प्रज्ञापारमिता

𝔇𝔥𝔞𝔯𝔪𝔞 𝔗𝔞𝔩𝔨, 𝔅𝔲𝔡𝔡𝔥𝔦𝔰𝔪, 𝔗𝔥𝔦𝔫𝔨𝔦𝔫𝔤, 𝔞𝔫𝔡 𝔱𝔥𝔢 𝔚𝔬𝔯𝔡

2013年05月24日 | 仏教・思索
大木に咲く美しい花を見るのは良いことだ
だけれども 枝を意識するのは花よりも深い
枝よりも幹を意識するのは 更に深い
幹よりも根を想うことは 存在の深みを意識することだ
そしてそれらの依って立つ大地を感じた刹那に
ああ 大地には私も立っているではないか
あなたも立っているではないか
大海も大地に満々と湛えられている
想え この大地は虚空に浮かび、巡り
虚空は永遠の広がりと静寂に満ち満ちて
静寂の中に美しい花が ぽつり ぽつり 咲く
その時に 大木に咲く美しい花がもっとも深くなる
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本は貸しません

2013年05月18日 | 閑話休題
私は基本的には、誰にも本を貸すことはしません。
今までの経験上、貸した本が返ってきたことがほとんどないからです。たまに返ってきても、雑な扱いをしたのかどうか、傷んで返ってきたり。
あげてもいいような本はあげますが、なくなると困るものは貸しません。
ついでに、私は本は借りません。図書館ですら借りないので、まして他人の蔵書を借りることなどありません。

…これは「執着」なんでしょうかね。まぁ、そうなんでしょうね。
自他分別してあーだこーだ言うのは、私の普段の言葉に矛盾しているでしょう。

しかし、返ってこないんですわ、ホントに。
本はねぇ、困るんスよ。
一冊●万円レベルの本もあるし、古書でも見当たらないような本もあるし、続き巻の本もあるので、返ってこないと困るわけですよ。資料的な本もありますしね。

たとえばお金は諦めれば済むのですが、本だけは困る…。

いや、お金も貸しませんけどね(ーー;)
貸すくらいなら、あげます(と言っても、借りに来ないでね♪)。

というわけで、私は本を貸しません。
寺に来て読むのは構いませんが、貸しません。信用している人には…とかもないです。ある人には貸して他の人には貸さないとか、そういう区別はそれこそ自分の気分が悪いので、一律、貸しません。釈尊が現れても貸しません。弘法大師が来たって貸しません。
ここでどうぞ、お読みくださいませ。
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商工会向け法話

2013年05月13日 | 仏教・思索
配布プリント

心暗きときは 即ち遭う所 悉く禍なり
眼明らかなれば 途に触れて皆宝なり
                   弘法大師空海『性霊集』

自分が落ち込んでいたり、まわりの人たちを信用できなかったり(その根本は自分を信用していない事でもある)、そんな時には何事もマイナス捉えて否定的に見たり、すべて敵に見えたり、価値のないつまらないものに感じたりするものです。
それは自分で「そういうものだ」と決め付けているから、そう見えてくるのです。
ものごと、まわりの人たちの本当の姿・本質・心の清らかな部分をしっかりと見ようと心がけていれば、徐々にマイナスの捉え方が妄想だったと気づき、それぞれの本当の価値の高さや深さに気づき、自分のまわりは宝の山だったのだと気付かされる時がきっと来ます。
人間のみならず世界全体のすべての本質は、輝くばかりの仏性・無垢の一大生命以外ではないのです。



法話

物事を「良い・悪い」と分別して見ることは、日常生活では大切ですけれど、その本来の姿・本質においてそのような見方は決して正しくはありません。良い悪いという区別は、我々が自分の都合や感情で勝手に損得・好き嫌いで区別・差別しているだけのことです。

この世の中・宇宙・私たちのいのち・存在というものは、すべて海と波のようなものである。
私たちは海を見ろと言われても、実際に見ているのは海そのものではなくて、海の表面に出ている波しか目に入らない。全体を見ているようで、実際には表面的な波しか見えていないのです。

私たち自身、目に見えるこの世界、損得や好き嫌いで区別しているこの世界というものは、すべて波。
波には色々な形があり、区別ができます。大きな波、小さな波、いい形の波、悪い形の波…自分という波、他人という波、自分という波を助けてくれる波、妨害する波。
私たちはそういう表面を見て、そういう波の中で右往左往して生活しているものです。

しかし、存在の本質、私たちの本当の性質というものは、海。大きな海から、私たちは生まれ、本当はそこにつながっているのが正しい姿。
波というのはあくまでも風…無知・迷い・煩悩という風が波を立たせている。私たちの心・いのちの奥底をしっかりと見ていけば、すべて海であることがわかります。
思えば、波と海の境目などありません。波を作っている「水」というのは、常に海と循環して常に新しい水です。

自分自身、他人、世界すべてが本当は海であり、今生きている間だけ波という状態であるのだと本当に知れば、差別や憎しみというものもなくなる筈です。
その心・理想をしっかりと持たなくてはならない。

