प्रज्ञापारमिता

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バグ

2018年03月24日 | 仏教・思索
アートマンなどあるものか。無始無終の不滅の魂などあるものか。

さて。

この世界はバグによって成り立っている。
僕らが今ここにいることは、バグだ。
このバグは、美しく苦しく楽しく寂しい、様々な体験を提供する。
それらはすべて、バグによって出現した。

つまり、体験している「私」もバグの所産。

さてさて。

このバグは一見すると整合性を持っているが、細かく観察すれば、ちょっとおかしい。
とことん考えてみれば、論理的に目の前の現象は成り立たないはずである。
しかし現に成り立っている。
つまり、どこかで回路が間違ってしまっていて、本来あるはずのないものがあってしまっている。ゆえにこの世のすべてはバグである。

で。

このバグはもうバグとしてあってしまってるのだけれど、人はバグであることに気づかないので、この、突き詰めるとちょっと道理に合わない現象世界をどう整合性を持って合理的に解釈するかに腐心する。
しかし帳簿が合わない。

合わせるにはどうしたらいいか。

形而上学の登場である。

想定された何かをおっ被せて解釈すれば、大抵は解決する。
矛盾はすべてブラックボックスに押し込めば、残りは美しく整合的な世界。

いわゆる宗教も、これだろう。

しかしこのブラックボックスを拒否したのが、仏教である。
バグを誤魔化さず、バグの解消に向かった。

バグが解消されると、現象世界は消える。
私もまた。

アートマンなどあるものか。無始無終の不滅の魂などあるものか。

さてしかし、バグを解消すると世界は消えるのだが、仮にそうなったとしても、現にバグの世界は相変わらず他者において存在していて、仮設されたアートマンが流転している。
その流転は恐ろしく、苦である。

この「私」、いまだバグにある私に「すべてはバグだ、騙されるな」と教えてくれたのは誰であろうか。その人がいなければ、私は未来永劫、仮設された時間の中を仮設されたアートマンとして、溺れ続けただろう。

だからこそ大乗仏教は、自己のバグを解消させてしまわない。バグがなくなると、バグの世界は消えるのだから。バグのネットワークにいなくては、バグに働きかけられない。

それが、菩薩だ。

バグの世界において、菩薩において、ネットワーク(縁起)はある。アートマンはある。魂はある。輪廻はある。すべてがある。

あるのだ。

ここにおいて、すべての形而上学や宗教は「現実的に成立する」。
それぞれの宗教には「往き先」がある。そしてそれらは、実際にあるのだろう。クリスチャンやムスリムは、パラダイスか地獄に赴くであろう。彼らのアートマンは、世界をそのように「バグ付け」しているのだから、それらは「ある」。
仏教徒であれば、善悪業によって善趣か悪趣に赴くであろう。世界をそのように「バグ付け」しているのだから、それらは「ある」。
その主体であるアートマン、魂も当然、厳然と、ある。

このバグ世界が、大乗仏教の輩の住処だ。
だから大乗の徒にとって、アートマンはある。魂はある。世界はある。
ただ、バグの世界だと承知して、バグを修正する手法を知っているかいないか、だけだ。
修正手法を知って、そのように実践すれば、二乗だ。
修正手法をしっかりと知り、その方向でバグ世界に働きかけるのが、菩薩だ。
かつて彼が導かれたように、彼はこの世界で働く。

彼にとって、アートマンはバグだ。
バグであるが、バグである限り、アートマンは、やはりあるのだ。
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中観

2018年03月20日 | 仏教・思索
中沢中「入中論自註評釈」から、メモ。

……………………………


『入中論本頌』6-117〜119では、次のように説きます。

「凡人たちは妄想で縛られ、妄想の無い行者は解脱することになるから、諸妄想を斥けるのは、分析の果と賢者は説く。論書での分析は、論争を愛するためにせず、解脱させるために真実を示された。もし、真実を解説したなら、他の諸教義は消え去る。だから、罪悪はない。自分の見解に愛着すること、同様に他の見解に心を乱すことは、妄想に他ならない。それ故、貪欲と瞋恚を除いて分析するなら、すみやかに解脱するだろう」。

