प्रज्ञापारमिता

𝔇𝔥𝔞𝔯𝔪𝔞 𝔗𝔞𝔩𝔨, 𝔅𝔲𝔡𝔡𝔥𝔦𝔰𝔪, 𝔗𝔥𝔦𝔫𝔨𝔦𝔫𝔤, 𝔞𝔫𝔡 𝔱𝔥𝔢 𝔚𝔬𝔯𝔡

般若仏母と転識得智

2017年11月27日 | 仏教・思索
真言密教における本尊は大日如来で間違いはないが、本来、法身たる大日如来は主客二分を超えた絶対で、記述不能の言語道断である。
しかしそれでは何も話にならない無意義なものになりかねないので、これを説明するのに「分別」の次元に下ろして、仮に「智法身=金剛界大日」と「理法身=胎蔵生大日」に分けて概念化する。しかしこれは便宜であり、もちろん大日如来は理智不二であることに間違いはない。
また、三輪身説と言い、大日如来(自性輪身)の働きを般若仏母(正法輪身)と不動明王(教令輪身)に分ける見方もある。
いずれも、記述不能の大日如来の存在や働きを記述せんがための方便であるから、すべて別のものではない。

大日如来は諸仏出生の本源とも言われるが、もちろん能生と所生に本質的な違いがあるわけではない。海と波の関係の如く、不可分の一であるが、この娑婆世界の凡夫たる我々の分別心に別体と見えるだけであり、そこに真如大日がその「姿」を善巧方便として「見せて」くださっているわけである。
その意味において「般若仏母」は多様な現象世界、諸仏菩薩の立脚する智慧の具現化であり、諸仏出生の源の具現化たる仏母であり「分別世界に降りて働く菩薩」であるが、本質は大日如来であり、しかもその根本智を表徴する根源に直結する純粋なる存在であり、言語道断の大日如来の本質を示す智慧の法輪を回す正法輪身として、我々は仏母を通して真如に参入することが肝要になるであろう。

さてその般若仏母だが、様々な容態がある。
金剛般若経に依拠して表す時は、根本真言を勘案して四臂が相応しいと考えるが、その場合、右手に五鈷杵を持つ。これは五智を示すが、これを持つことにより転識得智の働きが般若仏母にあることを証している(左手の梵匧は般若空智への随順、法界定印は五智即空智円満を示す)。
法相唯識説では、私たちの精神作用を前五識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識)、第六識(意識)、第七識(末那識)、第八識(阿頼耶識)に分け、次第に表層から深層へと深下してゆく心の重層構造を説いた。密教では第九識(阿摩羅識)を説く。般若仏母による転識得智ではこの九識説に立つが、八識説と別に矛盾するものではない。つまり、現実世界に具体に働くのは四智八識に他ならず、実践上からは八識で尽くせる。阿摩羅識は、四智の総体であり、四智が働く根源の場であり、本来的には記述不能の大日自体のことである。
弘法大師『真言ニ字義』に「衆生が苦しみの原因を探る道理を知り尽くしても、如来のすべての智慧が自心の中にあることをまだ知らない」とあるが、記述可能な仏教理論、主客対立の方便を極めたとしても、言語道断の我即大日を覚さなければ、成就には遠い。前者は四仏四智、後者は大日法界体性智の世界を示すと考えたらわかりやすい。

さて、真言密教においては、金剛頂経の五相成身観により各々五智に転じるとなすが、もとより修行方法には様々あり、般若仏母根本真言の観想念誦によって転識得智を期する立場が「真言念誦行」の道である。

では、その転識得智の具体相を以下に述べる。
前五識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識)は五感(眼・耳・鼻・舌・身)による感覚作用であるが、これが成所作智(真言密教においては不空成就如来の智)に、第六識はその感覚的情報に基づいて行動や判断をする意識であるが、これが妙観察智(阿弥陀如来)に、第七識は無意識で自我を妄想形成するが、これが平等性智(宝生如来)に転じる。第八識はまったく意識されない潜在意識で生死輪廻する業の集積であるが、これが大円鏡智(阿閦如来)に、ここまでが現実具体に働く各々の四智であり、さらにその根源に清浄無垢な自性清浄心たる第九阿摩羅識が潜み、これが普門法界体性智(大日如来)である。

