प्रज्ञापारमिता

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根本師説

2015年06月30日 | 仏教・思索
『大乗起信論』に立脚した修行方法について、まとめてみます。
私は「大乗仏教僧侶」ですが、とりわけ「起信論師」であると自己規定していますので、以下に掲げるものは、私自身の仏教実践そのものです。
私自身は普段、平川彰先生の『大乗起信論』(大蔵出版)が便利なので常用していますが、以下の記述はわかりやすさを優先するため、また実践で使いやすくするために、高崎直道先生の現代語訳(岩波文庫)を参照させていただいています。


根本師説

仏道の実践は、『大乗起信論』を師となし、まさに説の如く修行すべし。
説とは、仏法僧と真如に帰依し、所説を学びて、五門・不退の方便行をこそ不断に行ずることである。
五門とは「施・戒・忍・進・止観」の五であり、不退の方便とは阿弥陀如来と浄土の観想、すなわち阿弥陀経読誦と往生呪の受持である。
この五門を完成することで信成就して菩薩としての第一段階に達して不退転となるが、次の段階における修行もこの六波羅蜜を継続実践していくことであるが故に、結局は大乗における修行とは、この六波羅蜜に尽きていくものと考えよ。

五門とは、

 1.布施門
慳貪の心を捨てて財物を他の為に分かち与えよ。財施。
他の者に厄難・危機のある場合は、力の限り無畏を与えよ。無畏施。
法を求める者には、自分の知る限りのものをすべて説け。法施。

 2.持戒門
不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不綺語・不悪口・不両舌・不慳貪・不瞋恚・不邪見
以上の菩薩十善戒。
「欺き・諂い」をしないという項目も『起信論』には説かれて12項目とされるが、欺き・諂いは不妄語・不綺語・不両舌に横断的に含まれるものであろうから、基本的には従来の菩薩十善戒でよろしいと思う。
また僧侶の場合には、煩悩の克服のために、雑多な場所をさけて静寂所に留まり、小欲知足・頭陀行を行い、小罪を恐れて懺悔を常とし、禁戒を軽んじてはならない。
また他人を謗ったり嫌うことをやめ、他人が罪を作らないように努力しなくてはならない。
なお、「邪見」とは仏説に疑惑を持ち従わないことであり、具体的には『起信論』の否定である。

 3.忍辱門
他人に悩まされても復讐心を持ってはならない。
利益と損害・不名誉と名誉・賞賛と誹謗・苦と楽などの世間的評価に惑わされずに耐えること。

 4.精進門
善事に怠りの心を生ぜず、自利利他を修し、速やかに諸々の苦からの解脱を期するべし。
この場合、前世の業による罪や障りのために、悪鬼や世間事務、病気など、色々の妨げが起こる。
その時にこそ、勇猛精進して日夜に諸仏の礼拝・懺悔・勧請・随喜・回向に専心すべきである。
これを続けるうちに諸々の妨げを免れて善根が増していくことになる。

 5.止観門
   【止に曰く】
静寂な処に座し、意を正す。
特定の対象、息、虚空などに気を依らしてはならず、五感すべてに気を留めてはならない。
あらゆる想を除き、除くという思いも捨て去れ。現象は無相であり刹那生滅であるから。
もしどうしても想が乱れる場合、一切の現象は心のみであり対象は存在せず、またそのように考える心も固有の相はなく刹那生滅するものである、と。
座より立った後も、折に触れて、心を真如三昧に住するよう努めるべきである。
これにより煩悩を伏し、信心を増し、不退の境地に至り、法界一相を覚るであろう。
仏説への疑惑・謗法・罪業の深いもの・自我意識の強いもの・怠惰なものは成就しない。
止の修行中には仏の顕現や神通力の獲得、あるいは三毒増大、性情不安定、睡眠欲、あるいは些末な行への心移り、世間事務の出来、似非三昧の獲得、そういう類の魔事が起こるが、これらはすべて外教の三昧であり、主客を超える一相の真如三昧ではない。
「止」の功徳に十種ある。
 1. 常に、諸仏・諸菩薩に護念される。
 2. 魔事・悪鬼に恐怖させられない。
 3. 外教・鬼神に惑わされない。
 4. 仏説を誹謗することがなくなり、罪障が減衰する。
 5. 一切の疑念と、誤った探求心・観察心が消滅する。
 6. 如来への信が増大する。
 7. 憂い・悔恨の心を離れ、生死流転の中にあって勇猛精進の心を得る。
 8. 心が柔和となり、高慢心を離れて他人に悩まされなくなる。
 9. 成就に至る前でも、煩悩は減少して、世間的なことへの欲望が減る。
 10. 三昧に入る間、外界の一切の音声に驚かされなくなる。

