प्रज्ञापारमिता

𝔇𝔥𝔞𝔯𝔪𝔞 𝔗𝔞𝔩𝔨, 𝔅𝔲𝔡𝔡𝔥𝔦𝔰𝔪, 𝔗𝔥𝔦𝔫𝔨𝔦𝔫𝔤, 𝔞𝔫𝔡 𝔱𝔥𝔢 𝔚𝔬𝔯𝔡

中央アジア

2016年10月31日 | 仏教・思索
最近は中央アジアを改めて学び直したいなー、と思っています。

中央アジアを学ぶには、時期的・空間的にふたつに分けて考えるのが便利です。
時期的に、というのは、イスラーム以前以後。
空間的に、と言うのは、東西のトルキスタン。

仏教者としてもっとも関心を引くのは、イスラーム以前の東トルキスタン。いわゆる「西域」と呼ばれた地域です。大部分が今のウイグル。新疆ですね。
ここは外せません。

一方、西トルキスタンはイランの影響が濃厚で、今まで仏教者の関心をあまりひいて来なかったんですが、イスラーム以前の西トルキスタンやイランというのは、大乗仏教成立に関しては実は外せないのですけれど、一種の盲点としてスルーされてました。ここも興味深い。

イスラーム以後については両地域ともスルーされますが、東トルキスタンでなぜ仏教が一気に瓦解してイスラーム化したのかを検討することは、仏教の持つ特徴や弱点を炙り出すには役立つはずです。

イスラーム以後の西トルキスタン、イラン。ここはスーフィズムの地でもありますが、この思想は非常に仏教を逆照射するのに重要な思想だと思います。井筒の仕事の焦点のひとつが、この地域です。

インドから日本に仏教は来ました。その過程でどのような変容を遂げたのか、ミッシングリングが、東トルキスタンです。そして、大乗仏教とは何かを考える時のミッシングリングは、西トルキスタンとイラン。

その周辺地域のモンゴルやアラブも視野に置きつつ、この中央アジアを学ぶことは、僕たちの仏教の歴史的また思想構造の経歴を明らかにすることに直結します。

なんつって。

色々と言いますけどね。

サマルカンド。イスファハン。

青!青!青!

それがすべて。

チベットも青いけど、トルキスタンも青いぞ!

大好き!

……………………

と言うわけで、暫くはこのあたりも勉強の対象に取り上げてみたい…とは思いつつ、時間と能力の問題があいますから、結局は絞っていかざるを得ないのが悲しいところです。
まぁ、イスラーム以前の東トルキスタン、いわゆる西域をやるだけで僕には精一杯だと思う。あとこれにモンゴルとか周辺の歴史や社会をちょっと押さえるくらい…。
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苦海

2016年10月27日 | 仏教・思索
太平洋のど真ん中に放り投げられて、あなたは溺れている。
沈みそう、苦しい、先が見えない、暗い、冷たい、サメが寄って来る。

そんな海を溺れながら浮つ沈みつ、漂う。

頭が上に出ている時に呼吸をし、沈む時にはわけがわからない。

海は、輪廻の全体だ。

少しの間、頭が海の上にでている時が、まさに今、現世である。
海の下にある時が、死んでいる時である。
その後また浮かび上がれば、来世である。
そうやって、苦海を浮き沈みしながら、いつ果てるともなく漂い続けている。

今、頭はたまたま、海の上にあり、一息付けている。
呼吸が、できている。

ふと見上げると、美しい雲、穏やかな風。
もしかしたら何かしらの食料が漂ってきて、思いがけず食べられるかも知れない。
少しまどろめば、蠱惑的な夢の世界に遊べることもあるだろう。

人はこの一時の「楽」がいつまでも続けばいいと思う。

しかし波に翻弄されて、あなたは溺れているのだ。

忘れてはいけない。

すぐにでもまた、あなたは波にのまれて沈んでいくだろう。
この苦海から脱しない限り、いつまでも溺れ漂流する事態は何も変わらない。

だけれども、この海には陸地などないのだ。

助けに来る船とて、ありはしない。

さぁ、どうする、どうする。

そう。

溺れるあなたがあるうちは、終わらないのだ
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ラムツォ・ナムスム

