प्रज्ञापारमिता

𝔇𝔥𝔞𝔯𝔪𝔞 𝔗𝔞𝔩𝔨, 𝔅𝔲𝔡𝔡𝔥𝔦𝔰𝔪, 𝔗𝔥𝔦𝔫𝔨𝔦𝔫𝔤, 𝔞𝔫𝔡 𝔱𝔥𝔢 𝔚𝔬𝔯𝔡

夜の喪失

2016年01月21日 | 仏教・思索
去年の秋から、夜に45分くらいウォーキングしている。
雨の日は行かないし、週一くらいで休んでいるけれど、平均して週に5日程度。約5000~6000歩くらいにはなるだろうか。大した距離ではないし、ダイエットとかにもならないけれども、まぁ、一種の気分転換というか運動不足の解消の為と言うか。
そうして、歩きながらぼんやりと考え事をしている。歩きながらというのは(…散歩ならともかく、暗闇を懐中電灯で一分間に130歩のマーチングペースだと)、意外にきちんとは考えられないもので、取り留めのないないことを考え…というか、思っているだけなのだけれども。
だいたい、何を考えているかと言うと、たとえば今日は、「月が出ていてちょっと明るいな。街灯が少ないと、月明かりの推移がよくわかるな」というところから、以下のような妄想が湧いてきたわけで、だいたいいつもこんな感じである。


………………………………………………………………………………………


夜と昼。あるいは光と闇と。
人間の精神性のバランスはこの両面がなくては、実際にうまいこと取れないのではないだろうか。

昔、人間の精神あるいは生活には、夜あるいは闇の面積がかなりたくさん存在していた。電気がなければ、基本的に時間的な意味で夜は闇であって、その時間帯、外(家の外・村の外・城壁の向こう側)は人間以外の者が棲む場になる。また、空を見上げても、そこは「人知の及ばない」不思議が横溢していたし、島の向こう、海峡の向こう、砂漠の向こう…は、まったく意味不明な人間や人間以外の者が跋扈する「異界」に他ならなかった。
また、精神病なども「異界」であり、それら諸々の「人知の及ばない」ものは「夜の領域」として、私たちの手の届かない世界であり、世界の半分は「そういうもの」で埋め尽くされていた。

一方の昼の世界というのは、もちろん「日常」であり「仕事」であり「常識の通じる世界」のこと。

何万年も、人間はこういう「昼と夜」とによって、バランスを取って生活していた。
ところが、ここ200年、世界から「夜」がどんどん追放されて、どこもかしこも昼の光に照らされてしまっている。これを「進歩」というのだろうけれど、お蔭で人間は精神のバランスを崩しつつあり、文明も精神性も何もかもが光の洪水の中に融解してしまった。

「宗教」というのは、もともと「昼と夜」の境に立ったものだったのだけれど、この「昼だけの世界」にあって立ち位置を失い、もはや「昼の補完」をするだけの存在になり下がってしまっている。いや、もともとメインストリームの「宗教」は、昔から夜の存在を振りかざして「昼の補完」をするものだけれど、今ではメインストリームだけではない、すべての宗教が「昼」の軍門に下り、「昼」の素晴らしさを賛美することに活路を見出そうとしているのではないか。

しかし人間は、昼だけで生きていけない。少なくとも、古代をまだ引きずっている現代の我々には、それはなし難い。
だけれども、夜が見当たらない。

ゲームやオタク趣味…ヴァーチャルな世界が、現代の夜の領域の代替であったりするのかも知れないけれど、しかしそれは代替に過ぎず、人間本来が持っている「夜・闇」というものを満たすだけのものであるだろうか。
昼と夜のバランスを失して昼だらけになった文明や人間は、いずれ全体として、「昼ごと夜に落ち込んでいく」。病んでいく。衰弱していく。人は、未知の領域にではなく、まさにこの日常のど真ん中に、きっと闇を作っていく。そうして、人類の黄昏がやって来る。

まっとうな夜はもう失われてしまったのだから。


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思えば19世紀末あたりというのは、「夜」が最後に大規模な抵抗を見せた時期だったのだろうなぁ。
「戦争」という真昼間の都合で、夜も完全に抹殺されてしまったのだけれど。