ここでいう分析は定という三昧、精神集中状態で行わなれる観・般若…(略

以上の中観の性格から「中観思想」とか「中観の論証」などという捉え方が間違っていることが分かるでしょう。なぜなら、論証するということは何らかの思想・主張を立てることであり、思想を持つということは妄想で縛られることに他ならず、それでは戯論が寂滅しないからです…(略

…(中観は)それ自体も寂滅する手段、道に他ならないからです。

このことから清弁菩薩やゲルクなどが、何らかの正しい見解を論証しようとするのは、中観という戯論寂滅の道からの逸脱で、方便として説かれた道ということも分かるでしょう。また、帰謬派という呼称はチベットの言い習わしとして妥当だとしても、帰謬論証派というのは全く実状にそぐわないものです。ただし、ゲルクの見解を帰謬論証派と呼ぶのは適切かもしれません。
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六波羅蜜

2018年03月18日 | 仏教・思索
仏法においては勝義諦である空性に帰入することが成就である。これは般若そのものであり、『根本中頌』に余すところなく解明されており、仏法の真髄はここにおいて示される。勝義諦の仏法は、ここに尽きる。この先はない。
しかし世俗にある我々は勝義だけでは道に迷う。「言語活動(言説)に依らずして、究極的なもの(勝義)は説示されない。究極的なものを理解せずして、涅槃は証得されない」『根本中頌』24-10。つまり言葉と世俗の実践を経なくては空性に随順することはできないのであるから、ここに世俗諦としての仏道を記していこうと思う。

実践の前提として、人は出離の心と大悲・空智・菩提心が必要である。
いかなる好ましいものであっても、すべては移ろい崩れ去り、我々を執着や愛欲に縛り付ける因となる。だからそれを気に留めるな、捨て去れ。「またそれを得たい」と思わず、輪廻の中には何も好ましきものはあり得ないと考え、また悪しきものも真実にはあり得ないと考えて、頼りにならないものを頼りにならないと知る。輪廻と世俗を厭え。
この出離の心を胸において、次いで大悲・空智・菩提心を起こすべきである。
そのうち菩提心とは、つまりはこういうことである。『三十七の菩薩の実践』に曰く。

「無始以来より私を愛してくれた母たちが苦しみもがいているならば、自身の幸せなど何になろうか。それゆえ、限りなき衆生を救うために菩提心を生起させ」て、「いかなる現象もそれは自身の心であり、心の本性は本来戯論より離れている。そのように理解して主客の諸相に気をとられてしまわない」。この出離と菩提心の生起が仏道のはじめである。
大悲・空智・菩提心の詳細については後述する。

