प्रज्ञापारमिता

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位牌堂

2016年12月28日 | 仏教・思索
当寺には、位牌堂というものがあります。
檀家さんは自宅の仏壇と寺と、二カ所に位牌をお祀りしております。つまり、亡くなったら位牌をふたつ作る、ということです。すべての檀家さんが位牌堂を持っているわけではないのですが、9割以上の家庭に位牌堂があります。

 これが位牌堂です。

総数で約200です。

年末の掃除と準備で今日は位牌堂にいたのですが、改めて考えると、これらの無数の位牌は、すべて亡くなった方たちであります。どれだけあるのか正確に数えたことはありませんが(繰り出し位牌などもありますので、数えるとなると大変です)、たとえば当寺の過去帳は350年分くらいあります。戦前までは毎年20名~25名くらい平均で名前が記されています。近年は年間に10件弱ですが、概算で6000~8000人はおられるでしょうか。もっと多いかも知れません。
改めて数えはしませんが、ひとりひとりと対話する心で、掃除をしています。

この地域も過疎がさらに進んで絶家が増えています。これからも減ることはなく、どんどんと増える一方でしょう。子供がいても供養や寺を顧みず、放置する家庭もあります。そうやって人がいなくなったとしても、この位牌堂の人たちは、静かに祀られ続けるのです。詣り手がなくても。
僕たち檀家寺の僧侶は毎日ささやかながら供養をして、そういう人たちとともに、生活をしています。

仏教は生きている人のためのものだ。
そう言って「葬式仏教はダメだ」と批判する方がおられます。
確かにそれは一理あります。しかし仏教では一方で、「生死不二」であり、生きている人も死んだ人も、どちらも同じ地平でお付き合いをしています。当たり前のように、そういうものです。

静かな位牌堂。
世の中がすべて「生きている人」のためだけに回っているとしても、「生」のみに価値を置いて「死」にまつわるすべてを無価値・あってはならない忌まわしいものと考える社会になってしまったとしても、僕たちは古い過疎地の寺の中で、亡くなった方たちの幽かな気配とともに、ゆっくりとした時間の中で、変わらずに地味に、丁寧に、生きていきたいものです。

年末年始です。

またひとつ、歳を重ねます。

人はいずれ、死にます。

あなたも、死にます。

一分一秒、時間は絶対に止まりません。

ノンストップで死に向かうのが、時間です。

目を背けても、同じことです。

改めて自分のいのち、生き方、死に方、そういうことを考えてみてください。そして、良くも悪くも「死で終わらない」という仏教の教えに、来年は触れてみてください。必ず、素晴らしい世界が、そこに開けてきますから。
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空海名言辞典

2016年12月24日 | 閑話休題


高野山櫻池院・近藤堯寛師の『空海名言辞典(付・現代語訳)』。
高野山出版社。

弘法大師空海の著書は、正直、難解です。たとえば日蓮聖人の御遺文や、親鸞聖人の著書と比較しても、それは圧倒的に難解。密教という立場にもよるのだろうし、時代的なものもあります。鎌倉期の文章は読みやすいのですが、弘法大師は平安初期。つまり漢文。しかも四六駢儷体や故事を縦横に駆使している…。
現代語訳もいくつか出ていますが、正直なところ、手に取って読んでみる人は多くはないでしょう。

因みに現代語訳は、同じ高野山出版から出ている『現代語の十巻章と解説』がお薦め。書き下しは山喜房の『弘法大師著作全集』が比較的手軽。

そんな中、この近藤堯寛師の『空海名言辞典(付・現代語訳)』。
これは素晴らしいです。
書道などでも使えるように…という意図もあるようですが、原文・訓読・現代語訳・註を完備して、2180句が収録されています。聖句集としては完璧です。無駄な解釈とか解説もなく、淡々と分野別に整理されて並べられています。そこが素晴らしい。

真言宗僧侶は当然、弘法大師に信を置く人にとっては、マストです。これ以上の本はありません。たぶん今後も、このコンセプトではこれを超えるものは出ないでしょう。

5000円以上しますが、正直、安いです。絶対に安いです。
僕は3冊、持っています。座右の聖典として、折々に繰ってみてください。素晴らしい聖句の数々に、弘法大師という方の息吹が感じられるでしょう。
そしてその文章に馴染んだら、現代語訳でも結構ですから、弘法大師のまとまった文章に触れてみてください。難解なものもありますが、『性霊集』など、教義書ではなくとも名文が集まった詩文集もあります。

  これ。30000円以上しますが…(;´・ω・)
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虚往実帰

