प्रज्ञापारमिता

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カタチは大切

2017年05月29日 | 仏教・思索
最近は儀礼や「カタチ」というものの評判が悪い。
「カタチじゃない、心だ」ってなもんで、手を合わせたり礼拝する行為を軽くみて、「気持ちがあれば良いでしょ」と。それが法事や葬儀への無意味感や軽視につながり、結果として皮肉にも形骸化を促進して、「やっぱりダメじゃん」とマッチポンプ的になって切り捨てていく、という悪循環。

さてさて、それほどにカタチは無用なものか。

そもそも文化はカタチであり、言語思考も文法法則というカタチに立脚している。社会のルール、法律、あるいは慣習すらも一定の様式であり、僕たちの思考や行動のすべては、実はカタチありきなのだ。カタチがなければ、行為も他者との関係も構築不可能。
そのカタチを通して、カタチ以前のナニモノかが表出してくる。
儀礼というのは文法であり、それを読み解けばナニモノかがうっすらと見えてくる。そういう意味では、非常に意味のあるものだ。軽視するのではなく、読み解くように努力し、また説明をしていくほうが有意義だし、面白い。

また、形式は心を規定する。
実は心というものは不定形でだらしがなく、制御も統御もむずかしい厄介なものだ。そして心が混乱すると、必ず振る舞いや言葉も混乱して来る。逆もまた然りで、実は心と形式は不離一体であると知らなくてはならない。
その心を制御するには、心そのものを考えてもうまくいかない。形式、言い換えれば「思考と行為の文法」を形式的にでも実践することで心を制御したほうが、何倍も楽なのだ。
大切なのは、「心と形式は表裏一体」であると知ること。これを分けてしまうならば、「心が大切」と言いながら大したことも考えずしもしない間抜けになるか、やたら形式主義的で中身のない阿呆になるしかない。
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親孝行

2017年05月26日 | 法話関係
親が生きてるうちにはあまり「親孝行」などは真剣に考えない。
だいたい、死んでから「もうちょっとこうしとけば」「ああしとけば」と後悔らしきものをするのが通例だと思います。

もちろん、生きてるうちにできる人は、何でもしてください。

しかし死んでしまったら、もう親孝行は出来ないものでしょうか?

そんなことはありません。

さて。
親の立場で「子供に何をしてほしいか」ですが、もちろん「何はなくとも健康に恙なく」が第一でしょうけど、もうひとつ、「親の体に触れる」というのも嬉しいものだそうです。
特に男の場合、親の体を触ることは、ほぼないんじゃないでしょうか。
せいぜい、小学生の時くらいまで…が多いかな。
そして親が病気になっても、手を握ってあげたり背中をさすってあげたりをしない。なんとなく「女の仕事」みたいになり、男は立って喋るくらい。
そうしているうちに、お別れの時が来る。

でも、親がいなくなっても、まだ出来ることはあります。

この自分の体は、物体としても実は「親の体」なんです。親から分けてもらった体です。
鏡を見てください。
そこには、両親の体が映っているはずです。
当たり前です、だってそれは、紛れもない「親の体」だからです。遡ればもちろん、「先祖の体の集積」なんです。
「私の体」は「私の体」ですが、その「私の体」というのは、両親の体を合わせて形成された物なんです。そういう意味で、親の体は死んだあとも、いつも「私の体」として「ここにいる」んです。

これは、事実です。

ですから、時には自分の体を、顔を、ゆっくり撫でてあげてください。
それは、親の体を撫でてあげるのと同じことです。
同時に、自分の体を大切に労ってください。
それは、親の体を労ってあげることと同じです。

親が亡くなってしまった。

ならばこそ一層、今こそ、親の体を大切に生かしてください。

どれだけあなたの親がそれを喜ぶことか。
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認知と解体

2017年05月12日 | 仏教・思索
たとえば、怒りの感情によって苦しむ人がいる。

その時、「慈悲の心を成長させなさい」という類いの応答をする僧侶や人が、案外、多いのではないだろうか。もちろんそれは間違っていない。正しいだろう。そしてまったく役に立たない正しさでもある。

