प्रज्ञापारमिता

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静坐のこころ

2013年06月29日 | 仏教・思索
暗きより 暗き道にぞ入りぬべき 
はるかに照らせ 山の端の月

                      和泉式部 『拾遺和歌集』より

ほとけはつねにいませども
うつつならぬぞあはれなる
ひとのおとせぬあかつきに
ほのかにゆめにみえたもう

                      後白河法皇 『梁塵秘抄』
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脚下照顧

2013年06月23日 | 仏教・思索
その場でできない奴は、どこに行ったって何も出来ない。

日本じゃダメだ、ミャンマーやタイに行かないと…
田舎ではダメだ、都会じゃないと…
この学校じゃダメだ、もっと違う学校に行かないと…
この仕事じゃダメだ、もっと輝ける仕事があるはず…
結婚してたらダメだ、出家ではないと…
真言宗じゃダメだ、念仏ではダメだ、禅ではダメだ…
この学歴では不可能、この環境は無理だ、この経済状態ではあかん…
今日は吉日、凶日、良い方位、悪い方位、これは良い人、こいつは悪人…

たぶんそういう人は、どこに行っても青い鳥を求めて彷徨うだけ。

今、ここ、自分のある場所。
そこをしっかりと捉え、そこを改善して進んで行くことができなければ、
どんなに「良い環境」のところに行っても、いつまでも何もならない。
完璧な場所などないのだから。
また、どんな場所でも完璧なところなのだから。

すべて単純に受け入れてあきらめろ、と言うのではない。
間違った事もある、改善すべき事もある。
しかし、それらの中に真実があり、それらの中にしか真実は無い。
そうすれば、機縁に従って自然に色々なものが巡り、動く。
縁のある場所、縁のある仕事、縁のある人生が立ちあがる。

見出す事…正しく「諦める=明らめること」
それだけ。
見出せば、娑婆即寂光土。即今が往生、仏国土、真如。
仏光に境界もなければ、上下も方角も何もない。
絶対の一なる世界。


自戒自戒。
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止まりなさい

2013年06月19日 | 仏教・思索
みんなぐるぐる回ってるなぁ…大丈夫?

いいから止まんなさいよ。

「止まるにしても、いつ止まるか、いつまで止まるか」…なんて、またそうやってグルグルグルグル…いい加減にしなさいな。
「あれか、これか」なんて、そんな事に頭を回転させても、結局どっちも一緒の事。ほとんどの場合はね。何が違うのさ? 突き詰めてみれば? 一緒でしょうが。
だからね、止まりなさいって。

青い鳥なんか、いない。

いや、探してみないと「いない」って事はわかんないから探せばいいんだけれど、潮時を見失ってはいけないよ。仏教やってるなら特に、さ。

ツマランことに右往左往せずに、止まる。
そしたら、全体が全体として自由に動きはじめるんだから。
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帰敬序

2013年06月08日 | 仏教・思索
大乗起信論の冒頭の頌。
解釈は色々とありますが、ひとつの例として武村説を参考に。


歸命盡十方 最勝業遍知
色無礙自在 救世大悲者
及彼身體相 法性眞如海
無量功徳藏 如實修行等
爲欲令衆生 除疑捨耶執
起大乘正信 佛種不斷故


歸命 … 能帰
盡十方 … 所帰・帰依三宝
最勝業遍知 色無礙自在 救世大悲者  … 帰依佛(報・応身)  
及彼身體相 法性眞如海 無量功徳藏 … 帰依法(法身)
如實修行等 … 帰依僧
爲欲令衆生 除疑捨耶執 … 因縁分と顕示正義・対治邪執
起大乘正信 … 分別発趣道相・修行信心分
佛種不斷故 …勧修利益分



前半は帰依三宝ですが、如来蔵思想全体の立場である「理智不二法身」をよく示しているようです(如来蔵思想では理法身の立場を取りません)。
後半は起信論全体の構成に沿った目次というか方向を示しますが、因縁分も実際には目次的な構成になっています。立義分は全体の教理の概略を示しますから、実際に起信論というのは非常に丁寧な作りをしているのがわかります。
「わからせよう」という意思が感じられるというか。論はこうでなくては、ですね。
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普光明蔵経解説