   【観に曰く】
「止」は以上のように根本の行であるが、ここに留まるとき、人は心が沈み、怠惰となり、善事を願わなくなり、大悲を離れてしまう危険がある。
故に、以下の四つの「正観」を修習するべきである。

   法相観
世間のすべての縁起した諸現象は刹那変化し、壊れる。一切の心も同じである。
故に、これらの現象はすべて苦である。
私が過去・現在・未来に思い浮かべるものはすべて生滅変化するものである。
また、世のすべての「身体を有するもの」は不浄であり、楽しむべきものはひとつもない。
   大悲観
一切衆生は無始以来、みな根源的無明のはたらきに滲透されて心の生滅を起こし、これまでに己の身にあらゆる大苦を受け、結果として無量の苦に逼迫されており、未来に渡ってその苦は限りなく、これを捨て・取り除くことは難しい。
にも関わらず衆生はそれを覚知せずに生滅の現象に取り縋ることは憐れむべき存在である。
   大願観
法相観・大悲観の心を起こした時、人は心を奮い立たせて大誓願を立てるべきである。
願わくは、我が心をして分別を離れ、妨げなく心を十方世界に遍く心を行き渡らせ、一切の善行・徳行を実践し、未来の限りを尽くしてあらゆる方便を巡らし、すべての苦悩する衆生を救済し、涅槃という究極最高の安楽を得させたいものである、と。
   精進観
この大誓願を立てることにより、いつ・いかなる場にあってもあらゆる善行を、己の出来る限り、捨てることなく習修して決して怠ってはならない。
禅定(止)の間はそこに専心すべきであるが、他のあらゆる時には常にこの四観をなして、為すべきこと・作すべからざることを観察して判断すべきである。

以上の「止」と「観」は、行住坐臥、双び修するべきである。
「止」によって凡夫の執着心を破し、生死輪廻の恐れと臆病な見解を捨てることが出来る。
「観」によって大慈悲心を起こさないという過失を免れ、善根を修習しないという過失を免れる。
この両者は補完するものであり、共に具えていなければ、人は覚りの道には入れない。


 不退方便について
以上、修行の中心は五門、とりわけ「止」と「観」であるが、臆病な衆生は、たとえこの教を学んでも、娑婆世界では諸仏にお会いして供養も出来ないと危惧し、信心を成就することなど出来ないと危ぶみ、修行をやめようとする者がある。
彼らに対しては、如来の勝方便があり、信心を護って下さることを知るべきである。
即ち、その心をもっぱら阿弥陀如来に向け念ずることで、死後に浄土に往生して仏にお会いし、永遠の悪道に陥ることを避けられるのである。
浄土においては退転はあり得ないのであるから。
また、「止観」と方便を並び行ずることで、阿弥陀如来の本体である真実のありかた、つまり真如法身を観じ、またその修習を繰り返し勤めるならば、終には浄土に生を受けて後、不退転の菩薩として正定聚の仲間となる。

この不退方便の念仏については、本論中には原則論だけで具体的な方法が説かれていない。
これは私の方法ではあるが、阿弥陀如来の絵・像を現前に安置し、浄土観想にもっとも相応しい「阿弥陀経」を読誦観念し、のち往生呪を念誦(陀羅尼念誦と結印)しながら、現前の阿弥陀如来を心中に入我我入(三密相応)させると行ずる。
もちろん「六字名号」でも阿弥陀大呪・小呪でも構わないが、いずれにしても、行の本筋は「止観」にあり、不退方便は方便行として、「止観」の足らざる部分の補完であると心得べきであろう。
浄土教流の専修念仏とはまったく違うものであるのが、師説による阿弥陀如来念仏である。

これが『大乗起信論』所説の修行であり、根本師説であると受持せよ。
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カビールの詩