さて、仏道は具体的には、六波羅蜜に沿って進められるであろう。
勝義諦の空性とは般若波羅蜜である(一般に縁起=無自性=空とされるが、実際には無自性と縁起は世俗諦であり、それらは勝義には空であるという意味である。たとえば十二支縁起は世俗諦であり現実だが、それは妄念の形成過程を示す構造であり、実体としては空であり実在しない。相依性縁起も言語認識による概念設定で無自性であるが、いずれにしても空性により成立しない。世俗や言語、概念、主客など一切法は成立しない。それを般若波羅蜜という)。この認識の完成が仏法の完成である。他の五波羅蜜は世俗諦であるが、般若波羅蜜なき五波羅蜜は世間の単なる世俗であり、仏法の完成には導かない。三輪清浄の般若波羅蜜に裏付けられた三輪清浄の五波羅蜜のみが仏道を進める力になる。そして般若波羅蜜は五波羅蜜なくして我々には知られない。五波羅蜜により引き出される般若波羅蜜のみが、まさしく空性の成就をもたらす。この六は一連の数珠のようなもので、ひとつも欠けてはならず、たとえば「布施」の中に他の五がすべて具足されていなくては波羅蜜にはならない。
また六波羅蜜は「布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧」である。「布施・持戒」は利他であり、「忍辱・精進」は自利であり、「禅定・智慧」は解脱を成ずる、つまり六波羅蜜で自利利他解脱を円満するともされる(『宝行王正論』)が、例えば自利とされる精進波羅蜜においても利他の戒律の実践が説かれているのであり、そう単純に図式化はできない。自利利他相即不二である。
なお華厳思想系統では、般若波羅蜜を開いた「方便・願・力・智」を加えた十波羅蜜もある。方便波羅蜜において真如への滅・戯論寂滅があり、そこにおいて「般若が優れた形で働いて、方便・誓願・力・智慧〔と呼ばれるのであって、四波羅蜜は般若と別ではない〕と理解すべきである」(『入中論自註』219)などと説明されるが、基本は六波羅蜜であるから、ここでは六波羅蜜に沿って示す。十波羅蜜の詳細については『入中論(自註)』を参照。

さて、六波羅蜜はチベット仏教サキャ派のギャルセー・トクメー・サンポ『三十七の菩薩の実践』二十五~三十節がわかりやすいので、まずそれを掲げ、補足していく。

「【布施】悟りを得るためにこの身さえ犠牲にする必要があるのなら、外界のものなどなおさらに、見返りや成果を期待せず布施を行ずる。それが菩薩の実践である。【持戒】戒律を守らずして自利の完成はない。それでいて利他を成し遂げる願いをもっても笑われる。それゆえ、世俗の欲を放棄して戒律を遵守する。それが菩薩の実践である。【忍辱】善という財を求める諸菩薩を傷つけてしまう者もまた、尊い宝も同然である。それゆえ、あらゆる者に恨みをもたず忍耐を修習する。それが菩薩の実践である。【精進】自利のみ得ようとする声聞、独覚も、頭に移った火を消そうと努力するのを見るならば、すべて衆生のためになる功徳の源泉となる精進に励む。それが菩薩の実践である。【禅定】「止」を伴ったすぐれた「観」が煩悩を克服するのをよく知って、四無色定を超越した禅定を修習する。それが菩薩の実践である。【智慧】智慧のない五つの波羅蜜だけならば、完全なる悟りを得ることはできない。それゆえ、波羅蜜行を伴った三輪無分別智を修習する。それが菩薩の実践である」

布施波羅蜜。自らの種々の財を施すことであるが、菩薩の布施は空性を基本とした大悲心に基づく。二乗や凡夫の布施は得楽や苦の抑止のために行われる。つまりここに利他なのか、自利なのかの分かれ目がある。

持戒波羅蜜。すなわち三業をもって他に利益をなす十善戒を守り抜くという誓願を立てる。不殺生戒・不偸盗戒・不邪淫戒を身戒、不妄語戒・不綺語戒・不悪口戒・不両舌戒を語戒、不慳貪戒・不瞋恚戒・不邪見戒を意戒とする。
不殺生…すべての生き物を無益に殺さない。恨まない、憎まない。排斥しない。
不偸盗…盗まない。他人の物を欲しがらない。
不邪淫…不倫をしない。異性に対して邪な思いを抱かない。
不妄語…嘘をつかない。
不綺語…きれいごとを言わない。
不悪口…悪口を言わない。
不両舌…二枚舌を使わない。
不慳貪…物惜しみをしない。ケチにならない。
不瞋恚…怒らない。イライラしない。
不邪見…仏教の教えを正しく学び、般若空の正しいものの見方をする。
十善戒は「三輪清浄の無所得戒」、つまり戒も利他行である。殺生から綺語を七不善というが、その対治の不殺生乃至不綺語を七捨と呼び、意三戒が七捨を動機付ける基盤となる。