…などと、夜を抹殺した現代社会の一員である私は、思いが政治などに及ぶ寸前に光溢れる自宅に到着。
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四つの「しん」

2016年01月14日 | 法話関係
今年もスタートしてしばらく経ちましたが、お変わりなくお過ごしでしょうか。
私は「本厄」の年ということで、今まで以上に生活全般、気を付けて過ごさねばと思っているところですが、みなさんも平穏無事な一年になりますよう、お祈りしています。

さて、「平穏無事な生活」といいますが、具体的には「果報は寝て待て」のように、ゴロゴロしていてそれが得られるというものではありません。「人事を尽くして天命を待つ」のように、やはり私たちもちょっとした「努力」をする必要があります。
その努力とは、ではいったいどういう事をすればいいのか…ですが、それは「四つの『しん』」というものを意識して生活する、ということです。
四つの「しん」とは、漢字で書くと、「身・心・親・信」です。

ひとつめの「身」は、自分の体に気を付けて生活する、ということです。
お釈迦さまは、人間の苦しみは「生老病死」が根底にあると言い、これらは避けがたいものであると仰せになりました。確かにそれはそうなのですが、しかし今、いただいている「自分の体」を大切にして、なるべく穏やかな状態で毎日を過ごさせていただきたい…という気持ちは大切です。その為に、出来る範囲で体を動かす、体操やウォーキング、手を使って書いたり掃除をしたり、あるいは食事に気を付ける、しっかり休養するなどが大切です。

ふたつめは「心」は、自分の心に気を付けて生活する、ということです。
これは、「怒り」「貪り」「無知」の心を意識して、それを飼い馴らすということです。なくすことは難しいですが、そのような「悪い心」に溺れたり放置するのではなくて、「あぁ、今、自分は怒ってるな」「自分は何かに執着してしまってるな」「道理のわからない心になってるな」と気づいて、それにつかまらないように、平らかな心であるように「落ち着く」ことを意識する。これが大切です。

みっつめの「親」は、色々なものに親しむ、ということです。
好奇心を持って、好意・プラスの心をもって、色々なものや人と親しんでいくことです。良い意味での好奇心がなくなると「なんだそんなもの、つまらん」という考え方が癖になり、生活全体がどんどん暗くなったり、「楽しい」という気持ちが消えてしまいます。野次馬根性は感心しませんが、いつも新鮮な気持ちで他のものや他の人に親しもう、としていると、生活で良い回転がどんどん自分に集まってきます。

よっつめの「信」は、信心です。
私たちの小さな心では計り知れない、目に見えない大きな力というものが世界・宇宙にはあると信じることです。自分の常識や思い込みなどは、本当に小さなもので、この世界の裏には本当に大きな力が働いておられて、すべてはそれに包まれているのだと信じることが大切です。それを信じることは、宇宙いっぱいの大きな命に根っ子を繋げるということで、信がないと根無し草になってしまい、いざという時に「包まれているという安心感」が得られません。仏教ではこの「宇宙いっぱいの大きな力」を「大慈悲の心」「仏様の心」と受け止めて、そこに手を合わせて根っ子を下ろさせていただき、母のような大きな力に、自分の魂をお任せするのを、「信」と言います。

この「よっつの『しん』」を意識して毎日を過ごすことが、「平穏無事な生活」にとってとても大切なことです。
元気な時にも、病気になっても、色々と困難な状態になっても、ラッキーが続く時にも、良きにつけ悪しきにつけ、この心がある人は、たとえ死を目の前にしても、「平穏無事」な人になります。
子供のように素直な心で、この「よっつの『しん』」を意識して生活してみてください。必ず、仏様の御加護があります。悪い事には絶対になりません。
今年一年、平穏無事に、仲良く、楽しく、感謝と笑顔で暮らしていけることを、ちょっとした努力とともに、ひとりひとりが願いつつ…一層、仏様に手を合わせる生活を心がけて参りましょう。
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普賢行願讃(メモ)

2016年01月13日 | 仏教・思索
●普賢行願讃 (四十華厳巻四十)

