प्रज्ञापारमिता

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普遍

2018年06月20日 | 仏教・思索
死んだらどうなるか。

無になる、天国や地獄に生まれる、大きな存在(神など)とひとつになる、何かに輪廻(転生)する、霊になってさまよう…色々な見解が人類の歴史を通じて表明されてきた。蓋然性の高低も立場や時代や地域によって違うし、結局は客観的な証明はできない。現代社会では、「無になる」というのが公式的には蓋然性が高いと見なされるであろうけど、一皮むけばインテリであっても案外、多様な感覚を持っているだろう。

まぁどのような見解であっても自由だ。自由だけれど、それぞれの見解において人は誠実であるべきであって、ある見解を持っている人が、他の見解を否定しながらそこに自分の見解を押しつけようとしてはならない。自分の領域に止まっているべきだ。

たとえば、「無になる」。

結構、それはひとつの見解だ。しかしそれをキリスト教や仏教の考え方に導入しようと努力すべきではない。断滅論そのものは可能性としては真かも知れないけれど、仏教ではそう考えていない。無理にそれを操作したり解釈したりして、無になるのだという見解を仏教に導入する必要はない。
また同時に、仏教の立場から創造神の存在を否定してキリスト教やイスラームに手を突っ込む必要も意義もない。逆もまた然り。

なぜ人は、他人に対してまでも世界観を一致させたり統一させようとするのだろうか。そこに何の意味があるのだろう。違うと言うことをそこまで恐れるのは何なのだろうか。一方が正しければ、他方は必ず誤りなのだろうか。
普遍というものも、常にある観点からの整合性を持った全体の説明原理であり、最初の仮定あるいは前提、見方の枠組みがわずかでもずれてしまえば、結果として導き出された普遍なるものもまったく様相を異にする。結局、普遍というものはある種の特殊に名付けられたらものに過ぎない。

そのような中で、しかし我々はそれでも、本当のところ、をやはり求めてしまう。特殊的普遍ではない普遍的普遍とは…と考えてしまうものだ。
そのための道筋も多様なものがあり、その真摯な模索の歴史もまた、我々の思想の重要な蓄積である。
そうして大乗仏教は、「見解を持たないこと」をその模索の第一歩とした。見解というものの性質を見極め、足下を掬われないように、自在に多様な見解を解体しながら、見解以前の、言葉以前のところに引き返し、前進せよ。時間のない時の経過を見つめ、空間なき場所で進退せよ。
しかしそれは仏教の立場だ。他の「見解を必須とする立場」を原理的に否定することはできないのだから、それはそれでこの世界に並列的に共存していくしかない。お互い、他者に「普遍」を強要はできないし、すべきではない。
そうしてさらにこれを突き詰めれば、仏教だとかキリスト教だとか科学主義だとかいうカテゴリーではなく、個別のひとりひとりのバリエーションだけ、相違がある。
それはそれでいい。美しい。
一色に塗り込められた世界、マスゲームのように揃えられたら世界よりは、多様な雑踏のほうが、全体として俯瞰したとき、却って普遍的普遍に近いものだと僕には思える。

そういう雑踏の交通整理は、雑踏の特定の一員の価値観を敷衍するのではなく、相互関係性に立脚した流動的な「社会契約」であって然るべきである。こんなことは(特にマイノリティには)当然なのだけれど、マジョリティ(と思い込んでいる)人々には、案外、見えていない部分でもあったりする。
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3つの論理

2018年06月18日 | 仏教・思索
宗教上の「理屈」には3段階あって、これを意識できていない人とはあまりうまく意志の疎通ができない。

まず、よく言われる「内部論理」というものがあり、これは宗教宗派の教学や信仰のことである。それらは内部においては整合性がある一貫した体系に大抵の場合はなっている。世界観、と言っても良い。
それから、「一般的な論理」の場がある。これはそれぞれ内部では完結した一貫性のある論理であったとしても、前提が相違していたりする場合は他者には通じない。そこを理解して、対話の場を設定するにあたってより一般的な基準、文献学や論理(学)、相対的な見方を働かせる必要がある。
三番目は、「個人の論理」であって、たとえば「内部論理」だからといってそれに100%同じ、というわけにはいかないのが通常だ。なぜなら内部論理といえども、それはあくまで自分自身にとっては「他者性」を必ず帯びているのであるから、常に自分自身が経験している事態からはずれている局面から生み出された理論である。内部であっても、自己一身から見れば「外部」でもある。
相対的に近いか遠いか、というのはあるけれど、外部性・他者性を帯びていれば、それは個々人の論理とまったく同じということにはならない。

つまり、明らかにその3つの論理でもって他者の考え方を「啓蒙・矯正」等できない道理なのに、この世界ではそれをやろうとして論争が絶えない。まったく無意味なことだ。

しかし同時に、我々はそのような他者の論理(その始めは母語の習得だ)を学びながら、徐々に個人の論理を形成していく。だから幅広くそれらを学び知る必要はあるだろう。しかしそれは素材として知るのであって、出来合いの料理として受け入れてはならないし、自分にとっての料理も他人には素材なのだ、とは知っておく必要がある。それを料理だと言って他人の口に押し込むなど論外だ。

それぞれの論理を広く提示することは良い。それは重要なことだ。
しかし、すべきなのはそこまでだ。

なお、仏教においては上記の論理はすべて妄想であって、迷いの根源となる、と考える。あくまでこの世界を渡るための便宜としての道具でしかなく、道具そのものは目的でも究極でもなく、それ自体の優劣などには実際にはそこまでの価値をおいていない。
しかしそれはあくまで仏教の立場であって、ある観念(神など)の実在を基準にして内部論理を立てる立場もあることはわかる。またそれらの考え方の濃度や観念は人の数ほどありうるのだから、僕としてもあくまで個人の論理を提示するだけだし、「結局どうなのか」は、それぞれみなさん自由に学び考えていかれればよいのだろう。
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