प्रज्ञापारमिता

𝔇𝔥𝔞𝔯𝔪𝔞 𝔗𝔞𝔩𝔨, 𝔅𝔲𝔡𝔡𝔥𝔦𝔰𝔪, 𝔗𝔥𝔦𝔫𝔨𝔦𝔫𝔤, 𝔞𝔫𝔡 𝔱𝔥𝔢 𝔚𝔬𝔯𝔡

自己

2015年01月28日 | 仏教・思索
自己実現とか自己表現とか自己啓発とかいう胡散臭い言葉がいまだに流行っている。
「自分探し」という更に更に胡散臭い言葉もある。

自己とは何か。

まずそれを考えて見なくてはいけない。自己とは、個性とは何か。

それは集積して来た経験、歴史性、周辺環境の総体でしかない。

それでは、「何が基盤となってそれを集積したのか、その基盤こそ自己ではないのか」と人は言うかもしれない。しかしそれはどうだろうか。例えば鳴門の渦潮は確かに「そこにある」。様々な物理的現象の集積がそこに渦潮を存在させているのであるが、「その場所」に基体はあるか、ないか。地球ひいては宇宙全体の流れ、また時間性の中でそこに縁生のものとして現出した一個の事象でしかないのではないか。そこは存在の淀みであり、現象点ではあっても、果たして不動の基体がそこにあるか。私たち「自己」「人格」というのは、それとどう違うのか。物理的にも、精神的にも。
確かに私たちは別個に「存在している」。「鳴門の渦潮」は黒潮やオホーツク海流とは違う。それはそれとして、「そこにある」。そういう点で、私たちはひとりひとり違う者として「存在している」。しかし、それらは基体であるのか。相互に交流して入り込みまた出ていく流れの一時の仮現として、それはそこに立ち上がっているだけではないか。その輪郭は、不安定であり、確固としたものはない。海だけではない、森羅万象すべて、そうではないか。
その「自己」の不安定さ、基体のなさというものに恐怖し、畏怖し、驚くこと、それは言語道断の世界だ。その世界をどうやって「見つけるのか」。何を「実現」して、何を「表現」するのか。それがそれとして自性をもって存在すると錯誤しているから、それらを見つけ、表現したいと倒錯するのではないか。
存在の不安、自己が自己として確定し得ない不安の前に、ひとはまず言葉を失うものではないか。そこで黙ってしまうのが、ものの順序ではないか。そしてそれが、もっとも誠実な態度ではないか。19歳で詩を放棄したランボオのように。
それでも、人類の宿命としてある「言葉」「認識」の世界で、その「わからない世界」を描写せざるを得ないという人だけが、表現者・芸術家あるいは思想家たるのではないか。そして、言語や論理で描写し切れないというそういう世界をどう生き、どう死んでいくのかを悩まなくてはならない因果な(そう、因果な)性癖を持つものが、宗教に足を踏み込むのではないか。
そんな因果な性癖のない、素直な者にかかってしまうと、芸術は表面の華やかさや形態を欲望や感性の玩具として弄ぶにとどまり、宗教は人生論や道徳に堕落する。すべて、自己や世界につまづかなかった「健全な」オトナの失敗ではないだろうか。

まだあなたは、「自己実現」しますか。「自己表現」しますか。「自己啓発」しますか。いったいあなたは、本当に「何を」実現して表現して啓発するのですか。「自分探し」という、その「自分」とは何ですか。どこかに用意されて転がっている「なにものか」ですか。あなたという事象の結節点に現に、現に現象しているところの、その「何かしら」以外に、どこに「自己」「あなた」がいるのですか。外部にどこか転がっているであろう「答え」とやらが、果たして「本当のあなた」なのか。
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夢うつつで考えたこと

2015年01月28日 | 仏教・思索
寝てるんだか起きてるんだか、の時に考えたこと。
色々な事を覚醒前後にはいつも考えるのだけど、なんとなく、書き起こしてみた。たいてい忘れるので、たまにはね、と。
で、うーん、半分眠ってるから斬新な事でも却って考えてるのかと思ったが、陳腐ですな。

