प्रज्ञापारमिता

𝔇𝔥𝔞𝔯𝔪𝔞 𝔗𝔞𝔩𝔨, 𝔅𝔲𝔡𝔡𝔥𝔦𝔰𝔪, 𝔗𝔥𝔦𝔫𝔨𝔦𝔫𝔤, 𝔞𝔫𝔡 𝔱𝔥𝔢 𝔚𝔬𝔯𝔡

仏前の態度

2015年04月29日 | 仏教・思索
仏前に座るというのはどういうことか。

最近、法事の席で「足は楽にどうぞ」と言う前から、最初から胡坐で座る人が増えてきました。
だいたい中高年男性。さすがに立膝で…というのは何度かしか見たことないですが、胡坐は結構、多いです。
ちょっとそのあたり、何か言うべきだなぁ…と思いつつ、しかし僧侶はどうだろうかと。
僧侶も言うほど、きちんとしていない場合があるように感じる。
私も油断すると、如来がここに在すことを失念して、目の前の人間だけを見てしまう事が多々、あります。
これじゃーいかん。
自戒を込めて、書いた記事です。

さてさて。
しかし、いきなり胡坐で本尊にケツ向けて座るというのは、論外です。
こういう当たり前の事ができていない人が、多い。
坊さんであっても。

人間の場合でも、たとえば尊敬する方がおられる部屋に入った時に、
挨拶もなしにあぐらでケツ向けてどっかと座りはしないでしょう。
そういう方の部屋に入る時は、だいたいはまずその方の下座に座り、ご挨拶を正座でするものです。
また、人差し指で差したり、まじまじと顔を見て品評もいたしません。
御本尊であれば尚更の事なのに、それを出来ないのは、
その場に仏などいないという心理を、言わずもがな晒しているだけのことではないでしょうか。
そのような心で、いったい何に手を合わせているのでしょうか。
仏は慈悲深いからそんなことは気にしないのだ…と言った方もいましたが、
では、尊敬する人間に対しても、その方が慈悲深くて怒らないなら、そういう失礼なことをするんでしょうか。
しないでしょう。
学問があるとかないとか、自分の主義信条とかいう以前の問題だと思うんですよね。
法話や談話で檀信徒に向かって座る場合でも、ど真ん中正面で御本尊に足裏を向けるのは、失礼です。
構造上どうしても仕方ない場合もあるのですが、それにしても無意識ではいけない。
目上の方を真後ろに置いて話をする、というのは多分、しないのではないでしょうか。
それと同じです。

座り方。
座り方には、正座もあります、また、結跏趺坐や半跏坐もあります。
そのような座り方が、まず基本です。
安楽座というのもあり、これは胡坐に近いですが、これは胡坐ではありません。
膝が悪い方、あるいは椅子席の場合は、当然ながら椅子に座ります。
その時に、足を投げ出すな、と。猫背になるな。
椅子は楽するために座るのでは胡坐と一緒です。
椅子は椅子で良いんです。
実は私も怪我して以来、ずっと左膝が悪いので、正座は1時間、結跏趺坐は無理、半跏坐なら15分が限界で、
安楽座でも30分を超えると左膝が悲鳴を上げてしまいます。
ですから、法事等で椅子席でないと辛い、という気持ちはよくわかるつもりです。
でも、椅子には椅子の座り方というものがあります。
基本はやはり、尊敬する方に対する態度、です。
まして真如法身の象徴である如来を面前にしているのです。
その意識は、忘れずにいたいものです。

檀信徒さんにはここまで言いませんし、「足は楽にどうぞ」と言いますが、
ただ、如来の面前であるということは、なるべく言うようにはしています。
椅子あるいは胡坐でないと痛くて手を合わせるどころじゃない…となると本末転倒ですから、
足は崩してもかまいません。
ただ、ここは如来の場であり、崩す際は心の中で「すみません」と言ってください。
それは、礼儀です、と。
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ネパール建造物被災