2016年12月20日 | 弘法大師聖句
虚しく往きて実ちて帰る  性霊集 二

弘法大師は中国・唐代に大陸に行かれて真言密教の第八祖となられましたが、師である第七祖・恵果和上の人となりを書かれた文章の中に、上記の言葉があります。
辛いひと苦しいひと、虚しいひと悩むひと、どのような者であれ、恵果和上に会えば必ず満ち足りて帰ることになる。これは仏法だけでなく、物心両面のことです。

さて、弘法大師は大陸に行かれて密教を学び修行して真言密教のすべてを受け継いで帰って来られましたが、まさに虚しく往きて(密教の究極を求めて大陸に赴き)実ちて帰られたわけです。

僕たちにとってもまた、仏法を学び行ずる事が、これと同じことを意味しています。

この世に人として生まれたことはよくよくのことですが、僕たちは生まれてこのかた非常に無為に過ごしてしまっています。一所懸命に勉強し働いたといても、この世のかりそめの価値観や煩悩に縛られているならば、それはやはり虚しいことです。
この虚しい存在である僕たちはしかし、この得難い人身を得ているのです。この一生は、学びと修行の場です。恵果和上に当たるような師もおられます。どこに? 経典や釈尊や弘法大師の言葉と行跡があるじゃないですか。また、仏菩薩の導きも。
ですから僕たちは死ぬとき、必ず満ち足りて帰ることができるのです。目の前に、素晴らしい宝が山と積まれています。見えますか?
はやくそれを取って、学び、行じ、満ち足りて生きましょう。そうして回りを利益し、悠々と死に、本源に帰って往きましょう。

仏教には、そのためのすべてが揃っています。

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師事作法

2016年12月18日 | 仏教・思索
チベット仏教の『ラムリム』に師事作法が説かれています。これは師に対する心得を述べたものですが、チベット仏教においては他の伝統と比べても特に「師の重要性」を重視しますから、あらゆる場面で「師の大切さ」が説かれています。

もちろん私たちの東亜の仏教においても師というものは重要で、その師事作法についてきちんと伝承されています。

代表的なもののひとつに、高野山でも重視されている『教誡新学比丘行護律儀』というものがあります。

 ←コレ。高野山出版社から全訳註が出ています。表紙がなんと真別処。

七世紀、四分律(南山律)を基とした新発意の行者に向けて道宣律師が著したものです。全二十三項四百六十六条に渡る非常に懇切丁寧な律儀であり、たとえば「飯の中に殻有らば皮を去けて食すべし」(8-55)というようなものまであります。
この『教誡律儀』の第三項の全五十一条が、いわゆる「師事作法」です。
長いのですべてを挙げられませんが、たとえば

・師の前では他の誰からも礼拝を受けてはならない 3-4
・師の話が終わる前に口を開くな 3-8
・師に誡められた時に師に対して厭い嫌う心を起こすな 3-13

…等から始まり、師の身体の世話、寝具・衣の洗濯から足の洗い方、足を向けるな、いつでも付き従い出迎えろ、などが説かれています。全二十三項目の第三番目という早い段階で師事作法が説かれていますが、決してこれらは形式的なものではなく、修行の第一歩として重要なのです。

この『教誡律儀』は、修行に入り諸々の具体的なことをする前にまずしっかりと学ぶべきものです。と同時に、初心だけではなく、仏道行道の基本として、いつまでも折に触れてこれを学び直し、保持していく心掛けが重要かと思います。
私たちは決して出家ではなく「居士法師」ですが、それでも仏子であり僧侶であります。
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越三摩耶

2016年12月14日 | 仏教・思索
越三摩耶罪という単語はよく聞くし、さんざ言いまくる坊さんもいますが、退三摩耶罪や破三摩耶罪を聞くことは稀だなぁ、と感じます。
この三つは並行するもので、自己を省みれば、むしろ退・破の両三摩耶罪に恐れおののくしかないでしょうに、ほとんど語られない。

あと、三摩耶といえば三摩耶戒ですけれども、四重禁戒の中に「法を慳悋してはならない」というのもあります。
そもそも越三摩耶がなぜ罪になるかというと、同じ四重禁戒の「衆生を悩乱してはならない」という、つまり準備なき者に真言密教の最奥を説くことで逆に誤解や間違いを起こさせないよう、慈悲の観点から安易に説くなということで、自らを権威づけたり秘密を弄ぶ心がもしそこにあるのなら、隠すことが破戒になってしまうわけです。たぶん、そういうことだと僕は理解しています。
特に、諸法の空性がわからない間に安易に印契や真言を授けると、諸仏や事物、験の実体視に容易につながり、却って大乗の根本から離れ妄想の強化になっていきます。
ゆえに安易な伝法は禁止されますが、順序よく進めば、すべての法は万人に開かれています。