所有十方世界中 三世一切人師子    
我以清淨身語意 一切遍禮盡無餘    
普賢行願威神力 普現一切如來前    
一身復現刹塵身 一一遍禮刹塵佛    
於一塵中塵數佛 各處菩薩衆會中    
無盡法界塵亦然 深信諸佛皆充滿    
各以一切音聲海 普出無盡妙言辭    
盡於未來一切劫 讃佛甚深功徳海    
以諸最勝妙華鬘 妓樂塗香及傘蓋    
如是最勝莊嚴具 我以供養諸如來    
最勝衣服最勝香 末香燒香與燈燭    
一一皆如妙高聚 我悉供養諸如來    
我以廣大勝解心 深信一切三世佛    
悉以普賢行願力 普遍供養諸如來    
我昔所造諸惡業 皆由無始貪恚癡    
從身語意之所生 一切我今皆懺悔    
十方一切諸衆生 二乘有學及無學    
一切如來與菩薩 所有功徳皆隨喜    
十方所有世間燈 最初成就菩提者    
我今一切皆勸請 轉於無上妙法輪    
諸佛若欲示涅槃 我悉至誠而勸請    
唯願久住刹塵劫 利樂一切諸衆生    
所有禮讃供養福 請佛住世轉法輪    
隨喜懺悔諸善根 迴向衆生及佛道    
我隨一切如來學 修習普賢圓滿行    
供養過去諸如來 及與現在十方佛    
未來一切天人師 一切意樂皆圓滿    
我願普隨三世學 速得成就大菩提    
所有十方一切刹 廣大清淨妙莊嚴    
衆會圍遶諸如來 悉在菩提樹王下    
十方所有諸衆生 願離憂患常安樂    
獲得甚深正法利 滅除煩惱盡無餘    
我爲菩提修行時 一切趣中成宿命    
常得出家修淨戒 無垢無破無穿漏    
天龍夜叉鳩槃荼 乃至人與非人等    
所有一切衆生語 悉以諸音而説法    
勤修清淨波羅蜜 恒不忘失菩提心    
滅除障垢無有餘 一切妙行皆成就    
於諸惑業及魔境 世間道中得解脱    
猶如蓮華不著水 亦如日月不住空    
悉除一切惡道苦 等與一切群生樂    
如是經於刹塵劫 十方利益恒無盡    
我常隨順諸衆生 盡於未來一切劫    
恒修普賢廣大行 圓滿無上大菩提    
所有與我同行者 於一切處同集會    
身口意業皆同等 一切行願同修學    
所有益我善知識 爲我顯示普賢行    
常願與我同集會 於我常生歡喜心    
願常面見諸如來 及諸佛子衆圍遶    
於彼皆興廣大供 盡未來劫無疲厭    
願持諸佛微妙法 光顯一切菩提行    
究竟清淨普賢道 盡未來劫常修習    
我於一切諸有中 所修福智恒無盡    
定慧方便及解脱 獲諸無盡功徳藏    
一塵中有塵數刹 一一刹有難思佛    
一一佛處衆會中 我見恒演菩提行    
普盡十方諸刹海 一一毛端三世海    
佛海及與國土海 我遍修行經劫海    
一切如來語清淨 一言具衆音聲海    
隨諸衆生意樂音 一一流佛辯才海    
三世一切諸如來 於彼無盡語言海    
恒轉理趣妙法輪 我深智力普能入    
我能深入於未來 盡一切劫爲一念    
三世所有一切劫 爲一念際我皆入    
我於一念見三世 所有一切人師子    
亦常入佛境界中 如幻解脱及威力    
於一毛端極微中 出現三世莊嚴刹    
十方塵刹諸毛端 我皆深入而嚴淨    
所有未來照世燈 成道轉法悟群有    
究竟佛事示涅槃 我皆往詣而親近    
速疾周遍神通力 普門遍入大乘力    
智行普修功徳力 威神普覆大慈力    
遍淨莊嚴勝福力 無著無依智慧力    
定慧方便諸威力 普能積集菩提力    
清淨一切善業力 摧滅一切煩惱力    
降伏一切諸魔力 圓滿普賢諸行力    
普能嚴淨諸刹海 解脱一切衆生海    
善能分別諸法海 能甚深入智慧海    
普能清淨諸行海 圓滿一切諸願海    
親近供養諸佛海 修行無倦經劫海    
三世一切諸如來 最勝菩提諸行願    
我皆供養圓滿修 以普賢行悟菩提    
一切如來有長子 彼名號曰普賢尊    
我今迴向諸善根 願諸智行悉同彼    
願身口意恒清淨 諸行刹土亦復然    
如是智慧號普賢 願我與彼皆同等    
我爲遍淨普賢行 文殊師利諸大願    
滿彼事業盡無餘 未來際劫恒無倦    
我所修行無有量 獲得無量諸功徳    
安住無量諸行中 了達一切神通力    
文殊師利勇猛智 普賢慧行亦復然    
我今迴向諸善根 隨彼一切常修學    
三世諸佛所稱歎 如是最勝諸大願    
我今迴向諸善根 爲得普賢殊勝行    
願我臨欲命終時 盡除一切諸障礙    
面見彼佛阿彌陀 即得往生安樂刹    
我既往生彼國已 現前成就此大願    
一切圓滿盡無餘 利樂一切衆生界    
彼佛衆會咸清淨 我時於勝蓮華生    
親覩如來無量光 現前授我菩提記    
蒙彼如來授記已 化身無數百倶胝    
智力廣大遍十方 普利一切衆生界    
乃至虚空世界盡 衆生及業煩惱盡    
如是一切無盡時 我願究竟恒無盡    
十方所有無邊刹 莊嚴衆寶供如來    
最勝安樂施天人 經一切刹微塵劫    
若人於此勝願王 一經於耳能生信    
求勝菩提心渇仰 獲勝功徳過於彼    
即常遠離惡知識 永離一切諸惡道    
速見如來無量光 具此普賢最勝願    
此人善得勝壽命 此人善來人中生    
此人不久當成就 如彼普賢菩薩行    
往昔由無智慧力 所造極惡五無間    
誦此普賢大願王 一念速疾皆銷滅    
族姓種類及容色 相好智慧咸圓滿    
諸魔外道不能摧 堪爲三界所應供    
速詣菩提大樹王 坐已降伏諸魔衆    
成等正覺轉法輪 普利一切諸含識    
若人於此普賢願 讀誦受持及演説    
果報唯佛能證知 決定獲勝菩提道    
若人誦此普賢願 我説少分之善根    
一念一切悉皆圓 成就衆生清淨願    
我此普賢殊勝行 無邊勝福皆迴向    
普願沈溺諸衆生 速往無量光佛刹
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華厳経について(メモ)

