प्रज्ञापारमिता

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月輪観

2016年06月28日 | 仏教・思索
『月輪観法』。

定式のやり方もありますし、数息観や阿息観と一緒にやる、あるいは座法、「阿字観」との関係など、突っ込めば色々と突っ込んでいけますが、まぁ、この際そういうことは忘れましょう。


お月さん。

満月の。

そのお月さんを縁として、この私の心の本質と菩提心とは同じものなんだ、ということ。
菩提心ってのは、まぁ、「さとりの心」「さとりを求める心」、色々と言われるけど、ここでは「さとりの心」「仏のいのち」「仏性」「法性」…まぁ、「でっかい、大きな、全部を包み込む智慧と慈悲と光いっぱいの、仏さまの心」と思ってください。
その心は、実は「この私の心と同じ」ということ、それを実感するための観法が、月輪観です。

とっても、シンプル。

シンプル過ぎて拍子抜けしますか?

まぁまぁ、まず、仏さまに礼拝してみましょう。

あれ、ご本尊…?

あー、「月輪観本尊」というものがあります。黒地に白い丸の描いてあるもの。



ない?

あぁじゃあ、仏壇の前で良いですよ。

んで、イメージしてください。

目の前2mくらい先、目線よりちょっと下に、真っ白い丸がある…と。

ホンモノの月をイメージできるなら、それでもいいですよ。

いっそ、満月のお月さまの下でやってもいいかもね。



まぁとにかく、そうやって、本尊に対して、礼拝です。

おん さらばたたぎゃた はんなまんな のうきゃろみ 
おん さらばたたぎゃた はんなまんな のうきゃろみ
おん さらばたたぎゃた はんなまんな のうきゃろみ

これは、すべての如来の御足を礼拝し奉ります、という意味です。
そうして、三度、礼拝します。

そして、ゆっくりと座ります。
椅子でもいいし、正座でも、座禅みたいな座り方でも、とにかく楽に。
出来たら、背中が伸びるような座り方を。

で、お腹の前で、軽く円を作って…そう、座禅のアレです。

そして、

「我、自心を見るに形月輪の如し、如何が故に月輪を以って喩とするならば、謂く、清月自明の体は、即ち菩提心と相類せり」…と思いを定めます。つまり、「私の心はお月さまのようだと考えます。何故かというと、それは菩提心・仏性と似た姿をしてるから」…と。

で。

ここが私のやり方のミソですが、興教大師覚鑁の「月の十徳」を使って、観想…瞑想します。
「月の十徳」というくらいですから、十の文章があります。
観想では、全部は使いません。どれかひとつです。
どれを使うかは自由です。毎日順番にやってもいいし、十面体サイコロを使っても結構。決め方は自由です。

姿勢はそのまま、手もそのままで。

以下の十。

一、円満 月の円満なるが如く、自心も欠くることなし。
二、潔白 月の潔白なるが如く、自心も白法なり。
三、清浄 月の清浄なるが如く、自心も無垢なり。
四、清涼 月の清涼なるが如く、自心も熱を離れたり。
五、明照 月の明照なるが如く、自心も照朗なり。
六、独尊 月の独一なるが如く、自心も独尊なり。
七、中道 月の中に処するが如く、自心も辺を離れたり。
八、速疾 月の遅からざるが如く、自心も速疾なり。
九、巡転 月の巡転するが如く、自心も無窮なり。
十、普現 月の普く現ずるが如く、自心も遍く静かなり。

どれかを選んで、好きなだけ、月と自分の心を交流させてください。
月は、仏さまのいのちです、心、光です。

暫くしましたら、次は、その月と自分の心をひとつにして、大きく大きくしていきます。
宇宙いっぱい。

小さく小さく、胸の中に宇宙ぜーんぶを収めてください。

また大きく大きく、小さく小さく…。

これを広斂観と言います。

姿勢はそのまま、手もそのままですよ。

そして最後に自分の胸にすべてを収めて…光いっぱいになりましょう。

それからゆっくりと、「光いっぱい」の仏さまのマントラを唱えましょう。
三遍、あるいは七遍。

光明真言でもいいです。おんあぼきゃべいろしゃのう…。
阿弥陀小呪でもいいです。おんあみりたていぜいからうん。
六字名号でもいいんです。南無阿弥陀仏。

え、なんで阿弥陀さん?

