प्रज्ञापारमिता

𝔇𝔥𝔞𝔯𝔪𝔞 𝔗𝔞𝔩𝔨, 𝔅𝔲𝔡𝔡𝔥𝔦𝔰𝔪, 𝔗𝔥𝔦𝔫𝔨𝔦𝔫𝔤, 𝔞𝔫𝔡 𝔱𝔥𝔢 𝔚𝔬𝔯𝔡

カフカ『橋』

2015年03月29日 | 法話関係
  

私は橋だった。冷たく硬直して深い谷にかかっていた。
こちらの端につま先を、向こうの端に両手を突きたてて、ポロポロと崩れていく土にしがみついていた。風にあおられ裾がはためく。下では鱒の棲む渓谷がとどろいていた。こんな山奥に、はたして誰が迷いこんでくるだろう。私はまだ地図にも記されていない橋なのだ
――だから待っていた。待つ以外に何ができる。一度かけられたら最後、落下することなしには橋はどこまでも橋でしかない。

ある日の夕方のことだ――もう何度くり返してきたことだろう――私はのべつ同じことばかり考えていた。頭がぼんやりしていた。そんな夏の夕方だった。渓谷は音をたてて黒々と流れていた。このとき、足音を聞きつけた。

やって来る、やって来る!――さあ、おまえ、準備をしろ。おまえは手すりもない橋なのだ。旅人がたよりなげに渡りだしたら気をつけてやれ。もしもつまずいたら間髪を入れず、山の神よろしく向こう岸まで放ってやれ。

彼はやって来た。杖の先っぽの鉄の尖りで私をつついた。その杖で私の上衣の裾を撫でつけた。さらには私のざんばら髪に杖を突きたて、おそらくキョロキョロあたりを見回していたのだろうが、その間ずっと突きたてたまま放置していた。彼は山や谷のことを考えていたのだ。その想いによりそうように、私が思いをはせた矢先
――ヒョイと両足でからだの真中に跳びのってきた。私はおもわず悲鳴をあげた。
誰だろう? 子供か。幻影(まぼろし)か、追い剥ぎか、自殺者か、誘惑者か、破壊者か? 私は知りたかった。そこでいそいで寝返りを打った

――なんと、橋が寝返りを打つ! 

とたんに落下した。私は一瞬のうちにバラバラになり、いつもは渓流の中からのどかに角(つの)を突き出している岩の尖りに刺しつらぬかれた。



…………………………………


このお話は、色々な意味を含んでいます。
作者のカフカは真面目な郵便局員として一生を終えた作家です。
毎日毎日、同じことの繰り返し、本当は小説だけ書きたかったのですが、それでは生活できない。

不本意な仕事をしつつ、夜に小説を書く生活をする、その自分の身動きできないところを、「橋」として表現しているように思います。
彼は、仕事は仕事として、一所懸命にやっている。
郵便局員として、橋として、義務をしっかりと果たしています。

しかし、生活の中で「何か」が起こる。楽しげなこと、トラブル、色々なことが起こります。それに動転して、結果、すべてをメチャクチャにしてしまう…。
「何か」が起こった時、動転せずに、自分の今の状態をしっかりとわかり、冷静に判断していれば、そういうことにはならないのですが、「何か」が起こるその状況にひきずられ、自分の立場を忘れた時、悲劇というものが起こってしまいがちです。

人はいつも、「ここでないどこか」に憧れ、新しい事、違う人生を想像して、他の人が「輝いて」見えるものです。そして自分がみじめに見えたり、「こんなはずじゃない」「つまらない」と思ってしまいます。 

仏教の教えは、「今・ここ」の教えです。

今、やるべきこと。
今、やりたいこと。

このふたつをしっかりと考えて、「今・ここ」で私は何をすべきなのかを意識して生活することで、地に足の着いた生活が出来ます。
他の人の生活や仕事に憧れることは良いことです。他人の考えを意識・忖度することも大切です。それを参考にして、自分の人生を向上させる材料になります。

でも、「あなたはその人ではありません」。自分自身の生活で「今・ここ」で「何をすべき」で「何をしたい」かがわかっていないと、ちょっとした他人の変化に、自分自身が動揺してしまいます。

この小説は、それを教えているように思えます。

日日の仕事、なすべき義務をしっかりと努め、同時に、自分のやりたい事をしっかりと見極めてやる。このバランスが、幸せへの道です。
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高野山大学

