प्रज्ञापारमिता

𝔇𝔥𝔞𝔯𝔪𝔞 𝔗𝔞𝔩𝔨, 𝔅𝔲𝔡𝔡𝔥𝔦𝔰𝔪, 𝔗𝔥𝔦𝔫𝔨𝔦𝔫𝔤, 𝔞𝔫𝔡 𝔱𝔥𝔢 𝔚𝔬𝔯𝔡

仏教とインド

2018年07月26日 | 仏教・思索
いわゆるインド思想史の枠内だけで仏教を考えてはならないのは当たり前だけど、それは別に中国仏教とかどうとかいう話ではなくて、大乗仏教に西方要素が…っていう話だけでもなくて、そもそも仏教自体がインド思想メインラインから見れば辺境の地で興隆したわけで、アーリア以前の土着文明の要素も色濃い。おまけに大乗仏教以前の段階から部派仏教は西方世界との関わりで成長したし、何なら釈尊の時代も都市部商人層や統治者層を基盤とする以上、想像されているよりも西アジア世界との通商によって様々な文化や思想が入り込んでいただろう。農村を基盤とするバラモン思想とはそのあたり少し相違があるのじゃないかな。
ということをちょっと念頭に置きながら、その上でインド思想メインラインの土壌にあって仏教が展開していく相を検討していくべきじゃないかと思う。

あと関係ないけど、仏教が密教化してヒンドゥー教に取り込まれて云々というのも不正確で、そもそもタントラ思想の興起は必ずしもバラモン=ヒンドゥー教由来のものではなく、アーリア以前の土着宗教の復権であって、むしろ仏教が先行してきた側面もあったりするんじゃないかね? そういう土着宗教の復権という流れの中で、それを再構成し優れた部分を取り込んで密教やヒンドゥー・タントリズムが成立するのであり、仏教がヒンドゥーに取り込まれて密教化した、というのは不正確極まりない。そもそも密教的な方向性は仏教のオリジンから胚胎していたのであるし。

そもそも土着宗教の先鞭こそ仏教だったわけじゃん。
コメント

欲するべきもの

2018年07月16日 | 法話関係
黄金律、つまり黄金のように素晴らしいルール、というのがあります。それは、「己の欲するところを人に施せ」というものです。聖書に出てきます。
一方で、銀律というものもあります。これは「己の欲しないことを他人に施すことなかれ」です。仏教経典に出ています。

このふたつ、黄金と銀と呼ばれるように、前者の方が優れていると一般には言われていますが、よく考えると必ずしもそうは言えないと思うのです。たとえば、自分が欲するものが果たして他人にとっても好ましいものでしょうか。ひとりよがりで「これが素晴らしい」と思って人に押しつけるように物をあげたりしても、きっと相手にとっては迷惑であったり、時には害を及ぼすこともあり得るのです。
断っても断ってもしつこく勧誘してくるセールスマンみたいなものです。

しかし後者の銀律のほうは、自分がされたくないことを立ち止まって考えてみて、それを他人にしない、という賢明さがあります。これは目立たないことですが、より深い態度だと言えるでしょう。

しかし実はこの両方とも、まだまだなのです。もう一歩、深い考えがあるのではないでしょうか。それは、「他者の欲することを彼に施せ」です。これを白金律と言うそうです。
ここには、「自分が欲する」や「自分がされたくない」という「自分が」という心を離れて、まず相手の心を見つめよう、という思いがあります。これは黄金律や銀律よりも一段高い考え方です。

しかしだからといって、相手のして欲しそうなことばかりやっていたら、それはきっと相手のためになりません。子育ても同じで、子供の欲しいものを際限なく与えるだけなら結局はその子のためにならないのと同じです
ですから、「他者の欲することを彼に施せ」というのは、その人の欲や感情に沿っていればいいということではなく、その人の心の平安と、より善き人間になっていけるようなことをしてあげなさい、ということなのです。