2016年10月26日 | 仏教・思索
チベット仏教の基礎を築き上げたツォンカパ(1357-1419)の著書に、『ラムツォ・ナムスム』というものがあります。正確には、文殊菩薩から直接に伝授された教えですから、「著者・文殊菩薩」と言うべきかも知れませんが。

この『ラムツォ・ナムスム』は、文殊菩薩直伝の「覚りへの三つの秘訣」です。
如何に六波羅蜜を行おうとも、「一切衆生のために仏陀にならねばならない。そのための行をせねばならないので、この教えに入るのだ」との菩提心を起こすことがなければ、輪廻の業にしかなりません。そして仏陀になるために、文殊菩薩はツォンカパに「解脱を得たいのであれば、一般に優れるとされる秘訣や甚深なる教えを一時脇に置いて、まず出離の瞑想をすべきである」と述べました。

つまり、この『ラムツォ・ナムスム』こそ出離の道であり、すべての行の根源であるわけです。


 ………………………………………………………

『修行道の三要素(ラムツォ·ナムスム)』 ツォンカパ

至高の尊いラマに礼拝いたします


勝利者〔仏陀〕のすべての教えの真髄を
聖なる勝利者の息子〔菩薩〕たちが讃える修行の道を
解脱を望む恵まれた者たちが入るべき門戸を
私ができる限り説くことにしよう


輪廻の快楽に執着せず
有暇と幸運を活かすために努力し
勝利者〔仏陀〕の喜ばれる修行の道を信じて
恵まれた者たちよ、澄んだ心で聞きなさい


純粋な出離の心がなければ
輪廻の海で快楽の果を求める心を鎮める手段はない
輪廻への愛着により、有情たちは完全に束縛されているのだから
はじめに出離の心を求めなさい


有暇と幸運を得ることは難しく
人生には無駄に費やす時間はない
これに心を慣らしていけば、今世への執着は色褪せていく
因果の法に偽りはないことや
輪廻のさまざまな苦しみを何度も考えてみるならば
来世への執着も色褪せていく


このように心を慣らして
輪廻の栄華を願う心など一瞬たりとも起こすことなく
昼夜たゆまず解脱を求める心を持てたなら
その時こそ出離の心が生じる


出離の心もまた
純粋な発菩提心に伴われていないと
無上のさとりという卓越した幸せの因とはならないので
智慧ある者たちは最もすぐれた菩提心を起こしなさい


〔欲望、執着、邪見、無知など煩悩の〕四つの激流に押し流されて
絶ちがたい業にきつく束縛され
我執という鉄の檻に閉じ込められて
無明の厚い暗闇に覆い尽くされている


限りない輪廻の生を繰り返し
三つの苦しみに絶え間なく苛まれている
このような母〔なる有情〕たちのありようを思い
最もすぐれた〔菩提〕心を起こしなさい


〔すべてのものの〕ありようを正しく理解する智慧がなければ
出離の心や菩提心を育んでいても
輪廻の源を絶ち切ることはできない
それ故、縁起を正しく理解するための努力をしなさい

10
輪廻と涅槃の一切の現象が
因果の法を決して偽らないことを知り
認識対象に〔自性があるという〕誤った考えをすべて断滅した者は
仏陀の喜ぶ修行の道に入る

11
あらわれとは誤りなく縁起するものであり
空とは〔自性を〕受け入れないことである
この二つの理解が別々にあらわれている限りは
まだ成就者〔仏陀〕の真意を正しく理解していない

12
〔この二つの理解が〕いつの日か交互でなく、同時にあらわれ
縁起に偽りがないことを見ただけで
認識対象には〔実体があるという誤った〕とらえかたをすべて滅したならば
その時こそ〔空の〕見解の分析は完全なものとなる

13
さらに、あらわれによって実在論を取り除き
空によって虚無論を取り除き
空が因や果としてあらわれるさまを知ったなら
もはや極端論にとらわれることはなくなるだろう

14
このように修行道の三要素の真髄を 自らかくの如く正しく理解した時
静謐の地にとどまり、精進の力を起こして
めざす境地を速やかに成就するべきである 我が子よ


この教えは、多聞の比丘ロサン・タクパ(ジェ・ツォンカパ)が、
その 弟子ガワン・タクパに授けたものである。



四暴流 

因の四暴流 … 貪欲・邪見・有・無明
果の四暴流 … 生老病死
 
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(二而不二とはなにか)

