प्रज्ञापारमिता

𝔇𝔥𝔞𝔯𝔪𝔞 𝔗𝔞𝔩𝔨, 𝔅𝔲𝔡𝔡𝔥𝔦𝔰𝔪, 𝔗𝔥𝔦𝔫𝔨𝔦𝔫𝔤, 𝔞𝔫𝔡 𝔱𝔥𝔢 𝔚𝔬𝔯𝔡

日本は寛容か?

2015年02月27日 | 仏教・思索
複数回に渡ってFacebookに書き込んだことをほぼそのままコピペしたので、文体が不統一であることはご勘弁ください。
内容重視でお読みいただければ(笑)

さてまず、以下の記事をご覧ください。

http://www.kohara.ac/essays/2015/02/20.html

一神教が不寛容であり、多神教的な日本が寛容である、という観念に対する疑義を呈しています。

日本特殊論を振り回すよりよっぽど妥当な考え方。

私は日本人が外国人より飛び抜けて寛容とか思わないし、倫理的に優れてるとも思わないし。意外に排他的な風潮もあるでしょ。日本特殊論自体が排他の裏返しでしょうし。
宗教にしても、一般人は寛容というよりも深刻に考えない実用主義的な世俗的文化風土、というだけなんじゃないのかな(ただし集団的な慣習に従わない奴は排除の対象)。熱心なタイプの集団によって、日本でも宗教戦争になったことはいくらでもある(蘇我・聖徳太子と物部、中世期の僧兵、戦国大名化した軍事組織としての本願寺や根来、仏教や儒教によるキリシタン弾圧の理論化、法華弾圧、比叡山と法華宗の戦争、廃仏毀釈、国家神道を旗印とした大東亜戦争、オウム真理教事件…)。そしてそれは、世界どこでもだいたいそんなもんじゃないのかね。

次に、↓の記事。

http://tabi-labo.com/90388/japan-india-curry/

日本こそ寛容であり、世界の中で特殊であり、宗教戦争も起こったことがない、という主張。

これはすごく一面的で自己評価の誤認というか、やはり違うな、と。
世界を回ってこんな主張を触れ回って、何の意味があるなかな。むしろ恥ずかしい。
それより、人間のリアルな悪、あるいは煩悩や愚かさ、怒りへの性向をこそ指摘し、ではそれを認めた上で、多様な立場の者が共存するか、の類いを提起するのが仏教じゃないのかな。日本素晴らしい、俺たちを見習えとか、何じゃそりゃ、ですよ。
仮に日本が素晴らしいとして、そう評価するのは外国人であって当事者の日本人ではない。淡々となすべき事をなすだけ、それだけでいいし、そうあるべき。自分で言うとか、それこそ日本的じゃないんじゃないの?

あと、前にも書いたけど、複数の宗教伝統を混在させて信仰するのは、世界ではよく見られるもので、別に特殊じゃない。ここが思い込み。また日本はこの点について寛容なのではなく、大半はどうでもいいと思っているだけだし、「日本」という枠の宗教であるとも言える。そうしてその「いい加減さ」「なあなあ」に順応しない真面目ちゃんは排斥されるんだから、なんだ、ベクトルが違ってても排他的であることにかわりないじゃん(笑)

もちろん私は、良い面も悪い面も含めて、日本には日本の特殊性はあると思います。それは否定していませんが、仏教の立場からは特殊性よりも普遍性にこそ目を向けるべきであると思います。「日本仏教」というのは、「日本の仏教」ではなく、「日本からの仏教」であればいいと思うし、最終的には「仏教」であることをこそ、私たちは追及すべきではないかと。