越三摩耶を盾にして法を占有して信者を左右したり、自らを特別な場所に据えるならば、それこそ罪です。
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音香

2016年12月11日 | 法話関係
お寺の鐘の音は、耳のお香、音のお香です。

普通の線香などは、鼻のお香ですね。
線香の匂いは、服や体や髪の毛に移り、自然にその人が匂うようになります。
周りの人も、その匂いを嗅ぎます。
いい匂いだな、と。

音のお香は、耳から入ります。
そうして、心を経由して、口から出てきます。
いいコトバ、愛語、優しいコトバとして周りの人もに届きます。
お寺の鐘は、そういう気持ちで耳にするものです。

除夜の鐘も同じです。
年末最後にその音のお香を聞きながら、優しいコトバで一年を終えて、
新年最初の一言目を、自分の口から芳しいコトバのお香を出すのです。
そういうものです。

一年最初の、一発目の心とコトバのあり方が、その年を陰から支配します。
…というくらいの、重要なものです。

うるさいなぁ、イライラするなぁ、と思って年を跨いで、ロクなことはありません。

年末年始、良い気持ちで、優しいコトバで迎えてくださいね。
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根こそぎ

2016年12月09日 | 仏教・思索
一つの樹を伐るのではなくて
煩悩の林を伐れ
危険は林から生じる
煩悩の林とその下生えとを切って
林から脱れた者となれ
修行者よ

法句経283



つまり、「このくらいなら良いだろう」というのは、ない。何にしても根こそぎ更地になるくらい徹底して煩悩に向き合い、仏教に向き合うことが大切である、ということ。
一回だけなら、一杯だけなら、今日はやめといて明日がんばる、誰も見てないから、みんなやってるから、この世の倣いだから…すべて、釈尊は是認していません。

根こそぎやる。妥協しない。徹底的に。

しかも、執着なく空性にありながら。三輪清浄に。
根こそぎの生活は、根こそぎではない。
ゆえに、真の根こそぎの生活という…般若によって。
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菩薩になろう

2016年12月07日 | 法話関係
「菩薩」というと、観音菩薩や地蔵菩薩、文殊菩薩や普賢菩薩などを想像するかと思います。
そもそも「菩薩」というのは「ボーディ・サットヴァ」を漢字に移したもので、意味は「さとり・衆生」で、「覚りを求める人」「仏性を持った人」などの意味があると言われます。

そのような優れた心を完璧に実現した状態を、たとえば観音菩薩や地蔵菩薩として理想的に表現しています。それらの菩薩たちは、覚りや仏性、また心やいのちが目に見えないように、私たちの目には見えない存在ですが、必ずおられます。菩薩たちが今ここにおられると信じて手を合わせることによって、必ず心の目で見ることが出来るようになります。

ちなみに「仏・如来」というのは、菩薩を産み出す源で、菩薩が枝なら仏は幹です。根っこには、宇宙すべての根元である大日如来がおられます。

ところで、「菩薩」には、もうひとつの意味があります。
8世紀の学僧にハリバドラという人がいますが、彼は菩薩をこう定義します。

「菩薩とはさとりへの志願、という意味である。自分の利益であるさとりを求め、無執着に心が向けられている。また、大士というのは利他に徹底的に志願する者のことを言う」

大士というのは「大いなる衆生」という意味で、「菩薩大士」というように言います。最初に言った「観音菩薩」なども、正確には「観音菩薩大士」だと思ってください。

つまり、菩薩というのは、「覚りを求めて修行し、利他を行う志がある者」ということです。
覚りを求めるだけだと、慈悲がなく自己中心です。自分だけ楽になろうとするようなものです。利他だけなら、盲者が盲者の手を引いて穴に落ちてしまいます。
だから、この「自利と利他」をどちらも併せて「そうしよう」と誓ったものが、菩薩と言われるのです。
それを完成したら観音菩薩や地蔵菩薩ですが、私たちも、初心の菩薩にはなれます。菩薩の条件は、そう「誓って生きる」ことだからです。

具体的にどう生きるかということですが、それは仏教の修行をして生きるということです。

そうは言っても、どうしていいかわからないかも知れませんが、自利は「手を合わせ自分の心を整えて、怒りや貪りや執着の無意味さを考えること」が基本です。そうして、安定した平安な心になります。智慧の心です。
利他は、一に供養・回向です。縁のあったすべての者に、自分の善行の結果を受け取ってもらうことです。善因楽果・悪因苦果と言いますが、その「楽果」を振り向けて送ることです。これは亡くなった人にだけではなく、生きている者同士でも分け隔てなく出来るものです。慈悲の心です。

