प्रज्ञापारमिता

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2018年01月30日 | 弘法大師聖句
「三教指帰下」

千金の瑤の質も尺波に先だって黄扉に沈み 万乗の宝の姿も寸煙に伴って玄微に厲る

珠玉のような美人も小波にさらわれて黄泉に沈み、財宝に恵まれた貴人も煙になって天に昇っていく。

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天に昇れたらまだめでたいものだけれど。
さて、如何なる人間も同じ赤い血を流し、美人も不細工も皮の具合に過ぎず、一枚の薄皮をめくれば似たようなもの。金持ちも貧乏人も、病や死に至ればそうたいして違いもない。若かろうが年寄りだろうが、死ぬのはその人にとって「今現在」であって、過去の時間の長さなどは決定的な慰めにもならないだろう。
インドのファティープル・シークリーのどこかに、「この世は橋である。渡りなさい。橋の上に家など建ててはいけない」と刻まれているそうだ。
此岸はここにある。「どの彼岸に橋を架けられるか」は、渡り方しだい。
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2018年01月29日 | 弘法大師聖句
「三教指帰下」

朱を施せる紅の瞼も卒に青蠅の蹋蹴となり 丹に染めたる赤き唇も化して烏鳥の哺宍となる

紅がひかれた瞼に青蝿が群がり、紅をさした唇も鳥がついばむ餌になってしまう。

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美しきことは素晴らしきかな。それはひとつの価値だ。
そうしてそれは無残に崩れ、捨て去られ、嫌悪され、忘れ去られる。
そこまでひっくるめての、素晴らしき価値だ。美とは運動だ。絶えず過ぎ去りゆく美をとどめようとしてはならない。去るに任せよ。
だから世界も人生も美しく甘美なものなのだ。

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2018年01月28日 | 弘法大師聖句
「性霊集四 玄興寺僧中璟」

金石薫蕕は物の対なり 賢聖愚頑なんぞよく相離れん

金と石、芳香の草と臭い草、賢者と愚者、これらは対をなした仲間であるから、分離することはできない。

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迷いあればこその覚りである。空は不空によって空であり、善は悪によって善であり、無自性は自性によって無自性であり、主観・主体は客観・客体によって主観・主体でありうる。各々、逆もまた然り。無為法ですら有為法によって無為であり、一切が無常無我であり相依性であることを免れるものは何もない。何もない。不動の一合相というものも無論ない。
そうして、「絶対的にない」ということは「絶対的にある」ことに依って「絶対的にない」と言明できるのであって、その絶対も相対を免れない。その相依的な「ない」と「ある」、とりわけ縁起と無自性、あるいは確固とした独立性や自我の観念を「不動の真理」から解放して正しく見極めるとき、その時に一切皆空という言葉が立脚点を失い、そうしてあらゆる立脚点を見出して、一切が真実に空である。


『根本中頌』

空とは一切見の捨離であると勝者たちによって説かれた。
しかし空見をいだくものは不治の者であると言われた。(13-8)

空の成立する人には一切が成立し、
空の成立しない人には一切が成立しない。(24-14)
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ブレイクスルー

2018年01月26日 | 弘法大師聖句
「宗秘論」

巨岳の岧堯は積塵に因りて大を成し 洪波の浩蕩は涓流に籍りて以って深きを成す

巨大な山岳は塵が積もって高くなり、大波の波濤は細い流れが寄って深くなる。

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遠い理想に絶望せず、小さな積み重ねの努力がブレイクスルーをもたらすことを知らなくてはならない。また、他者との協力や協働は足し算以上の成果を成すこともある。
しかし、この弘法大師の言葉は裏からも読める。
つまり、微細な悪であれ必ず消えずに積もる。軽く考えて繰り返せば、これにしても「塵も積もれば山となる」。また悪しき他者と馴染めば、徐々に自分自身、堕ち行くだろう。悪しきブレイクスルーだってあるのだ。
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一切衆生と隣人と

2018年01月25日 | 弘法大師聖句
「三昧耶戒序」

一切衆生を観るに猶し己身及び四恩の如し この故に敢てその身命を殺害せず

すべての人々は自分に関連している恩人である。それゆえに、他の生命を奪ってはならない。

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戦争否定の論理、とりわけ無差別攻撃の完全否定の論理でもあるけれど、更に進んで実践的に考えてみなくてはならない。総花的に「人類愛」を語ることは容易だ。具体の誰かではないから。
しかし僕たちの多くは「世界人類を愛します。ところで、隣のあいつは嫌いだ」という感じでしょう。だからスローガンには意味がない。「一切」というのは「すべて」なのであり、あなたが嫌いで苦手な人をこそ、ここで想起していかなくてはならない。
サラッとキレイゴトを言うのは誰にだって出来るし、反論もされはしないけれど、そういう所はスタート地点に過ぎない。
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三学のマラソン

