प्रज्ञापारमिता

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法話・位牌堂

2013年07月14日 | 法話関係
配布用プリント


位牌堂とはなにか

以下は故・五来重大谷大学名誉教授の説を元にしています。
五来重(明治41年~平成5年)は高野山大学教授も務められ、仏教民俗学の分野の代表的な学者であり、娘婿は現・高野山真言宗総本山金剛峯寺維那(奥の院の弘法大師御廟の仕侍僧の責任者)の日野西眞定大僧正。


日本人の墓…両墓制
・埋墓(三昧=サンマイ)…山、海
・詣墓(乱塔場・卵塔場=檀徒墓)…里・寺院内

近年の傾向…単墓制。詣墓は位牌堂と仏壇に変化

共同体的供養…寺院と位牌堂
私的供養…墓と仏壇

葬儀と初盆供養(特別施餓鬼)と卒塔婆供養…共同体の供養
葬儀と法事…私的な供養

位牌堂の意義とは



手元用メモ


墓…両墓制→単墓制

五来重説をもとに

埋墓(三昧=サンマイ)…山、海
詣墓(乱塔場・卵塔場=檀徒墓)…里・寺院内

共同墓地の整備で、単墓制に徐々に移行…埋墓と詣墓の同一化

詣墓が位牌堂と仏壇に変化…位牌堂は葬送・供養の共同体性の保存、仏壇は私的位牌堂。位牌堂が先、仏壇が後
供養というものは本来、家ごとの個別のことだけではなく、共同体のものでもある
その共同体的側面が寺院と位牌堂、私的側面が墓と仏壇であり、両者の根本は同じ。役割の違い

また、寺院での施餓鬼や初盆供養は、共同体意識の確認のため。
法事などは個別的な家庭の行事だが、供養と言うのは個別と共同体の両面からが大切
葬儀は共同体・個人的の両方の意義が関わりあう場
寺院こそ生者・死者がともに関わりあう共同体の中心的場所

都市部においては共同体意識が崩壊したため、供養はすべて個別の家庭の問題
しかし人や家族は社会的な存在であり、
冠婚葬祭というものは本来的に、他者とのかかわりの中に意義がある

位牌堂の意義には
・共同体の中心部で、故人がそこに繋がっていることの目に見える形での確認
・僧侶が日日に読経する場合に、より一層近しい場所で関わることが出来る
・個別の家庭の仏壇に近隣の者が気軽に参ることは難しいが、共同体のものである寺院位牌堂であれば、気兼ねなく参ることができる。

もともと日本人の伝統的な供養は、両墓制
両墓制とは単に墓がふたつあるということではなく、私的な供養の場所と、共同体的な供養の場所のふたつがあるということ
それは、みんなで助け合って生きていくことの印でもある
伝統は失うのはすぐだが、なくなるともはや戻らない
今一度、助け合う事・社会のつながりを意識して、生者死者ともに生活することの大切さや意義を見直して欲しい。
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今後のこと

2013年07月09日 | 閑話休題
ブログでつらつら書くのはやめます。

過去ログにだいたい、ブログで書けるような事は書いてますので、色々と「主張」「雑感」など開陳するのもそろそろ潮時かなぁ、と(過去ログは残します)。

読んでくださっていた方々、どうもありがとうございました。

今後は、基本的には以下の記事のみをアップしていきます。

・お寺の行事やお知らせ、近況
・実際に行った法話の紹介
・閑話休題


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密厳院発露懺悔文

2013年07月07日 | 東亜仏典の言葉
明日の法話資料。
僧侶向けのものではありますが、檀家さんにとってももちろん参考になるでしょうから、冒頭部分と、わかりやすい部分を抜粋。


興教大師覚鑁  『密厳院発露懺悔文』 より一部抜粋

我等懺悔す。
無始よりこのかた妄想に纏はれて衆罪を造る。
身口意業、常に顛倒して誤って無量不善の業を犯す。
珍財を慳悋して施を行ぜず、意に任せて放逸にして戒を持せず、しばしば忿恚を起して忍辱ならず、多く懈怠を生じて精進ならず
(中略)
諸佛の厭悪したもう所を慚じず、菩薩の苦悩する所を畏れず、遊戯笑語して徒らに年を送り、諂誑詐欺して空しく日を過ぐ。
善友に随がはずして癡人に親しみ、善根を勤めずして悪行を営む。
利養を得んと欲して自徳を讃じ、名聞を欲して他愚を誹る。
勝徳の者を見ては嫉妬を懐き、卑賤の人を見ては驕慢を生じ、富饒の所を聞いては希望を起し、貧乏の類を聞いては常に厭離す。
(以下略)
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二十大行観

2013年07月06日 | 仏教・思索
私の基本です。
出来てるかどうか心許ないのですが、意識はしていかなくては…と。
大乗仏教においても、これは根本戒行になり得ると思っています。

対自止悪、智慧を得ん為の摂律義戒すなわち十善の不殺生戒・不偸盗戒・不邪淫戒を身戒、不妄語戒・不綺語戒・不悪口戒・不両舌戒を語戒、不慳貪戒・不瞋恚戒・不邪見戒を意戒と為す。
対他行善、摂衆生戒すなわち四無量心観の慈は他者を慈しみ愛護する与楽心、悲は同苦不害の抜苦心、喜は随喜心、捨は怨親平等心・三輪清浄心なり。
身命財を擲ちて正法を護持する摂善法戒すなわち六波羅蜜は、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六度これなり。
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死というもの

2013年07月01日 | 仏教・思索
以下は、フェイスブックでしたコメントを転載したものです。
葬「儀」・葬「式」ではない、最近の死体処理的な風潮について。

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ただ、単に「カネがもったいない」というのは、ちょっと寂しい考え方だな、とは思います。仏教でやるとかやらないとか以前に、人の死という場面で「カネをかけたくない」というのは、やはり寂しい考え方ですよ。
誕生、成人式、結婚式でカネをかけても惜しくないのに、葬式は安くあげたい。それは、死というものを厳粛に受けとめない、「生が価値あり、死は価値なし」という、とても偏った、悪い意味での目先の実用主義的な思想に毒され過ぎている考えではないかな、と。
見える世界だけに価値があり、見えないもの、それは単に「霊」という意味ではなく、「いのち」というもの自体も見えないわけですけれども、そういう不可視のものは「ない」という事ですよね。そういう思考回路を進めていくと、感情も薄くならないのだろうかなぁ。死というもの、またそれを噛みしめる場でもある葬儀をきちんと価値あるものと位置づけできない社会って、豊かだと思えません。
これは、仏教的にどう死を考えるのか…という以前の問題として。

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いずれにせよ、あまりにも死というものを「あってはならないもの」と考え過ぎではないでしょうか。こういう考えは「アンチエイジング」とか「エンバーミング」の裏にも潜んでいるものだと思いますが、それって、どうなのかなぁ…と。
あまりにも死が身近過ぎた過去の時代、確かに死を忌避するという考え方が主流になることは仕方ないですが、それでも死というのは具体的なイメージで存在していました。
今はそれを隠し過ぎて実感もなくなり、その実感のない状態で「それは悪だ」としてしまうことは、本当に「死」というものに対する「あってはならない感」が先鋭化して、「いざ」それが身近になった時に「早く元の状態に戻さねば」→「なかった事にしたい」となり、そんな「なかったことにすべきもの」に対してカネをかけるのは「もったいない」に連絡されて、いよいよ「死」にどう臨むべきかわからなくなる。

別に仏式で葬儀をすべきとか、そんな事じゃなくて。
もう一度、死を取り戻すべき時期に来ているのではないかなと。
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