2016年10月24日 | 仏教・思索


二であり、また二ではない。

維摩の黙雷は不二と言う。

それもそうだが、それは色即是空だ。

空即是色。二而不二。

こういうことです。





















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戒体

2016年10月21日 | 仏教・思索
「戒体」という言葉があります。

簡単に言うと、「受戒によって戒を守り成仏・覚の原因となる戒体を獲得する」というように使われるようですが、イマイチよくわからない言葉です。『大辞泉』には、「戒を受けることによって備わる、悪を防ぎ止め善を行う力」とあります。
まぁ、日本語としてはわかりますが、具体的にでは、どういうことかと言われるとなかなか説明が難しい。

今回は、これを説明しますが、まずふたつの事を確認します。
ひとつは、「業」について、もうひとつは「七仏通誡偈」です。

まず「業」ですが、ご存知の通り、業は「行為」また「行為によって苦楽の果をもたらすこと」ですが、これは基本的に三つに分けられます。
これもご存知だと思いますが、「身業」「口業」「意業」です。中心は「意業」ですが、いずれにしても身と口と心のみっつの行為が、私たちの行為のすべてです。これらをまとめて、「表業」といいます。これらの業には悪業・善業・善悪業・不善不悪業がありますが、今はそれは措いておきます。

また、「無表業」というものもあります。「表沙汰にならない業」ということですが、これは行為によって薫習していく「業熟力」というようなもので、たとえば車の運転を現にすることは「身業」ですが、練習・経験によって「運転能力を獲得している」という事実を無表業といいます。これも、発現はしていないのですが、広い意味で「業・行為」に含まれます。状況が整えば表に出て来るものだからです。
一方、車を見たこともない人であれば、状況が整っていても運転と言う身業は発現しません。しかし免許を持っている者であれば、無表業として伏在的に「練習・経験」が五蘊のうちに継続していますから、運転ができるわけです。

次に「七仏通誡偈」。
ウィキペディアから引用しますと…

諸悪莫作 ― もろもろの悪を作すこと莫く
衆善奉行 ― もろもろの善を行い
自浄其意 ― 自ら其の意を浄くす
是諸仏教 ― 是がもろもろの仏の教えなり

つまり、「悪い事をせずに良い事しましょうぜ」ということです。
これが、仏教のすべてです、という言葉です。

正直、「は? それだけですか?」ですね。僕もそう思います。
高尚でも難解でもない。
どうしてこれが「究極」なのかよくわからん、というのが実際のところですね。

これは実は、単に「道徳」スローガンを貼り付けているようなものではなくて、正しく「無表業」のことを述べているのではないかと思います。
車の運転のように、善業を蓄積すればそれが薫習して自然に楽果をもたらす行為ができるようになり、逆に悪業を蓄積すれば苦果をもたらします。無漏業によって解脱・覚につながっていくのも当然です。
当たり前のことですが、もっとも重要な「因縁果」「縁起」の理法を端的に示すものであるがゆえに、古来より「仏教の究極」とされて来たのでしょう。

で、「戒体」です。

もう一度、繰り返して確認します。

「戒体」とは、「受戒によって戒を守り成仏・覚の原因となる戒体を獲得する」「戒を受けることによって備わる、悪を防ぎ止め善を行う力」。
これは無表業のことですね。

受戒することは、覚りへの重要な第一歩です。この第一歩を、「受戒する」という「表業」を行うことで、確実に「無表業」が発生します。弱弱しくとも、必ず。善の因は必ず、どんな些細なものであれ「楽果」をもたらします。それを僕たちが記憶していようといまいと、必ず。逆もまた然りです。

受戒の行為は消えません。業は消えない。無表業も消えないんです。
もちろん、車の運転も「習熟すればするほど」うまくなります。しかしペーパードライバーであっても、まったく車を見たこともないような人に比べたら、圧倒的に運転できるわけです。無表業は、消えません。普段まったく意識していなくても。
戒体も同じことです。受けたものは、消えません。しかし、習熟すべく「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意」の生活を一進一退しつつも心がけていくことで、無表業は強化されます。戒体が確立します。
ですから受戒は「守れなくても意義があります」。その時だけでも真剣に受ければいいのです。ただし、それでは自動車学校に一日通っただけです。無意味ではないけれど、運転は出来ないでしょう。しかし、第一歩はそこです。
その後、少しずつでも戒を意識し、前を向く生活をする。受戒は何度受けても良いですし、それよりも大切なことは、生活の中で戒を自分に馴染ませていく「表業」を繰り返すことです。「表面的じゃないかな」「偽善かな」と思っても、まずやってみて、少しずつ「表業」を積みましょう。それが徐々に「無表業」「戒体」として成熟し、自由自在に車の運転ができる境地に、少しずつ近づきます。