2013年06月07日 | 仏典の言葉
『大乗離文字普光明蔵経』において中心となるのは、勝思惟菩薩が釈尊に対して問うた三つのことです。

ひとつは、「菩薩の離れるべき事とは」
ふたつめは、「菩薩の護持すべきこととは」
みっつめは、「如来の覚とはなにか」

今回は、ひとつめの部分について紹介したいと思います。
ふたつめ以降はまたの機会に(笑)

最初の三つはいわゆる三毒ですが、その他の事も基本的なところでしょう。


善男子、一種法有り。菩薩応に離るべし。所謂、欲貪。善男子、是の如きの一法、是れ諸の菩薩の応に永離すべき所。

仏弟子よ、ひとつの事があります。菩薩が離れるべきものです。貪欲です。これこそ菩薩の離れるべきものです。

善男子、復一法有り、菩薩応に離るべし。所謂、瞋怒。是の如きの一法、是れ諸の菩薩応に永離すべき所。
仏弟子よ、もうひとつの事があります。菩薩が離れるべきものです。怒りです。これこそ菩薩の離れるべきものです。

善男子、復一法有り。菩薩応に離るべし。所謂、愚癡。是の如きの一法、是れ諸の菩薩応に永離すべき所。
仏弟子よ、もうひとつの事があります。菩薩が離れるべきものです。愚かさ(無知)。これこそ菩薩の離れるべきものです。

善男子、復一法有り。菩薩応に離るべし。所謂、我取。
仏弟子よ、もうひとつの事があります。菩薩が離れるべきものです。それは自我を実体視して執着することです。

善男子、復一法有り。菩薩応に離るべし。所謂、疑惑。
仏弟子よ、もうひとつの事があります。菩薩の離れるべきものです。それは真如への疑いの心です。

善男子、復一法有り。菩薩応に離るべし。所謂、憍慢。
仏弟子よ、さらにもうひとつの事があります。菩薩の離れるべきものです。それは驕り高ぶった心です。

善男子、復一法有り。菩薩応に離るべし。所謂、懈怠。
仏弟子よ、もうひとつの事があります。菩薩の離れるべきものです。それは怠けです。

善男子、復一法有り。菩薩応に離るべし。所謂、惛眠。
仏弟子よ、もうひとつの事があります。菩薩の離れるべきものです。それは沈滞と眠気です。

善男子、復一法有り。菩薩応に離るべし。所謂、愛著。
仏弟子よ、もうひとつの事柄があります。菩薩の離れるべきものです。それは愛執の心です。

善男子、是の如きの一法、是れ諸の菩薩の応に永く離るべき所なり。
仏弟子よ、このような事こそ、諸の菩薩の永遠に離れるべきものなのです。
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大乗離文字普光明蔵経

2013年06月04日 | 仏典の言葉
本経は短いながら、教理実践の基本を示した素晴らしい経です。

経典はシンプルなのが一番、良いです。なんせ、読経しながら内容を「聴かせていただく」わけですから、論書みたいな経典よりも、やっぱりスパッとバシッとわかるものが良い。それでいて内容が薄くなく、深いもの…ざっと読んでわかり、深くひとつひとつ丁寧に読むと更に味わいが出てくるというか。
その点で、『大乗離文字普光明蔵経』というのは良い経典だと思います。
基本的な実践論にはじまり、空思想と如来蔵思想のみならず、浄土思想や密教思想に至るまでの「ほのかな影」も感じられます。通大乗・大乗通申経とでも言いましょうか…そういう意味では『起信論』にコンセプトが近いかも(笑)

小品の経典ですが、それだけに日々に読誦するにはピッタリのものになりそうです(漢訳文は大正蔵にあります。ネットでも見られます)。

まずは国訳一切経から訓訳者の解題の一部を抜き出して、参考に供したいと思います。


本経は佛、勝思惟菩薩の問に答へて、永離の法、護持の法、如来覚了の法を説くものである。永離の法とは貪欲・瞋怒・愚癡・我取・疑惑・憍慢・懈怠・惛眠・愛著の諸法であり、護持すべきは不殺生等の禁戒である。如来の現に覚了する所の法に至っては言語道断じて説くべき無し。如来は覚了する所無し。一切法は無生にして無滅、是れ覚である。一切法普光明蔵と云ふ。これに依りて世出世の智は生ず。この説法了る時、大衆菩提心を発し、各益を得た。佛羅睺羅にこの経を附嘱して受持せしめ、会中の菩薩の大衆は受持を誓ふ。又四天王その時擁護を誓ふ。佛これに対して勧発をなし、経を聴くものは臨終に阿弥陀仏現前し、清浄佛土に生ずべしと説く。
以上が本経の便概である。