忍辱波羅蜜。特に怒りを断つこと。怒りはすべての資糧を破壊する。不瞋恚戒と関わる。

精進波羅蜜。善に努力する義であるが、これをふたつに分ける。
福徳の資糧…布施・持戒・忍辱
智慧の資糧…禅定・智慧
この、世俗と勝義、積善と離業の双方に努力することを精進という。

禅定波羅蜜・智慧波羅蜜。これは解脱を成ずる波羅蜜であるが、修道にあっては「禅↔慧」であって、相互に絡み合う一体的なものである。
真実義を決択する般若波羅蜜は勝義諦であるが、これは世俗のこととはある意味で隔絶している。というのも、仏陀と凡夫は一水四見の如く、世俗を世俗諦として見るか唯世俗として見るか、勝義を知るか知らぬかという点で隔絶しているからである。
世俗と勝義については、四つに分けて考えられる。「邪世俗・世俗諦・唯世俗・勝義諦」である。邪世俗とは間違えて認識した世俗であり、縄を蛇と見誤ったり、確認できない形而上学的な観念(神など)を実体視するものであり、錯誤である。世俗諦とは認識可能な一般のことであり、四波羅蜜もこれに立脚して成立する。唯世俗とは、釈尊など聖者が現世を見渡すときのあり方であり、究極的には世俗諦が成立していないと見ることである。邪世俗・世俗諦は幻のように成立していないのであるから、勝義諦とは真実には関わらないものである。ただ世俗諦の者によって階梯として利用できるだけであり、登ったら捨て去られるものである。
この隔絶したものを繋ぐのは、心一境にして擾乱なき禅定波羅蜜である。戒・定によってのみ、世俗の凡夫に智慧が現前するのだから。つまり(これも世俗諦であるが)禅定波羅蜜によってのみ、「階梯を登る」ことができる。四波羅蜜は階梯であり、禅定波羅蜜は登ることである。階梯なくしては登れない。登ることなくしては階梯に意味はない。
禅定波羅蜜の行い方には多様な方法があるが、外形的にいかなる形態を持とうと、止観が基本である。
ここでは、マントラの道を説く。


《中略》


以上のマントラを念誦するのであるが、大悲・空智・菩提心の成就をこの「禅定波羅蜜」によって達成する。以下では、五鈷杵に示される菩提心について、大悲・空智と併せて述べる。

『入中論』に、「悲心(大慈大悲)と不二智(有無の二辺を離れた般若空智)と菩提心が、諸仏子の因である」また「悲ある者は他人の苦こそが苦に他ならないから、苦しんでいる有情を救うために「必ず私はこの一切世間を苦より抜いて、仏そのものに引き入れよう」と思って必ず発心する。その約束も不二智を捨てては達成できないから、不二智も必ず働く」とあり、仏教徒にとっては大悲・空智・菩提心が成就の因であり、根本が悲心にあることを示している。
この悲心によって言語道断の空性空智が、大悲方便現在身の般若仏母として現前し、その般若仏母が両手に梵匧(空智)・五鈷杵(菩提心)を持するのである。梵匧(空智)は般若経典であり、そこに標示される勝義諦は『根本中頌』に余すところなく示されているので、以下は五鈷杵(菩提心)について記す。