陳腐な考えは、以下↓

借り物の体を借り物の物質で固め、この世界に間借りしている。間借りするには便宜的に身分証明がいるらしいので、人類だか日本人だか坊主だか何だかのレッテルを一応は貼っている。
さーて、一体では、「誰が」これらを借りたり間借りしたりいてるのか。
精神、いのち、目に見えない魂?
まさか。
そういうものは、確かにあるでしょうよ。
でも、それらは借り物の諸々に規定されて存在しているわけ。コップが壊れたら水は海に戻るわけさ。なくなりはしないけどね。
借り物を自分のものだと思うことをやめ、間借りの場所を間借りだと正しく認識したとき、それらを雑に扱うことをやめるだろう。取り敢えず肩書きはいるから使ってみるが、借り物の上に貼った単なる名称と知れば、それを振り回すこともないだろう。
そうすれば、穏やかな人になる。
さてあとは、「あなたは誰ですか」。これ。
穏やかさも超えていく存在となるには、これ。
あなたは誰か、ここはどこか。なぜ生きているか、否、生きるとは何か。
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ムスリムとの交流の必要性

2015年01月22日 | 時事関連
好むと好まざるとに関わらず、日本もこれからイスラーム世界あるいはムスリムとの接触は増えていくのだと思います。欧米で移民のみならず白人のムスリムも増えつつあるのは、結局は疎外された若者の受け皿になっているからで(もちろんそれだけじゃないけど、そういう面も多大にあると思う)、真剣に何かを求めて既存社会に違和感を感じる人に対しての宗教としての力は、イスラームにはやはり非常にあるんですよね。

日本でもそのうち、日本人ムスリムは増加していくことになると思います。その時、私たちは異質なものとして彼らを排除していくのか。それはオウムに向かった若者を排除したのと同じで、同質のムラに入らざる者は無視する、叩く、ということでどうしようもない。どうして仏教じゃなくてイスラームなのか、あるいは新興宗教に行くのか、その根本的な原因を、自己反省的に分析したほうがいい。

いずれにしても、特に仏教僧侶は数だけは日本でもっとも多い宗教者なのだから、みんなイスラーム、ひいてはセム一神教の知識をもっともっと、つけなきゃいけないんだと思うんです。幕末に切支丹の勉強をした僧侶は多かったけれど(それは共存ではなくて排除のためだったにせよ)、今こそ建設的な方向性を目指して、私たちは彼らを知る努力をしなくちゃいけない。事態が「そうなってから」の後追いではだめです。私たち僧侶こそ、時代の先を見つめ、また事象だけでなくその根源的な宗教性のレベルまで見極めて、ある意味で「先導者」とならなくてはならない。

日本の場合、たとえば東京ジャーミィはトルコ系だったかと記憶してますが、ワッハーブ派の系統ではないムスリムたちが日本ムスリムの主流になって共存していけるよう、応援しなくてはいけないのかな、とも思う。まぁ、イスラーム信仰のありかたを仏教者が方向づけするなんて高慢で僭越だけれど、正直、ワッハーブ系はしんどいかな、と思うし…。もちろん争いを永遠に続けていいわけでもないし、全人類がひとつの宗教に統合なんて出来ない以上、共存していくことが出来る方向性の建設的な話し合いはしなくちゃいけないけれど、一部の過激主義者とはやはり、現在の状況を考えたら、やはりちょっとしんどいかも…と思ってしまう(これにしたって、ワッハーブの人たちと直接に話し合えば違う視点が出てくるかも知れないわけですが)。
結局、そのためには、ともかくイスラームといって十把一絡げに否定したり忌避したりするのではなく、またオリエンタリズム趣味で憧れるのでもなく、霊性の部分で対話していくチャンネルをもっと作らないと。政治家や経済人にできない役割が、私たちにはきっと、あるんです。マスコミや政治に左右されず、仏教者としてどうすべきなのか、よくよく考えたいものです。