以下は同じく、国訳一切経経集部十五の184頁~188頁から書写(打写?)致しました。



大乗離文字普光明蔵経
               大唐天竺三蔵地婆訶羅訳す

是の如く我れ聞けり。

一時仏王舍城耆闍崛山の中に在して、大菩薩無量百千億那由他数と与なりき。皆是れ大智にして、善巧に精進し、無言法を証し、妙弁才を獲、是処非処相違反せず。善く身心を調へ、諸の解脱を具し、常に三昧に遊びて大悲を捨てず。慚愧を身と為し、智慧を首と為し、饒益する所多く、大宝洲の如く、諸法の善不善の相を了知し、文字に著せず、而も言説有り。真俗門において洞達して礙無く、深く実際を明らかにして、其の中に住せず。善能分別して、而も所受無く、生死を厭ふといえども、常に世間を護り、十方に周遍して大名称有り。真妙蔵に於て寂然として宴息し、現に身を受くと雖も、永く三界を出で、而も諸有に行じて勉めて衆生を済ふ。平等に教誨して志常に賢善、平等に憐愍して心に染著無く、能く自他をして清浄ならざる莫からしむ。是の如きの無量の功徳を成就せり。其の名を勝思惟菩薩・法震音菩薩・妙身菩薩・法輞菩薩・辯積菩薩・持地菩薩・持世菩薩・大名称菩薩・具諸辯菩薩・千容相菩薩・功徳山菩薩・蓮華眼菩薩・蓮華面菩薩・珠髻菩薩・妙音菩薩と曰ひき。是の如き等の菩薩摩訶薩、皆童子の如く、色相端厳にして、此の衆中に於て而も上首為りき。
爾時観自在菩薩、恒河沙等の尊位を紹ぐ者なる諸の菩薩と倶なりき。殊勝見菩薩、無央数の天帝釈と倶なりき。虚空蔵菩薩、無量の菩薩及び無量の四天王衆と倶なりき。大勢至菩薩、無量億の梵天衆と倶なりき。遍吉祥菩薩、無量の婇女と倶なりき。普賢菩薩・不空見菩薩・星宿王菩薩・離疑菩薩・息諸蓋菩薩・薬王菩薩・薬上菩薩、各無量の菩薩衆と倶なりき。其の中に亦無量の諸仏あり。自から其の身を変じて菩薩の像と作る。尊者舍利弗・摩訶目乾連・摩訶迦葉、是の如き等の大阿羅漢、各無量の声聞衆と倶なりき。那羅延等の無量の天衆、乃至恒沙の国土、日月諸天、威光照耀して悉く仏所に来る。仏所に至り已るに、彼の天の威光復現ずる能はず。猶し、聚墨の閻浮金に対するが如し。婆楼那龍王・徳叉迦龍王・阿那婆達多龍王・美音乾闥婆王・無擾濁迦楼羅王、各無量の諸眷属と倶に此の会に来入しき。十方世界の恒河沙の如き所有菩薩、咸本土において如来を啓請し、諸の四衆と同時に此に到る。各種種世間を出過する殊好の供養を持して、仏諸菩薩に奉上し已りて、即ち会中に於て蓮華座に坐す。

爾時、勝思惟菩薩摩訶薩、座より起ち、偏へに右の肩を袒ぎ、右膝を地に著け、合掌を仏に向けて是の言を作さく、「世尊、我れ今、二字の義を請はんと欲す。惟願はくは如来哀を垂れて許されよ。」
仏勝思惟菩薩に告げて言く、「善男子、問ふこと有らんと欲すれば、汝の意に随って問へ。如来は一衆生の為の故に世間に出現せず。無量の衆生を利益せんと欲する為に、而も出現する耳。」是に於て勝思惟菩薩、即ち仏に白して言く。「世尊、何者の一法をか是れ諸の菩薩応に永離すべき。何者の一法をか是れ諸の菩薩応に常に護持すべき。何者の一法か是れ諸の如来現に覚了する所なる。」仏の言く、「善き哉、善き哉、善男子、汝、如来威神の力を以て、乃ち能く我れに是の如きの深義を問へり。諦らかに聴き、諦らかに聴け。善く之を思念せよ。当に汝の為に説くべし。
「善男子、一種法有り。菩薩応に離るべし。所謂、欲貪。善男子、是の如きの一法、是れ諸の菩薩の応に永離すべき所。善男子、復一法有り、菩薩応に離るべし。所謂、瞋怒。是の如きの一法、是れ諸の菩薩応に永離すべき所。善男子、復一法有り。菩薩応に離るべし。所謂愚癡。是の如きの一法、是れ諸の菩薩応に永離すべき所。善男子、復一法有り。菩薩応に離るべし。所謂我取。善男子、復一法有り。菩薩応に離るべし。所謂、疑惑。善男子、復一法有り。菩薩応に離るべし。所謂、憍慢。善男子、復一法有り。菩薩応に離るべし。所謂、懈怠。善男子、復一法有り。菩薩応に離るべし。所謂、惛眠。善男子、復一法有り。菩薩応に離るべし。所謂、愛著。善男子、是の如きの一法、是れ諸の菩薩の応に永く離るべき所なり。