無量光如来と言うのですよ!

手は「合掌」もしくは「定印」等々。

私は往生呪。これも「無量光」の真言。

さあ、そうして最後に、

おん さらばたたぎゃた はんなまんな のうきゃろみ 
おん さらばたたぎゃた はんなまんな のうきゃろみ
おん さらばたたぎゃた はんなまんな のうきゃろみ…

…。

あれ、何も変わった感じがないなー、って。

それでいいんです。

この観法は、ちょっとずつ、仏さまに近づく自分の心を整理するためのものだから。
というか、仏さまの心を、自分の心のなかに発見するための環境づくりのものだから。

真剣にやったら、これだけで「仏さまに、あなたはなれます」けれど、なれなくたって、全然、構いません。そういうことじゃなくて、まず「落ち着け、自分」と、そうやって、自分自身を静めて、大きないのちと自分とが連結していると、そう「信じる」ための第一歩の行です。

だから、とりあえず、変わらなくてOK。

そのうち、ちょっとずつ、変わるから。

ありがとうございました。
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飲酒

2016年06月27日 | 仏教・思索
特にコメントはつけません。
『スッタ・ニパータ』より。

Abrahmacariyaṃ parivajjayeyya,aʼngārakāsuṃ jalitaṃva viññū;
Asambhuṇanto pana brahmacariyaṃ,parassa dāraṃ na atikkameyya.
Sabhaggato vā parisaggato vā, ekassa veko na musā bhaṇeyya;
Na bhāṇaye bhaṇataṃ nānujaññā, sabbaṃ abhūtaṃ parivajjayeyya.

また飲酒を行ってはならぬ。この(不飲酒の)教えを喜ぶ在家者は、他人をして飲ませてもならぬ。
他人が酒を飲むのを容認してもならぬ。―これは終に人を狂酔せしめるものであると知って―。
けだし諸々の愚者は酔のために悪事を行い、また他の人々をして怠惰ならしめ、(悪事を)なさせる。
この禍いの起るものとを回避せよ。それは愚人の愛好するところであるが、
しかし人を狂酔せしめ迷わせるものである。
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真っ黒な絵

2016年06月24日 | 法話関係
私たちはどうしても、ものを一面的に、自分の考えを中心にして見て判断してしまいがちです。そうやって、相手の本当の心を誤解して他人を傷つけてしまうことも多いものです。「あぁ、自分の見方が間違っていた」と気づけばいいのですが、大抵は誤解したままで過ごしてしまいます。

仏教学者の木村清孝氏の著書に出ていたエピソードですが、ある自閉症の男の子A君がいました。
支援学級(昔は養護学級とも言いました)で、「お母さんに感謝の絵を描きましょう」というテーマの授業があったのですが、A君は、赤・黄・緑のクレヨンでいくつか丸を描き、その後で画面いっぱいを黒に塗りつぶしてしまった絵を描いたそうです。
完成した絵は、赤・黄・緑の丸はぜんぶ消されてしまい、ただ真っ黒な一枚の絵が残りました。

先生はこの絵を見て悩んだそうです。

「何か不満や、怒りがあるのではないか」「家庭環境や学校に問題があるのではないか」「この子は大変な子供かも知れない」と。おそらく頭の中では、心理学的にどういう意味があるのだろうか、ケアをどうしたらいいのだろうか、お母さんにどういう話をしたらいいのだろうか…と、色々な思いが渦巻いていたと思います。

ところがお母さんに絵を見せてこの話をしたところ、お母さんは自閉症の我が子に向かい、「ありがとうA君、お母さん嬉しいよ」と。

実は絵を描く前日に、A君とお母さんはふたりで買い物に行って、リンゴとバナナとメロンを買ったそうです。この果物はA君が大好きな果物で、その果物を買って、大きな真っ黒のカバンに入れて家まで持って帰って、おいしく食べた。
だからA君は、その果物を赤・黄・緑のクレヨンで丸を描いてあらわして、それを真っ黒のカバンに入れたことを画面を真っ黒にして赤・黄・緑の丸を塗りつぶして隠すことで、「買い物ありがとう」を表現したわけです。
カバンに入れたら、果物は見えなくなります。だから、塗りつぶして、見えなくした。