それにしても、お偉い方の交流会じゃなくて、市井の坊さんとムスリム指導者たちの気楽な交流会や勉強会って、できないもんですかね。特に日本人同士の。私はチャンネルがないのでどうしていいかわかんないですが、論争ではなくてお互いをより知っていくための、友人としての交流会が必要です。欧州みたいにああなっちゃったら、それこそ友人として交流するのにも凄いエネルギーが必要になって来る。今の日本だからまだぎりぎり、何とかなると思うのだけれど。
そしてこういう市井の交流は、ムスリムだけじゃなくてクリスチャンやヒンドゥー、神道と仏教など、どんどん広げていくべきだと思う。比叡山宗教サミットもいいけれど、あんな「高尚な」集まりじゃなくて。一緒にメシ食って、ハイキングや小旅行でもしながら、という交流こそ、実は重要なのではないかと思います。
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WWBD?

2015年01月22日 | 仏教・思索
御存じの方もいらっしゃいますが、私は元クリスチャンです。所属は福音派なんですが、北欧系で穏健派に属する教会で洗礼を受けています。ブッシュ大統領で有名になった南部バプテスト系なんかも福音派ですが、あそこよりはちょっとだけ穏健(笑)

で、当時(今もあるのかな?)、「WWJD?」という文字が書かれたリストバンドやグッズが流行ったのですが、この文字は「What Would JESUS Do?」という文の頭文字で、「イエス様ならどうするか」という意味です。つまり、日常の色々な問題や出来事、悩み、苦しみあるいはその他の事について、自分の思いのままに行動するのではく、「イエス様ならどうするか」と自分に問い、聖書を常に開いて聖霊の導きにより行動する…というような感じのことなんです。プロテスタントだけじゃなくて、カトリックにもそのものズバリの「キリストに倣いて」という本がありますが、これは実は、仏教徒にとっても、非常に大切なことです。
どういう意味かと言うと、この「WWJD?」というのは、「現在」「私はどのように動くべきか」ということを、2000年前のイエス・キリストを「過去の人」ではなくて「現在ここに呼び起こす」ということに他なりません。そうして、現在の問題をイエス・キリストを通して考えていくこと、です。
生きた宗教であるか否かは、実はこのことが意識されているかどうか、ここに尽きます。

釈尊の言行、弘法大師あるいは祖師方の言行を「過去の偉大な人の言行」と捉えて、現在目下の緊急の課題に「呼び起こす」ことをしなければ、それは生きた信仰とは言えません。これは何もすべて盲従しろということでは勿論なく、少なくとも「仏教徒としての立場」を自覚する者であるのなら、釈尊や祖師方のお考えを「呼び起こし」「聴聞し」、然る後に自分がどう考えて動くか、を決定しなくてはならない、ということです。

たとえば「イスラム国」。
もし釈尊が、祖師方が現在おられれば、どういう意見を述べるでしょうか。
たとえば「思想」。
西洋思想、インド思想、様々な宗教伝統や科学など、知識だけは莫大に増えています。今この時代に祖師方がおられれば、それらの思想や学問をどのように消化し、どのような言動をされるであろうか。当時の書物を安易にトレースして無理やり現代に当てはめる「保守主義」は、「伝統」「文化遺産」としては立派ですけれど、生きた宗教としては失格でしょう。
しかしそれは決して過去を捨てるとか軽視するということにはならず、釈尊や祖師方が本物であれば、驚くほどその本質は揺れ動かないのでしょう。仏教に限らず、偉大な宗教思想は視点が永遠の相に据えられているのですから。そこが、「進歩」を宿命とする科学や社会思想と性質の違うところです。

「WWJD?」をキリスト教に限定してしまうのはもったいない。
私たちは常に「What Would BUDDHA Do?」を意識しましょう。あるいは真言宗徒であれば「What Would KUKAI Do?」でもいいし、龍樹でもいい、何なら名もなき大乗経典感得者でもいい。
そうしてこそ、形式だけではない、本当の宗教的生活というものの基礎が出来てくるのではないでしょうか。
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言論の自由と誹謗中傷