前五識→成所作智は、眼・耳・鼻・舌・身の五感を正しく統御し、それらによって得られる情報をもとに、衆生の現実生活を覚りに向かわせるべく成就させていく化他の智慧への転換である。
第六意識→妙観察智は、万物が持つ各々の特性個性を見極め、それを活かさしめる化他の智慧への転換である。
第七末那識→平等性智は、森羅万象を平等に見る智慧で、自心・万物が実は法身の一門別徳であり、平等の仏性をもつことを覚る自証の智慧への転換である。
第八阿頼耶識→大円鏡智は、鏡が一切の事象をありのままに分け隔てなく映し出すように、一切をあるがままに受け入れ分別をしない自証の智慧への転換である。
第九阿摩羅識=法界体性智は、永遠普遍、自性清浄なる真如、般若の絶対智であり、他の四智を統合する言語道断の完全なる自証化他円満の智慧である。この完全智の具体の現実態である大日如来の正法輪身・般若仏母に、諸仏菩薩の一門別徳の存在が依拠するので、般若仏母を「母」と名付けるのである。

最後に、参考のために土宜法龍『理趣経曼荼羅』における五智の説明を示す。
土宜法龍は簡潔に、以下のように述べている。
「五智とは、成所作智、妙観察智、平等性智、大円鏡智、法界体性智の五つの仏智を指します。もとよりこれは、仏の境地における智慧の働きであって、これをさらに人体として表わしたのが、すなわち五智の如来なのです。
一、大円鏡智とは、一切諸法の体性を分明に照らす智慧で、私たちは本有としてこれを持っています。これを教育と修養の力とによって現実に表わしていくのが私たちの務めになります(これは阿閦如来の徳)。
二、平等性智。これは、先の大円鏡智がさらに発達して諸法の性において我他彼此という差別の観念を打ち破って、凡聖不二の平等智が円満して、自証の仏智を成就する位階です(宝生如来の徳)。
三、妙観察智。これは自証円満の仏智から化他的作用へと進み、化度すべき他の機根を察し、物象を観察する智慧の円満純熟する位です(阿弥陀如来の徳)。
四、成所作智。先の妙観察智が充満しており、これを一々の物に応じて人に施し、その行ないに少しも誤りのない、仏智の二利が円成した位です(人として釈迦如来の姿をとる)。
以上の四智の前半二つは、自身の人格を高める自証の智慧であり、後半の二つは、それを社会、すなわち化度の世界に応用していくという化他の徳となります。これら四つの自証化他の智を総合し、具備したものを第五、法界体性智といいます。そして、これらの五智は、それぞれ阿閦如来、宝生如来、阿弥陀如来、釈迦如来、そして大日如来という五智の如来の徳となります」。





コメント

菩薩の戒め

2017年11月27日 | 仏教・思索
三聚浄戒は大乗仏教の教説で、『華厳経』や『瑜伽師地論』『菩薩地持経』など様々な経論に説かれている。

一.摂律儀戒 一切の悪事や不善をなさないこと。
二.摂善法戒 一切の善を行うこと。
三.摂衆生戒 一切の衆生を摂受利益すること。

一は自利行、二は自利利他行、三は利他行である。これら三つが行われることで、自利利他の菩薩行が円満するのである。

具体的には、対自止悪、智慧を得るためのものが摂律義戒で、すなわち三業をもって十善戒を守り抜くという誓願を立てる。不殺生戒・不偸盗戒・不邪淫戒を身戒、不妄語戒・不綺語戒・不悪口戒・不両舌戒を語戒、不慳貪戒・不瞋恚戒・不邪見戒を意戒とする。

不殺生…すべての生き物を無益に殺さない。恨まない、憎まない。排斥しない。
不偸盗…盗まない。他人の物を欲しがらない。
不邪淫…不倫をしない。異性に対して邪な思いを抱かない。
不妄語…嘘をつかない。
不綺語…きれいごとを言わない。
不悪口…悪口を言わない。
不両舌…二枚舌を使わない。
不慳貪…物惜しみをしない。ケチにならない。
不瞋恚…怒らない。イライラしない。
不邪見…仏教の教えを正しく学び、般若空の正しいものの見方をする。