2016年01月12日 | 仏教・思索
顯無邊佛土功徳經 (華厳経寿明品別訳)  大唐三藏法師玄奘譯 

如是我聞・一時薄伽梵在・摩掲陀國・閑寂法林坐・妙菩提・金剛堅固・無量妙寶・共所莊嚴・紅蓮華臺・師子座上・與十不可説・倶胝那庾多・百千佛土極微塵數大菩薩・倶及諸天人・阿素洛等・無量大衆・前後圍繞・爾時會中・有一菩薩・摩訶薩・名不可思議・光王承佛・威神從坐・而起頂禮佛足・合掌恭敬・而白佛言・世尊諸佛國土・時分莊嚴有勝劣不・佛言善男子・我此索訶世界・釋迦牟尼佛土・一劫於極樂世界・無量光佛土・爲一晝夜・極樂世界・一劫於袈裟幢世界・金剛堅固・歡喜佛土・爲一晝夜・袈裟幢世界・一劫於不退輪音世界・極妙圓滿・紅蓮敷身佛土・爲一晝夜・不退輪音世界・一劫於絶塵世界・法幢佛土・爲一晝夜・絶塵世界・一劫於明燈世界・師子佛土・爲一晝夜明燈世界・一劫於妙光世界・遍照佛土・爲一晝夜・妙光世界・一劫於難超世界・身放法光佛土・爲一晝夜・難超世界・一劫於莊嚴世界・一切神通慧光王佛土・爲一晝夜・莊嚴世界・一劫於鏡輪世界月覺佛土・爲一晝夜・善男子如是世界・展轉漸増滿・十不可説倶胝那庾多百千佛土・極微塵數世界佛土・最後世界佛土・一劫於蓮華徳世界・賢徳佛土・爲一晝夜・於彼世界・諸菩薩衆・修治殊勝・普賢行地・善男子如諸世界・晝夜漸増・如是諸佛・壽量身相・菩薩世界・莊嚴亦爾・由彼有情・福轉増故・若有善男子・善女人・聞此顯示・無邊佛土・功徳法門・歡喜信重・受持讀誦・如理思惟・廣爲他説・臨命終時・十方佛土・無量諸佛・皆現其前・慰喩讃美・令其増進・無量善根・隨願往生・諸佛淨國・乃至無上・正等菩提・於生生中・常憶宿命・修菩薩行・速得圓滿・時薄伽梵・説此經已・不可思議・光王菩薩・摩訶薩・并諸天人・阿素洛等・一切衆會・聞佛所説・皆大歡喜・信受奉行
顯無邊佛土功徳經