そうやって、自利と利他の志を誓い、その上でしっかり助け合って生きていこうと思えば、その人は既に初心の菩薩と呼ばれます。
更に精進して、ともに立派な菩薩になることを目指して、少しずつ歩んで参りましょう。

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雪山遭難

2016年12月07日 | 仏教・思索
人生は雪山で遭難するようなものだ。

崖や急斜面、一面の吹雪と低温、多少の食料と遭難仲間が心の支え。
前方は視界不良、岩陰に避難して一時、眠る。
時々は晴れ間も覗くものの、かと言って進む道はわからない。
昏睡して花園の夢幻に遊んだとしても、一瞬の後には雪に伏す我を見つける。

さて、その時に別の遭難者がやって来た。
「私も道を失った、ともに歩こう」と。
それは一時、心強く感じるかも知れない。
多少の食料も持っているようだ。

しかし、状況そのものは変わりはしない。
早晩、死ぬのである。

「同じ目線で」語ることを言う僧侶は、ともに遭難しているだけではないか?

さて。
遠くから声が聞こえる。
「この道を行けば助かるぞ」、と。
その声に従って、滑落することもあろう。
耳を澄ますと、四方八方から幻聴が聴こえる。

それを僕たちはどうやって識別しようか。
これは、山の知識だ。
それがあれば、遭難していても、ある程度はわかってくる。
仏教の勉強は、こういうときに必要になる。
そちらに歩き続ければ、きっと助かるだろう。

しかしそうは言っても、歩けないこともある。

そこにレスキューが来た!

ザイルを担いで、ここまで来てくれた。

彼は、遭難地点にいることは、僕たちと同じだ。
しかし、現在地点の認識と、救助の知識と、道と、志がある。
彼の励ましと応急治療とともに、彼が踏み固めた道を歩く。

同じ場所の者でも、遭難者とレスキューでは、やはり意味が違うのだ。

僧侶の「同じ目線で」とは、こういうことだ。
ともに遭難していてはいけない。
救助するために、必死に学び訓練し、雪山に踏み込む。
菩薩とは、こういうことではないか。
レスキューの装備が、法衣袈裟の意味ではなかったか。

レスキューは万能ではない。

しかし、手を尽くす姿に人は安心し、
たとえそこで死んでも、きっと納得はしてくれる。
ひとりでも救う、その姿こそが、僕たちの義務じゃないだろうか。
救うというのは、食料の供給じゃない、
無意味な希望的観測でごまかすことでもない。

立ち上がり、目を開き、進む勇気を持っていくことじゃないか。

確かに僕たち僧侶もある意味では遭難しているのだけれど、
地図もあり、道も知っており、如来の力を知っている。
それがここで実は背中を支え、包み込んでくださっていることをも。
それでもって、僕たちは道を踏み固める方法があることも知っている。

はじめはうまく固められなくても、方法論は知っているはずだ。

ともに歩こう。

手を取り合って滑落するためじゃなく、助かるために。
夢幻の中に救いはなく、ヘリは待っているだけだと、きっと来ないものだ。



そうして、「助かってから」後ろを振りかえると…なんと一歩も進んでおらず、
雲ひとつないヒマラヤンブルーの空が輝いているだけ。
レスキューも救助者も誰もおらず、抜けるような青に、
助けられた自分、助けた自分という者も貫かれてしまうだけ。

そういうものは、なかった。
これこそが、大夢大幻であったことだと。

眼底にはただ、ただなる青。
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菩提への…

2016年12月06日 | 仏教・思索
1051年、藤原明衡『比叡山不断経縁記』。

文字通り、比叡山において行われた法華経不断経に際しての縁起の記です。
不断経は現世利益を求めて行われることが多いのですが、その時に忘れてはならない重要なことが指摘されています。
これは、祈願や祈祷一般、あるいは供養においても同様です。
改めて、確認すべきことです。

…………………………

何に況んや縁に随ひて応ずるの日、病に依りて験を祈るの時、
妙文を読むと雖も、妙理を説くと雖も、偏に効験の臻るを願求し、菩提の道に廻向せず。
已に隣財の心を類計し、還りて只だ後世の悔を招くのみ。
懺じて懺ずべく、懺ぜざるはいかん。

…………………………

昨日書いた上東門院にしてもそうですが、日本の古い願文や縁起文には、確実な信仰の形があります。知識や心も持ち方もちゃんと仏教なんですね。
日本の仏教はあかん、偽物だ、外国のものに比べて…など言われますが、日本もかつてはこういう信仰があったんです。掘り起こしましょう。見直しましょう。こういうものは死んだ古典じゃなく、今でも十分に「リアル」なものです。
リアルに思わないのは、受け取り手の側の心の問題です。
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