प्रज्ञापारमिता

𝔇𝔥𝔞𝔯𝔪𝔞 𝔗𝔞𝔩𝔨, 𝔅𝔲𝔡𝔡𝔥𝔦𝔰𝔪, 𝔗𝔥𝔦𝔫𝔨𝔦𝔫𝔤, 𝔞𝔫𝔡 𝔱𝔥𝔢 𝔚𝔬𝔯𝔡

光は光らない、つまり光

2017年12月27日 | 仏教・思索
「本当の宗教」なんかどこにもない。頼るべきカリスマや指導者などもどこにもいない。そんなものがあったりいたりすると思っても、やはりそれはあなたの妄想だ。百万巻の本を読もうと、千万人の人に会おうと、あなたがそこに真実や真理を求めているのなら虚しいことだ。

あるいは自分というものを信じ、「この」私だけが寄る辺だと思いなして納得したとしても、そのようなものはちょっとした変化にすら右往左往してしまうものに過ぎないし、老病死すら思うに任せない。ここにも真実や真理はない。

すべては儚い。過ぎ去りゆくものでしかない。

しかし自他分別、自己分節してああだこうだ言う無意味さの奥から、照らすも照らされるもない光源なき光とともにあれば…いや、「とも」ではない、ただ



「そこ」とも言えないその場所に「触れる」(誰が?何を?)ならば、百万巻の書物や千万人の人は、歩くための善き杖になる可能性に置かれる。あなた自身がその杖を「握ろうとしなければ」(握るな。握ればそれは具体の神となりあなたを建立し、支配する)。

その永遠の今において、すべては真理であったとわかるだろう。
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議論……

2017年12月27日 | 仏教・思索
自力と他力というのは浄土教から見た教義的仕訳であって、浄土教以外ではそういう単純な仕訳の仕方は成り立たない。
同じようなことはいくらでもあって、たとえば「仏教は宗教か哲学か」というのも、近代西洋に特有の分科であり、問いとしてはナンセンスなのだけれど、いまだにそれを語ろうとする場面に出くわす。あるいは「多神教か一神教か」というのもある。これも主に一神教からの視点であり、じっさいにはまったく成り立たない。
思えば「偶像崇拝」などという言い方にしろ、偶像の意味が確定されずにイメージや表層で語られることばかりで、そもそも議論の前提が確立されないままに上下優劣やアプリオリな自己優越を言いたいだけだったり。
そんな言説がネットにもまかり通り、挙げ句には思い込みや知識不足でもって相手を断定して拒否したり心酔したりする。
こういうことはまったく生産的ではない。
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縁起無自性空

2017年12月24日 | 弘法大師聖句
「性霊集一 喜雨の歌」

仏身の裡に地獄を見 七宝の上に玉を看ず


この身は仏である。それにもかかわらず、地獄のような悪を演じている。宝を抱いていながら宝を知らないからである。

…………………………

僕たちは生まれたときには既に自他分別の巷にあり、知らず無明妄想に馴染んでしまっている。だからそれが常態であり当たり前だと感じ、喜怒哀楽や分断された存在認識を前提にしてものを考えたり観察したりして、苦を引き起こしながら右往左往している。
この身は実は清浄無垢な仏そのものであると知らず、すべては汚れを本来的に担ってあるものと思っている。
しかし汚れや闇はない。汚れや闇がないならば、それに依存して成り立つ概念である清浄や光も実はない。それらはすべて自性なく、相対的な仮のものに過ぎない。
絶対の無分節、認識不能なその体を仮に無自性と名付け、そのあるがままの相を空といい、用を縁起というだけで、すべて言語道断の無分節の、「 」。
それを体解すれば仏、実体視して掴んだり離したりするのが僕たち凡夫だ。つかむものやつかむ人などないのに。
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そろそろ年末年始

2017年12月23日 | 閑話休題
明日はクリスマスイブで、あと1週間ちょっとで今年も終わっちゃうわけですけれど、さて皆さん、今年はどんな1年だったでしょうか。良いことも悪いこともあったと思いますが、まぁ今年を振り返りつつ、しっかりと1年を締めくくる1週間にしましょうねー。

年末年始は僕もビミョーに忙しくなります。1/8くらいまでは落ち着かない。気分的に。隙間時間はあるんですけど。

ってことで、スッタニパータは半月、お休みします。ちょうどダニヤの経が終わったからキリもいいし。弘法大師の言葉は、余裕があったらアップします。明日は書きます。

来年は毎日更新はさすがにキツいんで、週休2日制くらいでやろうかなー。
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言語道断

