प्रज्ञापारमिता

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師弟とは

2014年07月21日 | 法話関係
私は浄土真宗については門外漢で、その教えに関してもまぁ、正直なところどんなもんかね…私はこれはちょっとなぁ、という感覚なのですが、歎異抄に出てくる次の言葉には考えさせられるところが多いです。


念仏は、まことに浄土に生まるるたねにてやはんべるらん、また地獄に堕つる業にてやはんべるらん、総じてもって存知せざるなり。たとい法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、さらに後悔すべからず候。
そのゆえは、自余の行を励みて仏になるべかりける身が、念仏を申して地獄にも堕ちて候わばこそ、「すかされたてまつりて」という後悔も候わめ。いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。



ここの部分は主に「地獄は一定すみかぞかし」なんてところが取り上げられ、他力念仏の思想のひとつの考え方になっているところであると思うのです。
確かに私も現状そのままの凡夫人であれば、自分自身を顧みて「地獄は一定すみかぞかし」…なるほど、そうだろうなと思いますけれど、ただ「いずれの行も及び難き身なれば」とは思いません。仏の誓願、経力というものを信じますから、仏法に則って努力することが仏の妙用に感応し、必ず行は成就するものと考えています。

…と、それはそれとして。

私が「考えさせられるなぁ」というのは、「たとい法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、さらに後悔すべからず候」…これです。私たちが色々と模索して、本当に「この方こそ」と思った師に対しては、真実に身を捧げて信じて従っていく、その時の姿勢として、この親鸞の言葉はひとつの極北ではないかと思います。
浄土門はともかくも、私たち仏教徒にとって最大最勝の「師」は、釈尊です。釈尊はブッダであるから師ではない、信仰の対象だ…というのも確かに真ですが、釈尊またその教法が私たち仏教徒の根本の師ではないでしょうか。これは宗派を問わずして、そうだと思います。
ただ、果たして私たちは親鸞のような覚悟で、それを貫いて行けているでしょうか。親鸞以外でも、たとえばキリストがゴルゴダの丘で磔刑に処せられる時、弟子たちは四散してしまい、ペトロは「私はその人を知らない」と言いました。それが現実なのではないでしょうか。

私は自分自身に照らして、正直なところ「師とともに地獄に落ちるも可、死ぬとも可」と断言して、状況が最悪の時に行動を貫ける自信は「今は」ありません。ありませんが、少しでもそうなっていけるよう、日日、精進して参りたいと思います。
ペトロもペンテコステの日以来、人が変えられて、最後はローマで磔刑に処せられて殉教しました。信仰によって、人はいくらでも変わります。諦めの心は、毒です。しかも私たちは大乗の教えという最高の宝が与えられています。それを信じて、何も変わらないという事があるでしょうか。必ず、私たちは変わって行けるのです。成長していけるのです。
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