まず菩提心の定義は「利他のための求道心」であるが、これに「世俗の菩提心」と「勝義の菩提心」がある。勝義については一切空「であること」に尽きる。『三十七の菩薩の実践』22に「いかなる現象もそれは自身の心であり 心の本性は本来戯論より離れている そのように理解して主客の諸相に気をとられてしまわない」とあるとおりである。      
世俗の菩提心は、『入中論』に十項目を提示してある。「一切有情への、【利益心】【安楽心】【無上心】【慈による柔軟心】【悲による不退転心】【喜による無悔心】【捨による無垢心】【空性による不変心】【無相による無障碍心】【無願による不住心】」である。この世俗菩提心を階梯・前提として勝義菩提心が完成するが、この世俗菩提心の十項目は約めれば「布施(財施・無畏施・法施)」と「四無量心」と「三解脱門」にまとめられる。三解脱門とは、空三昧(すべての存在、あるいは存在現象は空であると観ずること)、無相三昧(空であるゆえ種々の差別相がないと観ずること)、無願三昧(無相なるゆえ願求すべき欲望の対象でないと観ずること)の三つであるが、これは要するに「空観」である。布施については、六波羅蜜の布施波羅蜜において位置づける(因みに六波羅蜜は一体であるので、布施を挙げること即ち菩提心の実践が六波羅蜜の実践であることも示す)ので、


《中略》


以上が禅定波羅蜜であり、仏道は六波羅蜜に沿って実践され、終極においては空性に随順成就して仏陀となるべきである。

実践においては、「出離」を初門とし「大悲」を根本動機として「菩提心」を「空智」に貫かれた「六波羅蜜」において「真言念誦」として修習する…のが基本的な枠組みとなる。菩提心の内実としては「布施・三解脱門(空観)・四無量心」である。
三学に沿ってこれをまとめると、まず戒学は十善戒である。定学は菩提心の修習(真言念誦)であるが、この菩提心の内実は「布施・三解脱門・四無量心」であり、菩提心の中に出離(捨無量心)・大悲(慈・悲の両無量心)と六波羅蜜(布施等)の実践、空観も含まれており、すべて相互に繋がり重なり合うので、菩提心の修習には理念的に仏道のすべてが含まれる。実際の真言念誦においては、空観・四無量心を据えることは前述した。慧学は勝義菩提心・一切空性の成就であり、結局は三学すべて、特に定学には六波羅蜜全体がその根底に置かれるので、「出離」「大悲・空智・菩提心」「六波羅蜜」は実践において一体である。
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2018年03月13日 | 仏教・思索
Facebook、1月30日の投稿から。

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住職になってわかったことは、「死ぬのが怖い」と考えている高齢者が意外に多かったこと。口では「いつ死んでもいい」「十分」「私は大丈夫」と言いながら、よくよく聞いていくと不安でどうしようもないのを、見ないようにしているか、「その時」まで先延ばしにして思考停止しているか、あるいは諦めているか(これ達観という人もいるが、ちょっと違うかもね)、目先の仕事や床屋談義で覆い隠しているか、いずれにしても正面から解決した、という人は少数派なんだな、と。つまり生死観がないので、向き合い方もわからない、ということだと思う。
これは「死」を考えるには状況に頭が追いつかないというか、リアルに目の前過ぎて冷静でいられない、あるいは長年の固定観念を解体できなくなってしまっている、その他いろいろな要因があるでしょうが、根本的に「死ぬのが怖い」「不安だ」という感情が先に立ってしまっているからなのでしょうか…? このあたり人によるでしょうが、どうも途方に暮れているだけではないのかな、と。

「解決」「生死観」ったって、別に何かの宗教にそれを丸投げして思想をコピーして安心しろ、ってことじゃなく(これが必要な段階の人もおります)、どんな思想・宗教の者であれ、死ぬことは死ぬわけだから、その事実を自分自身がどう考えて腹に落とし込むか、に尽きる。「死んだら何もなくなるさ」ってのも、所詮は刷り込まれた近代的概念であって、ある意味で宗教とおなじ信念体系に過ぎないのであり、それをコピーしてそこで止まるならば、何の解決にもならない。
そもそも思考じたいがコピー&ペーストとその作用なんだけれど、せめてそれをわかった上でそれらを扱うこと、オウム返しで思考停止せずに自分で考えること、それが重要。だとすれば、正直なところ、それなりの時間が必要。「こういうことは年を取ってから」じゃ間に合わない。人生経験をいくら積んでもコピペの材料が積みあがっているだけで、それだけだったら却って邪魔にすらなる。