2015年03月24日 | 閑話休題
高野山大学に教育学部ができるそうな。河内長野に。
今年は御山に「人間学科」という失敗が既定路線のような学科ができました。日本文化学科、スピケア学科と失敗続きで、学習能力がないのではないかと不安になります。

高野山内での大学の存続と発展を図るのが基本線ですが、高野山ならでは、のものにしないと意味ない。
理想を言えば、密教・仏教の二学科体制のほうがマシだと思うし、他に作るなら、「哲学科」として西洋・中国思想と宗教学を充実させ、あとは「仏教芸術学科」など設置して欲しいな、と思ってます。人は集まらないかも知れませんが、どうせコケるなら。

あと、前々から思ってるんですが、文理融合学部を考えてもいいんじゃないかと。
高野山は山です。
自然環境もあるし、社会的ニーズもあるのですから、「山岳自然学部」を設置して、生物学・植物学・地学、環境保護や林業、火山学・災害学、山岳救助、山岳文化・民俗学、修験文化、ヒマラヤ学ということを教え、自然環境保護や山岳の専門家を養成する。熊楠学とかもいいし。
これだと、興味のある学生は都市志向じゃないはずで、高野山が田舎にあることは障害にならないのでは、と。アウトドアな学生が増えたら雰囲気も活性化するし、10人よりは学生も来ると思いますよ。

コストは人間学科なんかよりかかるだろうけれど、高野山の立地条件と、独自性、存在価値を勘案しても、「山岳自然学部」は可能性があると思います。日本の宗教文化との連結をしっかり基盤に据えて「山の専門家」を養成できるのは、高野山大学こそ適任だと思うんですけれども。
大学関係の方、どうですかね。
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再び、オウム

2015年03月23日 | 仏教・思索
「止まった時計 麻原彰晃の三女・アーチャリーの手記」という本が、出版されています。

以下は例によって、Facebookで私が投稿したタイムラインから、転載しています。

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アーチャリーもそうですが、事件20年ということで、オウム本がいくつか出ているようです。
私はオウム真理教、あるいはアーレフやひかりの輪の教義にはあまり関心もなく、突っ込んで知りたいとは思わないんですが、オウムに行かざるを得なかった若者の心象風景にはとても関心があります。その部分なら、私もわかるところがあるような気がする。アーチャリーは立場が違うからまたちょっと別でしょうが、彼女の心境には関心がありますね。人の心の難しさ、疎外された心の闇とか。興味はありますし、そういうものを知ることは、自分のためにもなります。また、多様な人々、考え方を許容するとはどういうことか、そんな問題意識で読むこともできるでしょう。

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当寺の檀家の中にも、統一教会やその他のカルトに現に流れていく人たちが、少数ながらいます。そういう人たちは、実によく考え、感受性が繊細だったりするのです。社会に、あるいは人間と言うものに対する違和感を持ってしまった人の心象風景。それらを排除・矯正して「健全な社会」を形成するのは、それは実はとても暴力的なことでもあるのかと。
非常に、難しく、またセンシティブで大切な問題だと思うんですが、僧侶が宗教者であるのなら、逃げてはいけないところなのだろうな、と。

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オウムにのめり込む若者の問題にしても、それは多分、社会病理学的な視点で考える方向性があると思う。確かにそれは有意義だと思うのだけれど、そのような心性を社会的な病理である、つまりイレギュラーなものであると考える観点では、事態のすべてを尽せないのではないかなぁ。
そのような若者の現実が、実は「健全なる社会」という前提そのものに疑問を提起しているのであれば、社会病理学では扱い切れないのかも知れない。ここまで来たら哲学の領域であって、そもそもの常識や観念をすべて根底から崩して考える必要があると思うのだけれど、そうなると基準が個人個人のレベルになってしまい、全体的な記述ができなくなる。
オウムの事件がいつまでたっても「よくわからない」のは、そのあたりの「健全なる前提」を一般社会の側が無自覚に振り上げて事を見ようとしているからではないだろうか。これじゃ、わからんよ。「わかった」としても、当事者には何も伝わらないし、通じない。

では、仏教はどう考えるのか。

凄く、難しい。宗学や仏教学をいくらこねくりまわしても、多分、答えなんか出てこない。「癒し」「つながり」なんてかったるい言葉を持ち出しても、事は一緒。
まず、疎外感や社会に対する非現実感、「生きる」ことの手応えのなさに対する切実な疑問と希求、そのあたりの問題を感じたことのない人には対処不能だろうし、感じたとしても「誤魔化せた」類の人にも、たぶん対処は難しい。そういう心性の在り方を「青い」「甘い」と、どこかで感じてしまう人には、「彼ら」の苦しみを想像することも難しいのではないだろうか。

