प्रज्ञापारमिता

𝔇𝔥𝔞𝔯𝔪𝔞 𝔗𝔞𝔩𝔨, 𝔅𝔲𝔡𝔡𝔥𝔦𝔰𝔪, 𝔗𝔥𝔦𝔫𝔨𝔦𝔫𝔤, 𝔞𝔫𝔡 𝔱𝔥𝔢 𝔚𝔬𝔯𝔡

ご先祖様

2017年08月16日 | 法話関係
よく「ご先祖様」、と言いますが、具体的なイメージをお持ちですか?
両親、祖父母くらいまでならまだしも、それより前となると、ピンと来ないのではないでしょうか。しかしこの自分の顔体は、先祖の結晶体です。今の自分の生活も、先祖の生活の積み重ねの上にあるのです。
そう思って、時には具体的なイメージを持とうと意識してみるのも大切かと思います。暇なときにでも、自分の先祖の生活や来歴を調べ、それぞれの時代でみな懸命に生きていたのだろうな、と具体的に想像してみることで、「ご先祖様の顔」にも目鼻が付き、親しみも増すことと思います。

さて、今日はお盆の送り火の日です。

「お盆に先祖が帰って来る」と皆さん言いますが、どこから、でしょうか? 「帰ってくる」のはお盆だけでしょうか。
実はいつでも「お迎え」できるし会えるのです。「あなたが迎えるならば」。
ただ人間は哀しいかな、「いつでもできる」なら徐々に日常に紛れて「やらなくなる」。だから時期を区切る。流れとケジメを作る。 先祖はいつでも心の戸口にいる。開けるのはあなたなのです。
先祖や故人はどこかに行ってしまったわけじゃありません。いつでもどこにでもいます。時空に限定されるのは私達の問題であって、不可視の世界はそんなに不自由でないし、つながっているのです。

繰り返しますが、「先祖はお盆にだけ」帰るのではなく、あなたが心の扉を開けたら、いつでも入って来ます。帰って来るのです。
ただ、時を区切って集中的に心を向ける時間を持たなければ、いつしか思いは薄れていってしまうものです。時に思いを反芻してリフレッシュすることも大切で、それがお盆の期間です。

今年のお盆は終わりましたが、また一年間、しっかりご先祖様が近くにいつもおられると思ってしっかり生活し、また来年のお盆にはしっかり向き合ってお話をできますように。
ご先祖様、亡くなった方はいつも近くにおられます。
コメント

つもり積もって

2017年08月07日 | 法話関係
お釈迦様のお弟子に、目連尊者という方がおられます。
この方は立派な僧侶として有名だったのですが、ある時、ふとしたことで実の母親が餓鬼の世界に堕ちて苦しんでいることを知ってしまいます。
もちろんお母さんは犯罪者でも悪人でもなかったのですが、あまりよくない境遇に生まれ変わってしまい、苦しんでいたのです。
そのお母さんを救うために「施しの修行」をして、その結果ちゃんと救われた…というのがお盆の始まりとされていますが、そもそもどうして「普通の人」だったはずのお母さんが餓鬼の世界に堕ちてしまっていたのでしょうか。

人は「つもり」の心で生きています。
「ちゃんと子供をかわいがったつもり」「一生懸命に仕事をしてきたつもり」「頑張ってあれもこれもやってきたつもり」。
確かにみんな頑張って来たでしょう。それは本当だと思います。
でも、そこに「自分が気持ちよくなるために」「家族が楽になるために」というような、「私たち中心」の心がなかったでしょうか。赤の他人はどうでもいいけれど、自分達だけは、我が子だけは…という心。
その心を、「餓鬼の心」といいます。幸せが、モノが、お金が、健康が欲しい。欲しい。自分たちにそれが欲しい。
そういう自己中心の心に気づかずに「一生懸命に頑張った」としても、そこに赤の他人に対する慈悲の心や「私たちは何もなくとも、あなたたちにはこれをあげたい」という施しの心がなかったなら、まったく意味がありません。
そういう「頑張ったつもり」がつもり積もって、目連のお母さんは餓鬼の世界に行ってしまっていたのです。

お盆はご先祖様や亡くなった親しい人を供養する期間ですが、それとともに「すべての亡くなった方々に」「餓鬼の世界で苦しんでいる人たちに」対しても心を向けて、自分や家族だけではなく、生きとし生けるすべての存在に等しく慈悲の心を持った人間になれますようにと、そう祈り決心する期間でもあります。
どうかそういう広く優しい心を持って、お盆を迎えていただければ、きっとご先祖様も喜ばれ、また救われていくのだと思います。
コメント