2017年12月21日 | 弘法大師聖句
「吽字義」

もし未だ諸法の密号名字の相 真実語如義語を解らざる者の所有の言説 思惟 修行等は悉く是れ顛倒なり 悉く是れ戯論なり 真実究竟の理を知らざる故に

真実の言葉を理解していなければ、いかなる言葉や考え、行為であれすべて誤りである。真理から外れているからである。

…………………………

密教のみならず、そもそも仏教というものはこういうものだと思う。「諸法の密号名字の相」であれ「真如」であれ「諸法実相」であれ「般若」であれ、それについて「世間一般の言葉で解明できるものだ」と思うならば、それはそのまま隘路にはまる。仏の影について語ることと仏そのものを観ることは違うし、仏を観ることと仏に成ることは違う。仏に成ることと仏であることは違うし、仏であることと仏であることを超脱することは違う。その地点からのみ、仏の影乃至超脱までが一貫する。
言語分節主客相対は結局は戯言の羅列である。
しかし人は気づいたらその分節世界に生きている。だからそれを足掛かりにして進むしかないが、足掛かりは足掛かりであり、進み登る先に到達することとはまた違うのだ。
現代社会は知に傾いているが、いかに知識を積み上げようと、それは足場の整備でしかない。それなりの整備ができたら、早く早く上るべきだ。ダイヤモンドの足場や絢爛豪華な足場の製作に一生を費やすよりは、用の足りる足場ができれば、歩き出さなくてはならない。
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宝の蔵

2017年12月20日 | 弘法大師聖句
「宝鑰第四」

宝珠の辺には必ず悪鬼あって囲遶し、宝蔵の側には定んで盗賊あって窺偸す。


財宝の周辺には悪人が取り囲み、蔵の付近には盗賊が潜んでいる。

…………………………

二通りの読みができる。

一つは、素晴らしい教えであればあるほど、その周辺にははろくでもない奴が集まる、という話。悪魔はもっとも巧みに聖書を自在に引用して語る…の謂である。素晴らしいものも悪用できる。

次に、この我々の心。これがメイン。
真実の教えに出会ったのに怠惰な心や悪心が湧いてきて、しかも慈悲の一片も成長しない。この自分の如何ともし難いあり方をどうしようか、と。
顕教に沿って精進すればそのような悪人盗賊も少しずつ駆逐していける。そして真言の鍵で蔵を開ける。弘法大師はそう仰っている。しかし。悪人盗賊を一掃する精進なしに蔵を開けても盗まれるだけだ。だから戒が必要になる。
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名と実

2017年12月19日 | 仏教・思索
物事には「名と実」、言い換えれば「看板と中身」というのがある。
世間に流布するものは看板が先であり、中身は遅れて理解される。また衰退腐敗するのも消え去るのも中身が先で、看板はそれっぽくずるずると流布していく。

僕たちは僧侶であり、例えば宗門の看板を背負っているし、そもそも「仏教」という大看板を背負っている。
これらの看板にはもちろん内容はあるけれど、世間に看板は流布すれど内容までが理解されているとは言い難い。内容が周知であれば、僧侶がアホなことを言おうがやろうが、そいつが「内容に即していない馬鹿なのだな」と思われるだけで済むが、内容が周知でない場合、その僧侶が背負っている看板と彼の行状が結びつけられ、仏教の内容までがくだらない無価値なものと思われてしまう。
ほとんどの日本人にとって、仏教との接点は葬儀と法事にしかなく(しかも法話すらしない僧侶も多い)、また田舎でも特定個人の地域の住職とその寺族、くらいなものだ。つまり、「中身」に相当するのがそういう限られた機会と狭い環境の中にしかない。
釈尊や宗祖の教え、あるいは仏教史や思想などとの接点など、普通の人は持っていない。しかし「仏教・○○宗・お寺・僧侶」という看板は知ってはいる。言い換えれば、仏教教学や思想実践、ダルマという水はなくても、空のコップは持っているわけだ。その空のコップには、ふと目にした具体的な目の前の坊さんや菩提寺やらの言動を水として注ぎ込む。

思えば恐ろしいことで、甘露の法水の代わりに自らの淀んだ泥水を注ぎ込み、仏教の看板を背負いながら無慚無愧の行いをあたかも仏教の実際・内容と誤認させるようにしてしまう。
これをこそ謗法と言わずして、何としよう。

僕自身、正直なことを言えばまったくもって慈悲喜捨円満とはいえず、人嫌いの気もあり、行には怠りばかり、三業に毒を含んでいる。
生きては迷い、死しては地獄の境涯であろう。
とは言え、ダルマを学ぶ機会には恵まれ、会い難き仏法に今生で出会えたのも事実。この機会をなんとか活かして、法の宣揚はならずとも、せめて法を下げないように生きていきたいものだ。
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六波羅蜜と十波羅蜜