そもそも、日本社会は、たとえば欧米と比べてそんなに優しくて寛容な社会と言えますか? 妊婦や老人に電車で席を譲る、街中で困っている人を助ける、という場面において、日本が諸外国よりも勝っていますか。そんなことはないでしょう。むしろ冷たい、という風に感じることも多いのですが。
多様な人の存在を認める、というのも一見してそういうところもあるようですが、それは「無関心」とは違うでしょうか。自分に関わらなければ何でもいい、ということではないでしょうか。自分たちの領域内で「違う事」が行われた時、それを許容する寛容さは、実はあまりないのではないか。
もちろん外国も他者への許容性は似たり寄ったりで、結局、人間と言うのはそんなものである、と。人間は誰でも、自分の文化・習慣フィールドにおいては無自覚であるが故に自分たちを過大評価し過ぎるし、そこにどっぷり浸かっていればいるほど、一方で自分たちが「他者」になった時の「排除されてる」感が際立つ。白人にそれが顕著だと私たちは見えるけれど、日本人も同じではないですかね。どうですかね。

明治維新以来の西洋文化受容、あるいは仏教受容もそうですけれど、日本は「自分たちのフィールドに適合するものを取り入れ、精神性など含めた全体を取り込むわけではない」のが実際だと思うのですが、これは寛容ではなくて実用主義であり、極めて自己主張が強固であることを示していないでしょうか。その結果として表面的な事象が「多様なものの共存」に見えていたとしても、実際には「他者」そのものを受け入れているわけではない。
これは世界のどの地域でも、どの時代でも見られる文化伝播の常道であり、別に寛容でも特殊でもないし、優れているわけでも劣っているわけでもない。キリスト教だって、ゲルマンやケルト、あるいはもっ顕著にギリシアやイスラームを「導入」して、今のキリスト教や西洋が成立しています。むしろ完全同化していないという点で、日本の方が線引きを徹底して他者性を保存している面もあります。
このあたりの検討もせずに、日本礼賛をするのは見当違いだし、端的に、間違った観方ではないかと私は思うのですが。
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バクティとカルマ

2015年02月23日 | 仏教・思索
ヒンドゥーにおいては、信仰・実践の形態に4つの方向性があるとされています。

ラージャ・ヨーガはいわゆる瞑想の道。
カルマ・ヨーガは行為の道。
バクティ・ヨーガは信愛の道。
ギャーナ・ヨーガは智慧の道。

これは仏教においても非常に参考になるというか、実質的に仏教の実践もこの4つに収斂されているように思います。日本仏教で考えても、ラージャは禅や止観、三密行。カルマは律。バクティは浄土や法華。ギャーナはすべてに通じていく般若の道。配当が適切かどうか自信ないですが、いずれにしてもこれらの道は仏教においても斟酌されるべきでしょう。

今回はちょっと、バクティとカルマについて考えてみます。

バクティは、簡単に言うと熱烈な神・本尊への信仰です。他の何をも捨て置き、ひたすら信心と愛慕の心で自らを対象に投げ出し切ってしまうという信仰の形。まさに浄土信仰の形と同じです。日本ではこの道を「易行」と言います。

しかしこれ、果たして「易行」でしょうか。

そりゃ、口で「南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華経」と言うだけ。一見すると簡単です。座禅や密教行法と比べたら、形はとても簡単です。しかしそれをもって「易しい」とは決して、言えません。
ヒンドゥーでバクティの一例として、チャイタニヤの流れがあります。クリシュナ信仰です。
これは全世界すべてクリシュナであり、理不尽な出来事もすべてクリシュナの恩寵であると信じ切り、どのような困難もクリシュナの顕現として心から喜び、愛し、深く深く、不幸であれ幸せであれ、病気も戦争もすべてクリシュナの掌、クリシュナの限りなき恩寵として喜ぶ、というのが、そのバクティです。
クリシュナは万能・全知の存在の主宰者、否、存在がクリシュナです。つまり、この世のすべてはクリシュナである以上、どのような望ましくない出来事や存在であれ、それはクリシュナとして信愛の対象です。
これを完全に信じ、疑いの心を微塵も挟まず、常に至福の中に生き続けていく。
いついかなる時・状況であれ、「ハレー・クリシュナ」です。いついかなる時でも「南無阿弥陀仏」。これです。
これ、果たして「易行」でしょうか。私には無理です。
思うにこの道は、理屈で考えても歩けません。実際に目前にクリシュナが表れて啓示を受ける、くらいの出来事がなければ、とてもじゃないですが不可能な信仰だと思います。知識や経験なんか、何の役にも立たない。ものすごい境地でしょう。