そうしてその先に、すべての有漏の業も無表業も超えた無為の絶対的覚が開けて来るのですが、それは「戒」を確立したその先、定・慧によってです。このみっつは実は当然ながら並行していくべきものですが、僕たちが現実に初心から実践していくにあたっては、まず「戒」が第一歩で、善因を蓄積していく行為が大切になって来ます。

それが、是諸仏教です。
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真言密教とチベット密教

2016年10月20日 | 仏教・思索
チベット密教は「後期密教であり、インド仏教のストレートな後継者」で、日本密教は「中期密教で、後期密教を知らない中途の密教」であると以前、言われたことがある。
真言宗の僧侶ですら、そう思っている人がいてびっくりした。
確かに前期・中期・後期、あるいはチベット密教によるプトンの四タントラの分類で考えると、日本密教は一見すると「中途」に見えるかも知れない。しかしそれはあくまで、「チベット密教の立場」での分類だ。

僕の考えはちょっと違う。

チベット密教は確かに「後期密教」を受け継いで、チベットで発展していったものです。しかし「インド後期密教そのままではない」。発展しているんです。そしてその「インド後期密教」は、中期密教を基盤として発展した。
日本密教も同じくインド中期密教を基盤として、西域・中国においてそれを発展させて、日本で完成されたわけです。「日本の真言密教からチベット密教が出てきたわけではない」ということをみんな、忘れている。

つまり、

インド中期密教 → インド後期密教 → チベット密教
インド中期密教 → 大唐密教 → 真言密教

という過程で発展して来たわけですから、同じ根っ子から出て来た「違う果実」であり、決して「中途の密教」ではありません。
ここは声を大にして言いたい。
日本の真言密教がチベットに学ぶのはいいけれど、「チベット密教によって真言密教が完成される」わけではない。ここはとっても、重要なポイントだと思います。

「中期」とか「後期」という「インドにおける」単なる時期の区分が、価値区分に無意識に転嫁されてしまっている。

事実、日本密教にあってチベット密教にない重要な思想もあります。

たとえば、よく言われる「両部思想」もそうです。チベットにないから「イレギュラーな思想」というわけではなくて、これも重大な思想的発展であり、ひとつのサミットなんです。
またたとえば、「理具・加持・顕得」の三種成仏思想も僕が思うに、実践過程の具体的裏付けとして非常にシンプルで素晴らしい日本密教の考え方だと思っています。

チベット密教と真言密教は兄弟です。しかも双子です。上下はなく、根っ子を同じくする、違う幹です。
お互いに示唆し合える素晴らしい関係を築けると思いますが、どうも日本真言密教のほうに、自信がなさ過ぎるのが気になります。この1200年の真言密教の蓄積は、その文献の難解さによってまだまだ解明されていない部分が大きいのですが、それだけに、安易に接ぎ木をするのではなく、まずは自らの幹と根をしっかりと見直して育てていくことをこそ、考えていくべきだと思っています。

チベット密教の勉強をするな、ということではありません。
僕も今しています。とても有益で、日本仏教と違う素晴らしさを感じています。正直、レベルは高い。
だからこそ、真言密教をしっかりと確立して向かっていかなければ、接ぎ木すら「正しく」できないと思います。

まぁ、腑抜けのチンケな真言坊主の僕が言うのも何ですがね。
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イラン的

2016年10月19日 | 仏教・思索
「インド学仏教学」と言うように、仏教というのはインドの思想・宗教世界を基盤として成立展開してきたことは確かです。そういう意味で、バラモン教・ウパニシャッドから六派哲学、現代のヒンドゥー教を視野にした研究や研鑽は非常に重要で、かつ理由のあることです。
また、日本の場合は漢訳仏教世界で、儒教や道教や神道などとの関係性も考察されるべきでしょう。