如心偈 (華厳経夜摩天宮菩薩説偈品)

如心佛亦爾 如佛衆生然 心佛及衆生 是三無差別 
諸佛悉了知 一切從心轉 若能如是解 彼人見眞佛 
心亦非是身 身亦非是心 作一切佛事 自在未曾有 
若人欲求知 三世一切佛 應當如是觀 心造諸如來


華厳経心陀羅尼

唵 枳那枳那 怛他伽頭 踟婆陛 珊隱底 婆囉底
烏陀慕陀迷 唵 薩陛梯 薩嚩訶

此の陀羅尼は是れ普賢如來の説きたまい、于闐國三藏實叉難陀譯せり。別に本經有りて云わく、若し人、此れ一遍を誦さば、龍藏中の華嚴經上中下三本一遍を誦したるに準ず。何ぞ況んや常に持するをや。
若し能く十萬遍を滿たさば、其の人、敏に精微を悟り、一切の教藏に洞徹し、福は聚まり障を轉ずるに至らん。具さには説く可からず。
上元縣高公寺摩訶衍和尚授く。
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華厳経心陀羅尼

2016年01月12日 | 仏教・思索
「華厳経心陀羅尼」について、花園大学の吉田叡禮教授より教示いただきました。
許可をいただきましたので、掲載させていただきます。
かなり詳しくお答えをいただき、大変、勉強になりました。
大正蔵のものと、中国でよく使われる聖華厳心陀羅尼は少し違うようですが、
基本は同じ、と考えてもよさそうですね…。
あとの問題は、これをどう読むか、という点と、
陀羅尼の意味です。


原田

今、華厳経周辺の事に関心を持って調べているのですが、華嚴經心陀羅尼、というものについてです。
日日の実践に取り入れたいと思いまして、調べております。

この陀羅尼に関しては大正蔵に原文が載っていますが、それ以外の資料が見当たらず(卍続蔵等にもあるみたいですけれども)、国訳も調べた限りなく、論文もciniiを検索した限りでは見当たりません。
「普通真言蔵」は持っていないので調べられていませんが、その他の真言事典の類には載っておりません。
弘法大師の御請来目録はタイトルだけですし…。

その真言は、

唵枳那枳那怛他伽頭踟婆陛珊隱底婆囉底烏陀慕陀迷唵薩陛梯薩嚩訶

です。

この真言の「慣用音」による読み方を知りたいのですが、もしおわかりであれば、ご迷惑とは存じますが、ご教示いただけないでしょうか?

ネットで調べてみた限り、サンスクリットでは、
om jn~aa jn~aa tathaagatad bhave s`aanti bharati uttama dharma om savite svaahaa.
もしくは、
最初のjn~aa jn~aaがjina jina、途中のbharatiがvarada、かも知れない…ですが、これが正しいのかどうかわかりませんし、慣用読みがどうなるかわからないです…。
長母音はaa、jn~aaはジュニャー、s`aantiはシャーンティ、です。

また、付加の文章については、

此陀羅尼是普賢如來説。
于闐國三藏實叉難陀譯。
別有本經云。
若人誦此一遍。準誦龍藏中華嚴經上中下三本一遍。何況常持。
若能滿十萬遍者。其人敏悟精微。洞徹一切教藏。
至於福聚轉障不可具説。

上元縣高公寺摩訶衍和尚授

で、

・此の陀羅尼は是れ普賢如來の説なり。
・于闐國三藏實叉難陀の譯。

この次の

・別有本經云。

これがちょっとわかりません。

・若し人、此を一遍誦さば、
・龍藏中の華嚴經上中下三本を一遍誦するに準ず。
・何に況んや常に持するをや。
・若し能く十萬遍を満たせば、其の人、敏悟精微ならん。
・一切教藏を洞徹す。