その怒りの人にとって、目の前の世界には心を通して怒りという現象が最優先に生起していて、善い悪いではなく、現実に「そうなのである」。世界も、自分も。
そこに「慈悲は善であり怒りは悪である」という、思考を要しない絶対の基準で枠をはめて、納得もプロセスも無視した強制を心に強いたとして、果たしてどういう結果になるだろう。
これは怒り以外の、ある種の欲求や妬みや願望なども同様だと思われるけど、いきなり慈悲やおもいやりや無執着などの「正義」を基準にして自分を断罪するのでは、そこにまともな決着はつかないのではなかろうか。

まず、自分に怒りがあり、欲望や執着があることを、善悪の判断以前にまずは発見して認めること。心理療法じゃないよ。セラピーの話じゃない。現実にそういうものが否応なく「ある」ことを発見して認める、というだけの話。
そしてそれを、「これは何だろうか」と徹底的に観察し、こねくりまわし、丸裸にしてしまう。どういう姿で、どういう作用があるか。そしてその怒りや執着や欲望を捨てるのじゃなく、丸飲みして、「これこそが自分だ」とまず認める。善も悪もない、偽りなき自分の姿だ。ただ、見よ。
さぁ、そうして次に「自分」の解体を始めよう。解体技術は(みんな気づいてないけど、ホントは)仏教に(も)ある。

そこで何が見えてくるか。

慈悲が善であり、怒りや執着や欲望なんかが悪だとかいうのは、そこで見えてきた事態にラベリングした先人の知見だ。後付けに過ぎない。ア・プリオリに「神の教勅」があったわけじゃない。逆だ。
だからいくら言葉で「正解」が羅列してあったとしても、自分で見てつかまなければ、本当の意味では解決にはならないし、せいぜい一時的な痛み止め以上の話になんかなりゃしない。

怒りや執着や欲望をいきなり世間一般や何かの権威のラベリングで否定するな。それは現状のあなた自身だ。無闇な自己否定に意味なんかない。そこじゃない。
そうやってしっかり立ち現れた自分、その自分というものをこそ問題にすべきだ。
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卒塔婆と三十三回忌

2017年05月07日 | 法話関係
法話です。
ちょっと「俗説に寄せ過ぎ」ですね…「魂が云々」「死んでから云々」あたりでツッコミが予想されますが、そのあたりは大目に見ていただきたい(;´・ω・)
一応、生きているうちに成就したら仏になれる、死んでからじゃなくて生きているうちの心のありかたの大切さを盛り込みつつ、お年寄りをどう動機づけるか、というのをメインに考えました。


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法事は、なぜ三十三回忌が弔い上げとされるのかご存知ですか。

三十三は仏教では聖なる数なのですが、その理由は、宇宙の中心で仏のおられる山を須弥山といい、その山は三十三の段階に分かれてそれぞれ神様が住むとされています。
この須弥山はこの世界のどこかにあるわけではなく見えない世界ですが、実はこの私たちの身体は「仏の座であり、須弥山の写し絵であり、世界の中心である」という象徴的意味を持っています。つまり見えない須弥山が、この身体に現わされています。

この身体が須弥山つまり仏の住む場所の象徴で、頂上に仏がいて、途中には神々が住むというのですが、具体的には、頚椎・胸椎・腰椎・仙骨・尾骶骨までの骨が三十三個あり、これが須弥山の姿とされます。
それぞれに神々が住んでいて、下から順番にレベルがあがり、修行によって自分の心が上昇して、最終的に一番上の仏の座と一致します。亡くなってから一年にひとつずつ心のレベルが上がって、三十三年で仏になります。生きているうちにそこまで修行できれば生き仏ですが、この思うに任せぬ身体が障害となり、なかなか上がることができません。魂だけの存在であれば、たとえば、体という山道を苦労して登るのではなく、見えない本当の須弥山を平坦な道を歩くようにスムーズに進めます。
身体は写し絵で練習台です。見えない世界の本物の須弥山を登るのが本番です。

ただし、生きているうちに仏様の世界に向かう心を持つ努力をしていなければ、目的地がわからなくなって進めなくなります。それを「こちらだよ」と導いてくださるのが本尊であり、供養の読経です。

また頸椎~尾骶骨の五カ所は五大であり卒塔婆であり、つまり五=三十三=成仏を表します。つまり人間の身体=須弥山=卒塔婆です。だから卒塔婆は生前の身体の象徴ですから、故人の身体だと思って大切に扱ってください。
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