2018年01月24日 | 弘法大師聖句
「性霊集十 理趣経答書」

百歳八万の法蔵を談ずれども 三毒の賊いかんぞ調伏せんや

百年間も八万四千の経文を論議したとしても、はたして心の闇の問題は解決できるのだろうか。

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無益な議論や衒学的な論議はもとより言うまでもなく、まともな仏教の学習においてすら、そこに止まっていればどうしようもない。知識が自ずからあなたを導くわけではない。
博学の仏教学者が果たしてそのまま覚者であろうか? そう見えたとしても大抵は知識と口八丁に幻惑されているだけで、そんなことはないのである。ましてSNSに跋扈する有象無象の「言論人」や「センセー」など言うまでもない。

しかし知識がまったく無用ということではもちろんない。

マラソンをするのに、そもそもゴールの場所も知らないとすれば話にならないようなものだ。天候や補給所やペース配分の知識も有用だろう。同様に、仏法の知識もある程度は知らねばならない。
しかしそれらに熟達したとしても、結局はあなた自身が走らなくてはゴールには決してたどり着かないのだ。
だから今すぐに戒というシューズを履き、定という道を走り、慧というゴールに向かえ。走りながら、知識も学べ。
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形式の内実

2018年01月23日 | 弘法大師聖句
「秘蔵宝鑰第四」

頭を剃って欲を剃らず 衣を染めて心を染めず

髪を落としても物欲までは捨てていない。僧衣を染めても心を清らかに染めていない。

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僧侶の生き方への痛烈な一撃ですが、僕もこういう類の文章、たとえば覚鑁上人の『密厳院発露懺悔文』などを読むと目が霞みます。感動で泣いているわけではなく、煩悩がそれらを見ないように妨げるのでしょう…。

形式には意味がありますし、心は形に表して顕現します。だから形は重要です。いい加減に考えてはなりません。人間世界は形式様式次第によって成り立つのです。宗教も同じです。
しかし形式が言葉や形以前の真如・真理に即していない、あるいはより積極的に虚偽や虚栄、ごまかしのための道具となるならば、それはたちまち「必要なもの」から「有害無益なゴミ」になってしまいます。ゴミならまだいい、自他を傷つける武器ともなるのです。

十善戒、六波羅蜜、四無量心…僧俗ともにこれらの二十項目は形の内実を形成する最重要のものです。いつも再確認し、自分と照らし合わせ、意識しながら生活をしなくては仏教は始まりません。
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一期大要秘密集

2018年01月22日 | 東亜仏典の言葉
顕教に云く、極楽とはこれより西方十万億を過ぎて仏土あるなり。仏はこれ弥陀、宝蔵比丘の証果なりと。
密教に云く、十方の極楽は皆これ一仏の土なり。一切如来皆これ一仏の身なりと。
娑婆に殊にして、さらに極楽を観ずることなし。何ぞ必ずしも十万億土をへだてん。大日を離れて別に弥陀あらず。また何ぞ宝蔵唱覚の弥陀ならん。密厳浄土は大日の宮位、極楽世界は弥陀の心地なり。弥陀は大日の智用、大日は弥陀の理体なり。密教は極楽の総体、極楽は密厳の別徳なり。最上の妙楽、密厳にこれを集む。極楽の称、弥陀の号、これより起る。然るに、かの極楽はいずれの処ぞ、十方に遍ぜり。観念の禅房、あに異処にあらんや。かくの如く観ずる時、娑婆を起たずして忽ちに極楽に生ず。わが身、弥陀に入りぬ。弥陀を替えずしてすなはち大日と成る。吾が身、大日より出づ。これすなはち即身成仏の妙観なり云々。
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布教伝道

2018年01月21日 | 弘法大師聖句
「秘蔵宝鑰四」

美女は招かざれども好醜の男争い逐い 医門は召さざれども疾病の人投帰す

美女は招かなくても男が争い競って近づいてくる。名医は宣伝しなくても病人が来院してくる。

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布教伝道は「説得」ではなく、「こういうものがあるよ」と提示しておくだけでいい。存在さえ知っていれば、善きものならば触れようとするだろう。それをきちんと提示する人格と力量がない、あるいは提示するもの自体がインチキ臭いならば「説得」が必要になる。
仏教がジリ貧であると言われて久しい。さて、どこに問題があるのか。
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大日如来

2018年01月20日 | 弘法大師聖句
「性霊集九 諸有縁衆」

顕教とは報応化身の経これなり 密蔵とは法身如来の説これなり

顕教とは大日如来から派生された仏菩薩の教えであり、密教とは大日如来そのものの教えである。

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「派生」というのは誤解を招くが、諸々の仏菩薩は大日如来とまったくその体は同じである。その大日の全体が分別レベルの認識によって不完全に把握されたものが森羅万象であるが、その森羅万象がどういうレベルの認識によって把握されたかが、一切凡物乃至諸如来の様々である。
顕教も密教もそういう意味では同じ自体を指し示すものであるけれど、受け手のレベルによって自ずと相違があり、より根本的に「それそのもの」をダイレクトに示すのが密教である。
しかし密教であっても教説としての密教はやはり分別レベルのものであって、大日と名付けてしまえば分別の境涯である。しかし言葉あるいは分別なくしては梯子なくして上に上ろうとするものであり、絵に描いた餅にしかならない。
言葉によって言葉を越える。その道、梯子の先にある「それ」が、真実の大日如来であり、上ってしまえば上も下もない。
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