カルマ・ヨーガも同じ。
普段の行為において義務を果たすことで成就に至るといいますが、基本的にはすべてを与え尽し、結果をまったく度外視して、日常のあらゆる行動をすべて「神」に捧げ尽す道。簡単に言いますが、これも困難です。あらゆる点で自分が地に堕ちても関係なく、喜びと奉仕の心すらも捧げ尽して自分のものとせずに与え尽くしていく。こんなことが可能とは思われない。大難行です。
仏教においても「戒」というのがありますが、これもただ「規則を守る」とかいう生半可なことではなく、これは誓願であり、インド的な文脈で「誓願」というのは「サティヤ」であり、「何があってもそれを守り通すことで、その誓願が真実の言葉となり、成就に至る」ことですから、ビタ一文の「まけ」もありません。「不殺生」というのは文字通りの不殺生であり、虫であれ何であれ、心に「殺す」という観念すら懐かない完全無欠の不殺生でなくてはなりません。ウソ、不倫、あるいは怒りもそうです。すべてを完璧に守り抜かなくてはならない。これが「戒」「誓願」の本質的な意味で、これが曖昧だと「サティヤ」にならず、意味がなくなります。日本の「言霊」とちょっと近い感覚もあるかも知れませんが、普通の人間の及ぶ境地ではない。

こういう事を考えていますと、本当に、仏教あるいは宗教の実践というものの何と恐ろしい事かと思います。
ほとんど不可能なことをやり遂げていく。そこにしか、有意の果はなにももたらされない。
確かにちょっとかじってお勉強するだけでも、人生に何かしらのいい影響はあるでしょう。これも宗教の大切な役割であり、効用です。しかしこれは本質ではない。この本質に至る前の「道徳的」「倫理的」あるいは「ちょっといい気分」程度の段階で留まっているのが、現在の世界の宗教のだいたいの状況ではないでしょうか。日本仏教に至っては、その段階からすら滑り落ちつつある。
いや、この段階にあった事が、今まであったのでしょうか。

私はもちろん、まったくもってダメです。
このような仏教の本質的な厳しさ、実践の過酷さに対して、まったく能力も覚悟も持ち合わせていません。
しかし、だからと言ってお茶を濁して「まぁまぁ」ということでは、はっきり言って僧侶やってる意味もないでしょう。仏教の意味もないでしょう。「本当の仏教とは」と大上段に構えて他を批判する言説がネットなどでもまかり通っていますが、少なくとも大乗仏教の立場、インド以来の滔々たる思想・宗教の流れに沿った大乗仏教の立場からは、まずはこの自分が果たして「カルマ・サティヤ」あるいは「バクティ」の理想においてどれだけ届いていない存在であるのかを自覚し、どうすればその境地を今生で少しでも、ほんの僅かなりと開顕できるのかを問うべきです。
私も人生の半ばを過ぎてしまいましたが、改めて考えたとき、残された時間のあまりの少なさと、自分自身の無能さに絶望的な心になります。時間も存在もすべて空であり…などという事はアタマでは何となく、そうかとは思います。しかしそれを自分のものにする境地には、どうも遠い。まさに、凡夫。度し難い縁なき衆生です。

残りの人生、如何に歩いていくのか。
これからが多分、苦しいのだろうなぁ。この宇宙あるいは全存在が喜びと平安と至福に満ちたものであると、それを「わかっちゃう」宗教的才能に恵まれない私は、これからもあちこちぶつかりながら、悩んで、苦しんで、そうして死んでいくのでしょう。その時、今より少しでも「存在のひみつ」の流れに沿えていたら、とれほど幸せかなと。そのために、これからも鈍臭く、格好悪く歩いてまいります。
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智慧と知識