釈尊ならわかったのだろうと思うけれど。
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般若心経の本

2015年03月21日 | 仏教・思索
巷には無数の「般若心経本」があります。科学者、文学者、政治家や企業家、猫も杓子も般若心経に手を着けては出版し、粗製乱造の嵐…いや、いい本もあるんですが、「?」というのも結構、あります。
では、どの本がいいのか、と。
ここで、私が良いと思った本をいくつか、紹介しておきます。参考になさってください。
ただし、私の立場でいいと思うだけで、他の観点からは他の本が良い、という人もいるでしょう。


「般若心経絵本」 諸橋精光 小学館
絵本だから読みやすく、内容も的確。檀家さんにもオススメしていますが、僧侶が読んでも納得。

「般若心経手帳」 平山郁夫・中村元 東京書籍
携帯するには丁度いい。説明も中村先生なので穏当ではあります。

「般若心経とは何か―ブッダから大乗へ」 宮本啓一 春秋社
賛否両論あったりしますが、私は好きです。インド思想を視野に置いた解説。読みやすいです。

「般若心経―テクスト・思想・文化」 渡辺章悟 大法輪閣
これが今のスタンダード。先日すべて読んだのですが、渡辺先生の著述はいつも素晴らしい。

「般若経大全」
心経ではなくて「般若経」ですが、参考になります。心経についての部分ももちろんあります。


色々な本が他にもありますけれど、「解説」を読みたければ、今は「般若心経―テクスト・思想・文化」を読めば十分です。他の本はいらないくらい。ただちょっと大部なので、一般の方がいきなり手に取るのはしんどいかな、と思います。読めなくはないと思うんですが、気軽に…となると、ちょっと、と。
その場合は上記の最初の2冊。それでいいのかな、と。
他にも、本文だけなら岩波文庫・筑摩学芸文庫にありますし、解釈も宮坂宥洪師・高神覚昇師などの本が角川文庫から出ていますので、そういう本でも良いかと思います。
文筆家などの書かれたものも味わい深いものがあると思いますが、最初からそういうものを手に取るのではなく、ある程度きちんとした仏教的な解釈を知ってからのほうが得るものも多くなるかと思いますので、そういう意味でも上記の本をお薦めします。
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寺という風景、そしてオウム

2015年03月20日 | 仏教・思索
教団にひきつけられる若者たち ---NHKニュースウェブ---

アーレフや光の輪に新規に入信する若者がどんどん増えている。
ここ数年で300人くらい増えたらしい。
以下は、私がFacebookで書いた記事です。

……………………………………………………

あの頃、「寺院なんか風景だった」というオウム幹部がいた。精神的な枯渇をどうにかしたいともがいてもがいて、その時、彼らには「寺」という選択肢はなかった。寺が、伝統仏教が彼らにとって何の魅力も力もないものに映っていた。

その時にそれだけのことがあって、今、どうだろうか。
若者にとって、伝統仏教は相変わらず、空気みたいな、ただの「風景」なんじゃないだろうか。何も変わっていない。本気で、求めて渇望している者に、寺は何もできない存在のままじゃないだろうか。イベントや「癒し」なんかじゃ、ダメなんだと思う。

私は「あの頃」19歳だった。
東京に行く直前。そこでインドの勉強をしていたのだけれど、確かにあの頃は私も悩んで、模索して、苦しんでいた。苦しみ過ぎて自律神経を壊し、パニック障害にまでなった。創価学会や教会の勉強をした。ヒンドゥーやイスラームの勉強もした。でも、伝統仏教というのは眼中にすら入らなかった。どうしてだろうか。
結局、チベットの写真を見て、仏教に接近し、日蓮宗の寺と関わりを持ったものの宗派仏教に忌避感があったので南都仏教に関心を持ち、でもツテがなく、インドにもっとも近いであろう宗派ということで真言宗を選んだ。だから私も、「伝統仏教」そのものに何かを求めたわけじゃない。やはり私にとっても、それは「単なる風景」でしかなかった。
今でももしかしたら、そうかも知れない。

だから宗派に属した今も、あまり縛られずに自分で勝手気ままに勉強している。私は伝統仏教や真言宗の勉強をして、そしてそれらを否定しているわけではなく、それを自分の中で消化しつつある。そういう機会を持てたから。でももし、インドの勉強をするという入り口がなかったら、多分、私も日本仏教には来なかっただろう。

