प्रज्ञापारमिता

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トンレン

2015年10月28日 | 仏教・思索
チベット仏教でいうところの、「トンレン」というのは、非常に良い。
四無量心観として少しアレンジして最近やってますが、非常にいいです。

吐く息 … 慈観 慈光が全宇宙に行き渡る
止息 … 喜観 衆生が救われたことへの随喜
吸う息 … 悲観 世のすべての苦を身に受ける
止息 … 捨観 自他分別を消滅し平等法界の光となる


もしかして一番、いいかも。
誰でも出来るし。
それこそ寝たきりでも出来る。
「止息」のところは、単に止めるのではなくて、体の中で息を転がすという感覚。
転がして行き渡らせる。
捨観のところは特に、光を。

これには菩薩行が集約されています。慈悲を育てるにもいいです。
「全宇宙」や「衆生」を、個別の人や事象に置き換えたり。
たとえばこれを、私のメインの観法である「水波観」と併せると、
もうそれだけでもいいくらいかも知れません。

>「全宇宙」や「衆生」を、個別の人や事象に置き換えたり。

難しいのは、ここだけだけ。
まずは身近な人や家族でいいとして、
次に無関係な他人、テレビで観た苦しんでいる人、紛争地とか。
子供なんかね…。
あと、病苦にある人。
ここまではまぁともかく、ミソは、
自分が嫌いな人、ムカつく人、憎い人…そういう人を対象に。
これが難しいんですけれどね。

でも多分、人間は「全人類を愛しているけれど、あいつだけは嫌い」というもんだと思います。
だからこそ、個別に置き換えて観じていかないと、本当の意味での慈悲の成長にはつながらない。
でも、顔も見たくない、本当に憎い人、嫌いな人、
そういう人の苦や存在を「吸い込んでいく」のって、本気でやればやるほど、自分自身苦しい。
そこをどう、乗り越えるのか…。
そこに水波観とか、他の手法の必要性もあるんだろうな、とは思います。

とてもいい影響を自分にも他人にも及ぼすから、檀家さんにも勧めてみようかと思います。
最初は愛する人、親しい人でいい。
その後、慣れてくれば、利害関係のない他者。
それから近所の人、職場の人、嫌いな人、害をなす相手へと…。
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止観行次第

2015年10月18日 | 仏教・思索
以下、朝の勤行の後に行う自行次第です。

「え、これだけ?」と言われそうですが、これだけです。

ものすごく基本的なものだけれど、結局、こういうことなんだと思う。
仏教には難解な理論や奥深く神秘的な実践も色々とあるけれど、常に基本。αでありω。

行なんて、難解だったり神秘的なものだったりするわけじゃない。
地味なことを薫習するまでやりつづける。それがすべて。
あとは、「五門四観」みたいなのは全仏教に通じる行動規範で、それに則って生活するように努力する。
プラス、その他の様々な仏教学などを多角的に学ぶことで、この「基本」を深くしていく。
広く学ぶのは、守備範囲を広くするためじゃなくて、基本を深めるためにこそあると思う。


●三礼
自帰依仏 当願衆生 体解大道 発無上意
自帰依法 当願衆生 深入経蔵 智慧如海
自帰依僧 当願衆生 統理大衆 一切無碍 
●開経偈
無上甚深微妙法 百千万劫難遭遇 
我今見聞得受持 願解如来真実義
●懺悔文
我昔所造諸悪業 皆由無始貪瞋癡 
従身語意之所生 一切我今皆懺悔
●五大願  
衆生無辺誓願度 福智無辺誓願集 
法門無辺誓願学 如来無辺誓願事 
菩提無上誓願證
●大乗起信論本末立義分
 【帰敬頌】
歸命盡十方三宝 
最勝業遍知仏宝(仏の意業)
色無礙自在仏宝(仏の身業)
救世大悲者仏宝(仏の語業)
及彼身體相法宝(法身)理智不二法身
法性眞如海法宝(体大)理法身
無量功徳藏法宝(相大)智法身
如實修行等僧宝    
爲欲令衆生 除疑捨耶執 
起大乘正信 佛種不斷故
 【立義分】
摩訶衍者。總説有二種。云何爲二。一者法。二者義。 (法と義)
所言法者。謂衆生心。是心則攝一切世間法出世間法。依於此心顯示摩訶衍義。 (一心)
何以故。是心眞如相。即示摩訶衍體故。是心生滅因縁相。能示摩訶衍自體相用故。 (二門)
所言義者。則有三種。云何爲三。一者體大。謂一切法眞如平等不増減故。二者相大。謂如來藏具足無量性功徳故。三者用大。能生一切世間出世間善因果故。 (三大)
一切諸佛本所乘故。一切菩薩皆乘此法到如來地故。 (乗)
 【回向頌】
諸佛甚深廣大義 我今隨分總持説 
迴此功徳如法性 普利一切衆生界
●般若心経
●仏説阿弥陀経
不退方便は阿弥陀如来信順で「阿弥陀経」読誦、往生呪念誦である。往生呪において、次第に止に移行する。
●抜一切業障根本得生浄土神呪 弥陀定印
往生呪を用いては、最初は文義、次第に止に入るべきである。
南無阿彌多婆夜哆他伽哆夜 離言真如 理智不二法身
  … 南無無量光如来
哆地夜他 
  … 所謂
阿彌利都婆毘 依言真如 体大理法身
  … 甘露無量寿を生む者よ
阿彌利哆悉眈婆毘 真妄和合の阿梨耶識 相大智法身
  … 甘露無量寿の成就あらしめるものよ
阿彌利哆毘迦蘭諦 自他建立の末那識 用大自受用報身
  … 甘露無量寿の神変あるものよ
阿彌利哆毘迦蘭哆伽彌膩 意識 用大他受用報身
  … 甘露無量寿の神変を行ずるものよ
伽伽那枳多迦隷 眼耳鼻舌身の前五識 用大応化身
  … 虚空の如き作用をなすものよ
莎婆訶 八識波転じて三身即一の一大真如海となる
  … 成就あれ
若し善男子善女人あつて
よくこの呪を誦せんに
阿弥陀仏は常に其の頂きに住して
日夜擁護し給ひ
怨家をして 其の便りを得しむるなく
現世に常に安穏を得
命終の時に臨み 任運に往生せん
●五門観
▼布施門 不慳貪に財物を分かつ財施、人々に困難ある時に寄り添う無畏施、自分の知る限りの仏法を説く法施を布施門となす。
▼持戒門 不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不綺語・不悪口・不両舌・不慳貪・不瞋恚・不邪見の菩薩十善戒を持戒門となす。
▼忍辱門 他人に悩まされても復讐心を持たず、利害・毀誉褒貶・苦楽などに惑わされずに耐えるを忍辱門となす。
▼精進門 不断に為すべき自利利他を念じて苦からの解脱を期し、常に五門を観じ往生呪念誦と双修するを精進門となす。
▼止観門 
法相観三世十方の波の如き諸の現象は無常なるも、本来主客不二の一大真如海なり。
大悲観一切の衆生はそれを覚知せずに事象に著して我ありと心生滅を起こし、無量の苦を受けるを悲しむべし。
大願観故に「我は十方世界に遍く心を行き渡らせ、一切の自利利他を修し、一切の衆生を抜済して涅槃の安楽を得させたい」と誓願を起こすべし。
精進観常にこれら五門を観じ往生呪念誦を修するを止観門となす。
●普回向
願以此功徳 普及於一切
我等與衆生 皆倶成仏道
●三礼
自帰依仏 当願衆生 体解大道 発無上意
自帰依法 当願衆生 深入経蔵 智慧如海
自帰依僧 当願衆生 統理大衆 一切無碍
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輪廻ぐるぐる