「善男子、汝復我に問へり。何者の一法をか是れ諸の菩薩応に常に護持すべきと。善男子、諸の菩薩と謂ふは己れが所安を非として、物を加へず。若し諸の菩薩此の法を守護せば、即ち是れ能く諸仏如来の一切の禁戒を持す。何を以ての故に。自から身命を愛して応に殺生すべからず。自から資財を重んじて応に偸盜すべからず。自から妻室を護りて応に他を侵すべからず。是の如き等の行、皆一法と名づく。善男子、若し如来の語を敬順する有らば、此の一法に於て常に当に憶念すべし。何を以ての故に。衆生の苦を愛楽する有ること無し。凡そ作す所有らば、悉く安楽を求む。乃至菩薩阿耨多羅三藐三菩提を求むるも、亦自他皆楽を得んが為の故なり。善男子、是の如きの義を以て我れ此の言を説く。己れが所安を非として、物を加へずと。是の如きの一法是れ諸の菩薩の応に常に護持すべし。

「善男子、汝の所問の如き、何者の一法か是れ諸の如来の現に覚了する所なる。善男子、少法も是れ如来の覚有ること無し。何を以ての故に。如来の覚は覚する所無きが故に。善男子、一切法無生は是れ如来の覚、一切法無滅は是れ如来の覚、一切法二辺を離るるは是れ如来の覚、一切法不実は是れ如来の覚、善男子、諸業の自性は是れ如来の覚、一切法因縁より生ずるは是れ如来の覚、因縁の法猶し電光の如しとは是れ如来の覚、因縁を以ての故に而も諸業ありとは是れ如来の覚、善男子、一切法性普光明蔵は是れ如来の覚なり。善男子、何が故に法性を普光明蔵と名くる。善男子、世出世の智は之に依りて以て生ず。母の子を懐くが如し。故に名けて蔵と為す。若し智生ずる時、反つてその本を照す。是の如き法性は般若波羅蜜の摂蔵する所と為る。是の故に名けて普光明蔵と為す。善男子、一切法は幻の如く、焔の如しとは是れ如来の覚。善男子、諸法実性一味解脱は是れ如来の覚。一味解脱は是れ即ち名けて普光明蔵と為す。善男子、一相法は是れ如来の覚。云何が一相なる。所謂、諸法は不来・不去・非因・非縁・不生・不滅・無取・無捨・不増・不減なり。善男子、諸法の自性本と所有無し。喩と為すべからず。是れ文詞の辯説する所に非ず。是の如きの一法は是れ諸の如来の現に覚了する所なり。」

仏の此の荘厳王離文字普光明蔵法門を説きたまふの時に当り、十地の菩薩所見の微塵数の衆生有り。悉く阿耨多羅三藐三菩提の心を発しき。復是の如き微塵数の衆生有り。皆声聞辟支仏の心を発しき。復是の如き微塵数の衆生有り。地獄に在る者、皆苦を離れて人天中に生ずるを得たり。無量の菩薩、初地に入るを得、無量の菩薩百千の三昧を得。無量の衆生、悉く利益を蒙り、空しく過ぐる者無し。

