प्रज्ञापारमिता

𝔇𝔥𝔞𝔯𝔪𝔞 𝔗𝔞𝔩𝔨, 𝔅𝔲𝔡𝔡𝔥𝔦𝔰𝔪, 𝔗𝔥𝔦𝔫𝔨𝔦𝔫𝔤, 𝔞𝔫𝔡 𝔱𝔥𝔢 𝔚𝔬𝔯𝔡

大人の古典

2013年03月31日 | 閑話休題
大人の古典…と言っても、当然エロ方面の話ではありません(笑)
大人になってから古典文学をもう一度ちゃんと読みたい…と思った時、どういう手順で古典に近づくか…という問題について、です。

正直なところ、いまさら助動詞の活用表を丸暗記して古文単語を500ほど憶えて…という気力は、ないですよね、普通。私もありません。
そもそも目的は設問を解くことじゃなくて、「古典を読むこと」です。
第一、仮に忘れていたとしても、高校時代にある程度は古典文法をやってるわけですし、受験生みたいにガツガツ「勉強」する必要はないでしょ、と。
そう思いまして、私なりの「古典再入門」手順を考えました。

まず「おまじない」として、ちくま学芸文庫から出ている小西甚一『古文の読解』を二回、読む。二回読めば、ある程度は色々と思い出します。私はこれでだいぶ、思い出しました(笑)
もちろんこの本で文法事項のすべては網羅していません。きちんと文法やるなら普通、洛陽社『古文研究法』にでも進めばいいのでしょうが、まぁ、古典を楽しむにはその必要はないでしょう。やって損はないでしょうが、気力が続きません、きっと。
ですので、さっそく読み始めましょう。

テキストは、新潮社の日本古典文学集成。小学館でもいいんですが、値段を考えたら新潮社で良いと思います。版も小さくて持ち易いし、赤字で現代語訳ルビが要所に振っているので、サクサク読めます。
これを、江戸時代から時代を遡って読んで行く。間違っても古事記・万葉集から始めない事。西鶴や近松からいきましょう。
読む時には、現代語と古文をちゃんと比較しつつ、「ああ、こういう言い方をするんだな」ということをちゃんと意識して読んで行く。そしてひたすら、読む。暗記などしなくて結構、ただし、全文ちゃんと読む。そして全巻、読む。もちろん古典常識的な素養も大切ですから、並行して新書や文庫を利用して、知識を入れていく。

多分これだけやれば、全巻読破する頃には、ある程度の「勘」は養成されているのではないかと。多分。まだ私は全巻とても読めていないので、希望的推測ですが…そうすれば、次は岩波文庫あたりから出ている現代語訳なしの各種の古典原文も、それなりに読めるようになっている…ような気がします。なっていて欲しい。


結局なにが言いたいかというと、最近、新潮日本古典文学集成を古書で全巻、揃いでまとめて買ってしまったという事を言いたかっただけです(小学館は高過ぎて、買うのを断念しました)。
将来、注釈なしで和歌を楽しめればいいなぁ…というのが、私のささやかな将来の夢(笑)
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高野山

2013年03月31日 | 時事関連
高野山真言宗で「事件」続出です。
本山の運用失敗にはじまり、鹿児島の寺院による総連ビル買収問題、住職が実母を刺し殺す…等々、なんともやり切れない事件がマスコミ報道に乗ってしまっています。
まぁ、最後の事件は個別の事案ですからともかくとして、最初のふたつは非常に問題です。本山・宗派としての体質の問題にも関わることですから。

私の自坊は真言宗御室派ですから他宗派の事と言えばその通りなのですが、私自身には高野山真言宗僧籍もありますし、高野山大学、真別処などで長年お世話になった宗派でもありますから、何か意思表示をしないといけないだろうな…と思ったので、フェイスブック上で縷々、意見を述べてまいりました。
それに、日本仏教という括りにおいては、いかなる宗派であっても僧侶である以上は無関係ではありません。信頼の失墜、日本仏教の宗門の体質問題という点では、ある程度はどこも共通した「闇」を抱えていると思います。壇信徒から見れば、宗派というよりは「坊さん」として同一視されることは避けられませんし…。