「でもそれじゃ、相手の欲するものじゃないじゃないか」と思われるかも知れません。しかし、果たしてそうでしょうか。

まず、人は不幸になることを願いません。それを欲することはありません。そしてどう考えても、際限のない欲の追求は不幸への門です。ですから、それを知っているはずの心の奥深くの魂のレベルでは、本当にはそれを求めることはありません。不幸への門だと気づいていないだけで、そこに気づけば際限のない欲などは求めないものです。
人は煩悩によって欲望によって何かを欲することがありますが、私たちはそれを相手に与えるのではなく、よく考えたらそれは不幸への入り口であるとお互いにそこに気づき、本当には何を求めるべきなのか、幸せへの門は何であるのかをよく考えて、人として欲するべきものをちゃんと欲するように、また与えるようにしなくてはなりません。

では、その本当に求めなくてはならないもの、相手に与えなくてはならないものとは、なんでしょうか。
それは簡単に答えられます。慈悲の心、困難なときにこそそばにいてあげること、見捨てないこと、一緒に楽しみ泣く心、排除しないこと、つまり、「思いやりの心」です。
これがあれば、人は助け合って生きていけます。善き人間になれます。誰であれ求めているものです。これをお互いに与えあうことこそが、「他者の欲することを彼に施せ」ということの本当の意味なのです。
コメント (1)

ॐ オウム

2018年07月07日 | 仏教・思索
オウム真理教の地下鉄サリン事件で、死刑が執行されました。

あの事件があって、「オウム」という言葉が「気味悪いもの」という風に世間では思われてしまいましたけれど、もともと「オウム」というのはインドでは古くから使われてきた大切な言葉で、仏教でも使われ続けてきたものです。「おんころころせんだりまとうぎそわか」などの頭についている「おん」が、「オウム」です。

ではそもそも、この「オウム」とはどういう意味なのでしょうか。

「オウム」はॐ(AUM)と書きますが、もともとは瞑想のために祈りの言葉の前後に唱えられる聖なる音でした。宇宙の根本の響き、ということで神聖な音とされたのですが、意味の解釈は様々あったようです。ヒンドゥー教という宗教では、宇宙の創造・維持・破壊を象徴し、神そのものの印とされました。
仏教でも、「おんころころせんだりまとうぎそわか」のように、「オウム」=「おん、唵」を使います。『守護国界主陀羅尼経』では、仏の三身(法身・報身・応身)を表すと書かれていますが、弘法大師の『秘蔵記』では、「帰命・供養・三身・驚覚・折伏」の五つの意味があると書かれています。また、「出生」という意味もあります。

以上のように様々な意味があり、修行のために非常に大切にされ重視されてきた言葉が「オウム」なのですが、残念ながら「あの事件」以降は、世間であまり良いイメージを持たれなくなりました。
数千年も大切に伝えられて来た「聖なる言葉」が、あの事件ひとつでぜんぶ吹っ飛んだのです。
非常に残念なことなのですが、よくよく考えると、こういうことは日常的によくあります。長い間かけて積み重ねてきた信用を失うのは一瞬です。ふとした出来心で、それまで頑張ってきた生活が即座に崩れてしまいます。みんなで大切に伝えてきたものも、誰かが悪用すれば、そこまでのみんなの努力も水の泡です。

ですから私たちも、毎日毎日を大切に積み重ねると同時に、それを台無しにしないように気を付けて自分を律していかなくてはなりません。「過去の業績」など、今現在の目の前の行為ひとつで、いくらでも台無しになり吹っ飛ぶものです。
修行もご供養も同じことです。毎日毎日の積み重ねが根本ですが、油断しないで、いつまでもコツコツと精進していくことが大切です。
同時に、他の人に対しては、もしその人が悪いことをしていても、今現在の状況ですべてを判断してしまうのではなく、その人の過去の良い部分をきちんと見てあげることも大切です。そして今もし良くなっているのならば、過去の悪い部分は忘れてあげましょう。

そうやって、公平な目で、自分自身では「自分の・先祖の・先人の積み重ねてきたものを粗末にしない、貶めない」ように努力し、他の人に対してはいつも良い部分を見るようにし、「あれはこういうものだ」と決めつけずに色々な視点で見ていくこと、そうやっていれば、穏やかな人間関係も築いていけることでしょう。
コメント