2015年04月28日 | 時事関連
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150427-00000037-jij_afp-int

ユネスコとしても、修復はかなり難しいとの見解が出ているようですが、緊急支援の段階が落ちつけば、これらの修復のための活動に対しても、とりわけ仏教徒・ヒンドゥー教徒の主体的な活動が大切になります。ユネスコは大きな力になりますが、それ以前に、ここは信仰の場でもあり、聖地でもあります。「文化財」としてだけではなく、信仰の立場からのコミットも重要になるでしょう。
同時に、観光資源としても重大です。今後のネパール経済の復興、人々の生活基盤・産業基盤の復興にも、これら宗教建造物・文化の保全は絶対に必要になります。
今後のユネスコ、またネパール政府、仏教・ヒンドゥーの諸団体の活動を注視して、微力ながら、積極的な募金・寄付を継続していくように考えています。
緊急支援の段階が終われば世界の関心も急速に薄れていくでしょうが、その時点からが、勝負です。


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ネパール大地震、歴史遺産の被害甚大 「修復不可能」

【AFP=時事】25日にネパールで起きたマグニチュード(M)7.8の大地震では、同国が誇る豊かな文化財にも大きな被害が出ている。専門家によれば「取り返しのつかない損失」だという。

首都カトマンズ(Kathmandu)では12~18世紀に建てられた寺院や仏像の数々が、週末の昼どきに発生した地震で崩壊し、がれきの下に人々が閉じ込められた。

国連教育科学文化機関(ユネスコ、UNESCO)の世界遺産に登録され、観光名所となっている市内のダルバール広場(Durbar Square)では、200段のらせん階段で知られる9階建ての「ダラハラ塔(Dharahara Tower)」が礎のみを残して崩れ落ちた。地震発生時にちょうど塔に登ろうとしていて被災した観光客は、揺れが始まって数分で塔が崩れたとして「100人以上が中にいたのではないか」とAFPに話している。

ユネスコは、古都パタン(Patan )やバクタプル(Bhaktapur)などと合わせ、カトマンズ盆地(Kathmandu Valle)にかつて栄えた王国の文化遺産がどの程度の被害を受けたのか、情報収集を急いでいる。

ユネスコ・ネパール事務所のクリスチャン・マンハート(Christian Manhart)代表は、AFPの取材に「カトマンズ、パタン、バクタプルにそれぞれあるダルバール広場に甚大な被害が出たと理解している」「複数の寺院が倒壊し、パタンでは寺院2か所が全壊した。最も被害が大きかったのは(カトマンズの)ダルバール広場だ」と述べた。

マンハート代表によれば、カトマンズの西方およそ280キロにあるユネスコの世界遺産で、ブッダ生誕の地とされるルンビニ(Lumbini)についても、被害状況を確認しているという。

インド・マドラス大学(University of Madras)のP・D・バラジ(P.D. Balaji)歴史・考古学部長は、文化財の被災状況を映像で確認し、これらの歴史的な遺跡が完全に再建される可能性は低いと指摘。「ネパールと世界にとって取り返しのつかない損失だ」「被害が大きすぎて、完全修復は不可能だろう」と述べた。
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ネパール支援

2015年04月27日 | 時事関連
4/25、ネパールの首都カトマンズ近郊で大規模な地震が発生し、数千名の人命が失われ、貴重な街並み・文化遺産も壊滅状態となっています。
日本をはじめ各国も支援に入っていますが、私たちも出来る範囲で、支援していきましょう。

寄付金・義援金に関しては、以下の組織などが行っています。

▶日本赤十字社 http://www.jrc.or.jp/contribution/150427_003568.html
▶国境なき医師団日本 http://www.msf.or.jp/
▶シャプラニール http://www.shaplaneer.org/support/jishin_nepal.php
▶日本ネパール協会 http://nichine.or.jp/JNS/?p=7771