だから、今から、死についてラディカルに考えよう。たとえ今20歳であったとしても、たぶん時間は足りないよ。
コメント

仏教とキリスト教

2018年03月13日 | 仏教・思索
Facebookからの転載。

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深夜の独り言。寝言。

ヨハネの福音書冒頭、「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」。

はじめにロゴスありき。ロゴスが神ならば、たしかに創造神である。間違いない。あとはその解釈の問題(ロゴスは善きものか、妄念の起点か、ただの現象か)であり、世界形成の構造認識は、実は仏教とそう矛盾してないとも言える。
ロゴスの展開、つまり言語概念の形成過程、言い換えれば認識世界の成立、存在の分節過程を聖書的に述べるならば、それはもちろん『創世記』である。

…………………

1:1
はじめに神は天と地とを創造された。
1:2
地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
1:3
神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
1:4
神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。
1:12
地は青草と、種類にしたがって種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ木とをはえさせた。神は見て、良しとされた。
1:18
昼と夜とをつかさどらせ、光とやみとを分けさせられた。神は見て、良しとされた。
1:21
神は海の大いなる獣と、水に群がるすべての動く生き物とを、種類にしたがって創造し、また翼のあるすべての鳥を、種類にしたがって創造された。神は見て、良しとされた。
1:25
神は地の獣を種類にしたがい、家畜を種類にしたがい、また地に這うすべての物を種類にしたがって造られた。神は見て、良しとされた。
2:3
神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。

…………………

神はこのロゴスによる世界を見て「良し」とされた。

この美しき世界形成の過程、つまりロゴスの展開を、釈尊は無明だと考えた。
つまり、世界生成の構造については、仏教でも聖書でも、言わんとすることはそんなに違わない。ロゴスを善きものとして、ロゴスから遊離することを罪と考えるか、ロゴスそのものを無明として、むしろそのロゴスの虚構性を暴くべきかという、その立場の違いだ。
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「臨終」と通夜について

2018年03月13日 | 法話関係
先日来、通夜について考えていましたが、法話で扱おうかと思うので、草稿。


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仏教においては、寿命と体温はイコールなので、体温がある限りは生きていると考えます。つまり、何時何分死亡、ということは言えません。徐々になくなっていく体温を見守りながら、みんなでゆっくり見送るのであり、「いつ体温がなくなったか」は、明確には言えません。
だいたい、「いつ死んだか」というのは、時代や文化や都合によって案外あっさり変えられてしまいます。脳死か心臓死かなども、そういう「都合」で基準を決めよう、という話であって、つまり客観的で普遍的な「死の瞬間」なんかありはしません。
繰り返しますが、仏教では体温は寿命とイコールなので、医者が「ご臨終です」と言っても、実はほんとうにはまだ死んでいません。もっと「死」には時間の幅があるのです。
「中部経典」というお経に、このことが書かれています。

(五根の拠り所は意であり、意は寿命によって存続し、寿命は体温によって存続し、体温はまた寿命によって存続する)ゆえに、「友よ、寿命と体温と意識という三つの事柄がこの身体を離れるとき、この身体は棄てられ、投げ出され、心のない木片のように横たわる」

だから仏教の立場では、脳死については、少なくとも「脳死は人の死では絶対にない」と言えます。心臓死や呼吸停止ですら死とは認めないのですから、脳死はまったく死んでいないのです。
でも当人の意思で「捨身布施」をすることは良いのだと思います。利他のために自分のものを投げ出す動機であれば、これは自殺にはなりません。でもそれは数ある布施行のひとつであり、誰も強制されるものではないですし、まして法律で規定されたり定義されたりするようなものでもありません。