にも関わらず、人は自分という波を「これが私だ」とガッチリ固定化しようとして氷のように固まってしまう。氷のように波を固めてしまうと、海とひとつになれない。自分が大きな海そのものと本当はひとつであることが感じられない。他人と自分とのいのちが本当はひとつであると信じられない。
水と氷も、もともとの本質は同じものなのに、別のものに考えてしまう。
そこに孤独や敵対、執着や妬み、憎しみ、怒りというようなマイナスの感情の原因がある。
そういう目で世界を見たら、すべて「禍」になってしまいます。

やわらかな水の心、自分という波は海と一緒だ、みな一つところから出て繋がり、本質は同じひとつのいのちだと信じる目で世界を見れば、すべてが光り輝く宝となります。

もちろんそうは言っても、心からそう考えて感じることは難しいことです。自分かわいさ、生活のこと、自分だけ損するのではないか…というような気持ちが出てくることは、人である以上は避けられません。
それはそれで、仕方がないし、どうしようもない。無理にそういう気持ちを押さえつけても、解決にはなりませんから。

そういう「悪い心」は、それはそれとして認めていいと思います。
ただ、「もうこれでいいや」とそこで立ち止まるのなら、そこまでのこと。そうではなくて、あくまでも理想は海と波の状態、ひとつの海でつながっていると信じるのが理想だなと、それだけは忘れない。その心に一歩でも近づく、ゴールを意識するだけでも、まったく違ってくる。優しさが出てくる。

商売などしていても、売り手と買い手、生産者と消費者など、どうしても「私とあなた」の関係が普通になってしまうと思います。対立しているわけではないけれど、こっちとあっち…という、区別してしまう考え方が出てくる。
それは当然のことで事実でもあるけれど、そこで止まるのではなく、同じ人間として、同じ社会を作っている者同士、同じ世界と時代に生きているもの同士、おなじひとつのいのちを分かち合って生きている者同士、いかに和合して互いに幸せに共同体としての心をつないで生きていけるのか、そこをしっかりと考えて踏まえて、すべてがいい方向に向かって歩いていけるような仕事をしていただければ、それが仏教的な仕事、本当の人間の仕事になると思うんです。
社会を豊かにする、経済発展する、イノベーション、進歩改革…すべて必要なことです。社会の矛盾や貧困をなくす活動も大切です。しかしその理念・背景には、必ず和合・一致の心が必要です。それがなければ、どうしても対立・格差・孤独の原因になりかねません。

皆様それぞれの立場がおありでしょうが、それぞれの仕事や生活を通して、仏教、人間の生き方というものを周囲に示して頂ければ、自分の周りからどんどんと明るく、いい流れが出てくるでしょう。色々な波と、大きな海がひとつのものとして調和した社会に少しずつ進むでしょう。
そのひとつの源になれるよう、互いに頑張って参りましょう。
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禍と宝

2013年05月09日 | 弘法大師聖句
心暗きときは 即ち遭う所 悉く禍なり
眼明らかなれば 途に触れて皆宝なり

                   弘法大師空海『性霊集』


自分が落ち込んでいたり、まわりの人たちを信用できなかったり(その根本は自分を信用していない事でもある)、そんな時には何事もマイナス捉えて否定的に見たり、すべて敵に見えたり、価値のないつまらないものに感じたりするものです。
それは自分で「そういうものだ」と決め付けているから、そう見えてくるのです。
ものごと、まわりの人たちの本当の姿・本質・心の清らかな部分をしっかりと見ようと心がけていれば、徐々にマイナスの捉え方が妄想だったと気づき、それぞれの本当の価値の高さや深さに気づき、自分のまわりは宝の山だったのだと気付かされる時がきっと来ます。
人間のみならず世界全体のすべての本質は、輝くばかりの仏性・無垢の一大生命以外ではないのです。
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水と氷

2013年05月07日 | 東亜仏典の言葉
仏と衆生とは、水と氷のごとし
                抜隊得勝(1327-1387)

抜隊得勝は南北朝時代の臨済宗向嶽寺派祖。
ここでいう「水」とは仏・真如・世界いっぱいの大きないのち。「氷」とは私たちの迷いの心・分別心・個々別々のいのち。
清らかな仏のいのちと、三毒に汚れた私たちのいのちは、とても同じものとは思えないけれど、実際には水と氷のようなもので、本質は同じ。ただ、「私が~・お前が~」という分別の心で自分自身を区切って固まってしまい、己が氷のように形作られてしまうと、自由自在でやわらかな水とひとつになれない。
氷である己は「私は水と違う」「あの氷とこの氷は違う」「私という氷は立派だけれど、あの氷はみすぼらしいな」などと妄想して上下差別をつけるけれど、仏の智慧と慈悲を受けて学び、実践するうち、己という氷は徐々に融けていく。融けてしまえば、ただ水ひとつ、海ひとつ。
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