2015年02月20日 | 仏教・思索
仏教というのは、智慧の宗教です。

智慧と言うのはもちろん単なる知識ではない、言語分別を超えたところのものを言うのですが、だからと言って「果報は寝て待て」の如く、ある日突然に雷に打たれたように何か覚って聖者になる、ということはあり得ません。
まず、日々の生活をどういう心で過ごすべきかと言う指針を、仏教の教えに則って確立する必要があります。そのためには、仏教の思想というものを「知的に」ある程度は理解しておく必要があるのは当然で、そういう意味で智慧というものは知識に裏付けられる部分があります。もちろん無学文盲でも覚者になれますが、その「覚」が果たして自己満足や間違ったものではないかどうか、それを他者が判断するためには結局、知識が必要になります。それがないと誤った指導者に惑わされます。

では、知識をどうやって得るのか。

これは正師につくというのが正道なのですが、現実にそういう素晴らしい師というものはとても少ないです。また、それを見分けるためにも知識がいるので、結局は良き書物と自己の体験を頼りに、基本的な知識は得ておく必要があります。
が、その「良き書物」というのがまた、見分けるのが難しい。たとえば「般若心経」について知りたいと思って書店に行くと、様々な本がありますが、大抵は屑本です。まともな本はとても数少ない。他の分野も似たり寄ったり。
で、原典に直接当たるのがもっとも確実ですが、原典を読むためにはやはり基本的な知識が必要である…という、結局は堂々巡りとなります。

そういうわけで、まず定評のある「学者」の本を読むことが大切になります。学者の論文ではなくて、学者の書いた啓蒙書です。少し古い時代のものが適切です。確かに研究が進んできて、彼らの学説が覆された、というものもたくさんありますが、これは勉強を続けていけば「どこがどう」というのは段々とわかってきます。ので、最初はベテランの学者の定評ある仏教書を手に取りましょう。
具体的には、中村元・水野弘元・梶山雄一・渡辺照宏・玉城康四郎・平川彰・増谷文雄…等々。スタートはこういう古い学者さんの本がベストです。目新しさとか読みやすさに惑わされないでください。地道な研究をして来られた、実証的な方々の書物を読みましょう。応用は、その後です。目先の新しさや布教と距離を置いた方々の書物を読むことで、「見分ける」目は確実に、ついてきます。
私は増谷文雄の本から、仏教に入りました。そしてそれが正解だったと思っています。

こういう最初の段階での地道な知識の獲得を怠り、自分にとって気楽で気持ちのいい・都合のいいところばかりつまみ食い的に仏教をとらえてしまうと、後々、どこかおかしな考えになってしまうでしょう。また、先鋭的で個性の強い学者さんの本ばかり読んでいると、基礎がなければかならず間違えます。
チベット仏教や上座部仏教、あるいは真言宗や真宗や日蓮宗や禅宗、色々ありますが、どの仏教を中心にするにしても、宗派的な観点ではなくて、文献学的に手堅い本をしっかりと消化しておくことが、とても重要です。その意識がなければ、護教論やひとりよがりの伝統説を他の立場の者に押し付けることになります。
ですから立場に関わりなく、共通のこととして、上記で挙げたような学者の書籍は、常に意識しておいてください。少なくとも他人に対して仏教の何かを語って教えを広めよう、論戦しようなどと考える者は、その知識なくそれをやるのは犯罪的ですらあります。

文献学は基礎医学です。実地に仏教を実践するのは臨床医学です。基礎医学を知らぬ臨床家は危険です。こんなことは常識です。臨床を知らぬ基礎医学研究者よりも、実害は大きいのです。仏教も同じです。
文献学と現場の仏教は、両輪です。どちらも必要です。反目するものではなく、軽蔑するものでもない。
私たちは「研究」までしなくとも、真摯に研究されてきた文献学の蓄積をしっかりと受け止め、実践に活かしていかなくてはなりません。これは、僧侶としての義務であるとともに、それによって更に仏教が面白く、深くなります。まさに文献学の蓄積に触れて糧とすることは、そのまま自利利他に直結するのです。
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中観

