今、暑いかもしれない。そう、ただ暑いのである。涼しいところと比べて暑さを嫌うから苦になる。今ここに涼しさなどないのであって、暑いときは暑いだけである。
今、寒いかも知れない。そう、ただ寒いのである。暖かいところと比べて寒さを嫌うから苦になる。今ここに暖かさなどないのであって、寒いときは寒いだけである。
それだけのことを、暑いときに涼しさを、寒いときに暖かさを妄想して「今ここ」から離れてしまうから、暑さ寒さに振り回されて苦しくなっていく。暑い寒いが苦しいのではない。あなたが妄想によって苦しんでいるだけだ。
貧乏も同じことで、比べなければ貧乏もない。病気も同じ。健康な誰かと比べるから苦になる。貧乏も病気も、それはそういう「今ここ」である、という以上の意味はない。
体がしんどい、食うに困る。それが生活の具体的な不都合であるならば、それを淡々と改善していけばいいのである。
しかしそれによって心が苦しくなってしまうのは、行き過ぎである。暑い寒いで体調が悪くなるなら、改善すればいい。それだけの話だ。「今ここ」でない何かと比較して思い悩むことに意味はない。余計な苦を生むだけである。
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