身命財を擲って正法を護持する摂善法戒。これはすなわち六波羅蜜で、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六である。六波羅蜜はチベット仏教サキャ派のギャルセー・トクメー・サンポ『三十七の菩薩の実践』二十五~三十節がわかりやすい。

「【布施】悟りを得るためにこの身さえ犠牲にする必要があるのなら、外界のものなどなおさらに、見返りや成果を期待せず布施を行ずる。それが菩薩の実践である。【持戒】戒律を守らずして自利の完成はない。それでいて利他を成し遂げる願いをもっても笑われる。それゆえ、世俗の欲を放棄して戒律を遵守する。それが菩薩の実践である。【忍辱】善という財を求める諸菩薩を傷つけてしまう者もまた、尊い宝も同然である。それゆえ、あらゆる者に恨みをもたず忍耐を修習する。それが菩薩の実践である。【精進】自利のみ得ようとする声聞、独覚も、頭に移った火を消そうと努力するのを見るならば、すべて衆生のためになる功徳の源泉となる精進に励む。それが菩薩の実践である。【禅定】「止」を伴ったすぐれた「観」が煩悩を克服するのをよく知って、四無色定を超越した禅定を修習する。それが菩薩の実践である。【智慧】智慧のない五つの波羅蜜だけならば、完全なる悟りを得ることはできない。それゆえ、波羅蜜行を伴った三輪無分別智を修習する。それが菩薩の実践である」

また、『大乗起信論』の五門も、基本的には六波羅蜜と同じである。

布施門 不慳貪に財物を分かつ財施、人々に困難ある時に寄り添う無畏施、自分の知る限りの仏法を説く法施を布施門となす。
持戒門 不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不綺語・不悪口・不両舌・不慳貪・不瞋恚・不邪見の菩薩十善戒を持戒門となす。
忍辱門 他人に悩まされても復讐心を持たず、利害・毀誉褒貶・苦楽などに惑わされずに耐えるを忍辱門となす。
精進門 不断に為すべき自利利他を念じて苦からの解脱を期し、常に五門を観じ往生呪念誦と双修するを精進門となす。
以上の四門はまったく全同。次いで「禅定・智慧」を「止観」として一門にするが、ここに説かれる「四観」は、自利利他円満の大行である。
止観門 
・法相観 … 三世十方の波の如き諸の現象は無常なるも、本来主客不二の一大真如海なりと常に意識すべし。
・大悲観 … 一切の衆生はそれを覚知せずに事象に著して我ありと心生滅を起こし、無量の苦を受けるを常に悲しむべし。
・大願観 … 故に「我は十方世界に遍く心を行き渡らせ、一切の自利利他を修し、一切の衆生を抜済して涅槃の安楽を得させたい」と誓願を常に起こすべし。
・精進観 … 常にこれら五門を観じ生活し、念誦行を修するを精進観となす。
以上は「観」。なお、「禅定」に相当する「止」は「念を徹底的に放擲する修行」であるが、真言念誦行において、「般若仏母に関わる観想」から次第にそれを為すのが「真言行道」におけるやり方である。

最後に、対他行善を期する摂衆生戒は、すなわち四無量心である。慈は他者を慈しみ愛護する与楽心、悲は同苦不害の抜苦心、喜は随喜心、捨は怨親平等心・三輪清浄心。

以上の三聚浄戒を日夜に意識して生活すること。これが菩薩の戒めであり、菩薩の心であり、菩薩の生き方である。

なお、真言密教末徒、真言念誦者は三摩耶戒がある。
『無畏三蔵禅要』の「十重戒」を厳守するのは当たり前であるから、細目は挙げないが、強く意識すべきである。
コメント

座右にするなら

2017年11月25日 | 仏教・思索
難解な論書や研究書は確かに奥深く、それを読み学ぶことは大切だけど、座右にするならばなるべく簡潔でわかりやすい経論を置いておく方が良い。
読んですぐわかり、分量も適度で、しかもきちんとした筋の良い本(経論)をいくつか座右にし、死ぬまでに100回は読むつもりでいること。