この後の、

・至於福聚轉障不可具説。

ここもちょっと…。

・上元縣高公寺の摩訶衍和尚授く

また、この「華厳経心陀羅尼」というものの出自と言うか、
どういう性質のものなのでしょうか。
本当に厚かましくご迷惑なことと存じますが、ご教示いただけると幸いです。

原田智秀 拝



吉田教授

ご質問いただきまして、ありがとうございます。
お訊ねの『華嚴經心陀羅尼』は、私の知る限り、現在の日夲では東大寺などでも通常に念誦されていないようです。とくに同じ漢字表記のものが無いようで、比定するのが難しいと思われますし、伝統的な慣用の音も、真言と天台で異なるように、陀羅尼を日本的発音で念誦するとき、どのように念誦するかは習慣に依存しますので、一定ではなく、「慣用音」はわかりません。
あまりお力に慣れず残念です。

…………………………………………………

なお、目録を調べてみますと『大正蔵』の他に『卍字続蔵』(2-4)や『縮刷蔵』にも入っているようです。大正蔵と異同があれば、参考になるかも知れません。

それから、Inbudsで検索しましたら、景山春樹「高山寺の金銅墓誌について」(『仏教芸術』16,1952.08.15, pp.80-86)に「華嚴經心陀羅尼」が言及されているようです。未確認ですが名前が上がっているだけではないかとは思いますが、何か付隨する情報があるかもしれません。高山寺所藏目録も未確認です。

西蔵大蔵経には、『聖華厳心陀羅尼』があり、多少異なっていますが異訳であると考えられます。
また、西蔵大蔵経の十万タントラと陀羅尼集には、『聖華厳心陀羅尼』があげられており、さらに『聖受持大方広陀羅尼』の記載あり。これらはすべて『華厳経』の総持です。

《西藏大藏经》(デルゲ版)
Namah samanta buddhanam a-prati-hata-sasananam Om kini kini tathagata ud-bhava sante vara-de uttama uttma tathagata ud-bhava hum phat svaha
南無 三滿哆 沒駝喃 阿缽囉帝 喝多折 折捺彌 唵 雞彌雞彌 怛塔葛塔喃 末瓦山釘缽囉帝 烏 怛摩怛摩 怛塔葛塔喃 末瓦 吽 發 莎訶
※『諸經日誦』では、華厳経の補闕真言として挙げられています。

『聖受持大方広陀羅尼』
Om nthi- Namah sarvabuddha-na-m Om ma-m bhr-m mu-m tadyatha- Om bhru-m.

…………………………………………………

こんなのがありました。
http://buddha.goodweb.cn/music/musicdownload_all/musicdownload51/%E5%8D%8E%E4%B8%A5%E7%BB%8F%E9%99%80%E7%BD%97%E5%92%92_%E5%94%B1%E9%A2%82.mp3

ソースはここです。
http://buddha.goodweb.cn/music/musictxt8/huayanzhou.asp#

附属の一文は下記のように訓読します。

此の陀羅尼は是れ普賢如來の説きたまい、于闐國三藏實叉難陀譯せり。
別に本經有りて云わく、若し人、此れ一遍を誦さば、龍藏中の華嚴經上中下三本一遍を誦したるに準ず。何ぞ況んや常に持するをや。若し能く十萬遍を滿たさば、其の人、敏に精微を悟り、一切の教藏に洞徹し、福は聚まり障を轉ずるに至らん。具さには説く可からず。
上元縣(現在の江蘇省南京市江寧区)高公寺摩訶衍和尚授く。



原田

お忙しいなか、大変詳しくご教示いただき、ありがとうござます。
やはり、あまり日本や中国では重視された形跡はないのですね。
弘法大師の請来目録が日本での記録の最初のようですが、それ以外では三十帖冊子にも記載はあるようですけれども、真言宗でも取り上げられることはないですし…。
チベットでは多少、言及はあるのですか。
また、引き続き調べてみたいと思います。
吉田先生のこの返信をFacebookあるいはblogでシェアしたいのですが、それはよろしいでしょうか。勝手に公開はいたしませんので、許可をいただければ、シェアさせていただきたい、と思います。