2015年02月11日 | 仏教・思索
大乗仏教と一口に言っても、色々あります。
とりわけ日本仏教は宗派仏教で、それぞれまったく違うように見えるくらい、バリエーションがあります。このことは決して欠点とは思わないのですが、同じ大乗仏教としての基本認識は共有しなくてはならないと思います。
では、何が基本になるのかというと、やはり中観なんだろうな、と。
僧侶は、それぞの宗学の勉強はたぶん、それなりにやっていると思うのですが、基礎学としての中観を勉強している人は少ないのではないかと思います。私もぼんやりと勉強しただけで、きちんとやったかと言われると非常にあやしい。
そういうことで、これから私もちょっと勉強をしていこうかと考えています。
般若経の読み込みと、吉蔵の著作、三論、大智度論、そして出来ればチベット系の中観思想の勉強。一度に全部は無理なので、まずは基本的な般若経典類の読みと、三論玄義の再読をやります。その後に大乗玄論、それからもちろん中論。
理趣経も密教経典としての読み以前に、般若経としての読み込みが絶対に必要だと思いますし、それがなければ多分、密教がわからなくなる。これは多分、浄土教も禅宗も法華も同様だと思います。唯識も如来蔵ももちろんのこと。
そうして基礎学としての中観をしっかりと日本で復興していかなくては、どうも危ないな、と。そしてそれは、基礎学としてだけではなくて、いずれ中観思想また三論宗の伝統の復興にもつなげていく必要があるのではないかと。
南都仏教の学問伝統というのが共有されなくなって久しいですが、やはりそこを看過してはならないでしょう。極端な話、中観だけでも究極のところまで突き詰めていけるだけの深みと高みがあると思うんです。教判や伝統宗学においては軽視されがちなのですが、そんなチンケなものでは絶対にないと思うし、それこそ三論・中観プロパーの僧侶がいなくては、日本仏教の足腰がどんどん弱っていく危険もあります。これは学問的なところだけじゃなく、現場レベルにおいてもそうなのではないかと。この中観をしっかりと核に持っていなければ、仏教が虚無論や実在論に容易に堕落していきます。とりわけ密教においては実在論化の危険がどんどん大きくなっているように、ちっょと感じていますし。
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両部ということ

2015年02月09日 | 仏教・思索
津田真一師がその著書である『反密教学』で、『大日経』と『金剛頂経』をまったく方向性の違う経典であり、人はそのどちらかの立場を採らざるを得ない、と主張されていることは知っていました。

今、1981年に出版された智山派編纂の論文集『弘法大師と現代』を読んでいるのですが、ここでも津田師は同趣旨の論考を投じられています。
私はその主張の当否を判断するだけの能力はありませんが、その主張があながち間違っているとも、思えません。『大日経』と『金剛頂経』にはどこか、もちろん連続性はあるでしょうけれど、根本的な飛躍あるいは発展、あるいは変容があるという印象は、素朴なものですが、私にもあります。
ただまぁ、そうは言っても真言教学は「両部不二」を前提にしてますから、そのあたりどうなのかと思ってました。

で、同じ『弘法大師と現代』に伊原照蓮師の「両部不二と瑜祇経」という論文がありました。

簡単に言うと、弘法大師は両部不二ということは言っていない、理智不二ということは言うし、『大日経』と『金剛頂経』をともに重視はするものの(これは恵果以来)、両経を理智に配釈していないし、不二の思想は見られない…というものです。
つまり両部不二思想は、後世に形成された真言教学ではあれど、弘法大師の教学ではない、という論旨です。

そう考えると、津田師流の考え方は真言教学とはズレがあるかも知れませんが、弘法大師の思想と反するとまでは言えないようです。もともとインドやチベットで両部不二という思想はなかったわけですし。

と、まぁ。

こういう問題はあくまで「一例」です。

仏教や思想の分野、とりわけ伝統という枠を嵌められた立場の者が、このような議論を踏まえてどう考えるかは、現代の私たち自身の問題ですね。
様々な立場を学んだ上で、それでも伝統墨守か、個々人が「実存的」に道を構築するか。宗教や実践、思想、あるいは「この一身の生死」において何が必要で重要か、考えたいと思います。
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光明真言の心