2015年06月25日 | 仏教・思索
わたしは 
水と波との違いについて
ずうっと考えてきている
高まりながら 水はやはり水であり
落下しながら それは水である
どうやって区別するのか 
わたしにそれとなく教えてもらえるだろうか
だれかが 「波」 という言葉を 作り上げてしまったから
わたしが それを 水と 区別しなければならないのだろうか
わたしたちの内側には
至高のブラーフマがいる
その手の中を
星雲のすべての惑星が
数珠のように通り抜ける
そのひと続きの数珠を
ひとは輝く目で見つめなければならない


野坂政司訳 http://www.asahi-net.or.jp/~ej7m-nsk/Poems/KABIR.html より引用

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カビール。
15世紀から16世紀に生きた、この織物職人の名を、どれだけの日本人が知っているでしょう。

ヒンドゥーの捨て子としてムスリム夫婦に育てられ、一生を不可触民の織物職人として過ごし、
宗教というものの本質を常に歌い続けた人、カビール。
今ではヴィシュヌ派の一セクトの創始者ともされている彼は、そんなこととは関係なく、
恐らく一生の間、地道に仕事をし、宗教者の話を聞き、歌い、死んでいったのでしょうね。

…………………………………………………………………

もし裸で歩き回ることで
神との合一が得られるなら、
森の中のあらゆる鹿は救われるだろう。
裸で歩こうが鹿の皮をまとおうが、
心の中で神を認めないのなら、
何の違いがあろう。
夜も朝も沐浴する者たちは、
水の中の蛙のようなもの。
神の御名への愛がなければ、
皆死神のもとへ行く。
カビールは言う、
なぜそんなに多くの儀式を行うのか。
他のあらゆる本質を捨て去り、
神の御名という、
かの偉大な本質を飲み干せ。


…………………………………………………………………

本質が大事。本質だけが大事。
本当に、そう思う。
一休がかつて、武士の法事を頼まれて下見に行ったら、
「汚い格好をした乞食坊主め」と門番に追い払われてしまった。
当日に金襴の袈裟つけて行くと丁寧にもてなされたので、その場で金襴を脱ぎ捨てて、
「これに拝んでもらえ」と裸で帰ってしまった…という逸話。
本質がない世界では、これが笑い話ではなく、実際に横行している。
金襴じゃなくても、肩書、身分、風采、年齢。人はそれを珍重し、ありがたがる。
坊さんでも、僧階や寺の規模、そんなもんに頼ってふんぞり返って疑問も持たない。
世の「高僧」方、今、それを担保している肩書や寺院、経済力をすべて失い、
身ひとつで安アパートに放り込まれて、職もなく、友人もない、過去を知る人もいない。
そうなったとして、それでも「高僧」でいられますか。
本質とは、そういう時にこそ、輝く。

坊さんじゃなくても同じこと。
みんな、大なり小なり、本質を失ってしまって、どうでもいいものに頼って生きている。

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偶像崇拝

2015年06月15日 | 仏教・思索
本日、御室派山口宗務支所の講習会で、三井記念美術館館長の清水先生のお話を聞きました。主には日本の仏像の変遷について簡単に教示いただいた、というところです。

仏像の話そのものはいいのですが、「仏教は言うまでもなく、偶像崇拝であり、キリスト教やイスラムと違う」と仰っていましたが、それはどうなんでしょうかね、と。そこにはちょっと引っかかりました。
私は例の如く懇親会には出ずに帰りましたので、質問する機会も逸しているので直に見解をお聞きできなかったんですが…。

いわゆる「偶像崇拝」というのは、きわめてヘブライ的な考え方で、たぶん聖書に出てくる「金の牡牛」でしたっけ? モーセのあたりの逸話が有名ですけれど、あれは「像そのものがまさに神である」ということでしょう。
イスラームにおいても、メッカのカアバ神殿にジャーヒーリヤ時代に祀られていた、まさに「像」がそのまま「神」である、という…。

果たして仏像と言うのは、それと同じなのかどうか。

東方教会には「イコン」というものがありますが、オーソドックスの公式見解では、あれは「偶像」ではなくて、「神の似姿」であるから、イコンを通して、そのもっともっと奥にある神を信仰するのだ、ということになりますが、仏像もそういうものではないですかねぇ…。