吉田教授

おはようございます。
公開して下さって結構です。
中国では諸経日誦に採録されてからかも知れませんが、注目されていると思います。中国サイトのネットでは現在も多くの信徒が読み方や切り方などを質問したり話題にしていますし、動画で中国らしい音楽に乗せて歌われていたりしていますね。

…………………………………………………

『諸経日誦』に載録されているのは、
「南無 三滿哆 沒駝喃 阿缽囉帝 喝多折 折捺彌 唵 雞彌雞彌 怛塔葛塔喃 末瓦山釘缽囉帝 烏 怛摩怛摩 怛塔葛塔喃 末瓦 吽 發 莎訶」
という、『聖華厳心陀羅尼』のほうです。
『諸経日誦』とは、ご存じかとは思いますが、明の四大法師に数えられる雲棲袾宏の著作です。日課経典を集めたものです。その主なものが現代の中国寺院で朝晩のお勤めの際に読まれています。ただし、件の陀羅尼については普段の日課では普通は読まれていないと思います。(お寺にもよるとは思いますが)
しかし、『聖華厳心陀羅尼』は、補闕真言という扱いにもなっていますので、華厳経類の経典を読誦した後には、必ず念誦すべきである陀羅尼ということになります。
ちなみに、『聖華厳心陀羅尼』は、台湾の大華厳寺の海雲法師も言及していたと思います。日本ではあまり読まれることは無かったかもしれませんが、漢人の文化圏では比較的知られ、読まれているのではないかと思われます。こんど、知り合いの中国僧にも聞いてみます。
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諸行のありかた

2016年01月11日 | 仏教・思索
様々な仏教の実践があるが、どう考えるべきか。

『華厳経』に曰く。

そのとき文殊菩薩が賢首菩薩に問はるるよう、
『菩薩よ、あらゆる諸仏はただ一つの道で解脱を得たまふのに、いま一切の仏国を見るに、何うして事々がすべて不同なのであらう? すなはち世界・衆生・説法・教化・寿命・光明・神力・衆会・仏法・法住・これらのこと一として同じくはない。あらゆる仏法を具足せないで、しかも無上のさとりの得られるわけは無いだらう。』
賢首菩薩がこれにたいして次の偈文をもつて答へられました。
『文殊よ、法は永劫不変で、法王はただ一法である。あらゆる無礙の人は、一道より生死を出でたまふ。云々』
(『口語全訳華厳経(上)』p226-227)


善導曰く。

われの愛するところは、すなわちこれわが有縁の行にして、すなわち汝の求むるところにあらず。汝の愛するところはすなわちこれ汝の有縁の行にして、またわが求むるところにあらず。このゆえにおのおの楽むところに従ってその行を修するものは、必ずすみやかに解脱を得るなり。
(玉城康四郎『華厳入門』p56)


まさにそういうことなのだと思う。
押し付け、独善、自讃毀他は仏教からは遠い。
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謹賀新年

2016年01月01日 | 閑話休題
皆さま、あけましておめでとうございます。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。

去年は相変わらず世情不安など色々ありました。
今年はちょっとでも良い年になれば良いな、と思います。

お寺のほうは、特に変わらず現状維持をしていくことを心がけています。
100年後もできるだけ現状維持できているように、
たまに帰省する人たちが「懐かしいな」と思ってもらえる状態を維持する。
何でも変化して進化することだけが持て囃される昨今、
そうではなく、基本的にあまり変わらぬように、
それでいて深化していっているような状態を何とか作りたいな、と。

さて。

個人的な本年の抱負をば…。

というか、毎年毎年「抱負」とやらを言っているのですが、
達成できたかどうかの検証はほとんどやっておりません。
今回も過去の検証は致しませぬ(笑)

で、今年の抱負。

・自行をしっかりと確立すること
・仏教学全般、チベット関係を更に深めていく
・読経のレベル向上
・『華厳経』・華厳学周辺の研鑽
・『金光明経』をきちんと読む

ってな事をやっていきたいかな、と。

あとは…

・バファローズの試合、3試合は行く
・毎日1時間のウォーキング継続

んー。
まぁ、こんな感じで。
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