しかし、こと「大乗仏教」ということを考えたとき、「西方」というものがあまりにも看過されてしまっているような気がします。あるいは、「ユーラシア」というべきか。

大乗仏教の理念や考え方の枠組みというものには、無視できないレベルでイラン的な思想があります。このイラン的な思考回路は、たとえばイスラームにおいても特異な流れを形成しています。そして中央アジアにおいてかつて大乗仏教が、そしてイスラームが仏教を駆逐して浸透した背景には、この「イラン的なるもの」の力がとても強かったのではないかと思うんです。
結局、中央アジアはイラン文化圏であり、大乗仏教であれイスラームであれ、実は基盤の思考回路はそう変わっていない…という、なんとなくの感触が、僕にはあります。

中国・インド・アラブという屹立した文化圏のみを取り扱う場合、確かにそれぞれの宗教文化は違いが目立つのですが、それらすべてを繋ぎ合わせる中央アジアの大動脈地域において、それらを融合させる「見えない」巨大な「もうひとつの精神世界」が、古代から現代まで厳然と存在しているのではないか。
それらをある時期に構造化したものが、西域仏教であり、イスラームシーア派であり、スーフィズムであり。

中国においての仏教認識はインド的であるとともに、実はその本質は「イラン的」な部分がかなり大きかったのではないかと。日本の正倉院においての伝来物は、果たしてインド的なのか、イラン的なのか。

大乗仏教というのは、そういう巨大な間文化的な息吹を、インドを母体にしつつも更に時空を拡大して受容発展させてきた、そんな体系なのではないだろうかと思います。
これは、「大乗は便宜主義で混乱した思想だ」というのではなく、却って逆で、特定の文化圏に限定された「言語分別認識レベル」にとどまらず、多様な現象をそれはそれとして受け入れつつも、その源底に「言語を超えた巨大な言語分別できない真理の光」を体感的に獲得する、という方向を濃厚に保つものであり、ある意味で「特定の文化的宗教」が、真に「普遍的な宗教」になり得た(なり得る)その秘密なのではないかと。

となると、大乗仏教の理想を極限まで考察する場合、インド思想はそれはそれとしてもちろん重要ですが、同時に、もしかしてそれ以上に、イラン的な思想…今はそれはシーア派やスーフィズムに体現されているのでしょうが、それの考察こそ大切になっては来ないでしょうか。
井筒俊彦は、個別の宗教のドグマを超えた「東洋の哲学」の基層的同一性を探求せんとしましたが、大乗仏教の立場としても、それはとても大切な視点なのではないだろうかと、思われるんです。
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衒学趣味?

2016年10月17日 | 仏教・思索
Facebookやblogなんかで、レベルはそう高くないものの仏教関係の細かい、あるいは教義的、思想的、歴史的な問題について書くこともありますが、以前いちど「そんなことは机上の空論で、我々の苦しみに関係ない衒学趣味で無意味」「もっと社会運動やれ」と指摘されたことがあります。

さて、どんなもんでしょう。

たとえば、医者が細かい医学的な話をしていて、「それは患者の風邪を治さないものだ」「すべての医師は臨床であるべきだ」と言いますでしょうか。たぶん、言わないでしょう。
もしくは、「一般人が見ているFacebookでは、風邪や病気で深刻に苦しんでいる人が多いのだから、そういう話は不謹慎だ」とでも言うでしょうか。それもたぶん、言わないでしょう。

仏教も、僕は同じだと思うんですよね。

たとえば「心王と心所とは何か」とか、「三性説による世界認識のありかた」「真如思想の変遷と行論」について話をしたり学んだりすることは、それを根拠として仏教の思想は成り立つわけですから、当然に実践の根拠になります。必要なんですよ。
それは一種の「研究」的なものの蓄積です。その成果を臨床医は咀嚼しつつ、患者と向き合うわけですよね。僕たちも、研究医である学者や学僧の蓄積を学んで突き詰めて、臨床であるそれぞれの現場、寺や自行にフィードバックするんです。
その大きな基礎の部分を、いまはネットと言う環境がありますから、有志とお話をする、という。