2015年01月21日 | 時事関連
Facebookから。

………

時事通信より
【ワシントン時事】キャメロン英首相は18日に放送された米CBSテレビのインタビューで、フランスの週刊紙シャルリエブドがイスラム教預言者ムハンマドの風刺画を掲載したことに関し、「自由社会には信教をめぐって(他者の)感情を害する権利は存在する」と述べた。
「他人の信仰を侮辱することはできない」として表現の自由にも制約があるとの認識を示したフランシスコ・ローマ法王に反論したものだ。(2015/01/19-05:41)

………

こんな考えをどのくらいの人が支持するのだろうか。私は支持しない。
たとえばイスラームの独善性や信教の自由のなさ(とりわけ改宗の自由に関して)は、私は気に入らない。気に入らないし、それは間違っているとすら思うから、それは「私の立場で意思表示して」「語り合う」ことは大切かも知れない。私の思っているものとしての人権問題にも関わることにもなるし。バーミヤンの石仏破壊は歴史への侮辱であり、仏教徒の心情を傷つける。それは明確に間違った蛮行であるとも思う。そういうのは、批判してもいいと思うけれど、その批判は誹謗中傷とはまったく違う次元のものだ。また、一部の地域で行われる女性抑圧も宗教的背景があれば、それは「私の立場として」反対する。けれど、そのことと、「言論の自由は相手の感情を害してもいい」というのは、まったく違う。論理筋道を通して、また教理や歴史を踏まえて議論するのはいいけれど、誹謗中傷や下品な揶揄をもってして、対話が成立するのかと言えば、それは絶対にない。イスラーム圏であっても、「女性は抑圧ではなくて保護されているのだ」という主張があり、それはそれとして、彼らの文脈をよく理解して話をすべきであり、自分の価値観を絶対視して疑問を持たず、断罪するのは間違いではないかと。
だいたい、ナチスについて、「たとえば彼らの実際上の政策によって達成された「良い面」は皆無であったかと言えばそうではないだろう。もしまったくの悪政であれば、あれだけの支持はあり得なかった」…という「意見」もあるけれど、それは無条件に違法行為とするドイツなど、言論の自由がないとも言える。今回のイスラーム揶揄がそのままユダヤ人揶揄だとしたら、事態はまったく違っていただろう。それは、二重基準でしかない。
結局、「我々の価値観」がすべてであり、それに反するものは悪であり、そうでないものを誹謗中傷する権利はある。逆はない…というのであれば、それは「彼ら」中心の言いたい放題でしかない。そんなものは「彼らの手前勝手」であって、「理念としての自由」とは言わない。

そもそも、お互いに違う立場の者同士が誹謗中傷して傷つけあう世界が平和なのか、理想なのか。ヨーロッパ的価値観こそ至上であり、すべての「後進地域」はいずれ「普遍的西欧」に追いつくべきだという植民地主義的思想が、無意識のうちに彼らの心に巣食っているとしか思えない。
そしてこれは、少なからず日本人の中にもあるし、中国人の中にも根強くある。多様性の否定は碌なことにならない。人類の共和というのは、多様性を否定して統一する中にあるのではなく、多様性の中に一致を見て、そこにおいてともに進むことでしか達成できはしない。

ただ、「他人の感情を害する」のが権利と私は思わないものの、これを法で規制するとなるとまた他の問題が出てくる。それを運用する者の価値観によって恣意的に運用されてしまうから。そうなるとまっとうな批判ですら出来なくなってしまう。だから難しい問題なのだろうけれど、政治指導者や宗教者が、それを「権利だ」と言ってしまうのは、どうにもまずい事ではないだろうか。
「自由主義社会にあっては、他人の感情を害する言説も一律に規制するわけにはいかないが、倫理的・道義的にそれはなされるべきではないし、それが自然なこととして通用する成熟した社会に向かうべく、各人が自覚をもって対話をすすめていかねばならない」とても言えばまだ良かった。その時、欧州にある二重基準的なインチキはまず、自分たちで改善していかなくてはならないけれども。

