प्रज्ञापारमिता

𝔇𝔥𝔞𝔯𝔪𝔞 𝔗𝔞𝔩𝔨, 𝔅𝔲𝔡𝔡𝔥𝔦𝔰𝔪, 𝔗𝔥𝔦𝔫𝔨𝔦𝔫𝔤, 𝔞𝔫𝔡 𝔱𝔥𝔢 𝔚𝔬𝔯𝔡

薬師と行基

2015年07月26日 | 法話関係
【薬師如来和讃】

帰命頂礼薬師尊
三界衆生の父母よ
一度名号きくひとは
万病除いて楽を得る
我等がために普くも
十二の大願たてたまう
日光菩薩は付き添いて
無明の暗を照さるる
月光菩薩は涼しくも
苦熱の煩悩掃はるる
子丑寅卯の十二神
歳月日時に守らるる
七千夜叉の面々も
刹那も休息在まさず
あら有難や瑠璃の壺
甘露を湧かして淋るる
此の信念のかたければ
我身も瑠璃光如来也
七ぶつやくし無上尊
現當二世を助けたまへ



福楽寺は天平十八年、西暦七四六年創建で、御開山は「行基菩薩」。

行基菩薩は、民衆への直接の布教などが禁じられたにも関わらず
禁を破ってまで仏教伝道と衆生済度に努め、庶民から豪族に至るまで、厚く崇敬されました。
寺院・道場の建設は数知れず、
溜池十五、堀を九筋、橋六、布施屋九か所などの社会事業も成し遂げられました。
その後、その人徳を慕って聖武天皇直々に東大寺造営の責任者に任じられたのです。

山口県とのゆかりは、
現在の山口市地域は東大寺鐘楼の撞木、防府市は資金、美祢市は銅を東大寺に納めることとなり、
そのために山口市に東大寺系列の寺も建立され、福楽寺もそのうちのひとつだったのかも知れません。
福楽寺は千二百年以上、秋穂の地にあって、薬師如来・行基菩薩の慈悲の心を大切に守り、
苦しむ庶民、心・体の病に寄り添い、この地の人たちを見守り続けてきました。

歴史と伝統とは、単に昔のことを大切にするというだけではなく、
常に「今」、開山上人たる行基菩薩、本尊薬師如来の心を、
私たちひとりひとりが大切に実践して後々に伝えていくことが肝要です。
コメント

社会活動

2015年07月20日 | 仏教・思索
仏教者が戦争反対を言っても良いし、政治に関心を持っても良い。社会活動してもいい。
でも、仏教者の義務は「仏教やること」でしかないわけで、それ以外の事ではない。
「ケア」とか「臨床」とか「傾聴」とか言うのが流行ってるけれど、その理論的根拠が、いわゆる医療や「ケア理論」になってないかな。

「菩薩行」でいいんじゃないの? 

色々な理論を応用する前に、仏教をストレートに応用しようよ。
仏教の言葉で語ろうよ。
それが仏教者の「義務」「役割」なんじゃないのかな。

また、社会理論というのは、基本的に「社会肯定」がある思うけど、仏教は、あるいは宗教というものは「社会の価値を相対化してしまう」あるいは「破壊してしまう」ものであって、社会の健全性というものを前提にしてしまっては、それは社会理論ではあっても、仏教ではないと思う。

もちろん、社会情勢に関心を持つことは大切。
社会問題にしても国際問題にしても、仏教の立場でコミットしていく必要はあります。
コメント

輪廻

2015年07月20日 | 仏教・思索
仏教が輪廻を否定したとかいう人がいますが、輪廻を否定するとはどういう事態を指すのだろうか。
輪廻がないなら、解脱もないということでいいのかな?

輪廻が端的に「ない」のだとしたら、人は死んだらどうなると認識しているのだろうか。
修行の意味は何だろうか。もし誰でもが「同じ状況」、それが浄土でも無でも、だとしたら行も信心もいらんよな。
現世限り。

輪廻からの離脱をこそ目当てにしているのであるから、輪廻というものに関わるな、それについてうだうだ考えることなく修行せよ、ならわかるけれど、「輪廻をないものとして否定しろ」というのはどうなんだろうか。

「霊魂の有無」にしてもそうなんだけれど、どうして「無」と言い切れるのだろうか。
「我」に実体はない、という程度には「縁生のもの」として「存在」はしているのではないですかね。
自性がないということと、現象として存在していないということとは別の次元だと思うわけだけれど。

輪廻だって、大きな海の視点ではそれは「本質的にはない」ものてはあっても、やっばり「波」は現実には立っているわけで。
波の存在を否定して、「海だ海だ」と言っても、それはあまり意味のある言い方ではないと思う。
海の独一が本来であることと、しかし今目の前に波が立っていることとは、矛盾しない。
輪廻が本質的には妄念であることと、実際に輪廻してしまうこととは、矛盾していない。
逆に、「波・輪廻なんかないんだよ」という方が、議論が空疎になってしまっているように感じてしまうのだけど。
コメント (3)

安保法制について

2015年07月16日 | 時事関連
このブログでは、あんまり「重めの」政治に関しては基本的には書かないようにしています。
檀家さん、仏教徒の方には色々な政治的立場の人がいますし、基本的にはこのブログは「お寺のお知らせ」と「仏教伝道」を目的としていますから、仏教以外の部分で分断をもたらすような記事は、基本的には書きません。

しかし、今回の「安保法制」に関するニュースは、日本全体の未来、ひいては仏教者としてのスタンスにも関わる重大な問題でありますので、敢えて、「考える材料」をここに提供したいと思います。