爾時、仏羅睺羅に告げて言く、「善男子、我が此の法要を汝当に受持すべし。」是の語を説きたまふ時、会中に九十億の菩薩摩訶薩有り。仏の威神を承けて、即ち皆座を避け、仏に白して言く、「世尊、我等も誓つて当に如来所説の法要を受持すべし。此の娑婆国土に於て、最後の時の中に、其の人有るを見ては流通して為に説かむ。」
爾時、四天王仏に白して言く、「世尊、若し能く此の経典を持する有らば、我れ当に擁護すべし。其の志願をして皆満足することを得しめむ。所以は何。能く此の経を持するは是れ法器なるが故に。」

爾時に世尊、普ねく衆会を観じて是の言を作さく、「諸仁者、我が此の所説の甚深方広希有の法門、諸の衆生の少善根有りて而も能く聴受するに非ず。能く聴受する者は即ち我に承事し供養すと為す。また無上菩提を荷擔すと為す。是の人当に辯才無礙なるを得べく、決定して清浄仏土に生ぜむ。是の人臨終に定んで親しく阿弥陀仏、菩薩大衆と而も現じて前に在るを見るを得む。我れ今此の耆闍崛山に在りて、諸の菩薩の衆に共に囲繞せらる。彼れ臨終の時、亦是の如く見む。当に知るべし是の人即ち已に無尽の法蔵を得と為す。当に知るべし是の人宿命智を得む。当に知るべし是の人悪道に堕せず。善男子、我れ今此の一切世間難信の法を説く。設し衆生有りて五逆罪を作らむ。是の経を聞きて已りて、書し、持し、読誦し、人の為に解説せむ。所有業障咸消除するを得む。終に悪趣の苦を受けず。斯の人即ち諸仏菩薩の護念する所と為らむ。在在所生、諸根具足し、仏の灌頂を蒙り、五眼清浄ならむ。善男子、要を取りて之を言はば、我れ是の人を已に仏道を成ぜりと見む。」

仏、此の経を説き已りたまふに、勝思惟等の一切の菩薩、及び諸の声聞、天龍八部、皆大に歓喜して信受奉行せりき。
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議論すること

2013年06月02日 | 仏教・思索
学術的な対話は一応、文献や客観的事実に立脚して実証的に行われるものだと思う。まぁ勿論、そうじゃない場合だってあるし、そもそも客観と主観とは…などと言い始めたら際限ないのだけれど、まぁ、一般的な意味では、実証的に行われる。
そういう議論や討論はすべきだと思う。個人の感情や意見ではなくて、文献や事実によって語らせる、的な(その解釈という点で個々人の意見や傾向は出るけれど、それは結構なこと)。

私の嫌いな議論というのは、文献的証拠や客観的事実のない信条レベルの話で優劣を競う…という類のそれ。ネットに氾濫している「議論」のほとんどはそういう議論。学術的なテーマを扱っていても、ほとんどは自分の信条をどうやって相手に押し付けるかという、互いにそれだけのものが多過ぎるように思えます。

もちろん信条や意見を表明するのは大事です。ただそれは議論という形式にあまり馴染まないものが多いので、私みたいにブログで独り言を言ってる方がいいと思うんですよね。信条レベルの事って、合意できないですよ、ほとんど。既に「私はこうだ」という立場がある者同士、客観的なものがなければ議論など成立しません。
で、結局は最後には大声を出せる者が勝つという。

私は色々な人の話は聞きたいと思うし、違う考えも聞いてみたいと思う。
でも、議論したいとは思わない。時間の無駄だから。
お互いを尊重した、お互いの立場を表明し合うだけの穏やかな対話なら歓迎ですが、どっちが正しいか…なんて話が出てくるのなら、直接対話はご勘弁ですね。そういうのは、独りで考えて、独りで書きますから(笑)

あ、あと。
「私は文献的に立証された立場で語るから」という人もいますけれど、大抵は文献を曲解して我田引水に考えていたり、結論ありきで文献を差し込むような話が大体のところですので、そういう人がもしいたら、多分、敬して遠ざけるかな(笑)
最近(昔から)よく見かける話題の宗教家にも多いタイプです。ひとりで所見を述べるだけなら私も参考になるし、良いんですがねぇ。なんで自賛毀他してまでシンパが欲しいのだろうか…と。謎。