と。

そんなわけでネット上でも発言はしていたのですが、正直、ここ数日は「アホらし」くなって来ました。どうも私が問題だと思う部分と、他の僧侶の方が問題だと思うところがズレているように感じますし、それ以前に、一般の方からの(揶揄中傷も含め)意思表示は散見されるのですが、一連の事件に関して僧侶サイドはほとんど重大視していないような雰囲気、「他人事」のような雰囲気が感じられ、もはや私が何を言おうとどうしようもないのかな、と。
…もちろん元々、私みたいな末端の凡僧の発言など何の影響力もないんですが(笑)

それにしても、再来年の高野山開創1200年は大丈夫なんだろうか。
うちでも団参をやってみようかと内々で計画していたんですが、あまりにも事態が改善されないようだとやめようかな、とも思っています。そういうこともあり、取り敢えず、高野山については暫くは生温かく事態の推移を見守りたいと思います。

まぁ今のところ、私としては日日の活動を地道に続けていくだけだと思い、今まで以上に真摯に、仏教そのものに向き合いたいと思っています。そこが基本ですし、多分、そういう基本を忘れて世間に迎合したり、僧侶を何か「エライもの」と勘違いしたり…そういう所からボタンの掛け違いも出ているのではないかと思いますので、私自身、もう一度ちゃんと仏教そのものに迎えているのか、自己点検してみたいと思っています。

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清水寺観音御歌

2013年03月25日 | 仏教・思索
何か思ふ 何をか嘆く 世の中は
           ただ朝顔の 花の上の露
  (新古今1917)  

コメント不要。
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法話構想中

2013年03月25日 | 仏教・思索
3/29の土砂加持法会の法話を考えています。
今回は釈教歌を使ってみようかと思っていくつか見ています。金槐和歌集が好きで、またわかり易い歌が多いのでいいかと思ったんですが…なかなか「これ」というものに出会えませぬ。いい歌はたくさんあるんですがねー…。
そこで目先を変えて新古今和歌集から、二首ほど候補を。


思ふなよ 憂き世の中を 出ではてて
           宿る奥にも 宿はありけり  ・慈円



これは法華経の化城喩品を歌ったもので、まぁ、法話としては使い易いかな、と。「生活の中で信じている事がらは多々あるけれど、自分でひとり合点したものはまだまだ浅いかも知れない。自分にはまだわからない、もっともっと奥深いものがあるんですよ」と仏教には示されています…それは…という展開。それは…の後がメインになるので、歌自体は枕で使う感じになっちゃいますが…。


雲晴れて むなしき空に 澄みながら 
           憂き世の中を めぐる月かな  ・寂然



これは素晴らしく美しいんですが、使いにくい…でも使いたい。
さっきちょうど空を見上げたら月が綺麗だったから使いたいと思っただけですが(笑)

しかし、歌メインで法話を組むのはちょっと難しいかなぁ。「バシッ」と決まらない。
ブックオフで大量購入した坂村真民の詩を使った方がいいかなぁ…。
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涅槃とは

2013年03月20日 | 仏教・思索
・質問

涅槃とは何ですか?
何もなくなるということですか、何らかの超越体験というものでしょうか。

・答え

大乗においてはアラカンの覚りは小乗であり、理想とするところではありません。あくまでも成仏が目標になります。
ただ、ブッダは最終の目標であり、すべての者がブッダの自覚に到達しなくてはならないので、そうでない以上、我々は菩薩として娑婆世界において働き続けます。ですので、アラカン的な灰身滅智の涅槃は求めません。
宮澤賢治の「世界ぜんたいが幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」
弘法大師の「虚空尽 衆生尽 涅槃尽 我願尽」です。
涅槃そのものも尽きてしまって後、はじめて菩薩の誓願が尽きます。
ですから、「超越体験」というものの指示内容が不明で何とも言えませんが、少なくとも本質は、菩薩行に集約されます。
ただ、菩薩にもふたつあり、凡夫の菩薩と聖者の菩薩があり、華厳経の十地などにそのひとつの典型がありますが、いずれにしても、大乗においては菩薩の居場所は、この娑婆世界です。