日本の場合、朝鮮人絡みの言論がよくこういう話題の対象になるけれど、それだけじゃない。部落、皇室、原発など、他の「微妙な話題」もある。それぞれ「自分の立場ではないもの」に対して理性的でないことをしている。ザイトクもそう、カウンターもそう。どちらも下品で対話しようという意思が見られない。先の総選挙で、共産党が安倍総理の顔をドラムに貼り付けて叩いてたけれど、そういうのも一緒。対話を遠ざけて自己満足しているだけで、何もポジティブな意味はない。

個人的なことを言うと、たとえば私は中国も韓国も嫌い。だからと言って、中国人と韓国人に民族的な忌避感情はない。なぜ嫌いか。それは「事象の問題」であって、決して「血」の問題ではなく、また血の問題であってはならない。中国のチベットやウイグルへの抑圧、資源帝国主義、拡張主義は大嫌い。また、歴史問題での捏造とプロパガンダも許してはならない。しかしそれはあくまでそれらの「事象」の問題であり、学問的に、政治的に、論理的に詰めて攻めていくことであり、個々の存在としての中国人にその批判の対象をすり替えるのは、間違っている。韓国・韓国人に対しても同様。
この類の錯誤は、日本にもある。また、あえてその錯誤を利用するという点では、中国や韓国の政治は非常に幼稚でもある。日本政治もその幼稚な土俵に上ることを辞さない構えに見えるけれど、それは後退ではないか。そういう退歩的な手段を取らずとも、圧倒的な、感情抜きの理詰めと広報で、戦う事は可能だろう。またそれが、真に自尊心のある立場というものではないだろうか、と。
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思想と行

2015年01月21日 | 仏教・思索
Facebookから。

●原田智秀
いかなる思想であれ、また哲学であれ、それは思索だけではなくて体験あるいは経験が必要。とりわけ宗教思想の分野であればそれは必須。それを仏教では「行」というのだろうし、キリスト教では「暗室の祈り」とも言うのだろうけれど、結局それは体験であり経験である。いわゆる文献学者であったとしても、文献分析だけではなくて少なくとも思想という領域に主体的に踏み込むつもりがあれば、本を閉じて「体験・経験・行・祈り」に参入する時間がとても重要なことになるのだろう。
もちろんそれは改まった「行法」の形を取るとは限らない。闘病や「イジメ」や生活苦、人間関係の不調や神経症の中から浮かび上がる「行」というものもあるのだろうから。「いわゆる行」はそういうものを意識的に生み出すものであると言えるのかも知れない。いずれにしても、それらに対して真正面から取り組んでいかなくては、どんな「経験」も「行」とはならないので、人は何をするにてもそれにしっかりと向き合い考え抜いていかなくてはいけないのだろうな。

少なくとも、何らかの知識だけ増やして、それを武器にして「評論」することが何かしらのことを為していると思うのは、きっととても愚かなことなんだろうと思う。「経験」だけしてそれを「行」に昇華させずに、単なる「業の蓄積」をしただけでそれを振りかざして上に立とうとすることも同じ。それは学者や僧侶だけではなくて、広く人間一般の生き方として、そうなんだろう。

また、定型的な修行や観念としての行、習慣化した儀礼をただただ行うだけでも、まったく意味のあることにはならない。みずからの経験や体験から立ち上がるのが「行」であり、定型の、あるいは伝統的な行法というのはそれを表現する一種の「言語」であるわけだから、表徴するもの・自己の経験の欠落した「言語」は、オウムが人の声をまねて高邁な説を述べることと何ら変わりはない(自己の、という二元対立的世界を超えるためのスタート地点は、やはり自己なのであって)。それを聞いた者がよしんば何かを覚ったとしても、オウムはどこまでもオウムのままなのだから。

狂信というのは、そんな上滑りの知識の蓄積、あるいは「経験」を「行」として昇華できていない段階で起こってしまうものかも知れない。イスラム国、あるいは国家主義的神道思想もそうだろうし、カルト宗教信者もそうなんだろう。いくら「行のようなもの」を積み上げても、自分の、誰でもないこの自分の意識から浮かび上がる体験・経験に立脚せずに、そこの部分まで誰かに丸投げしてしまった時、間違いが起こる。

