प्रज्ञापारमिता

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大乗とはなにか

2013年04月09日 | 仏教・思索
大乗とはなにか。
よく、大乗と小乗という対語のように言われますが、必ずしもこのふたつの言葉はセットではありません。

もちろんセットで使われる場合もあります。その場合の大乗というのは、いわゆる「小乗仏教」に対する「大乗仏教」という意味となります。歴史的には紀元前後のインドにおいて発生したものが大乗であり、小乗というのは部派仏教のことを指しています。
これは、出家比丘のみではなく、広く衆生全体が悟りに至ることができる教えであるので大乗である、という謂です。
気をつけるべきは、その時に「救いが限定されたものとしての小乗」として指されるのは、主に説一切有部や経量部などである、という事です。当時、新興の大乗仏教と主にバッティングしていた部派のことです。当然、帰るべき原点としての釈尊や原始教団のことを小乗と言ったわけではなく、現在の南伝仏教のことをそのまま指しているわけでもない、という事です(もちろん「南伝仏教は小乗ではない」とも言っていません。当時の大乗仏教とはあまり関わっていなかった…ということでしょう)。

上記の場合の「大乗」というのは結局、「小に対する大」であって、相対的なものです。
それはそれで、歴史的な用語であって尊重していくべきものだと思います。

ただ、私の拠って立つ「大乗」というのは、上記とは意味合いが少し、違います。
大乗という言葉そのものに意味があり、小乗という対立要素は無用・無関係の概念です。

では、私の言うところの「大乗」とは何か。
それは、『大乗起信論』に示されるところの、「大乗」です。

まず『起信論』において、大乗というのは法と義のふたつの見方があるとします。法体とその義理、ということです。

まず、法つまり大乗の体とは何か。それは「衆生心」である、この我々の「この心」である、ということです。
この心にこそ、世間・出世間のすべてが込められているので、「この心」の本質は決して無常なる刹那滅の妄心ではない、ということです。しかし現実の「この心」は妄念そのものにしか見えない。これをどう考えるのかという点で、『起信論』は心真如と心生滅の二門を立てて立論していくわけですが、いずれにしても真実の法の体とは、真如であり、これが衆生心「この心」の本質である、ということになります。

ではどうしてこの衆生心がことさら「大乗」と呼ばれるのか。その意味・義理について述べるのが、「義」の見方です。

まず「大」というのは、この心が三大の義理を持っているからです。
三大とは、体大・相大・用大の三です。

体大とは一心・心真如そのもの、不増不減の言語道断の法体それそのもののことです。主客不二にして遍ぜざるところないので、「大」と言います。絶対門です。

次の相大というのは、如来蔵に無量の性功徳があることを言います。如来蔵とは妄念そのものに見える衆生心が実は、真如にほかならないという点を述べたものです。波が妄念、海が真如だとして、如来蔵とは波は海と別のものではなく、風やめば海と不二である、その事態を指すものです(因みに阿梨耶識とは、波立つ海全体を示す真妄和合識のことです)。
注意すべきは、波の存在を考慮した上での海について述べるのが如来蔵で、波を度外視して海そのものを指すときは、それは真如それそのもの、です。
この如来蔵には無量の性功徳、つまり法体に立脚した功徳がすべて不空に備わっている点を、「大」と言います。相大です(どういう功徳かという具体例については、解釈分の三大を説く部分に示されますが、長くなるので割愛)。これは体大の如き絶対門でなく、相対門です。

用大。これは前段の性功徳の顕現たる活動のことで、善の因果を生ずるものである点で、日常凡夫の活動とは違う点を「大」と言います。

次に、大乗の「乗」というのは、過去の諸仏、現在また未来の菩薩はすべて以上の「大」の教えを信じて実践し、この教えに「乗って」成就したのである、という事で、これら体・相・用の「大」とあわせ、以上の内実を含むものをこそ、真実の「大乗」と言います。
逆に言うと、この内実を保持しないものであれば、「歴史的な大乗仏教」であったとしても、それは「大乗」に値しません。逆に、「歴史的な小乗仏教」であったとしても、もしこれらの内実を保持する者があれば、彼は正しく「大乗の徒」と言えます。

以上が、「大乗」という言葉の意味であります。
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花祭りに寄せて

2013年04月07日 | 仏教・思索
時の経つことはとても速く、過ぎ去った時も振り返ればあまりにも短い。しかし、この短い私のいのちは、とてもとても大切なものであり、また死んでいくということも自分にとって、そして私自身そのものである世界にとって、重大な意味を持ったことである。

  ひさかたの ひかりのどけき 春の日に しづ心なく 花のちるらむ
                                  ―― 紀友則(古今集84)


花はいのちの象徴。
時の止まったような、幸福な、のどかな春の日(=私たちの生活)。しかし桜の花は次々に急ぎ散っていく(みな亡くなってゆく)のは、どうしてだろうか…。

  花びらは散る 花は散らない 形は滅びても 人は死なぬ
                                ―― 金子大栄


花に込められたいのち、時が来れば散り、また縁が廻れば咲く、いのちの絶えることない循環を示す花。死ぬこと、散ることは終りではなく、いのちの循環。無常とは、散ることであると同時に、また咲くということでもある。
人は花、宇宙は花、いのちは絶えない。ただ、変化している。そして変わらぬ幹がある。すべては幹から生まれ、そこに還り、そこで繋がっている。花びらは散る、しかし幹には永遠の花がある。それが仏のいのちであり、わたしたちのいのちである。
花びらは身体。花はいのち。いのちはすべてを貫き、そこには死なく生もなし。
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