更に言うと、大乗においても特に如来蔵思想に立脚する流れの場合、ブッダの観点からは、覚りも迷いも同一の地平です。自覚の有無の問題であって、本質的には宇宙全体は最初から最後まで一法界で、私たちも実際には三世にわたり、既にブッダです。
ただ、いくら銀行口座に大金があっても、その存在を知らなければないも同然ですし、あることを知っていても引き出し方がわからなければ、絵に描いた餅です。大乗の修行とは、お金の下ろし方を知る為のものであり、カネを貯めるのが修行ではありませんので、ことさら「新しい真理を獲得する」「凡夫からブッダに変化する」というものではありません。
既に、本質的に必要なものはすべて持っています。
ですからキャッシュカードをしっかりと持ちながら、敢えてそれを下ろさずに、娑婆世界で生きているのが、本当の意味での菩薩ということになります。

で、利他の対象がすべてなくなってしまった時(衆生尽)、世界ぜんたいが幸福になった時、その時、菩薩はすべての貯金をおろしてブッダになります。
ただその時には宇宙ぜんたいすべてブッダ・法界ですから、もはやブッダも涅槃という概念も必要ではありませんよね(涅槃尽)。主客不二の一大法界「のみ」です(虚空尽)。これが究極の大般涅槃(我願尽)です。

あらゆる「超越体験」というものは、上記の誓願に則ったものでなくてはなりませんので、自分ひとりの問題として涅槃を求めたならば、それは小乗と言わざるをえません。
もちろんある種の体験が菩薩行にとって必要ではありますので、そのこと自体は否定できませんし、してはなりません。しかし、それに耽溺する、惑うのであれば、体験はないほうが良いです。
仏語を信じて、コツコツと地味に六波羅蜜を意識して生活するに勝る道はないですから。
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新編 日本古典文学全集

2013年03月17日 | 閑話休題
小学館の『新編 日本古典文学全集』(全88冊)が欲しいなぁ…と、以前から憧れの全集なんですが、古書でもだいたい30万円前後するようです。新刊だと40万円を軽く超えます。
この全集は新潮の古典集成と並んで、とても読み易いんです。岩波のほうは訳なしの原文・注釈のみで本格的に過ぎて、古文解釈に十分な力があるとは言えない私にはちょっと難しいところがあります(説話や軍記は問題ないですが、日記文学と和歌がキツい)。
岩波(全100巻)の方は古書だと安いんですけれどねぇ。
バラで買おうにも、全巻揃いで安価なものが見つけた場合が怖くて買えない(-_-;)

それにしても、日本の古典はやっぱりいいなぁ。リラックス効果がある。
仏典は真剣勝負というか、それなりに気合を入れて読むのでちょっと疲れてきますが(嫌な疲れではないですよ)、合間に読むには日本の古典文学に勝るものはないですね。高校時代に曲がりなりにも親しんで来た甲斐があります。当時は文法嫌いで古典は敬遠気味でしたけれど、環境的にやはり普通の高校生よりは親しんでましたから、今になって効いてます。
南高校国語科に感謝。

それはそうと、『新編 日本古典文学全集』、誰か10万円くらいで譲ってくれないかなぁ。10万円なら頑張って出せますが…さすがに30万円はちょっと…。
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存在の根っこ

2013年03月17日 | 仏教・思索
TPPでニュースも喧しいですが、経済発展がそのまま幸せに直結すると信じられた時代は既に過ぎ去った、否、過ぎ去ってはいないですが、もう終わらせる時代になっているのではないでしょうか。