なぜ「風景」なのか、どうして魅力がないのか。

宗教とは何かとか、そういうことを、もっともっと、真剣に日本仏教は考えないといけない。因習・習慣・伝統・道徳・「いいはなし」…そういうのは、ハッキリ言って、にっちもさっちも行かない若者にとっては、どうでもいい事。趣味で仏教やってる人には伝統は素晴らしいけれど、生きるか死ぬかの実存的な悩みに苦しむものにとっては、そんなことじゃ、まったくダメ。

………

私はオウム真理教やアーレフの考え方にはついていけないし、あれが正しいとは決して思わない。個人崇拝という時点で、アウトだ。
けれど、オウムに惹きつけられた若者のメンタルは、とてもよくわかる。今、アーレフに新しい信者が増えているのも、よくわかる。
行き場がない、「社会の常識」に窒息しそうになっている。「社会の裏に潜むウソ」「欺瞞」「いい加減さ」「自分勝手さ」「突き詰めない心」「お茶を濁す人たち」「なぁなぁ」、そして「アホさ加減」。そういう世界を代表するものが、「寺院」ではないのか。そう見られているのではないか。
「公序良俗に沿った組織」「常識論・社会性の殿堂」。
だとしたら、苦しんでいる若者が来ないのは当然だと思う。そこから外れた人たち、そのような社会に適応できず、根本的にものを考え込んでしまった人たちこそ、仏教を本来は必要とする人たちなのに。

………

なぜ仕事をしなくちゃいけないのか、なぜ生きなくてはいけないのか、どうして私は生きてるのか、どうして社会と関わらなくてはいけないのか。こういうことを「そうしなくちゃいけないからだよ」「みんなやってるからだよ」「食べるためだよ」「大人はそうすべきだよ」という常識論でしか語れない社会に、ついて行けない人間はいつの世もいる。
「なぜ、生きているのか」「死ぬというのはどういう事態か」「存在とは何か」…そこを真正面から考える場所が、現代社会にはない。
それを考えながら一般社会生活を営める者はいい。でも、このような問いに捉えられて、寝ても覚めてもここから逃れられなくなった人間は、行き場がない。
仏教、宗教とは、もともとそのような者たちのためのものじゃなかったか。伝統仏教は、あまりにもそういう世界から遠くなってしまったんじゃないか。

………

結局、あれだけの事件を起こしても組織が壊滅せず、徐々にまた拡大しつつあるという事実がすべて。日本社会の現状、仏教界あるいはキリスト教も神道も含めて、ああいうもっとも「求めている」タイプの若者をいまだに掬い(救い)上げられない。私たちにないものが、「あそこ」にある、というのは、どうにもこうにも、事実だと認めなくてはいけない。「あれはカルトだから」では話にならない。普通、あれだけのことをやったら、組織は続かないでしょう。普通は消滅しますよ。
でも、消滅していない。
ならば、どうして続くのか、どうして若者が惹きつけられるのか…宗教の原体験・原点というものはなにか、伝統仏教はそこが欠けていないか、真剣に考えなくてはいけないのだけれど、「あれだけの事件」があっても何も変わっていないのだから、多分、無理なんだろうなと思う。少なくとも、伝統宗団の組織としては、無理だろう。
あとは、個々の僧侶の問題。
私も実はニートやひきこもり、不登校、そういう場に色々と関わりたいのだけれど、接点がない。ネットでたまにメールの相談を受けるけれど、その時に精一杯、応えるだけです。無力。結局、自分がまだ「模索して右往左往している」状態だからかなぁ。
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伝統のおわり

2015年03月13日 | 仏教・思索
世界文化遺産。
遺産。
伝統の消費財化。
モノだけではない。
思想も。
また技能も。
すべて博物館に陳列される。
遺産、ということ。
過去の遺産は大切に。
保存しよう。
天然記念物のように。
ショーケースの向こうに。
説明文とともに展示される。
人はそれらを眺めて。
古き良き時代を追憶して。
そして薄っぺらい現実を生きる。
伝統。
それは遺産であり、過去の遺物。
たまに思い出し。
束の間、過去に思いを馳せ。
慣習もいずれ過去の遺物となり。
陳列棚に収まる。
趣味の世界。
そうして忘れ去られ。
ショーケースから収蔵庫に移り。
学者の所有物となり。
滅ぶ。
横に広い二次元の世界。
空間だけが肥大化して。
真夏の昼下がり。
人もいず、風も止まり。
私だけが道に立ちつくし。
あとは黄昏が突如として表れる。
のを、待つだけ。
そして、夜。
暗転。
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仏道

