प्रज्ञापारमिता

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大学改革と仏教と

2015年05月31日 | 仏教・思索
国立大学改革。
内田樹教授が怒りの記事をアップ。

http://blogos.com/article/113789/

内田教授の思想や主張には賛同できそうもないところも私はあるのですが、それは単に意見の相違。意見の相違があること自体は結構なことで、そういうところも含めての「文系」です。
人文・社会科学は、どうしても白か黒か、なんてことはない。分野にもよるけれど、仮に文献的に白黒つけられるものであれ、どの分野にも結局、根底にはそういう面がある。理系にだってあると思うわけで。
そんな決着のつかない部分が宛然と横たわるからこそ、学問の深みも魅力も、また「効用」もあります。これが実用主義、近視眼的な成果主義一辺倒になってしまったら、それはもう、学問の大切な一面を捨て去るに等しいし、そんな風潮が一般化した社会は、どれほど貧相な精神性しか持てなくなるのだろう。
その点で、内田教授の主張には、私は完全に賛同します。

政治の方針で学問の在り方を規制してはいけない。政治など「その時・その場」でいくらでも変容していく状況主義・仮説の応用に過ぎない。この国の民主主義など、せいぜい大正デモクラシーから見たって100年程度。それに対して、人の「知りたい」という学問の歴史は、数千年、否、もしかしたら万単位の時間を経てきているわけです。そのような精神の歴史、知の歴史に対する侮辱、冒涜を、たかが生まれて数十年の人間が政治的規制という形でしていいわけがない。
国立は税金が…と言ったとしても、「国家」のために国立がなくてはならないわけじゃなくて、「クニ・民族」のための機関という意味での「国立」であれば、実用や短期的成果だけに重点を絞るのは、まさに「亡国」の所業。むしろ「国立」の名に値しないと思うのですがね。


国立大学問題とは関係ないけれど、仏教も似たような風潮になってないだろうか。実用主義に毒されていないか。成果主義に毒されていないか。
社会的な意味で、非生産的であるのが仏教、あるいは宗教ではないでしょうか。社会的なところを突き抜けた根源に触れようとする立場であるにも関わらす、色々な意味で、社会的な評価や成果に絡めとられていないか。「社会に役立つ仏教」というのは果たして正しい考え方だろうか。社会常識を相対化して崩してしまうという「危険な」方向性を忘れ、社会の規範でありたいと願うことは、宗教の自殺になってしまわないだろうか。人の在り方、自己一身や世界の秘密を知ることが、現実社会の在り方に過度に左右され過ぎではないか…。
何も反社会的であれ、と言うわけではなくて。ただ、社会に沿うことは第二義的・方便の世界であることを忘れてしまい、「現行の社会道徳的」に立派であらねばならないという強迫観念が、私たちにないだろうか。
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仏教と倫理学

2015年05月27日 | 仏教・思索
仏教と倫理ではなく、仏教と倫理学についての話です。

さて。

仏教を仏教として学び実践することは基本だけれど、最近、仏教以外の人々に対して、仏教の立場でどう関わって行くのか、という点に関心が出ています。これは個々の人に対してもそうだし、非仏教的な日本社会・現代世界に対してもそうです。
「私は仏教の立場だから」と言って自己完結する生き方もある意味で清々しくて宜しいのですが、たとえば「いじめ」や「戦争」「仕事の意味」「生きる意味」「善と悪の規範」「政治」「原発・核問題」「安全保障と基地問題」などの幅広い側面に置いて、仏教徒としての立場でありつつ、仏教的ではない一般社会と共通のコトバがやはり必要ではないかと。
自己一身が如何に生き・死ぬかという点だけでよければ、仏教だけでもいいと思うんですが、他者との関係性において我々がある以上、そこで留まるわけにも行かないと思います。少なくとも菩薩だの利他だの言う以上は。

