प्रज्ञापारमिता

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加持のこころ

2014年03月28日 | 法話関係
よく「お加持する」というように、真言宗においては「加持」ということを非常に大切にします。「加持祈祷」というように、加持と祈祷は一緒のことのように思われていますが、本来はちょっと違う意味です。祈祷は単純に「祈りを捧げる」ことを意味しますが、加持は単なる祈祷ではなく、私たちの大切な修行の一環を意味する言葉です。
弘法大師の『即身成仏義』という聖典に、こうあります。

 仏日の影 衆生の心水に現ずるを 加と曰う
 行者の心水 能く仏日を感ずるを 持と曰う


このように、加持とは私たちの心が清く明るく、澄み切った状態でこそ、よく仏様の力が感じられ、様々な導きや守護が得られます。もちろん仏様の慈悲の心は平等に私たちを照らしていますので、たとえば濁った水でも太陽の光がそこに映じて明るくなるように、私たちの心が不十分でもそれなりに仏様の心を受けとめられますが、澄み渡った心であればある程、その感応は大きくなります。
では、どういう心が「清らかな心」でしょうか。弘法大師の『性霊集』巻十にその答えがあります。

 法師は心を四量四摂に住して、労倦を辞せず

四量とは「四無量心」というもので、慈・悲・喜・捨の心です。また四摂とは「四摂事」ということで、布施・愛語・利行・同事の四つです。この合計八つの心を持つことが出来れば、それが仏様の心をしっかりと受け止められる清らかな心と言えます。加持の力が十分に発揮される心です。
とは言え、そのような心を常に持って生活することは、私たち凡夫にはなかなか、出来ません。ですからそのうちのひとつ、あるいはふたつ、みっつ…と出来るところから実践していくことで、加持の光を映し出す私たちの心水が少しずつ清らかになっていくのです。「そういう心を持とう」という心をまず発揮する事が大切で、「そうなりたい」と思って少しでも実践するところに、仏様の加持力が必ず現れてきます。
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