प्रज्ञापारमिता

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2016年09月29日 | 仏教・思索
僕は仏教徒です。

仏教徒の定義としては、「仏法僧の三宝に帰依する」ことを表明するに尽きます。
その内実は人により(びっくりするくらいの)違いがありますが、いずれにしても三宝帰依が基本です。
で、仏教内で説かれるものをしっかりと学び「実践する」ことが大切です。
ここにはそう知識や学識が問われるわけではありません。
殺すな、盗むな、慈悲の実践、あるいは相依性の理解などは、別に特別な学識は必要なくて、基本的なところを学べば、あとは実行するだけ。出来るかどうかは別として、構造としてはシンプルです。
この限りにおいて、別に他宗教に対する知見とか、語学とか、詳しい文献学やなんかはどうでもいい。それはなくても、立派な仏教徒にはなれるし、きっと覚りに至ることも出来る。必要十分です。

さてしかし、それだけでいいのにも関わらず、仏教というものの構造や思想哲学、歴史などをもっと知りたい、という知的欲求というものも出て参ります。知的欲求でこれらを学ぶのは、下の下です。下手をしたら高慢の種にもなりますから、もし「知っている」ことによって悪趣に落ちるくらいであれば、仏教の勉強はしないほうがいいでしょう。仏教の実践をしっかりとやって、あとは世俗のことを学ぶ方が有意義です。
しかし、自分の中で仏教の教えをより深めていく、根拠を持って慈悲や世界観を確立していくためであれば、仏教の学問というものはとても有意義であるのは事実です。その場合、しっかりと学ぶのは良い事だと思います。

学ぶ場合、もちろん基本的には「内道」つまり仏教そのものをしっかりと学ぶことが大切で、その学ぶための順序というものも重要です。いきなり宗学から始めるのはお勧めできませんが、それについては別の機会に。

さて、仏教を学ぶという行為の一環として、他宗教や思想を併せて学ぶべきかどうか、という問題。カウンターとして何かを学ぶことで、より客観性が担保できるかどうか、ということですが、基本、必要ありません。
勉強の目的が「自分の中で仏教の教えをより深めていく、根拠を持って慈悲や世界観を確立していくため」である限り、仏教だけで十分です。余計なことをする必要性はありません。
しかし、たとえば仏教以外の場面で自己の所感を述べようとする場合には、やはり「他の概念」についての配慮が必要になります。それがないと、カルトのように自己正当化と排他という「アタマの悪い喋り」になる危険性が常にあります。それを防止するためには、ある程度は他宗教や思想について学んでおくことは無意味ではないと思います。

では、何をするか。

あれもこれも宗教オタクになる必要はないです。
視野を広くするのを担保しつつ、客観性を保つためであれば、取りあえずひとつ、仏教と平行して学んでおけばいいのではないかと。それ以上に手を広げる時間があるなら、仏教やりましょう(笑)
んで、その「ひとつ」ですが、これは色々…個々人の問題意識や縁に寄ってやればいいと思います。
日本人ですから神道でもいいし、ヒンドゥーでもいい。キリスト教でもいいし、イスラームでもいいし、西洋哲学や自然科学でもいい、道教や儒教でもいい。まぁただ、仏教と違うベクトルのものにしたほうが良いとは思います。そのほうが幅が出て来るので。

文献学やったり比較思想きちんとやるような人は別ですよ。
あくまでも、普通の仏教徒として学びたい、という人に向けての話です。

僕は何をやってるか、ですか?

僕は馬鹿なので、ほぼ仏教だけです(笑)
ごめんなちゃい。
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応無所住、而生其心

2016年09月12日 | 仏教・思索
一部の宗派で言われているような、一般的な修行やっちゃいかんとか、やる必要がない、「それは自力だから」…ということをつらつら考えていたのですが、結局、「まさに心の住するところなくそれを生じなさい=応無所住、而生其心」という、仏教の基本を言うことが本質なのではないかと。
「私が修して、そして誰かを度脱させるのだ」という心は、たとえば「金剛般若経」でもサクッと戒められている基本のキ。

問題は、「だからやる必要ない」ということになるのか、それとも「そのように度脱させることは、実は度脱させることではない」ゆえに「これを度脱させるのだ」となるのか。

様々な行、たとえば「布施行」にしても、「この布施によって誰かをオレが救うぞ」というのはアウトだけれど、三輪清浄の布施は菩薩の行である、そしてそれは菩薩の行ではないと認識するところから、菩薩の行が生ずるのだ、と。

つまり空観を基盤にして、「外面的な行為としては」まさに修行するし布施行もしているわけです。「他力は他力ではない、ゆえに他力という」「自力は自力ではない、ゆえに自力という」境地では、このようになるはずです。

それを殊更に「他力」にこだわると、「他力は他力であり自力とは違う、ゆえに他力である」という、世間的にはしごくまっとうな理屈になりつつ、仏教からは遊離していく。

なんてことをね、徒然に考えていたわけです。



それにしても、「応無所住、而生其心」というのは良い言葉ですね。
前半は自利の基本・後半は利他の基本。一句で自利利他相即円満。
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祈祷

2016年09月03日 | 仏教・思索
そもそも祈祷のイロハのイは、懺悔と調伏です。

調伏って言うと怖いようですが、自分の心が仏法を離れて疑いや無知、あるいは怒りや貪欲、具体的には三帰依そして十善戒、四無量心等から遊離して怠惰や高慢、三毒に陥ることを調えて伏するのが、それです。
祈祷とは、そのように心を作り明徴な眼を生じさせていただき、具体的な問題に対処する確かな力に導いてくださるよう、そうして善悪業を懺悔と調伏の功徳によって楽果への縁としていけることを祈るものです。

しかも基本、他者のために。

金儲けしたいとか恐怖によってするもんじゃない。

そもそも、除霊とか現世利益の祈祷とか、誤解を恐れずに言えば、ちゃんちゃらおかしい。
日常に懺悔と調伏を意識していれば、そんなもの必要ない。
ダスキンに年に何回か金払ってハウスクリーニングしたって、どうせすぐ元の木阿弥。自分で毎日ちゃんと掃除してたらダスキンなんかいらん。そういうことよ。

どうしても収拾つかんときは一緒に大掃除(祈祷)しますが、基本、寺はダスキンじゃない。掃除道場や。
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