臨床にしか興味のない僧侶は、危険です。しかし逆に、研究のみの僧侶は、確かにある意味で役に立ってくださっています。僕たちは、後者から多大な学恩を被ります。

一般的には枝葉末節で無意味でツマラン議論に見えるかも知れませんが、こういう無意味に見えることを理屈でネチネチ考えるのが坊主の仕事で、これを蓄積していくことで、現場に活かせることが出来るわけです。
その過程は昔はあまり外部に見えなかったのですが、今はその過程の一部がネットに出てきていますから、多少の違和感を一般の方が感じるのは致し方ないのかも知れませんけれども、まぁ…生温く見守っててください。

ネットに書いてるようなことが、僕たちのやってることのすべてではありません。具体的な活動は、毎日毎日、現場でやっていますから。
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仏教の歌・三密

2016年10月07日 | 仏教・思索
仏教には「歌」があります。

真言宗であれば、インドの言葉・漢文・和文によるものがあります。
インドの言葉というのは、たとえば法事の時に「前讃」というものがあります。漢文なら「後讃」です。
これらはポピュラーなものですが、このふたつはいわゆる「声明」と言われるものです。
和文のものは、「御詠歌」「和讃」と言われるものですね。

さて。

仏教においては、身と口と心の三業を正しく「運用」することを求めます。
この三つ以外の行動を取ることは、人間には出来ません。
この三つが四六時中、正法に則って自然に清らか(無執着)に為されるものを「仏」と言います。
それが出来ないのを、凡夫と言いますね。
そしてその「仏」と「凡夫」の間に、「菩薩」があります。
菩薩は、仏に向かって修行する者ですが、その菩薩は仏になるための修行、プラクティスを行います。

プラクティスにあっては色々な方法があります。

正統的には、たとえば「戒」を守り「定」を修する、六波羅蜜や四無量心を実践する…等々。
そうして、声明や御詠歌もその「修行」のひとつです。

先に三業の話をしましたが、御詠歌は、身を正しくして鈴鉦を持ち、口に詠歌を唱え、心に歌詞を念じます。
この時、三業がすべて仏に向かっています。
正法に則って、自然に、清らかに、三業が三密となっています。

歌っている間は、このように、「あなたは仏です」。

が、悲しいかな、たぶん終われば凡夫ですね。

しかしこれを続けていくことで、徐々に身口心が清くなります。
薫習と言います。
意識して、真剣にこれを修めていくことは、そのまま仏業です。成仏です。

御詠歌に限らず、日々の仏壇前での勤行も同じです。座禅も念仏も題目も行法もマントラも、すべて同じです。
仏の働きなんです。
いずれ、日々の生活のひとつひとつに慈悲や智慧が浸透します。「ダルマ」が貫いて来ます。
少しずつかもしれませんが、決して後退しない、確実な道です。
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霊能力

2016年10月07日 | 仏教・思索
霊能力を信じますか信じませんか、とか聞かれることが稀にはある。真言宗だからかな。
まあ、答え方のトーンは人と場合によるけど、身も蓋もなく言うなら、

どうでもいいわ、そんなこと

これに尽きる。
あったら何かあなたの心が向上しますか、ないと向上するんですか。
幽霊もそうだけど、見えたら見えるんだし、見えないなら見えない。それ以上に何かこだわる必要を感じない。

「不思議な出来事」くらい誰にでもひとつやふたつあるでしょうけど、それを精一杯否定したり口角泡飛ばして肯定したところで、生きて死ぬこのワタシが善なる道を歩まないなら意味はないし、善なる道を歩むのに、霊能も幽霊もあまり関係ないんだな…。


 ※※※※※※※※※

みんな、死ぬまでそんなに時間ないよ?

起きよ、努めよ、歩け、目をさまして善く生きよ。
明日には死に臨むのだから。


 ※※※※※※※※※


しかし、こういう言い方をすると、人は都合よく勝手に僕の「思想」を作ってくれる。「霊はいないと思っているのだろう」と。
人は、自分の概念や前提に合わせて、物事を判断する傾向がある。これは致し方ないのだけれど、とても鬱陶しい心性だ。もちろんその迷妄性は、僕だって逃れ得ない。

いるともいないとも、僕は言っていない。

いや、ある意味ではいるのだろう。
いるのだろうけれど、いたから何だって言うんだ、と。
またある意味では、そういうものは迷妄なのだろう。
しかし僕たちが認識しているもので、迷妄でないものなどあるだろうか。

そこのところが大切なのであって、霊がいるかいないか、あるいは霊能力があるかないか、なんて、本質的にどうでもいいことだと思う。
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