2015年02月07日 | 法話関係
こちらは、明日の光明講の法話。

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仏様に守ってもらう、ということをよく言いますが、何もしないで助けてくれ、というのは都合がいい話です。私たちも努力しなくてはいけません。
では、どういう心を持てばいいのか、弘法大師空海は、『大日経開題』という著書に、こう書いています。

加持とは古くは仏所護念といいまた加被という。然れども未だ委悉を得ず。加は往来渉入を以て名と為し、持は摂して散ぜざるを以て義を立つ。即ち入我我入これなり。

現代語訳は、以下の通り。

加持とは、古くは仏が守り加えると訳す。しかし、これではまだ言い尽していない。加は互いに出入りすること、持は把握して離さないことである。仏と私の相互の往来である。

仏様の助け、守りをしっかりと信じて、それを離さないことが大切です。「なんとなく」の心では、「なんとなく」しか助けてもらえません。自分がそれをしっかりと受け止めるんだ、という心が大事なのです。
具体的にはでは、その心をどう形に表せばいいのでしょうか。それは、光明真言です。
弘法大師の『秘蔵記』には、こういうふうに唱えなさいと、書かれています。

光明念誦とは口より光明を出すと念想して持誦するのみ。それ声を出すにも出さざるにも、常にこの念を作せのみ。

現代語訳は次の通りです。

光明真言念誦とは、口より光明を放つと観念することである。声を出す出さぬにかかわらず、いつもこの観念を持つことが大切である。

心は形に現れます。乱れた心は乱れた行いになるものです。
逆に、心が乱れていても、形を整えることで、いずれ心も美しくなっていきます。
形は大切です。心も大切です。どちらから整えても良いのですが、いずれはどちらも整えていく必要があります。そのために、光明真言という仏様の光を自分のものにする修行があるのです。

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平和の心

2015年02月07日 | 法話関係
明日の厄除け薬師の法話。

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平和は心からはじまります。

その心とは、みんなが繋がっていてひとつである、のを知ることです。

昭和初期に駐日フランス大使だった外交官で詩人のポール・クローデルという人は、カトリックでしたが、このような詩を残しています。

ただ一匹の蝶が飛ぶためにも空全体を必要とする
野の草の中に咲く一輪の雛菊を理解するためには
君は星々の中なる太陽を理解しなければならない 


ひとりの人が存在して生きているのには、宇宙全体の存在、他の人の存在があって初めて、そうなるのです。
その教えは、宗教が違っていても、まったく同じです。
これを知っていれば、幸せに、平和につながります。
逆に、私だけ良ければいい、正しいのは私だけだ、周りが悪いのだ、という心で暮らすと、そこに喧嘩や不幸や、戦争も起こります。
弘法大師空海は、『金勝王経伽陀』という著作に、このことを述べています。

教えに違い理に背いて慚愧なく自ら害し他を害すること毒蜂に踰えたり

現代語訳は、以下の通りです。

教えや真理にそむいても恥じることがなければ、
自ら害し、他人も毒の蜂に襲われることになる。


シリアで悲惨な事件があり、今も戦争をしています。もっとも泣くのは、子供たちです。
子供たちには「みんな仲良く」と教えますが、それを教えている大人が争い、殺し合いをしています。
私たち大人が、日々の生活で「みな繋がって生きているのだ」ということをもっと考えていかなくては、未来がどんどん暗くなってしまいます。
平和はひとりひとりの心からはじまると信じて、頭の片隅にそのような心を保ちつつ、暮らしていきましょう。
平和、明るい生活、明るい心は、そこからしかはじまりません。
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阿弥陀信仰

2015年02月03日 | 仏教・思索
どうも「阿弥陀信仰」「念仏」というと「ださい」「暗い」「迷信」「何も考えない愚か者の教え」というイメージが、一般だけじゃなくて仏教者の中にもあるように思う。これは真宗や浄土宗のサイドの問題もあるのだろうけど、果たしてそうなのか。