で、具体的にどういうことかと…。

たとえば、「~すべし・~してはならない」という倫理規範で社会秩序は成り立ちます。
社会だけではなく、自己一身の行動においても、それぞれの規範が存在しているはずです。「無規範」を標榜する者であれ、自分ルールは何かしらあるはずです。
仏教徒であれば十善戒や四無量心、その他の規範があります。キリスト教やイスラームにもそれぞれの規範があります。それぞれの信徒にとっては、前提となる倫理規範であるはずであり、その点では問題ないところです。
同じように、現代日本にも「法律」「慣習」としての規範があります。
ところが現代の社会問題の源泉というのは、これは宗教的な前提を欠いている点で、この規範の根拠・正当性が疑われているところにあると思います。ただ条文で「こうすべし」、「昔からこれが当たり前」というのでは、個々の行為をもはや納得をもって律していけない。
かと言って、仮に仏教的規範を示したところで、仏教徒でなければ、押し付けられた社会規範とそれは同じ程度の説得力しか持っていない。
ここに、依って立つ倫理的根拠が消滅し、人々・社会が方向性を喪失して路頭に迷う状況が出てきているのではないでしょうか。個々がめいめい勝手な「自分ルール」を設定し吹聴して他者に影響を与え、混乱に陥っている。「自分ルール」にも根拠はないので、結局「好き嫌い」レベルのものでしかない…。

この倫理上の問題、危機について、これを根底から考えてきたのが「倫理学」です。もちろん西洋的な思想経緯によって形成されて来た側面は拭えませんが、それでもメタレベルにまで徹底して考えようとする倫理学は、「倫理」というものの一般的性格を浮かび上がらせるのに、非常に有効なのではないかと、最近、私は考えています。

「なぜ、是非の命令が成り立つか・或は成り立たないか」「倫理が成立するか・或は成立しないか」「絶対的倫理と状況倫理は両立するか、しないか」ということを、仏教という個別の立場に立ちつつも、より一般的な立場でしっかりと考えていく、社会的に共通の言葉で根源的に考えて発信していく、その必要が、特に僧侶には求められているのではないでしょうか。

単に「仏教では~~」というのでは、一般社会への説得力はないに等しい時代が、もう来ています。
また、僧侶や仏教徒も、無自覚に「そんなもの」として受容していた仏教的規範を一度は根本から考え直していく、解体して自分で組み立て直してみる、そういう作業をしていかないと、本当の意味での確信は生まれてこないと思われますし、非仏教者・非仏教社会との真の相互理解は果たされないのだろうな、と、そのように考えます。
そういう意味で、「倫理学」というものの考え方を一度サラっとでも押えておくことは、むしろ必須ではないかと。「十善戒」はなぜ「善」たりうるのか。それを仏教徒ではない人にとっても「善である」と、善の根拠にさかのぼって説明できるのか。そもそも「善」と「悪」とは何か。絶対的なものか、相対的なものか。相対主義は無限後退に陥らないのか。このくらいまでは、別に他人に説明しなくてもいいんですが、自分の中で一通り考えておくべきかと思います。
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金剛般若経

2015年05月24日 | 仏典の言葉
若以色見我
以音声求我
是人行邪道
不能見如来

根本はここなんだよね。
これを忘れると、間違える。
細かい教学で争い、見失う。
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阿弥陀=創作仏

2015年05月11日 | 仏教・思索
mixiで、阿弥陀如来は創作なのになんでそんなものを説くのか、というトピがありました。
そこでちょっと思ったことをレスしたのですが、私の書き込みだけ転載します。
キリスト教の話もちょっと出てたので、キリスト教のことも書いてます。

…………………………………………………………

阿弥陀仏、というものによって何を示しているのか、ですね。
それはキリスト教の「神」が何を示しているのかと同じで、
その言葉自体がどのような経緯で作られたのかはともかく、
その言葉をもってして表現した「なにか」こそを見なくてはなりません。
言葉の出現をもって「創作」というのであれば、
人間の言語表現や概念によるものはすべて「創作」です。

釈尊が歴史的人物であり、阿弥陀仏は違うのは当然で、
だからこそ阿弥陀仏が釈尊を説いたのではなく、
釈尊が阿弥陀仏を説いたという経典の構造があるわけでしょう。
それによってどのような思想や道を示したのか、それを見るのが大切です。
宗教や思想構造を歴史学で裁断するのはお門違いです。
そんなことは、物理理論を歴史学で解けないのと同じことです。

因みに、三位一体は聖書そのものに明言されていないはずです。
あれは、歴史的に形成された神学、トピ主風に言えば「創作」です。
だからこそ、単性論などの主張もあったわけですし。
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十善戒

2015年05月11日 | 法話関係
十善戒というものがあります。
出典は華厳経ですが、大乗仏教における根本的な戒で、僧俗通戒です。
私は居士法師で出家ではありませんので、いわゆる比丘戒は捨戒しましたが(受戒はしました)、
この十善戒はすべての仏教徒が守るべきものです。
また、大乗の実践者には六波羅蜜・四無量心などを受持するのですが、
いずれにしても基本はこの十善戒です。