ゆえに、「死の瞬間」とは、断じて呼吸や心臓の停止ではなく、まして脳死でもなく、蝋燭の炎が最後に小さく弱くなり消えたその瞬間、体温が低くなりそうして完全にまったくその暖かみが消えてしまうその刹那のこと(その刹那は第三者には「客観的な確定」はできません)で、実際問題としては、見守るものが間違いなくそうなったと受け止めたその時のことなのです。
死ぬとは、機械や医者の宣告によって決められるのではなく、徐々に消えていく寿命=体温の変化の中で、少しずつ「死に向かっていく」事態の推移そのもの、そしてそれを受け止めていく残されたものの相互の関わりが、死ぬと言うことなのではないでしょうか。

以上を頭に置きながら、「通夜」について考えてみたいと思います。

まずそもそも通夜とは、夜通し寺院や御堂において法義を語り合う儀礼または行事のことで、葬送儀礼とは直接には関係のない言葉でしたが、釈尊が入滅されたとき火葬前夜に弟子たちが法について確認しあった故事があり、これが現在の通夜の源のひとつになったと思われます。この場合も特に儀礼云々はなく、釈尊の教えと遺徳を弟子やきわめて近い縁者が確認したものであり、またごく内輪の出来事であったと思われます。

現在広く行われている「僧侶が読経をする通夜」ということの起源が上記の故事に関わるのと同時に、古代日本には殯という制があり、それも影響をしていると思います。殯についての説明はしませんが、埋葬や火葬の前に一定期間、遺体を安置して儀礼を行うという感覚は、日本人にとって異質なものではなく、ごく自然なものでしょう。
問題はその「形」であって、戦前まではあまり僧侶が通夜に出仕するということはありませんでしたし、現在でも僧侶のいない通夜を継続している地域はあります。「本来のカタチ」ということなら、これがそれです。
なぜ行かなかったのか、ということに関しては様々な説があるようですが、仏教的な観点から考えてみたいと思います。

まず、先ほど言いましたが、「人はいつ死ぬのか」という点について。
今は医者が「●●時間●●分、ご臨終です」と「死亡時刻」を提示しますが、仏教では自発呼吸が止まり心臓が止まったら死んだ、というふうに考えるわけではなく、最終的に亡くなるのは、体温が失せて完全に冷たくなってからのことでした。つまり、死には時間の幅があります。

枕経というものがあり、現在では「死んだらすぐにあげるお経」とされていますが、上記を考えれば、実は枕経の段階ではまだ「死んでいない」。つまり「死にゆく者」に自覚させて仏道に引入するものです。
そうして本来の通夜は、遺族が「近親のみ」で、死につつある者を静かに見守りながらその成仏や善趣への輪廻、あるいは往生を祈りつつ、死への過程を腹に落としていく時間です。
古来、通夜に喪服は着ない、近隣の者は香典を持参しないなどの習慣があったことは、これらの意味において理解されると思います。
そうして通夜が明けると、その人は死ぬ。通夜が明けるまでは、「まだ生きている」のですから。

生きているうちにすべき儀礼は枕経で尽きています。次は亡くなった方への引導ですので、この流れからは、通夜に僧侶が行く必要はまったくなく、また行くことで「近親者だけで静かに見送る」という通夜の本義を見失う可能性もあります。

しかし現実問題、業者主導の葬儀式、あるいは社会状況の変化によって、おそらく全国のほとんどの地域では僧侶は通夜に行っていると思われます。
これが常態化した現代、「伝統を守る」という姿勢だけでいいかは微妙です。しっかりと説明すれば納得していただけると思いますが、恐らく一般参列者や親戚の中には、「坊さんが手抜きしとるだけじゃないか」と不信感を抱く人も多いかも知れません。これは寺院不信ひいては仏教不信に繋がるかも知れず、単に「伝統だから」では通じないと思われる難しい問題です。

社会状況の激変期にあたり、伝統を守るのか時流に対応するのか、ここに正解はないですが、お寺も、また檀家さんひとりひとりも、改めてよく考えてみる必要があると思います。私も考えています。
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犀の角