幅広く難解なものを読むことは理解を深めるために重要なんだけど、サブだ。メインはあまり難解なものではならないと思う。
それをくりかえし薫習させて、立ち居振る舞いにフィードバックさせることが仏教なのであり、知的好奇心に任せて難解の美に酔うことは望ましい態度とは言えない。

何が難解で何が簡潔でわかりやすいか、それは人それぞれだから「これでなくてはならない」というものはないけど、ともかくは「筋の良いもの」を選んで欲しい。
疲れたとき、高齢になって衰えたとき、そんな時でも座右にして読みつづけられる、簡潔で深みのある筋の良い経論をぜひ、「座右の経論、持経・持論」として受持してください。
コメント

陰徳と陽徳

2017年11月07日 | 法話関係
死の恐怖に怯えてばかりいて、無常から脱却する陰徳を積むことをせずに、
蝶のようにひらひらと、浮世の雲のように遊んでいる
            ~性霊集~ 


これは、「死の恐怖だけでなく、生活全般のさまざまな問題に悩むばかりで、自分の心や行動の向上を図らずにグチや不満、あるいは思考停止して過ごすだけなら、苦はやまない」ということを言っています。そして苦をなくすには、徳を積むことが勧められています。
徳には「陰徳」と「陽徳」があります。陰徳は隠れてする善き行いのことで、陽徳はおおっぴらにする善き行いです。ここで弘法大師は陰徳を勧めておられますが、陽徳も立派なことです。どちらでも構いませんけれども、いずれにしても「徳を積む」ことで、自分の心が善い方向に進み、熟されていきます。そして、心が浮ついたり固まってしまっていれば、「苦しみ」はいつまでも影のようについてきます。しかし心が徳と善に包まれていれば、苦は徐々に薄くなり、楽が増えてきます。
確かにいくら心が立派でも、病気になったり災難に出会ったりしますし、いつか人は死んでしまいます。しかし「苦」というのは、そういう出来事にどう向き合うかで、その大きさが変わっていきます。いくら環境が恵まれていても苦しみに生きる人はいますし、不治の病でも喜んで生活している人がいます。
環境を変えることは難しくとも、徳を積み心を善くすることはいつでも始められます。ですから、「苦」を脱して「楽」を得ることは、いつでも可能なのです。
明るく楽しく、人のために、徳を積みながら生活すれば、きっと光の生活になっていき、自分も家族も、またこの世の中ぜんたいが明るくなっていくでしょう。
コメント

差別と仏教

2017年11月02日 | 仏教・思索
近現代インドの仏教は被差別者が中心で、チベット仏教もマイノリティ。一方で日本仏教は一部を除けば基本的には被差別サイドではなかった。

さて。

もちろん仏教は差別を否定する宗教で、階級や血統や人種によって差別する思考には反対するのが基本的な立場である。現実には確かに色々あるけれど、少なくとも、原理的には差別を否定するのが仏教。
これはインドのように自らが不利な立場に置かれてようと、日本のように比較的強い立場にあろうと変わりはない(今の日本仏教が昔ほど強い立場かどうかはともかく)。
だから差別に抗するのは当たり前で、実際に被差別に置かれるインド仏教が差別に反対するのも当然。しかし仏教であろうとなかろうと、被差別の立場にあれば、誰であれ「差別反対」を唱えるのもまた当たり前で、そういう意味では、歴史的に一応は強者であった日本仏教、特に真宗以外の宗派が、仏教に則って平等を言明することには、また独自の意味があるのではなかろうか。

その場合に大切なことは、やたら近代人権思想やイデオロギーを持ち出さないこと。胡散臭くなる。事実、今の仏教界の「人権運動」は胡散臭い。
そうではなく、徹頭徹尾、世俗の様々な理屈や団体から適度に距離を置きながら、政治的な主張や態度を排除しつつ、仏教そのものだけで差別や平等について意思表示したほうが良いし、またそれだけの「理屈」を仏教は持っていると思う。
コメント