まず、リストアップしてみます。

 不殺生
 不偸盗
 不邪淫
 不妄語
 不綺語
 不悪口
 不両舌
 不慳貪
 不瞋恚
 不邪見

五戒というものもあり、これは

 不殺生
 不偸盗
 不邪淫
 不妄語
 不飲酒

酒を飲むな、というのが入っています。
ですから、十善に加えて、不飲酒を入れた十一を意識してもいいと思います。

それぞれの意味はまぁ、見ていただければ想像つくとは思いますし、
ネット検索していただければ、意味自体はすぐにわかるでしょう。

ただ、これらの項目は「字面」を守ればいい、ということではありません。
比丘戒…律というものは、文字通りルールのように守ることを重視しますが、
十善戒というものはそうではなく、それ自体を内面に根差したものと考えなくてはいけません。

たとえば不殺生。

これは「殺すな」ですが、「殺さなければいい」というだけではなくて、
「どうして殺す、という行為が起こるのか」という点が大切です。
殺すというのは、「目の前の他者を消したい、不都合があるから排除したい」という心から起こります。
殺人も、「この人にいつまでもここにいて欲しい」なら、基本的には起こりません。
蚊を殺すのも、目の前から「それ」を排除したい、ということです。
であれば、そのような「排除」「排斥」の心が「殺しの第一歩」ですから、
そのような心が起こることは、即ち「殺生」に足を踏み込んだことになります。
実際に殺す・殺さないという現象だけではなく、そこまで幅を広げて考えてください。
不偸盗以下も同様です。
実際には盗まなくても、自分の者ではないものを掠め取りたい、他者のものを羨むこと、
それが「盗み」です。
モノだけではなくて、時間や労力、気持ちもそうです。
いつも私たちは、他者の何かしらを求めて、欲しがって、苦しみます。

ですから、この十善戒は、恐らく大多数の人には守れないものばかりです。

ではどうして、それを受ける必要があるのか。
守れないとわかっているなら、そもそも受けなければいいのではないか。
そういう考えも一理あります。
しかし、十善戒は、できれば大乗仏教徒であれば全員が受けるべきものです。
なぜか。

この十善というものは、理想です。
すべて自然にこのように生きていけるのは、仏陀だけです。あるいは、菩薩・阿羅漢。
いわゆる四聖の境涯にある方は殊更に意識しなくても、このように生きられます。
しかし私たち凡夫にはなかなか難しいことです。
…と言って、「じゃあエエわ、いらん」となると、そこまで。
それでも理想としての十善戒を受け、多少なり意識して持ち暮らすことで、
現状の自分と、理想の姿との乖離と距離が明確化します。
どれだけ自分が理想から離れてしまった存在であるか、痛感します。
痛感した後に、それでも理想に向かって進んでいきたいなぁ…という思いを起こすところ、
そのところに「菩提心」、さとりを求める心が生まれます。
この菩提心が仏教のスタートです。
これかなければ、仏教がはじまりません。
仏教をはじめるためのものが、十善戒です。
マラソンにしても、ゴールがどこかわからなければ、スタートを切れない。
また、ゴールに向かって一歩を踏み出そうと思わなければ、マラソンは成立しない。
仏教が成立しなければ、経典や論書などただの「文書の束」で、意味はありません。
また読経や行法なんかやっても、ママゴトです。意味はない。
いわゆる発菩提心を重視する流れとは違う浄土教などでも、ではどうして極楽浄土に行きたいのか、
その心には菩提心があるからだと、私は思っています。
経路と方法論に違いはあれど、どの流れであっても、菩提心は根本でしょう。

ですからどうぞ、「守れないものは無意味」と思わず、
守れないというその地点にこそ実は意味がある、と。そう思ってください。
ここが、「戒」の「戒」たる所以です。
もちろん、「守れない」というのは、極力「守る努力をする」ことが前提です。
最初から「守れないので」というのでは、理想との格差は絶対に見えてきません。
真剣に十善戒を守り抜く努力をする。それでも守れない。大切なのはここのところです。

機会があれば是非、受戒されてください。
また正式の受戒をされる機会がなくとも、十善戒は自分で意識して、
仏壇や寺院の御本尊の前で「守ります」と申し上げるだけで十分です。
正式に受けて真剣に考えずうっちゃっている人も多いです。
それに比べて、自分で勝手に受けると誓って守る努力をしている人、
どちらがより優れているか、こんなものは一目瞭然ですから。
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