また、「偶像」というものを、「ある種の物質に神性があると考えて拝む」ということであれば、たとえば「公式教義」は一旦、別にするとして、イスラームにおける「聖者廟崇拝」やカアバの位置づけも偶像であるかも知れないし、キリスト教に至っては「聖遺物崇拝」なんか完全に「偶像」ではないかと。もちろん仏教でも同じですが、一般の人の信仰形態としては、ほとんどメンタリティーは変わらないような気もしますね。

「仏教は言うまでもなく、偶像崇拝であり、キリスト教やイスラムと違う」という時、仏教に対しては、巷に流布している一般的な感性をもってそう言い、キリスト教等についてはタテマエの公式教理を立ててそう規定しているとすれば、それはちょっと比較としては当たらないのではないかと。

仏像の変遷とはちょっと横道ですが、もっとも気になったところでした。


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因みに。
イスラームにおける聖者廟崇拝が「偶像崇拝」と考え得ることの証左として、タリバンやイスラム国が、アフガンからイラクにかけての支配地域において、シーア派やスーフィズムの聖者廟をぶっ潰して回っていることが挙げられると思います。少なくとも、信仰の歴史や民衆の感性を無視した「原理主義」の立場では、ああいうものは「偶像崇拝」と規定される。ビザンツや宗教改革期のイコノスクラムも同じことで、そう考えると、キリスト教やイスラムは偶像崇拝ではない、というのは、かなりタテマエ上のものでしかない、と思われます。
仏教においては内部からのイコノスクラムはありませんでしたが、それは一神教の聖典のような、過激な「偶像排除」の思想がなかっただけで、かと言って原理的に考えた時には、別に「像」が不可欠のものというわけでもないのですから、構造は似たようなものでしょう。
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コンサート開催

2015年06月13日 | 閑話休題
まだ詳細は詰めてないのですが、秋口に、私の友人のminakumariちゃんと、フランス在住のハーモニカ奏者・清野美土さんのコンサートを、山口市の寺で行う予定です。

minakumariちゃんは、インドの弦楽器・シタール奏者で、NHKの朝ドラのインド音楽奏者役の人に楽曲提供していたり、昔、「世界の車窓から」に音楽を使われたそうです。東京時代の学校の同級生。
清野美土さんはお会いしたことはないのですが、フランス在住で、国際ケルト音楽祭でグランプリを受賞したハーモニカ奏者です。

本当はうちの寺でコンサートしたかったところですが、立地的・状況的に音楽コンサートは難しく、結衆寺院さんに持ち掛けたところ、「やってもいいよ」ということで、ありがたくお願いした次第です。

チケット販売とかはもうちょい先になる予定ですが、近隣の方、そうでない方も、関心があれば是非、お問い合わせください。


minakumariちゃんのサイト
http://minakumari.net/

清野美土さんのグループ「ハモニカクリームズ」のサイト
http://harmonicacreams.com/
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Hector The Hero

2015年06月08日 | 閑話休題
私はフィドルはまったく弾けませんが、フィドルこそ楽器の女王だと思います。
楽器としては完璧ですよね…。
ホイッスルは「声」ですが、フィドルはすべての音を表現できます。
素晴らしい。



この曲、Hector The Heroは、Blind Maryと並んで、私の大好きな曲です。
ホイッスルでも吹けますが、この表現力はなかなか…出せないです。もちろんうまいホイッスル奏者の演奏はそれはそれで非常に味がありますが…。

それはそうと、スコットランドやアイルランドの音楽は、日本人の感性にストレートに響きますね。明治維新以来、日本の唱歌に数多く採用されたのも、きっと当時の人の心に響いたからではないでしょうか。不思議なものですが。
誤解を恐れずに言うと、私自身は、江戸時代以前の曲や邦楽曲にあまり感動できないのですが(-_-;)、スコテッシュやアイリッシュには感動します。これは伝統的な日本を軽視して「近代化」つまり「欧米化」されてしまった近代日本人の感性という悲しい背景があるのかも知れませんが、実際すでに、少なくとも私の感性はそうなってしまったのですから…仕方ない…。


因みに、上に書いたBlind Maryの動画は、↓。
一曲目です♪



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ホイッスル♪

2015年06月07日 | 閑話休題
ティンホイッスルについてのページを、寺サイトにアップしました。

ホイッスル♪

 ← こんな感じの「アイルランドの縦笛」です。

詳しい事は上記 「ホイッスル♪」 をクリックしてもらえば、寺のサイトに飛びます。

ホイッスルに興味のある人、ぜひぜひ、やってみませんか?
アイルランド、ケルト、北欧の風を吹かせてみません?

