प्रज्ञापारमिता

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無明

2018年09月30日 | 東亜仏典の言葉
穢身を悪んで、仏身を尊ぶ。
これを無明と名づけ、又、妄想と名づくなり。

覚鑁『阿弥陀秘釈』


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縁起・無自性・空である。

無明とは何か。それは分離である。分割である。
主客相対に思考が縛られて、卑下や高慢や信仰や侮蔑が心に根を下ろして知らず泥沼に笑顔で、あるいは憂鬱な顔で沈んでいくことである。
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東亜仏教世界

2018年09月30日 | 東亜仏典の言葉
東亜仏教。

基本的に僕はこの言葉を、中央アジア大乗仏教、中国大陸、朝鮮半島、台湾、ベトナム、そして日本において「漢字を使って実践されてきた仏教の伝統」という意味で使っています。
これからこのカテゴリーでは、そういう伝統において語られた言葉を、時々紹介していきたいと思います(弘法大師空海については別にカテゴリーを立てています)。主には論書や先人の語録などですが、様々な立場のものを紹介したいと思ってます。

なぜ東亜仏教に限定しているのかと言いますと、インド仏教やチベット仏教は放っておいても巷に良く紹介されているし、親しみやすい本もあります。また評価も高い。
しかし残念ながら東亜仏教は徐々に忘れられつつあり、あまつさえチベット仏教やテーラワーダよりも下であるかのような扱いをされたり、古臭い遺物…時にはよく知ってもいない人からは侮蔑の対象になったりもしています。

本当にそうでしょうか?
そんなに価値がないのでしょうか?

こういう場所で体系的な紹介は出来ません。しかし色々な文章の断片だけでも紹介することを通して、その奥に意外に深遠なガチの仏教思想の世界が広がっていることを、ちょっとだけでも知っていただけたらな…と。
そう願っています。


なお文章は、「訓読文」もしくは「現代語訳」のどちらかで書きます。
現代語訳の場合は私訳の場合もあるし、東大仏青『現代人の佛教聖典』(大蔵出版)その他の文献を使う場合もあります。予めご了承ください。
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博識

2018年09月18日 | 仏典の言葉
譬えば人、水に漂さるるに、溺るるを懼れて渇きて死し、説の如く行ずる能わず。多聞も是の如し。

『華厳経』「菩薩明難品」



博識な人は素晴らしい。彼に学べば私たちも色々なことを知るようになる。知識は力だ。

ただしそれは、あくまでも家を建てる時の足場のようなもの。足場そのものに究極的な価値があるわけではない。必要だが、目的ではない。

様々な情報や知識の洪水で巷は溢れている。しかしあまりに多くの情報に囲まれてしまい、無秩序な洪水を恐れてそれを制御しようとし、それを追うことに汲々として、そうして次には他者と比べて自分の知識(治水された水)が多いか少ないかという思いにとらわれて、それをかき集めて展示して自慢や卑下の材料にしてしまう。
それはあたかも、情報の洪水の水をかき集めては自分の水槽に貯めてその水量をいつも気にしているようなことで、そこにこだわってしまうと渇いたときにそれを飲まなくてはならない、ということも忘れてしまう。
足場を美しく堅固に組み、その造形美を競って、遂に家が建たないようなものだ。
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2018年09月17日 | 弘法大師聖句
信心とは決定堅固にして退失なからんと欲うがための故にこの心を発す
これに十種あり
一には澄浄の義 二には決定の義
三には歓喜の義 四には無厭の義 
五には随喜の義 六には尊重の義 
七には随順の義 八には讚歎の義 
九には不壊の義 十には愛楽の義なり

(三昧耶戒序)


信心、信仰と言うけれど、いったい仏教における「信」とは何であるか。
実は一般に思われている信仰、「神の存在を信じる」「天国や地獄を信じる」「輪廻を信じる」あるいは「あの人を信じている」というのとはちょっと違うのが、仏教における「信」である。
上記、弘法大師の言葉にその定義十種類を上げたけれども、もっとも基本になるのは第一の「澄浄」であり、簡単に言えば「心が澄み渡る・明澄になる」ことだ。「信を獲得する」というのは、客観的に証明できない外部の何者かを信じようとすることではない。心を澄浄とすることに尽きる。
仏法は「信を以て能入とす」と言うが、この心を清くすることこそ仏教への第一歩であり、信の役割である。これ逆に言えば最初の条件であって、その信をもって定に進み、慧に至るのが仏道である。もちろん最初の段階では「ブッダの教えを信じる」という一般的な意味での信も重要だけれど、それはあくまで聞思の検討を前提とした信であり、そこから修に進む点では「信→定→慧」と同じ事である。慧の段階では一般的な意味での信は無用であるのは当然のことだ(澄浄は持続しているが)。

さてでは、澄浄としての信、はいったいどうやって獲得するのであるか。これは簡単な問いである。

「信→定→慧」という階梯を上に示したが、この構図をより実践的に言い換えると、「戒→定→慧」であることは明白であって、戒を保持した生活によって、心澄浄となり、それが定・修の因となり、慧の因となる。
つまり信澄浄とは戒学にほかならず、「不合理ゆえに我信ず」的な観念とはまったく関係がなく、いわば当然の、ダルマによる身と口と心の陶冶であるということである。

これなくして仏道は始まらず、これなくして修行も意味をなさず、これなくして慧など求めても虚しいものにしかならない。
そうしてでは、その最重要の第一歩たる戒学とは何かと言うならば、十善業道、つまり十善戒が根本である。これによって心を陶冶し、身と口を陶冶し、心澄浄を育てながら、それを常に平行しながら、定・修をしていくのが、仏教である。
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だるま・達磨

2018年09月07日 | 法話関係
インドの僧侶で、6世紀に中国・梁にやって来た。

《梁の武帝》
 朕、即位以来、寺を造り、経を写し、僧を渡すこと挙げて尽くすべからず。
 何の功徳かある。

《達磨》
 無功徳。


~をしたから~の見返りが欲しい → 取引・商売・自動販売機の心、信心ではなく、取引先にお願いして手を合わせることに等しい。

信心とは取引ではなく、心を清らかにして、自他を区別せずに感謝と福楽(現世・来世の幸せ)を祈ること。
親が子を育てるように、見返りではなく、慈悲の心を持ってただただなすべきことをなすように、信心は仏様・ご先祖様に「私が美しく穏やかでいられますように、他の人もそうでありますように」。

三輪清浄(「私が」「誰に」「何を」の心を離れる)

報われようと思うと報われない。欲が邪魔をする。
見返りを求めないところに、世間・宇宙の歯車がかみ合って却って良い状況になる。

選挙の達磨は間違い。「敵を蹴落として当選したい」という欲まみれ。
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