●Yokki Kitao
浄土宗の立場より。浄土宗では、自分で選択して阿弥陀世界に移動し、そこで修行して成仏する。真宗では、本人が拒否しない限り阿弥陀世界に移動し、同時に成仏している。以前ふたつの類似点相違点を某コミュで真宗の人達とだいぶ議論しました。近い宗派ほど意識しあうものです。(どちらが正しいとか、優れているとかいうことではありません。)今となってはどうでもよいと思っています…

●原田智秀
言葉のレベルでは相違がありますが、ほとんど切り取りかたの相違なんでしょうね。ケーキはケーキ、全体としては一緒で、最後は全部を食べなきゃいけないのですから、プロセスとしての切り取りかたは大事ですが、本質ではないというか。

●青原 彰子
趣味の瞑想38年目。今日も。明日も。

●原田智秀
私は座れないほうの人間ですが、それなりの方法で模索してますよ。

●青原 彰子
なぜ、座る人と座らない人がいるのか?とちょっと悩みましたが、わたしは座れるほうだけど、進展は非常に遅かった。みなさんとっても早いですね。また、わたしは、座れるかわりというか、音楽がまったくだめ。個人差があるとつくづく思います。でも、わたしはこれしかないので。。。。

●原田智秀
色々な道があり得るというだけなんだと思います。そしてその道は、客観的に存在するのではなくて、個人と言う存在と密着したものであるならば、その人のあり方や個性や性質と実は平行のもので、すべてに当てはまる普遍絶対の道や方法など実はありはしない、という。
座る道を行くならば、座れ。思索の道を行くならば考えよ。行為に徹底するのなら、行為せよ。ただしそこにはケーキの存在を必ず念頭に置け。そういうことかな、と。

●青原 彰子
ケーキね。

●原田智秀
座るという道はケーキ全体を最初から視野にいれているという点で、他の道よりもストレートだとは思います。だからこそ、古来よりそれがスタンダードなわけで。ただそれが最善かどうかは、人によるとしか言えないかと。念仏のほうが近い、という人もきっといる。思考することが最善の人もいる。
でも、どの道も十年単位の訓練が必要で、生まれたままの状態で最初から出来るなんてことは、一部の天才を除けばあり得ません。だから最初は色々と試してみて、この道だと定めたら、その道に徹するしかないし、それは他人に強要できるものじゃない。
座らない禅僧も、たしかいたように思います。インドの佐々井師もお経なんか読まんし座禅もせん、とかつておっしゃってたように記憶してます。行法なんかやめたという真言宗の立派な僧侶もいました。だったらいい加減にやってんのかと言うと、みなそれぞれの道を確実に踏んでいる。最初から独自な訳じゃなく、もちろんきちんと縁のあった実践をやって来て、その先のそれぞれの道なんでしょう。だからそれは、アリだと思います。みんなケーキ全体を全体としてつかもうという方向だけは一緒なんですから。むしろ切り口や切ったケーキの大きさ形にこだわるなら、どんな立派な行をしても、世間的な充実感や自己確認以上の意味はないんかな、と思います。
もちろん私はまだケーキの大きさや形にこだわりまくってますので、なにをか言わんや。

●青原 彰子
なかなかね、人と違うことを認めるのはつらい。近い人が同じとはいえないから。でも、いちばん困るのは宗派とかで決まっているというのはまずい。ほんとうは選択肢があっていいと思う。そういう仏教になればいいなあと心から思っています。最近は開きなおっているけどね。

●原田智秀
宗派はいいと私は思うんです。それぞれのやり方の雛形を保存して伝承するというのは大切ですから。問題は、個人が宗派に従属して精神の自由を失うことです。そういう意味で、奈良仏教の宗派横断的な兼学のありかたは示唆的ですよね。鎌倉仏教の選択主義と寺院世襲、あるいは因習的な檀家制度が結び付くと問題が多くなり勝ちですね。

●青原 彰子
なるほど〜〜〜檀家制度ですね〜〜〜ううむ。

●原田智秀
ま、檀家制度のメリットもあるんですけどね。悪いばかりじゃない。ただ、もちろん悪い面もあって、その問題が長所でペイできるレベルかと言われれば、ちょっと疑問ですが。
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私は誰であるか