2015年03月08日 | 仏教・思索
Facebookの私の書き込みから。
ちょっと書き直しもしてます。

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弘法大師の『性霊集』に、「三世の没弟 恒沙の策多 発心修行して金剛宝蔵に入る者の所乗不同なり」。
三論の嘉祥大師吉蔵は「諸大乗経顕道無異」と言ってます。
そういうことなんじゃないですかね。中観・唯識・如来蔵から天台・真言・浄土・法華・禅…それぞれの道もアリだと思います。
ただ、道はひとつじゃなく、上下をつける類のものではない。
自分が「上」「先を行ってる」あるいは「他の道の者はまだ自分たちのレベルではない」と言うのは、そりゃ独善ではないでしょうか。それだけの話だと思います。
人はそれぞれ性質・特質があります。それぞれの相応しい道が多様にあるのが、仏教でしょう。理屈はどの立場でも、その立場に立てばされは通ります。でも、その立場に立たないと通らない。それだけ。
そういう点で、選択の自由がない檀家制度には、問題がありますね。以前に書きましたが、まったく仏教を知らない人には檀家制度は入り口やきっかけを半ば強制的に縁づける契機にはなりますが、求めている人には邪魔になることもある。
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般若心経の信心とは

2015年03月07日 | 法話関係
般若心経とは、正式には『摩訶般若波羅蜜多心経』といいます。六百巻もある膨大な『大般若経』の、もっとも短い、小さなお経です。小さいですが、素晴らしいお経です。

さて、『摩訶般若波羅蜜多心経』の摩訶とは、「大いなる・絶対の」、般若は「智慧」、波羅蜜多は「到彼岸・完成」、心は「心髄」、経は「教え」ですので、「大いなる絶対の智慧の完成により覚りへ到る教えの心髄」という意味になります。

実は仏教には「六波羅蜜」という教えがあります。
「布施波羅蜜」以下、「持戒波羅蜜」「忍辱波羅蜜」「精進波羅蜜」「禅定波羅蜜」そして「智慧波羅蜜」の六つです。これらは修行の項目ですが、この場合の「波羅蜜」というのも、それぞれの修行を完成させて覚りへと到る、という意味があります。

つまり「布施波羅蜜」というのは、自分がもっているものを他の為に捧げ尽す修行を完璧にすれば覚りに到る、ということ。「持戒」なら十の戒律を守り抜くことを完璧にする、「忍辱」は忍耐の修行を完璧に達成する、「精進」は不断の努力を完璧にやり遂げる、「禅定」は仏教の修行を完璧に完成する、それによって人は必ず仏と同じ覚りを得る、ということです。
その最後が、「智慧波羅蜜」ですが、智慧は般若と同じ意味ですから、「般若波羅蜜」とも言います。これは仏の教えをしっかりと聞き、考え抜き、理解し尽して世界の真実をはっきりと見極めるという智慧を完成させて、仏の覚りを得る、ということです。このことを簡潔に説いたものが、般若心経です。

これら六つの修行は、すべてをやり抜くのが最高なのですが、現実にはすべて難しいことです。並みの人間にはほとんど不可能です。

そこで、その中でもっとも中心で根本になる道が、「般若波羅蜜」とされています。他の五つの波羅蜜はすべて、この般若波羅蜜を根本にして生まれてきます。
この「般若波羅蜜」は仏の智慧をそのまま受け止めて考え、認識し、自分の心をガラリと変えて、仏の心に一致させる修行の道です。ですから、どれかひとつを選ぶとすれば、この般若波羅蜜を選ぶべきです(他の五波羅蜜ももちろん心に留めつつ)。
ただこれも、非常に難しい道ではあります。

しかし「般若心経」では、この「智慧の道」を、ひとつの言葉の中に込めて、これを信じて唱えることで、智慧の功徳が自然に私たちの心に徐々に染み込ませることが出来る、と教えています。それが、「ギャーテイ・ギャーテイ…」の真言です。これを心から信じて唱えることで、少しずつ、私たちの心に仏の心が染み込んで、いずれ覚りの境地に到るのです。宇宙とひとつの存在になれます。

実は光明真言もこれと同じ力があります。ですから般若心経を唱え、光明真言を唱えることは、仏の心をそのまま頂き、自分の心・命が少しずつ仏の心・仏の命・仏の光とひとつになっていく、その最も正しい方法なのです。そしてこの功徳を亡き人に向けることは、同じ働きを与えることになります。この心が、仏教の供養の心です。
それを信じて、これからも般若心経・光明真言をしっかりと心に受けて、信心をしていきましょう。
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今年こそ!

