प्रज्ञापारमिता

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相対化

2017年06月27日 | 閑話休題
推敲なしの書き散らしですから、まとまってません。

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「専門バカ」というという言葉があります。
これは「狭い自分の専門分野に詳しい人」…という意味ではなく、その狭い自分の専門分野を振りかざしてすべてを判断している独りよがりな自慰野郎、というニュアンスが大きい言葉だと思われます。
単に狭い専門分野しか知らないだけならば、狭くとも専門分野がある時点でそれはそれで素晴らしいことだと思いますから、他人から「バカ」呼ばわりされる謂れは更々ありません。
「専門バカ」の場合、その狭い専門分野で他の分野、特に世間知や社会問題などについてうっかり発言して意味不明なことを口走ってしまう、いわゆる「その道の権威」のことを言うわけです。
いくら特定分野の大学者であっても、知らない分野は知らないものであって、単なるド素人でしかないのですが、そこをどうも勘違いするんでしょうね。

仏教(仏教学ではない)というのは人事百般に取り組むものですから、何でもかんでも発言は可能です。しかしそれはあくまで「仏教の立場から」の考えであって、その価値観を共有していない人が相手ならば、もはやただの「根拠のない意見」のひとつに過ぎなくなります。
そういう意味で、「俺は語れる」などという妄想は捨てた方が良いでしょう。

さて、そうは言ってもやはり、人は語らねばならない時もあります。特に僧侶なんかだと。
その時、例えば「仏教の専門バカ」みたいに特定宗派しか知らない、もうちょいマシでも仏教しか知らない、のにそれでもって一般化して語る、では困ります。きちんと自分の立場を相対化できたうえで語らなければ、それば「仏教バカ」であって、一般社会への説得力は持てません。
相対化できるのが「真の専門家」で、できないのが「専門バカ」です。
なお、たいして専門知識もなく努力もしていないのにハッタリや肩書きで専門家面してるのは「ただのバカ」です。

さて、つまり問題はどうやって自分の知識や専門、立場をきちんと相対化したうえで、なおかつその真理性や普遍性を語れるか。僧侶にとってはここが大事。成功しているかどうかはともかく、その努力がたとえば、教相判釈とかいうものです。
これは仏教内部の話なんですが、現代においてはさまざまな価値観や宗教、社会問題が噴出しています。ですからもはや「自分達の価値観だけで万事を判断する」ことは、個人の信条としてはそれで十分でしょうが、はっきり言って世間で説得力を持たない。また自分自身の問題としても、多少なりものを考える人ならば、そういう思考の構えだと行き詰まってくるでしょう。井の中の蛙として仲間内で自慰するだけならそれで構いませんが。

そこでやはり、自分の立場をきちんと適切に相対化して言語化する作業は必要になってくると思うんですが、その場合、やはりカウンターの設定をしておくことは役に立ちます。
たとえば僕は真言宗ですが、真言宗をきちんと理解するためには釈尊以来の仏教全体、チベットも中国も他宗派についても、それぞれの立場をなるべく色眼鏡なく押さえておかなければ、真言宗の位置もつかめなくなります。そして仏教をわかるためには、仏教以外の思想をしっかりと理解しておく必要もあるのです。
すべての思想を学ぶことは現実には無理です。仏教ひとつやるだけでも大変です。他の宗教や思想哲学を平行するなんて一部の知の巨人を除いては無理でしょう。あまりそういうことを熱心にやって仏教がおろそかになるならば、本末転倒になります。
しかし何かしら、自分の位置を相対化するために、仏教以外のものをあ(尊敬を持って)しっかり学んで押さえておくことは、やはり大切だと思います。
その時、できたら自分の立ち位置とは距離のあるものを選んで(繰り返しますが、尊敬を持って)学ぶのが効果的かと思います。あまりに近似の思想だと、境界が曖昧になって混乱します。また、多様な価値観による相対化にとってはインパクトが少ない。

重ねて言いますが、専門バカは救いがたく、不誠実ですらあります。
専門バカと専門家の相違は知識の多少というよりも意識のあり方なのですが、それでも自分の専門を相対化するために、「もうひとつのサブ専門」を作り、意識的に突き合わせて「外部言語を獲得する」ことは重要ではないかと。
それは特に仏教者にとって。自利利他どちらにしても、相対化できる意識のない者は、あまり説得力も一般性も持ち得ないのではなかろうか、そうして他者への働きかけが井戸の中で完結してしまうなら、この世界からいずれ消え去る運命になる、と思うからです。
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大師信仰

2017年06月13日 | 仏教・思索
僕にとって弘法大師は他の祖師方とは一線を画します。

実は最近まではそうでもなかったのですが、いやむしろ否定的ですらあったのですが、いわゆる弘法大師信仰、それに対する認識が変化してきました。

僕にとって、弘法大師はブッダです。

釈尊の仏教と、弘法大師の仏教。それは等価です。もちろん同じものを観ていると確信してますからどちらから仏法に入るのもOKですが、弘法大師の存在(教義思想ではなく)自体が、僕にとってかなり重要なのだな、と。
もちろん釈尊もブッダでありながら「私を盲信して服従しなさい」とは説いておられません。教説を吟味せよ、と仰せです。これは仏教の基本で、弘法大師についてもそれは同じです。
その上で、僕は弘法大師をブッダだと考えています。

そうして、僕、あるいはそれぞれの人がそれぞれのやりかた、実践方法を通して、より本質的に生きていくことが重要なのではないかと。別に「真言宗」の公式教義やシステムに依存していなくても、弘法大師の思想、世界観を受け止めて咀嚼して、善く生き善く活かす生活をするのなら、その人はブッダの子であり、弘法大師の弟子でありうる。
そういう意識で改めて弘法大師に向き合ったとき、まったく違う風景が、真言密教というものの中に見えてくるように感じます。

細かい事相に通暁してるとか、難解な教相に熟達してるとか、いや、本質はそこじゃない、と。平凡な毎日の立ち居振舞い、考え方そのものこそが重要で、具体の実践方法には様々な形があり得る。行法修法は雛型でありよく学ぶべきだけれど、その形式ではなく、その形式の根底にあるものをこそ、身につけなくてはならない。
そしてそれは、僧侶の世界の話ではなく、万人に開かれた世界である、と。
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