私も初級レベルですので、教えるなんてことは出来ませんが、仲間にはなれますよー。

アイリッシュやケルト伝統音楽は、実は日本人にとっても、馴染みやすい音楽です。
明治時代、文部省唱歌などで採用された音楽の中にも、アイルランドやスコットランド、アメリカ民謡の音楽がたくさん、あります。
「ほたるの光」「庭の千草」「アニーローリー」「ダニー・ボーイ」等々…一度は耳にしたことがあるはず。
それだけじゃなくて、何百・何千という曲、ダンスからスローエアーまで、バリエーションも様々。
この笛を使えば、全部、吹けちゃいます。

タイタニックや指輪物語の映画音楽としてもホイッスルは大活躍していますし、
日本のテレビ番組でも、実はほぼ毎日、この音色は流れているんです。


参考まで、You Tubeから、いくつか。


かっちょいい!


最初に私が見て、「やってみたい」と思った動画です。


有名なプロ奏者。


こちらは、低音域のロー・ホイッスル。素晴らしいです。



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秘蔵宝鑰より

2015年06月03日 | 弘法大師聖句
法は人によって弘まり、人は法を待って昇る。人法一体にして別異なることを得ず。この故に人を謗するはすなわち法なり。法を毀るはすなわち人なり。
世人この義を知らず、舌に任せてたやすく談じて、深害を顧みず。むしろ日夜に十悪・五逆を作るべくも、一言一語も人・法を謗すべからず。殺盗を行ずるものは現に衣食の利を得、人法を謗するものは、われにおいて何の益かあらん。
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宗教・思想と政治

2015年06月01日 | 仏教・思索
宗教間の相互理解って、別に仏教徒がキリスト教神学や歴史に通暁したり、その逆だったり、あるいはヒンドゥーでもイスラームでもいいんだけど、そういうことじゃなくて、もっとそれ以前のこととして、「違う世界観」というのはそれぞれ存在していて、その限りにおいて立場はイーブンだということ。それをわかること。
数の多少ではなくて。

性的マイノリティー問題もそう。「私の考え」というのはそれはそれでいいけれど、「違う考え」もあることをまず認めること。ひとつの立場で他の立場を「是正」するなんて出来ないし、すべきでもない。単純な話。
ひとまずはね。

政治的に自分の立場が規制されるようならば反対すべきだけれど、そうでないなら何も言えないし、言ってもしゃーない。
客観的に優劣は決定できない問題、思想的な問題はそういうもんだから、それをみんな前提として押えたうえで、ではお互いにどうやって共存していくのか、を考えないと。「私は正しい、おまえは違う」の応酬では、何も解決しない。
客観的に正誤を判定できる問題は徹底して議論したらいいけれど、それにそぐわない問題まで議論しようとするから、ギスギスしてしまって、差別だの殺し合いだのが始まる。

「自分たちのムラ社会」の概念やルールは、結局のところ一定の範囲でしか通用しない。「普遍的真理」というものは、私はあると思うんだけれど、それにしても他の立場からは別の「普遍的真理」を提起し得る。
それを客観的証明に則って他者に納得させることは不可能。
これは単なる「相対主義」ではなく、事の性質上そうだ、というだけ。自分自身の立場では「あれも正しい、これも正しい」の相対主義ではなくても、それを押し付ける理論的根拠も正当性もないんだわ。もしあるとしたら、とっくに何かの思想で人類は統一されてるし。

しかし政治的にこういう考え方を推し進めると、超絶自由主義になってしまうんですよね。無政府主義的な。これはこれで社会秩序が保持できないので、結局どのあたりで線引きしていくのか、というのが常に政治的な課題になる。
絶えざる妥協と社会情勢による規定の見直しを続けていくしかないのが政治であるので、逆に言うと、そんな暫定的で恣意的な政治が「普遍的真理」などを追究する宗教や思想に介入し過ぎるのは、これはダメ、ってことにもなる。
こういうころに矛盾と葛藤が出てくるわけで、いずれにしても難儀なことですわなぁ…。
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