結果、絵としては「黒一色」になってしまったんです。

このように、私たちは、この「真っ黒の絵」だけを見て「なんだこれは」「おかしいんじゃないか」と考えて、「A君はおかしい」と思いがちですが、お母さんは「ピン」と理解して、A君に「ありがとう」と言えたわけです。A君はお母さんにそう言われて、とても喜んだそうです。

私たちも日常生活の中で、自分の見たもの・聞いたものを、自分のものさしで勝手に「ああだこうだ」と判断して相手を「こうだ」と決めつけてしまいがちですが、実はもっと違う意味や思いがそこに隠されていたりするものです。
仏教は、そういう「決めつけ」をやめましょう、もっともっと、自分が思うよりも違う意味・相手の思いがあるんだよと、そういうことを教えています。

難しい教義や思想哲学もたいへん素晴らしいですが、日常生活の中で、「決めつけ」や「自己中心」を手放して、もっと融通無碍に考えてものを見る、ということの方が難しく、大切です。
私たちも、時には自分の心を見直して、「自己中心じゃないか」「相手の気持ちを勝手に決めつけてないか」ということを考えてみるのも、大切なことではないでしょうか。
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密教浄土教

2016年06月11日 | 仏教・思索

密教浄土教における阿弥陀と極楽の定義について。
以下は覚鑁上人の『五輪九字秘密釈』『阿弥陀秘釈』などの理論です。

覚鑁の思想が整理されていてわかりやすいので紹介すると、まず阿弥陀如来については四重釈あります。
浅略釈は法蔵菩薩の成仏するもの。
深秘釈は大日の一門別徳の弥陀。
秘中秘釈は大日即弥陀。
秘々中釈は衆生本具の心即弥陀。
これは阿弥陀如来に四種類あるというのではなくて、実践の進展によって実現する阿弥陀如来の顕現の仕方と言うか、視点の移動というか、自覚の深まりです。

極楽については、自心胸中の極楽が基本で、いわゆる指方立相ではありません。もちろん浅略では西方浄土と説くものの、本来十方空。

また、四十八願は六道衆生それぞれが本来具足している八葉蓮華(胎蔵中台八葉院)の展開であると配当していきます。8×6=48。

その思想の当否は立場によって捉え方は違いますが、ひとくちに「浄土教」と言っても、多様なものがあるということです。法然・親鸞流、あるいは善導流がすべてではない、ということです。

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覚鑁の考え方は基本的に妥当なものだと僕自身は考えています。

自力と他力というものを、基本的には重視していない浄土教…というか、密教の立場ですから、三力の立場に立ちます。
この立場からの、法然親鸞流の浄土教への評価というか、違いは…。

あなた、海=他力と波=自力と、どっちをとりますか?
海を取るなら波は捨てなさいね、と。
自他力分離の議論は、そのくらい無茶苦茶だと思う。
海から考えるか、波から考えるか、というのが法門の別。
最終的には海波双入の自他不二しかないし、あえてどちらから入るか、なら、自己を見詰める波=自力から入るのが王道。
その自力=諸々の波や潮の絡み合う法界の力が自他を繋ぎ、無分別な真如となる。

波を考慮しない海というのは「立てられた概念的真如」で、それを報身仏というのかな、と。それはもちろん体としては「全体」だけど、相としてはある側面に過ぎない。一門別徳の阿弥陀如来がそれ。極楽浄土は場としての阿弥陀如来。
この海の体は常に不変だけど、相は様々な形で示され得る。だから阿弥陀如来じゃない、不動明王でも観音菩薩でも釈尊でも、僕でも犬でも月でも玉葱でもいい。
原理的にはそうなんだけど、実践的に玉葱では法の体が隠れすぎてて役に立たないので、密教では選仏を行います。
その選仏として、無量の寿命と光を示す阿弥陀如来は、もっとも入りやすく正面の如来だと考えるのが、秘密浄土、密教浄土教です。