2017年12月18日 | 仏教・思索
僕は基本的には般若系統の流れに立脚してるので、実践の基本には六波羅蜜を置いていますが、華厳経などでは十波羅蜜を説きます。とは言え別に矛盾対立するわけではなく、根本的には同じことです。

六波羅蜜については布施乃至智慧波羅蜜で周知と思いますが、十波羅蜜はそれに加えて、以下の四つを説きます。Wikipediaから引きます。

………………………


方便波羅蜜 - 烏波野(Upāya ウパーヤ、うはや、日本語訳:方便)は、巧みな手段で衆生を教導し、益すること。六波羅蜜の行によって集めたる善根を有情に廻向せしめて彼と共に無上菩提を求むる廻向方便善巧、一切有情を済度する抜済方便善巧の2種類を修行する。


願波羅蜜 - 波羅尼陀那(Praṇidāna プラニダーナ、はらにだな、日本語訳:願)は、(彼岸すなわち仏の理想世界に到達せんと立願すること。今日ではこれらすべての修行を完成せんと願う希望をいう。求菩提願・利他楽顔の2つを修行する。


力波羅蜜 - 波羅(Bala バラ、はら、日本語訳:力)は、二義あり、一義に一切の異論及び諸魔衆の壊すことなきをいい、また一義に十力の行のうち、思擇力・修習力の2つを修行する。

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智波羅蜜 - 智(Jñāna ジュニャーナ、日本語訳:智)は、万法の実相を如実に了知する智慧は生死の此岸を渡りて、涅槃の彼岸に到る船筏の如く、受用法楽智・成熟有情智の2つを修行する。

…………………………

六で完成された体系なのになぜ追加するのか。まぁ華厳経が十を基準に教理を組むからとか、十地に対応させているからだとか言われますが、よく見てみると、7は123,8は4、9は5、10は6と対応しています。各波羅蜜は平行的に行ずべきものですが、一応は1から6へと階梯を踏むようになっていて、六波羅蜜であれ十波羅蜜であれ、6の智慧波羅蜜が完成になります。その上で7は123、8は4、9は5、10は6と補完して再確認しながら悟後の修行・実践を進めていくものといえるのではないかと考えられます。
基本はいずれにしても六波羅蜜ですので、敢えて十波羅蜜でなくてはならない理由はないですが、数字はいずれも便宜的な分節であり、最終的には項目化された観念を超えて、融通無碍に菩薩の働きを自在に実践したいものです。
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蜃気楼

2017年12月17日 | 弘法大師聖句
「性霊集十 十喩を詠ず」

遠うして有に似たれども 近うしては物なし

陽炎は、遠くから見れば実在しているように見えるけれども、近づいてみれば何もない。

…………………………

隣の芝生は青いというが、離れてみるとどこか宜しいように見えてしまい、自分の持っているものがつまらなく見えてしまいがちだ。しかし遂に隣のものを手に入れてしまえば、やはりあらが見えてきて、どうも思っていたのと違う…なんてことは良くある。
青い鳥の寓話もあるけれど、完璧に理想的なものなどはほとんどない。仮にあったとしても、それを受け止めて認識していくのはあなたであり、あなたが不完全であれば、あるいは妄想や弱さにまみれているならば、どんなものであれ完璧なものとしてそれは把握され得ない。逆にあなたが完璧であれば、いかなるものに対してもそれを活かす智慧を発揮できるだろう。
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金華

2017年12月15日 | 法話関係
銀雪地に敷き 金華枝に発く
池鏡私なし 万色誰か逃れん
山水相映ず 乍ちに看て腸を絶つ


銀の雪が大地に敷かれ 枝々には氷の花が輝いている
凍った池の鏡には風光が明瞭に映え渡り
山と水が溶けあった景色に感嘆すること極まりがない

※※※


弘法大師『性霊集』の一節です。

この時期は一年でもっとも寒い時期でモノクロームな景色が広がりますが、その中にも金色の光が時にキラキラと輝き、美しい姿を自然は見せてくださいます。私たちも一生の間には良い時期や辛い時期、色々な季節がそれぞれに巡りますが、どのような時にも美しい・すばらしい瞬間が必ず、近くにあるものです。寒い寒いと雪や氷を恨むのも私たちの心、そこに金華のような美しい姿を見つけるのもまた、私たちの心です。
素晴らしい山水がお互いに映しあうように、仲良く、慈悲の心を持ちながら、心穏やかに過ごして参りましょう。その生き方をご本尊、ご先祖様に見ていただくことが、供養の第一歩です。
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