2018年03月13日 | 弘法大師聖句
「宝鑰第四」

得道の者なしと雖もその道絶つべからず

悟りを得た者がいないからといって、仏の道を絶つべきではない。

…………………………

犀の角であれ。

さて、弘法大師聖語は記事数55となりました。実はかつてtwitterで書いておりまして、そちらでは200以上の言葉を紹介させていただいてました。
弘法大師聖語は今回で一旦、終了します。
今後しばらくはスッタニパータに集中し(何しろ1149偈あります)、来月くらいからまた違う仏典を取り上げて紹介していきたいと思います。
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2018年03月12日 | 仏教・思索
「信心や信仰」と「社会実践」はどちらが大事か…と対置して言われることもあるようです。池に落ちた石に「浮かんでくれ」といくら祈ってもそれはたぶん、浮かびません。実際に池に入り石を探して取るという実践が重要です。

が。

そもそも「浮かんで欲しい」という願いや祈りなきところ、誰もわざわざ池には入らないでしょう。

(自他ともに対して)苦を脱したい、本当の救いや知見を得たいならば、まず「そうでありたい」という菩提心が必要。だから実践の前には菩提心、祈り、信が必要なのです。そうして必ず、それを基にして実践していく。
そして仏教における「石」とは、石なき石であり、「欲しい」と思えばスルリと手からこぼれ落ちるもの。空。信や祈りなき実践は結局は徒労であり、究極的には何も実りません。
だからそこに気づき、取らずして取る、という次の段階に進まなくてはなりません。
その方法が、大悲です。大悲あれば空智が把握され、真の菩提心になります。
そうして池に飛び込めば、手に触れるもの目的の石ならざるはなし…なのです。
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自己実現…

2018年03月11日 | 仏教・思索
「自分探し」「自己実現」というのも、結局は「他人からどう思われたいか」と表裏であるのは、自己というのは他者がいてはじめて成立するからです。他者と無関係な自己などあり得ない以上、「自己実現」には必ず「他者との関わり」が附随します。
そうして、そういう依存関係にある概念は虚妄(無自性)ですので、これに執着することは結果として苦に帰結します。自己と他者に限らず、万事このようなものですが、しかしその依存関係の網の目(縁起性)であるこの世俗世界においては、それを無視して生きることはできないし、虚妄でない真の認識(慧)に至るにも、この相互依存の網の目を使ってここから脱出する必要があります。
だからこそ、この世俗の中にある戒定を実践せねばならないし、その三学の根拠である菩提心を起こさねばならないし、慧と菩提心は慈悲からしか出てこられないことを知るべきなのです。なぜ慈悲が根本かというと、この世俗世界の依存関係の網を正しく認識して解きほぐすためには、自我意識に執着していてはまったく実現しないからです。こびりついた自己中心性を打破する道は、捨無量心に基づいた大悲心を体得するしかないのです。
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2018年03月11日 | 弘法大師聖句
「性霊集 理釈経答書」

もし無我の大我を求めば 則ち遮那の三密は即ち是なり 遮那の三密は何の処にか遍ぜざらん 汝が三密は即ち是なり外に求むべからず

大日如来は無我にして大いなる自我を持った三密の働きである。その三密は汝の心の内に遍在していて、他所に求めるべきではない。

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梵我一如と考えては「ならない」。『秘蔵宝鑰』に「諸法の空を知らざれば彼よく涅槃を知るに非ず」とある。密教が仏教でありヴェーダーンタでないならば、ここはきわめて重要なことである。
言葉は音声言語のみにあらず。然り。そしてそれら一切法は世俗である。一切法の中でのみ何かを観念したり行為する、それは世俗である。そうして、世俗を透過しなくては勝義は永遠に帷の向こう側である。
教説とは何か、実践とは何か、如来とは何か、我とは何か、いったい何と何が一致することがあり得るか、心の内とは何か、心とは何か、あなたは誰か。
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