私自身の考えとしては、保守でも革新でもなく、自民支持でも民主支持でも維新支持でも共産支持でも社民支持でも、もちろ公明支持でもありません。あくまで仏教者としての立場から、このような問題を考えています。

以下、最初の動画は自民党の立場です。
その次の動画、また最後の動画は、安保法制反対の立場のものです。

これらの動画をご覧になり、みなさんも改めて、考えてみてください。


教えて!ヒゲの隊長


【あかりちゃん】ヒゲの隊長に教えてあげてみた

【#本当に止める】6分でわかる安保法制
コメント

エライ坊さん

2015年07月15日 | 仏教・思索
瞑想でも滝行でも山岳修行でも断食でも座禅でも行法でも行脚でも持律でも、
題目でも念仏でも止観でもヴィパッサナーでもヨーガでも読経でも学問でも、
それをやってちょっとでも高慢心や他人を見下す傾向が出てくるのなら、
何もしない方がマシ。
そういう罠はどこにでも口を開けている。

どんな修行でも、どんな学問でも、それそのものはたいしたもんでもないよ。
結局、あなた自己一身の問題。
あなたは何者ですか。
それがわかんなきゃ意味はないし、それがわかれば多分、高慢になりようがない。
だってあなたは何者でもなく、また、何物もこの世には存在していないのだから、
いったい誰が、何を誇ったり蔑んだりできる道理があるのだろうか。

なんでそんなに偉そうに見下して、
覚ったようなことを分別丸出しで他人に押し付けられるのだろう。
そっちの方が坊さんらしいから?
そっちの方が厳しい行をした風だから?
くだらねーなー。

えぇ、私はふんぞり返るような奴ですよ。
人間嫌いですよ。
だから自分が覚ってないことはよく知ってる。
その程度の自覚は、持とうよ。
コメント (2)

仏教と社会

2015年07月04日 | 仏教・思索
私は、はやりの「寺院や僧侶の社会運動」というのには懐疑的なところがあります。
悪い、とまでは言いませんが、たとえば平和運動とか政治運動とか社会改革運動、
あるいは反原発とか貧富の差の指弾とか、まぁ、色々な「運動」があります。
同和問題とかもそうですね。
あと、イベント仏教。
色々なことをやっている人がいますが、私はあまり好きじゃない。
端的に、嫌いなんです。
何でかと言うと、こういう運動、観察していると、別に仏教じゃなくてもいい。
というか、敢えて仏教色を薄めて…みたいなところがある。

このような活動自体はいいんです。必要なことです。
でも、坊さんが出しゃばってやるよりも、専門的な人がやりゃいいんじゃないのかな、と。
仏教色を出さずにやるのなら、坊さんがやるよりも専門家のほうがきっと、いい仕事ができる。

たとえば「反原発」。

科学的にどう、核兵器への転用がどう、環境汚染がどう、健康被害がどう、コストがどう…。
そういうのは、専門家が主張したらいい。
もちろん、そういうものについての勉強は必要で、私たち僧侶もきちんと知っておくべきこと。
その上で、もしそれらについて発言するのであれば、
「仏教の立場ではこう考えます」ということをきっちり、前面に出して主張しないと。
反原発の市民グループと同じ主張しか出てこないのであれば、僧侶の意味はないと思う。

世界には色々な問題があり、仏教者はそれらについて発言すべき。
また、何かしらの行動を起こすべき。
ただし、「仏教の立場ではどうなのか」ということが中心であるべき。
自分たちの主張が普遍性を持っていると信じるのであれば、あくまでも仏教の立場で発言すべきだと。
平和運動にしても、「人権」や「戦争の悲惨さ」を出すのはいい。
いいんだけれど、そもそも仏教では戦争をどう考えるのかが主張されなければ、
それは別に仏教的価値観じゃなくても構わないわけで。

うまく言えないのだけれど。

「多様な価値観の尊重」はいいけれど、その「多様」の中にしっかりと仏教を入れて欲しい。
多様な価値観を尊重する為に仏教色を抑えるというのは、ちょっと違うんじゃないのかな。
仏教は「コーディネイト」のためにあるわけじゃなくて、一個の「価値観」なわけでしょう。
しっかりと主張したらいいのだと思う。
どうして自分を殺して、他を受容しようとするのだろう。
真の受用、相互理解とは、自分を消すことではなくて、しっかりと自己の立場を明言して、
その上で、多様な立場が連携していくことじゃないのだろうか。

そういう、社会通念や一般世論、あるいは理論てはなくて、「仏教の立場」を確立して、
あくまでもその立場から、社会問題にコミットしていくのであれば、とても価値があることだと思うし、
僧侶あるいは仏教徒の立場でしか為し得ない発言や視点の提供ができるようになるのではないかと。
別に、一般の市民運動と群れる必要はなくて、単独でもいい。
その単独の立場での発言にこそ、本当の仏教の価値というものが立ち上がるのではないかなー、と。
そうすれば結果として、様々な立場の人たちと、本当に連携もしていけるし、
仏教というものの価値、存在意義というものが認知されていくのではないだろうかな、と。

そうではない、単なる社会運動や事業なんて、仏教者がやることでもないような気がする。
もっとやらねばならない、また、やれるはずの役割が、私たちにはあるんじゃないだろうか。

なんて事を考えながら、
まずはこの社会の矛盾や問題について、私も色々ともっともっと、知らなくてはならないなと。
仏教と言う巨大な思想、実践についてもっと知らなくちゃなぁ、と。
そう思った次第です。
その上で、あらゆる問題に仏教の立場でどう発言していくのか。

はぁ。
勉強しないとなぁ…。
コメント