ネパール製品を買う事で、現地の産業を支えることも大切です。
寄付金よりももしかしたら、仕事をしっかりと確保していくことのほうが、長期的には重要なことかも知れません。
ネパール製品を売ることで現地の産業を支え、売り上げの一部を寄付する会社として、

▶ティラキタ http://www.tirakita.com/

このようなところもあります。
ここで買い物をされるときは、「ネパール製」を選んでください。
他にもフェアトレードや雑貨通販、服飾、食品関係など、ネパール製品を扱う会社や店はいくつかあります。

また、ネパール国内の亡命チベット人の支援が手薄になりそうです。
ネパール政府に抑圧され、中国政府からの横槍・圧力もかかっています。
チベット人支援の為に、カトマンズのシェチェン僧院の支援組織もあります。

▶シェチェン僧院 http://karuna-shechen.org/news/help-earthquake-victims-in-nepal/

ネパール政府が台湾の援助隊を拒否したりしていますが、
中国政府の顔色を窺うのを即刻やめて、しっかりと自立的活動をするよう、願います。

なお、以上の情報はそのまま、福楽寺ウェブサイトトップページにも掲載しております。



ネパールでは今後、インフラや建物の復興再建も行われるでしょう。諸外国、特に中国からの投資は莫大になると思われます。
この時点でその話はしないほうがいいのでしょうが、将来のネパールを考えた時、今からしっかりと考えておくべきところがあると思います。

カトマンズなどはあの中世的な街並みそのものが観光資源として、ネパール経済の重要な部分を占めていると思うんですが、今回の地震でかなりの部分が損壊したと思います。
再建するときに、できるだけ「復元再建」していく必要があると思うんです。
コストと安全性重視だけで建物を作ってしまうと、街並みが中国や日本の地方都市のような殺風景なコンクリの箱が並びかねず、そうなると観光としての魅力がなくなり、中長期的にネパール経済に悪影響を及ぼしかねません。
ですからインフラ・建造物の再建はすぐに始まるはずですが、その時に耐震をしっかりと確保した伝統建築・従来の街並みの復興、これを絶対にしていかなくてはならないと思います。
そのあたりのコストは諸外国の支援を投入すべきです。ネパール自身の将来を考えても、これは絶対でしょう。

伝統建築にどう耐震設計を適応していくのか、その分野では日本は世界最先端のはずです。
この分野での支援を、日本は絶対にネパールに申し出るべきです。コスト面も含めて、支援すべきです。
そうしないと、一旦、つまらない中国地方都市風の建築物が並びだすと、もう取り返しがつきません。
必ず、復興の最初期の段階から、日本がこの部分でもリーダーシップを取り、ネパールの将来を見越して支援すべきです。

緊急援助、人命優先は当然ですが、ネパールと言う国はこれからも続きます。そして現実問題、観光立国です。
ネパールから観光を奪うと、経済的に立ち行かなくなり、中国やインドへの過度の依存が更に甚だしくなり、独立性もあやしくなりかねません。

日本には目先の救援だけではなく、長期的な国家支援をぜひ、やって欲しいと思います。


被害がこれ以上に甚大になりませんように。
文殊菩薩の聖地・カトマンズ、ネパールの方たちが守られますように。
また、隣国のインド、チベットの方たち、旅行者の方たちも守られますように。
亡くなられた方が、如来の導きによって良き後生に至れますように。

おんあらはしゃのう
おんあらはしゃのう
おんあらはしゃのう

おんあみりたていぜいからうん
オンマニペメフーム
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無量寿如来根本陀羅尼

2015年04月23日 | 仏教・思索
『無量寿如来根本陀羅尼』、別の名を『阿弥陀大心呪』『十甘露真言』について書きます。
以下は、栂尾祥雲師の『常用諸経典和解』に依拠しております。

さて。
無量寿如来とは阿弥陀如来であり、具には「アミターユス=無量寿如来」「アミターバ=無量光如来」のことです。
時間的に無量寿として三世一切の衆生を悉く済度し尽し、空間的には十方一切の衆生を摂取し捨てないのでありますが、この心髄根本を説くものということで、この陀羅尼を「無量寿如来根本陀羅尼」といいます。