その特定の仏を門として、海波双入の無分別の真如法身に入る。これを大日といい、密厳国土といい、沙婆即寂光土といい、究極的には言語道断。

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だから往生も二段階往生説。沙婆(波)→極楽(海)→密厳(海波不二)と言うのですが、これは上記の故です。
しかしあくまで海と波を分けるのは実践上の要請なので、原理的には極楽即密厳ですから、別体じゃないのは言うまでもなく、沙婆世界のほかに極楽があるわけでもない。
極楽はこの世界であり、この世界であるということは、「この私が現に関わり、私そのものであるこの世界」にほかならず、つまり心即弥陀即大日即極楽即密厳。自心胸中の極楽。大日即弥陀であり、衆生本具の心即弥陀です。波=海=海波不二ですから。

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ま、僕自身の話はもっと単純で、念誦は「波」として「海」である阿弥陀如来と対面し、入我我入して即一となるという観想をする、に尽きます。その即一した状態を我即弥陀即極楽、総じては大日即真如即密厳海会であって、三種成仏の第二段階であると。
加えて持戒菩薩行を地道に意識して、いつか日常に自利利他円満したとき、顕得成仏する、と。それだけです。そんなに難しい理屈はないです。はい。
阿弥陀如来じゃなくても、顕得成仏へのルートはほかにもありますから、選仏の上下はないですし、他宗派の方法でも一向に構いません。自由です。
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努力の才能

2016年06月06日 | 法話関係
人には色々な才能があり得ますが、それをモノに出来るかどうかは、ひとえに「努力する才能があるかどうか」にかかっています。

色々な個性の才能は様々な車の種類みたいなもので、本当に多様。スピードのある車、馬力のある車、オフロードに強い車、強度は足りないけどめっちゃ早いF1カー、逆に装甲車みたいなの、カッコいいデザイン、丸いの、角いの、赤青白黒黄色に緑…トラックやバスや消防車…。
それが、色々な個性の才能。

でも、それがいくら立派でも、「努力する才能」つまりガソリンがないと、全部ガラクタになってしまうのです。

努力する才能というのは、ひとつのことを延々とできる才能でもあるのですが、あれもこれもと手を出しては、しばらくしたら飽きて次を探す。ある話に感銘を受けたら夢中になるけど、しばらくしたら他の「良い話」を探し始める。これではいけません。

地味なことを、目新しくもないことを、じっとやりつづけ、掘りつづける。回りから見たら「つまらんこと、いつまでやってるの?」と言われても、ここだと思ったところを、掘りつづける才能。信じられる才能。
これが、努力できる才能、ガソリンです。

仏教の修行や生活も、そういうことです。

仏教には「精進」という言葉があります。
「努力精進」とも言うけれど、これは決して「闇雲に頑張る」とは違います。
しっかりと智慧の眼で自心と周りを照らし、適切に努力をする。無理するのでもなく、サボるのでもなく、琴の弦が程よく張られているように、いつも適切な強さで努力していくこと。

人によって、なすべき事やしたい事、仕事や趣味、適正は色々と違います。だから、どんな分野でもいいのですが、これと決めた道を継続する。そうしないとガソリンが足りないのと同じで、いくら「立派な才能」という「自分だけの車」が隠されていても、地表に中途半端な掘りかけの浅い穴ぼこばかり開けるだけ。深いところにある地下の水脈には届きません。

もし「これかな」というものがあれば、十年一日を恐れず、コツコツとやってみましょう。どんな小さなことでも良いのです。
その先には、きっと水脈がありますから。
もし生きているうちに水脈に届かなくても、一心に掘り続けた「業」「功徳」というものは必ず身についていますし、後生に大きな力となり、仏さまはそれを必ず、受け止めて掬い取り、包み込んでくださいます。

努力をする、精進する。
一時間やれば一時間精進、一日やれば一日精進です。僅かなこと、僅かな時間でも、その功徳は絶大です。

これが、生きて行く上でどれほど大切なのか、改めて、考えてみましょう。
濡れ手に泡、というのは、虚しいことです。
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