2015年10月09日 | 仏教・思索
輪廻ってのは、生まれ変わり死に変わり、だけれど、別に肉体的に死んでからの問題じゃなくて、
生きているうちから色々な面で輪廻しているんですわね。
生きているうちにぐるぐるぐるぐる回って勢い付けちゃって、
そのままドカーンと転がっていってしまうんだから、別に生死で分かたれる状況の違い、ってわけじゃない。

思考の形式・様式が、まさに輪廻の因であって。

いくら行法しようと座禅しようと念仏しようと題目やろうと持戒であろうと、
ぐるぐる回ってる人は、そのまんま独楽のようにいつまでも回り続けるのさ。
回っていない人は、別に何もしなくったって、回らないさ。
ただ、「現時点で」はだいたい、みんなぐるぐる回ってるわけだから、逆回転の負荷をかけにゃならん。

さて、どうその負荷をかけるのか。

その方法は、色々あるわけ。色々とね。

ただ、その負荷をかけているつもりで、ぐるぐるの勢いを増しちゃってる人もいて。

あと、負荷の方が大きくなったら意味ないし、小さくてもだめ…なんだけれど、

「大きいよりは小さい方がまだマシ」

ってこともあるんだわ。
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時代と思想

2015年10月07日 | 仏教・思索
たとえば。

浄土思想と言うものは、仏教学の枠内、とりわけ宗学の枠内で考えててもなかなか全体像は見えてこないんだろうな。
インド、中国、日本と浄土思想はあるけれど、とりわけ東アジアの浄土思想を考える場合、中国思想史や政治史、社会史の観点が必要になって来るのかも知れない。
つまり、排他的浄土教、一元的浄土教の隆盛した時期の唐代、その後の諸宗融和的な浄土教が勃興する宋~清代…宗教思想は机上のものではなくて、それを信じ実践する者の生活や社会情勢によってかなり変容する。
当然、その核は普遍・不変のところはあるけれど、具体の部分や言説の部分になると、そういう変容は当然。

にも関わらず、そういう観点をぶっ飛ばして、ある時代・地域に縛られる側面がある伝統宗学を一言一句墨守するだけでは、あまり生産的なものにならない。もちろん、一周まわって適切なものになっちゃう時期も巡っては来るけれど。
結局、ひとりひとりがダルマそのものについてしっかりと連結したものでなければ、ドグマ主義でおかしくなってしまう。

その点で、今の日本は唐代に近いのか、宋以降に近いのか、あるいはまったく別個の状況なのか、そのあたりを見極めないと、きちんとした浄土教の判定と言うか適切さをいう事か出来ない。

こういうのは便宜主義という批判をされるかも知れないけれど、少なくとも言詮不及・分割以前の地点のダルマというものを踏まえているのなら、これが単なる便宜主義でないみとは多分、わかってもらえるのかな、と思うんだけれど…。


こういうのは浄土思想だけではなくて、もちろん密教にも、禅宗にも、およそ言語表現のレベル、概念レベルのところで「語る」場合には、どういうものであっても共通する問題かと思う。
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