2015年03月06日 | 閑話休題
オリックス・バファローズ -SKY- PV 2014


いよいよこの季節がやって参りました。

野球の季節です。

私は言葉を覚えるよりもテレビで野球を見る方が早かった。

言葉を覚えるのと同時に、野球のルールを覚えた。

だから、私は「野球の子」です(笑)

野球がなければ、私の人生は半分です。

海外移住なんかしません。

だって、プロ野球がないから。


バファローズは、最高のチームです。

プロ野球チームの中で、最高のチームです。

ファンは多分、十二球団で最少でしょう。

でも、その分、結束は固い。

最高のチームと、最高のファンです。

今年は、このチームで、絶対に優勝したい。

いや、絶対に、優勝しかない。
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イスラム国・川崎国

2015年03月04日 | 時事関連
http://www.focus-asia.com/socioeconomy/photonews/410732/

英紙デイリー・メールによると、イスラム過激派組織「イスラム国(IS)」が殺害したクルド人男性の肉を調理し、解放交渉に訪れた母親に食べさせていたことが分かった。2日付で台湾・自由時報が伝えた。

英国から祖国のイラクに戻ったクルド人、アブドラさんが証言した。アブドラさんは「イスラム国」の蛮行を見ていられず、英国での生活をすべて捨て、イラクの反「イスラム国」組織に加入した。アブドラさんによると、最近、クルド人女性が「イスラム国」に拉致された息子を救うため、「イスラム国」本部に乗り込んだところ、殺害された息子の肉を食べさせられるという残忍な目に遭った。

母親によると、「イスラム国」戦闘員は意外にも親切で、「長旅でお疲れでしょうから先に腹ごしらえをして下さい」と煮込んだ肉やスープなどを振る舞ってくれた。母親はこれを食べ終えた後、息子の居場所を尋ねたところ、戦闘員たちは「お前がたった今、息子を食べてしまったよ」と嘲笑したという。



もちろんプロパガンダ合戦ですから、真実かどうかはわからない。わからないけれど、事実だとしたらもう、言葉がないですね。死者を鞭打つだけでなく、母親にまでこのような仕打をするとなれば、もはや宗教どうこう以前の問題で、こいつらは人間としての最低限の心すら捨ててしまったとしか思えない。
戦争の是非はここでは問わない。
しかし戦うのであれば、「敵」と戦え。卑怯者め。
いかに高尚な大義を掲げたとしても、こんなことをしている奴に正義はない。神も許さないだろう。


さて、川崎の事件だけれど、在日外国人の疎外の問題など取り沙汰されているけれど、それはそれとして、子供はこういうものに影響されやすい奴もいる。少年Aは自分たちのグループを「川崎国」と名乗り、正座させて首をカッターで切ったそうな。イスラム国を模倣したこと明白。
大人の愚かな行為が、思わぬところで影響を及ぼす。
自分たちのやっていることが、間接的にアホに影響を及ぼして不幸を再生産していくということを、私たちも自覚しなければいけない。ここまでの残虐なことじゃなくても、たとえば職場や地域での「いじめ」や村八分も、子供たちはよく見ている。政治家の自己中心的な言動や罵声、恫喝も同じ。どんどん子供たちに悪い影響を与えていく。
「子供の世界のいじめ」というのは、私たち大人の世界の写し絵だから、「最近の子供は…」などと、大人は決して言ってはいけない。それは大人たちの現実であり、間接的に大人たちの行動そのものだ。アホなのは、私たちも同じだ。
川崎の殺人事件も、主犯は厳罰に処されるのは当然ではあるけれど、私たち大人がどのような社会を今、作ってしまっているのか。その精神性をもう一度、しっかりと洗い直すべきではないだろうか…と、そう思う。

あと、子供たちも、「社会が悪い」とは決して言うな。社会が良かろうと悪かろうと、行為をするのは、あなた自身だ。社会ではなくて、あなたが、現前に、その行為をするのだ。社会のせいにして自分の行為を正当化するのは、卑怯者のすることだ。

この双方から、しっかりと良い方向に変えていくこと。
大人・社会は影響の大きさを自覚し、よりよき社会は大人ひとりひとりの自覚にはじまること。子供たちは、そんな腐った社会なんかに負けることなく、しっかりと生きていくこと。卑怯者にだけはなってはいけない。それは最高に格好悪いことだ。
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