真宗や浄土宗のことはとりあえず措くとして。

阿弥陀如来信仰というのは、そもそも「光の教え」であると思う。阿弥陀とは無量光・無量寿という意味だけれど、重きはどちらかというと無量光のほうにあると私は感じていて(チベットでは無量光と無量寿は別の尊格でしたね)、これはやはり西アジア起源の信仰形態が多分に影響していると思うんだけれど、この思惟形態は西アジアだけではなく、ヨーロッパも含めた汎ユーラシア的な信仰ではないかと。
もっと言えば、世界の根源を光で示すというのは、たぶん人類の心情の根源にあるものであって、決して「特殊」でも「暗い」ものでも、まして「迷信」でもない。
深い瞑想の境地で示された「光」というものを現実レベルで形象化した時に、「阿弥陀」というものが立ち現われてくる。これは言語道断の認識不能な「一者」が、私たちのレベルに降りてくるその境界線上ぎりぎりのポイントにあるもので、単に迷信的な偶像崇拝では決してないのではないかと。
であるとすれば、阿弥陀如来信仰というのは、きわめて瞑想的で汎人類的な、根源的なところの信仰と言えるのではないか。法身が「言語道断の一」であるとすれば、こういう意味において阿弥陀如来は正しく「報身」として私たちに瞑想の中で働きかけてくる「神秘への門」に該当する尊格といえないだろうかな、と。
人間の側からその「ポイント」を見たときに現れる存在が阿弥陀であるとすれば、これは決して軽視してはならない、仏教の枠を超えた普遍的真理をも指し示す「徴」ではないだろうか。
この観点で、たとえば阿弥陀経などを見たとき、その象徴性のめくるめく世界に、迷信や「物語」以上の何かが立ち現われてくるのではないだうか…。

えぇ、はい、真宗あたりの人には噴飯ものの解釈でしょうが。

しかしたとえば『起信論』にどうして阿弥陀如来が出てくるのか。単に阿弥陀如来信仰が流行してたのでそれを取り込んだだけだとか、真宗や浄土宗が念仏の正当性を立証するためだけにそこだけ切り取って利用するためだとかいうのではなく、そもそもあの修道的文献において取り上げられた意味というのが、それはあるのだと思う。
私もどうして『起信論』に阿弥陀如来だけが固有名で取り上げられているのかずっと謎だったんだけれど、仏教の枠内だけで考えるのではなくて、汎ユーラシア、あるいは人類普遍の霊性というところでこれを考えた場合、もしかしたら阿弥陀であることの重大な意味が実はあったのではないか、と。だって、当時の中国の仏教って、イラン系の僧侶がかなりいたわけでしょ。『起信論』周辺にも。マニ教やゾロアスターの影響は確実にあったよね(私は本論の撰述問題は、インド人または西域人が中国で撰述したものだと思っています)。
今の時代、どこもかしこもセクト主義全盛で、自分たちの枠を超えたら異端だ他宗教だと、そう考えて自分たちの世界だけでものを処理しようとするから、なんかわからなくなる。解釈も苦しくなる。当時の実践者は、もっと柔軟で、仏教という窓を通しつつも、更に広く深い、色付きではない「真理」「実在」というものを意識していたのではないでしょうかね。もっと言うと、「仏教」という枠組みよりも、「実践者」という枠組みの方が重大ではなかったか。
所詮、言語化されたドグマは人間の不完全な認識を通して描かれたフィクションに過ぎない。それを先人は、よーくわかっていたのだと思う。だからこそ、大乗経典が次々に生まれて来た。もしそうじゃなければ、古典墨守で終わったてしょう。

そう思うと、「阿弥陀信仰」「念仏」にまつわる「ださい」「暗い」「迷信」「何も考えない愚か者の教え」というイメージが、本当はとてつもなく人類の根源に接する、とても巨大な教えになるのではないかと思う。
無論、最終的には阿弥陀も極楽も、その形象は捨て去る必要があります。ただ、人格的なイメージを通して根源に行きつくという方法も立派なひとつの道であり、正道ではあるでしょう。その意味で、実践論の最後に阿弥陀信仰について述べるのも、これは論者の意図として当然のことだったのかも知れません。
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