詰まる所。
私はひとりで考えて、ひとりで実践していたいだけなんですわ。誰に評価されたくもないし、議論もしたくないし。
ただ、自分ひとりで考えるためには色々な見方というものを学びたいし知りたいので、話だけは色々と聞きたいと思う。そして私は「法師」ですから、仏教に関しては、縁のある人には私の仏教の見方が参考になる場合もあるかもしれないので、色々な場所でお話はします。私自身が色々な話を聞きたいのと同様に、私の話も誰かの参考になれば良いな、と…ま、「私の話」というか、ほとんど仏典の話を砕いて話すだけですけれどもね。多少の解釈は避けられませんが。

さて。

「そうは言っても、そんなひとりがいいなら、坊さんとしての立場はどうなのよ? なんだか参考程度の話をするだけで、そんなことで坊さんとして良いわけ?」

…と思われるかも知れません。

ま、法師として色々と考えるところはあるし、他者との関わりや仏教実践について思う所も多々あります。役割もあると思っていますし、そういう諸々のことって実質的な意味もあると思っています。
問題が拡散してもややこしいので、この記事で「ひとりで云々」というのは、信条レベルの事において「議論する」あるいは「考える」という一点についての話です…と、そう理解しておいてください。
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Som Sabadell flashmob

2013年06月01日 | 閑話休題
BANCO SABADELL - Som Sabadell flashmob


素晴らしい!

数年前に大阪フィルの府からの助成金がなくなるとかで、署名だの陳情だののニュースがありましたけれど、大阪フィルもこのくらいの路上パフォーマンスやれば、そのほうが効果があると思うなぁ。日本中でフィルが先細りになってますが、やはり一般の人達にドカンと見せてクラシックそのものに関心を持ってもらうのが一番だと思う。
クラシックって、日常生活で見ることがほとんどないでしょ。やっぱりもっと外に出ていかないと。
日本の他の伝統芸能も然り。


それにしても、04:09頃の通りすがりのおっちゃんの「ワォ」という表情、いいなぁ。
演技では出せない顔だね、あれ。
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螺子

2013年06月01日 | 仏教・思索
ここに、ネジがある。

本棚を作ろうと思い、木の板を十数枚、買ってきた。
家にあるネジをすべて並べてみた。
ぜんぶで、十三種類、ネジがあった。

どのネジが正解だろうか。

それは自明、木の板の厚みによって、使うべきネジは決定する。
だから、どのネジが客観的に常に唯一の正解…ということはない。
木の板がどういうものかによる。

さて。

私は宗論が嫌いだ。
仏教に関する議論をするのは良いし、大切だと思うけれど、
勝ち負け・正邪・上下を決める類の勝負・論争は嫌いだ。
嫌いという表現が違うと言うのなら、敢えてこう言おう。
そんなものは、無意味であると。

木の板とは、あなたのことだ。
他の誰でもない、「あなた」のことだ。
ネジは仏教だ。仏教の教理・教学・経典・論書…何でも良いけれど、
とにかく、「言葉に表された仏教」のことだ。

どのネジが正解だろうか。

それは自明、木の板の厚みによって、使うべきネジは決定する。
だから、どのネジが客観的に常に唯一の正解…ということはない。
木の板がどういうものかによる。

「真理」というものがあるとすれば、それは「本棚」として顕現する。
木の板とネジがうまく組み合わさったものだ。
ネジが真実なのではなく、木の板が真実なのでもない。
真実は、そのふたつのものの関係性の中にのみ、現れる。

他の誰かにピッタリのネジがあったとして、
それを無闇に他人に薦めたりするものではない。
木の板はそれぞれ、同じものはふたつとない。
仮留め程度に役に立つネジは結構たくさんあるだろうけれど、
中にはまるでどうしようもなく合わないネジだってたくさん、ある。
でもそのネジは他の誰かにピッタリなのかも知れない。

木の板の大きさ、厚み、硬度、特性などをしっかりと把握し、
適切なネジを提供することが出来るの者のことを、ブッダという。
だからこそ、ブッダの言葉をたくさん学び、
「わたしのネジ」を見つけなくてはならない。
これは真理多元主義ではない。
本棚として顕現するという点で、関係性の中にそれは現れると言う点で、
真理は「ひとつ」だ。
しかしもちろん、本棚はひとつではない。
不一不二。

くれぐれも、腐ったネジだけは使わないように。
万能ネジというものがあると夢想しないように。
なんとなく合う手近なネジに安住しないように。
ちゃんと本棚を作ることを考えてネジを選ぼう。
ネジは色々あるけれど、真理は本棚に現れる。
あなたのネジを、倦まず弛まず、探し続けよう。
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