2015年01月19日 | 仏教・思索
プロ野球を観戦することと、プロ野球選手であることはまったく別のことである。
そんなことは誰でもわかる。
仏教学・教学を理解することと、仏教徒であることとはまったく別のことである。
これは誤解している人もいるけれど、いわゆる仏教学者が必ず仏教徒であるわけではない事実を指摘すれば、これもまぁ、わかるだろう。倫理学者が倫理的であることとは無関係であるのと同様。

さてしかし、事はそう単純なのかと、ちょっと考えてみる。

他者の何かの知識をトレースして理解したとしても、もちろん「彼」は「他者」とは別個の存在であるわけだけれど、それを往々にして同一視してしまい、意味のない誇りや高慢、あるいは他者にそれを投影して憧れや追従をしている場面が、実は多いのではないか。
具体的な場面は様々あり得るとは思うけれど、自分を顧みても、そういう陥穽に嵌っている場合があるように感じる。
プロ野球を観戦して自分をプロ野球選手だと想像するのは楽しく、また罪はないことであっても、本当にそう思い込んだら、それは病気である。

私の場合、私は「僧侶」である。
ただ、僧侶という肩書を持っていたとしても、それは肩書にすぎず、仏教学の知識を持っていてもそれは単に過去の知識や書物をトレースしているだけであれば、それは実態として「僧侶」という定義に当てはめられない。「行」をしていても、それがトレース作業になっていたとしたら、結局は同じことである。「独自の行をしている」としてもやはり、それは過去の蓄積を適宜に配置変えしたり編集しているだけであれば、結局それだけのこと。
それだけのことが本質と取り違えられてしまい、巷には「僧侶」が数万、十数万人存在している。私もその中のひとりである。確かに社会的には「僧侶」であろうし、私も自分を僧侶だと思っているけれど、それが果たして「妄想のプロ野球選手」でないと、どうやって証明できるのだろう。

事ここに思い至ると、果たして「仏教」というのは何であろうか。トレース作業を超えて、世界の「ほんとうのところ」を求め、まったく私個人の問題としてそれを考えていくと、必然的に仏教、あるいは既存の言語的ドグマを超えていかざるを得ないように感じる。そしてその為には、結局のところ既存の経験や知識の蓄積、そして「言葉」に頼らざるを得ない現実もある。
このせめぎ合いをどう取り扱うのかが、「プロ野球観戦者」と「プロ野球選手」の境界なのだろう。

私はいまだ、テレビでプロ野球を観戦する一ファンでしかないことに、とても寂しさを覚える。
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起信論の実践

2015年01月11日 | 仏教・思索
真言宗において日常に読まれる「立義分」というものがあります。
「立義分」の名の通り、これはある論書の一部ですが、それは「大乗起信論」です。

大乗起信論本末立義分

歸命盡十方 最勝業遍知
色無礙自在 救世大悲者    
及彼身體相 法性眞如海 
無量功徳藏 如實修行等    
爲欲令衆生 除疑捨耶執 
起大乘正信 佛種不斷故
摩訶衍者。總説有二種。云何爲二。一者法。二者義。所言法者。謂衆生心。是心則攝一切世間法出世間法。依於此心顯示摩訶衍義。何以故。是心眞如相。即示摩訶衍體故。是心生滅因縁相。能示摩訶衍自體相用故。所言義者。則有三種。云何爲三。一者體大。謂一切法眞如平等不増減故。二者相大。謂如來藏具足無量性功徳故。三者用大。能生一切世間出世間善因果故。一切諸佛本所乘故。一切菩薩皆乘此法到如來地故。
諸佛甚深廣大義 我今隨分總持説 
迴此功徳如法性 普利一切衆生界


後半の「三者用大。能生一切世間出世間善因果故」は、常用経典では「三者用大。謂能生…」のように「謂」が入っているのですが、原典に当たる限り、これはないのが通常のようです。ですので私は「謂」を付けずに読んでいますが、たぶんこれは「一者」「二者」と合わせて付加したものと思われます。
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