これは『無量寿供養儀軌』に載せられているものでありますが、『阿弥陀経不思議神力伝』によると、この陀羅尼は龍樹菩薩がある夜の夢中において授かったものと伝えられ、その後、中国に至ったとされます。

さてまず、中国・梁代の道珍禅師という方があったのですが、この方の話をここで記しましょう。

ある時に夢の中に極楽浄土が現れて、数百人の者が七宝の船に相乗りて向こう岸の極楽に向けて出立しようとしていました。道珍禅師も喜んでその船に乗ろうとしたところ、船上の人より、「これは浄業の熟さぬ者は乗れぬ」と言われたそうです。
道珍禅師の曰く、「私は一生のあいだ念仏を唱えて参った。なのにどうして乗れぬか」と。
すると船上、「師は阿弥陀経ともに阿弥陀大呪を誦ぜないからである」との声。
それを聞いて啼泣やまぬ中、はたと目が覚めました。
以来、それまでの学究すべて打ち捨てて、阿弥陀経と大呪のみを唱えること2万遍、その時に西方の空中より白銀の台が飛んできて、声が空中に響きます。
「法師、命の終わればこの台にのってあなたは極楽に往生するであろう」と。
そしてまさにその通り、道珍禅師は命終の時には天の音楽が鳴り、異香四方に漂って、聖衆来迎を示したと伝えられます。
その後には唐代に大いに流布し、日本にも弘法大師以来、この陀羅尼は大いに用いられました。

そこで、ではそもそも『無量寿供養儀軌』には、この陀羅尼はどう説明されているのでしょうか。

自性法界宮において、まず金剛手菩薩が大日如来に対して、「私は濁世の衆生にこの陀羅尼を説こうと思いますが、どうか加被を垂れてください」と申しました。
つまりこの陀羅尼は、金剛手菩薩によって説かれたものである、ということです。
以降の記述を約めて言いますと、つまり極楽浄土に往生するに、称名念仏の如き少福無慧の方便ではそれは期し難い、三密の行とともにこの大呪を用いてこそ、極楽に往生して初地を得ることができよう、というものです。
三密というのは、結局は「至心に合掌し阿弥陀如来の三世十方に及ぶ智悲の働きを憶念すること」で宜しいでしょう。印契を伝授されておられる行者の方は、その印を結んでいただけば良いかと思います。

さてその他、『小無量寿経』には、「この呪を誦せば、阿弥陀仏は頭頂に住し日夜に擁護、現世安穏・命終時には極楽往生させる」とあり、また前述の『無量寿供養儀軌』にも、「一遍を誦すれば、身中の十悪四重五無間の罪を滅し、一切の罪障すべて消滅する。また七遍を唱えれば、即時に戒品清浄となり、万遍には菩提心不退の三摩地を得て心は浄月輪の如くなり、命の終わるに臨んでは、阿弥陀如来の来迎して極楽浄土に上品上生の往生を果たす」とあります。
また、『陀羅尼集経』には、「陀羅尼の力は恰も日月の光の如く、之に比すれば念仏の功徳は夜燈の光のようなものである。されば、人若し日日に此の陀羅尼を誦じ、之に兼ねて念仏せんか、その功徳広大恰も須弥の高く、大海の深きが如くである」などと記されております。

では、具体的にこの陀羅尼の内容を見て参りましょう。
まず、漢字に移したものを掲示し、読みをかなで示します。

曩謨囉怛曩怛囉夜耶 
 のうぼう あらたんのう たらやぁや 
曩莫阿哩野弭跢婆耶 怛他蘗跢夜 囉賀帝 三藐三沒馱耶  
 のうまく ありや みたぁばぁや たたぎゃたや あらかてぃ さんみゃくさんぼだや
怛儞也他唵 
 たにゃたおん 
阿蜜㗚帝
 あみりてい
阿蜜㗚妬納婆吠
 あみりとう どはんべい
阿蜜㗚多三婆吠
 あみりた さんばべい
阿蜜㗚多蘖陛
 あみりた ぎゃらべい
阿蜜㗚多悉第
 あみりた しっでい
阿蜜㗚多帝際
 あみりた ていぜい
阿蜜㗚多尾訖燐帝
 あみりた びきらんてぃ
阿蜜㗚多尾訖燐多誐弭寧
 あみりた びきらんた ぎゃみねぃ
阿蜜㗚多誐誐曩吉底迦㘑
 あみりた ぎゃぎゃのぅ きちきゃれぃ
阿蜜㗚多嫰努批娑嚩㘑
 あみりた どんどび そばれぃ
薩縛囉他娑馱寧
 さらば あらた さだねぃ
薩縛羯磨訖禮捨乞灑孕迦隷
 さらば きゃらま きれぃ しゃきしゃよぅ きゃれぃ
娑縛賀
 そわか


そして、簡単な意味を示します。
陀羅尼は必ずしも意味を理解して唱える必要はないとされていますが、私は知っていることはプラスになると思います。

曩謨囉怛曩怛囉夜耶 
 三宝に帰命す 
曩莫阿哩野弭跢婆耶 怛他蘗跢夜 囉賀帝 三藐三沒馱耶  
 尊き無量光を有する如来応供正遍智に帰命す
怛儞也他唵 
 即ち、オーム
阿蜜㗚帝
 不死の者、すなわち無量寿よ
阿蜜㗚妬納婆吠
 不死なる甘露より生まれたる者よ
阿蜜㗚多三婆吠
 不死なる甘露より生ぜる者よ
阿蜜㗚多蘖陛
 不死なる甘露を蔵せる者よ
阿蜜㗚多悉第
 不死すなわち無量寿を成就せる者よ
阿蜜㗚多帝際
 不死すなわち不滅の威光ある者よ
阿蜜㗚多尾訖燐帝
 不死すなわち不滅の神変ある者よ
阿蜜㗚多尾訖燐多誐弭寧
 不死すなわち不滅の神変を行ずる者よ
阿蜜㗚多誐誐曩吉底迦㘑
 不死すなわち不滅の空より称誉をなす者よ
阿蜜㗚多嫰努批娑嚩㘑
 不死すなわち不滅の鼓音ある者よ=常恒不変の説者よ
薩縛囉他娑馱寧
 一切の希望を成就せしむる者よ
薩縛羯磨訖禮捨乞灑孕迦隷
 一切の業と煩悩を尽滅せしむる者よ
娑縛賀
 平安・成就あれかし


最後に、阿弥陀小呪を掲載しておきます。

阿弥陀小呪も、『無量寿供養義軌』に出て参ります。


阿蜜㗚多 … 甘露・不滅 
帝際 … 威光 
賀羅 … 運載 

  
大智・大悲の威光遍く照らす如来に帰命す、というような意味になろうかと思います。

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論書=グル

2015年04月22日 | 仏教・思索
論書って、「グル」なんだよね。「グル」というとどうしても「あれ」を思い起こす人もいるから使いにくくなっちゃったけど…ま、「ラマ」でも「師」でもいいけど。実際に「師」と呼べるだけの方が実際におられる人は幸福、でも残念ながら、そういう出会いがない人も多い。
でも、論書は先人の偉大なる「グル」方の教えであり、また人格の表出であると思う。だとしたら、これは「グル」そのものだと。そう思って、論書は読んだほうがいい。単なる現代的な「学術論文」とは違うんだと。
「経」は釈尊、「論」はグル・ラマ・師。そゆこと。

たくさんの「グル=論書」があります。「これだ」と思う論書があれば、三礼してから読む。その教えを学び納得すれば、四の五の言わずにその通りに実践してみる。その教えを通して、根本大師・釈尊の経を理解していく。様々な仏教思想を理解していく。これが大切。

学問的にはそうじゃない。学問的には、論でバイアスかけての経だと、学問にはならない。
でも、実践は違うと思う。

そして日日、迷った時は根本に…。

私は常に『大乗起信論』。

この論書は中途半端、初心者向け、偽物…色々と言われるけど、私が大学時代以来、実際に色々なものを読んできて、結局はここに最大の拠り所を得ている。
時には手放し、裏切り、また戻り…まさに、生きた人間の「グル」に対してもそうしてしまうであろう弱い私だけれど、この「グル」はいつも怒らず、待っていてくださる。
頁を開けば、いつでも教えをくださる。経を読むときでも、常に読み方を教えてくださいます。

『大乗起信論』を書かれた名もなきグル。馬鳴と名付けられるその方に、いつも敬礼していたい。
その「私のグル」とともに釈尊に教えをいただき、弘法大師など先師先徳の道程を辿って行く。
そのような仏道をこそ、これからも歩いていきたい…。
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日本という現象

2015年04月17日 | 仏教・思索
最近、日本を扱ったテレビ番組や本がたくさん出てきています。
それはとても良い事だと思います。
ただ、私は度を超えた日本自画自賛番組や国粋主義的な本は嫌いです。

もちろん私を含めて、日本をあまりにも知らなさすぎる現代日本人に、私たちの過去の歴史や先人の蓄積を再認識させるものは、良いと思います。
要は、中身です。

日本には日本のオリジナルで、素晴らしい、独特の文化、ユニークな歴史と伝統があります。虫の息ですが、こういうものの再生や見直しもあります。これによって、「日本人で良かった」「日本は素晴らしいな」となれば、それはそれでとても良い事。こういう愛国心は大歓迎です。少なくとも「欧米では~~」とか、「日本は遅れてる」「グローバルスタンダードは~~」と言って日本のすべてを無視したり否定するよりは、よほと健全。

ただ、それが「日本優越」になってはいけない。青はスペシャル、ユニークで美しくて存在意義があり、素晴らしい。
でも、青は別に赤や白や緑に勝っているわけではない。
それぞれの国や民族、文化はそれぞれが凄いんです。思想も含めて。

また、日本の素晴らしい色も、それだけで生成してわけではないという事実も大切で、古代から中国や遠くインド、あるいは南洋、あるいはシベリア方面、近代には欧米、色々な文化が融合して、今日の日本がある。その総体が、日本です。
日本はユニークな独自性を保持しつつ、また様様の文化事象と相互連関して成立した「クニ」です。他国もそうですが、日本は地理的にも典型的にそれがよく見える形で残っている。
こういうのを、まさに、「空」としてのクニだと言えるのだと思います。

日本という自性はない。日本という現象は、ここにある。

日本研究というのも、「日本の独自性」ならいいけれど、「日本の優越性」を前提にしたものはすべて、アウトだと思います。日本と言う自性を妄想して「日本」を考えても、それは間違う。

「日本」は「現象」だ。

そしてその現象にユニークさを認め、誇りを持とう。
そして網の目のようにお互いに依り合う他国・他民族の歴史や文化も、根っこはすべて繋がっているひとつの「現象」なのだから、すべてを尊ぼう。
網の目は一部分だけか立派でも、役に立たない。
すべてがしっかりと連結して破れていないからこそ、意味がある。
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タケノコ

2015年04月15日 | 閑話休題
お寺のすぐ近くに、寺の名義になってる山があります。
ただの竹山ですが、タケノコはいくらでも出ます。
檀家さんのほうからもタケノコは時々頂くのですけれど、
妻がどうしても「自分で取りたい」ということで、行って来ました。

↓クリックして拡大してね♪

 車を広場に泊めて、こういう道をてくてく歩いて来まして…

 はい、ここから先が寺の山になります。

 風があったので、竹の揺れてぶつかる音がすごい。自然の音。

 タケノコ。足は妻です。

 善哉氏も一緒に山登りですが、タケノコには興味なし。
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生と死

2015年04月09日 | 仏教・思索
人は死んだらどうなるか。
永遠の問いです。
そこから「存在とは何か」という問いも出てくるんですが、さて。

「死んだことがないのでわかりません」
「だから死ぬまでしっかりと生きればいい」

そういう「答え」をよく聞きます。

でもこれは違うんじゃないのかな、と。

そう言っていいのは、実は死ぬ、生きる、ということを自身で正面から納得している人だけが言っていい言葉であって、生半可な状態でそう言うのは、たんなる思考停止、誤魔化しに過ぎないように思う。
ホントにそんなんで「納得」できてるのかな。

「死ぬことを実際に経験していない」ので「語れない」のは正しいでしょうか。
実は、生きていることは不断に死につつあることなのではないでしょうか。
だとしたら、まさに今、「死につつある」のだから、その状態を経験していることを観察していくことが、まさに「死を語る」ことにつながるんじゃないだろうか。
死と生は断絶していると思うから、「わからない」となる。

生死とは、それは、波の頂点と下点の相違であって、実は同一の存在のポイントの違いにすぎず、そのポイントは不断に交流して影響し合う、一連の流れであると。
だとしたら、本当の意味で「生きる」ことを知るためには、波の下点である「死ぬ」ことをしっかりと掴まなければ、何もわかったことになりません。
同時に「死ぬ」ことの意味を探るには、「生きる」ことの事態をしっかりと見つめていなくてはならないんです。

これこそ形而上学ではない、純然たる「経験主義」であって、「死」を固定化した「なにものか」と思う所に、形而上学的で戯論的な言説が出てくる。でもそうじゃなくて。

今の社会の「死の隠蔽」「アンチエイジング」「若さ至上主義・老いの否定」というところからは、どうしてもまっとうな「生と死」の考え方は生まれてこないように思いますが、どうでしょうか。
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色即是空 空即是色

2015年04月06日 | 法話関係
● 色 … 物質すべて、特にこの身体のこと
● 空 … すべては独立してあるわけではなく、依り合って成り立っている

たとえば、ゴルフのネットは「目」が「いくつある」と数えられます。
大きい目もあるし、小さい目もあります。
確かにそれは「ある」と言えるのです。
でも、「では右から3番目、上から5番目の網の目を持ってきて」と言っても、
それは持ってこられません。
「ある」のに、持ってこられないのです。
それはなぜでしょうか。
すべての網の目は、他の網の目があるから、そこに存在できる。
なにかの「縁」があるから、そこに網の目は存在できます。
これが、「空」として「ある」ということです。
人もみな同じ。
この身体は、数か月で「モノ」としてのそれは入れ替わってしまいます。
呼吸するたびに、少しずつ、入れ替わっています。
心も同じです。
外部の出来事によって心は変化するし、同じ状態ではあり続けられません。
常に、すべてと関わり合い、交換し合って、身も心も成り立っています。

空気。
この空気も、見えないけれど、ある。
何もないようだけれど、確実にあります。
たとえば楽器を吹いてみると、音が出ます。
それはこの空気の中に、音を出す「種」があるからです。
その種に色々な縁を付けて、色々な音が出る。声もそう。
いい音や声になる時もあるし、そうじゃない時もある。縁によります。
そのように、縁・まわりの環境によって、すべては成り立ち、表れてきます。
人間の心も同じです。
縁が何もなければ、心というものもないも同然。
何かの縁があるから、この心の喜怒哀楽も出てきます。

よい縁を自分の心につけていくよう、
自分の心を良い思い・良い出来事に調和させてください。
最高の縁というのは、「慈悲の思い」です。
慈悲の心というものを意識して、自分自身の心に縁づけていけば、
きっと幸せな心にどんどん、近づいていけます。
よい音楽を演奏するためには、「上手に吹く」という練習が必要です。
よい心になるのにも、私たちは多少の練習が必要です。
毎日少しずつ、慈悲の心を意識して生活すると、きっと良い心の音楽が鳴りますよ。
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