日本は確かに戦後、豊かになりましたが、果たしてどれだけ幸せになったでしょう。

思えばかつても、大正時代に戦前の豊かさのピークが来たのですが、明治維新以来、功利主義・洋化主義で日本が失った豊かな精神性や文化伝統は甚大でした。戦後の発展は明治維新以来の「日本の屍」の上に築かれています。
確かに貧困は解消していく必要がありますけれど、しかし際限のない物質的発展に伝統的精神性を引き換えるのは、愚かです。物質的豊かさ・経済的豊かさの狂想が過ぎてしまえば、残る者は空虚なモノの山と通帳の残高。それらが魂の渇きや深い自己肯定を齎すでしょうか。

たとえば中国やインドを見ていると、かつての日本と同様、どんどん何ものかが失われているように思います。東南アジアも同様でしょう。
息苦しくないですか? 
成功至上主義、他者の評価が自己評価と同化した経済原理主義的社会に否応なく巻き込まれる生活は、世界各地でもう限界に来ているように思えます。
適切な経済発展は良いことです。生活の向上も良いことです。
ただそれは、言い古されていますが、第一に「持続可能であること」と、私たちの祖先が築き上げてきた伝統や人類文明、とりわけ世界各地の多様な精神性の継続が前提です。

そもそも私たちの存在の根っこは、どこにあるのですか。自身の生死の前後に想いを馳せずに多寡が数十年のスパンで自己世界を完結してしまう愚…「人はパンのみで生きるにあらず」という言葉を今一度、しっかりと考えたいものです。
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書店について

2013年03月16日 | 閑話休題
久々に山陽小野田のブックオフに行きましたが、まだ持っていなかった学術文庫版の『伊勢物語』『とりかへばや物語』『とはずがたり』がそれぞれ全巻揃いで置いてありました。もちろん即買い。いい買い物でした。
四六版より文庫のほうが読み易いですし、古典系は岩波文庫よりも正直、学術文庫の方が楽に読めますからね(学術文庫には、できたら『金槐和歌集』を出して欲しい。新潮の古典集成と岩波文庫を持ってるんですが、集成は持ち運びに重いし、岩波文庫はちと読みづらいので)。

あと店頭には『源氏物語』も全巻揃いであったんですが、大塚訳と谷崎源氏でいいかな…と、こちらは買わず。『古事記』も揃いでありました。小野田のブックオフは意外に山口市内のよりも品揃えがいつも良いんですよね(あくまでも比較的に)。
ただ、仏教書や宗教書はダメ。ブックオフはどこもダメです。山口県だからか、幸福の科学ばっかり。うんざり。新刊書店の宗教書コーナーも大川隆法が圧倒的に多い(あと小池龍之介か)。創価学会より断然、多い。キモチワルイ。

古書店も新刊書店もまともな仏教書があまり並ばないので、結局、ネット通販になります。

町の書店が潰れるのはネットのせいだ…と言いますが、どこもかしこも似たような浅薄な品揃えで魅力がないんだから、そりゃ仕方ないですよ。山口の書店は本当にひどい。半端な規模の地域チェーン書店がいっぱいあって、どこも品揃えが一緒。そして文房具コーナーがどんどん拡張され、文庫や新書・専門書はどんどん削られ、残るのはマンガと参考書と雑誌と実用書とディアゴスティーニばっかり。
半端な店を廃して大規模な書店に集約し、中心地にでもどーんと店を作ればいいのに…と思うのですが、どうも昔の「のれんわけ」的経営の結果が現在の状況だったりするらしく(明●書店は知らんけど、文●堂はそうらしい)、色々と難しいらしい。
だったらせめて、色々と店ごとに品揃えに特色を出せばいいのにね…。

まぁ、もはや山口県の書店にはまったく期待していないので、基本的にはネットで買いますけれどね…本当はやっぱり、書店で買いたいのは山々。北九州や大阪に出た時は本当にワクワクします(笑)
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日本の産業

2013年03月15日 | 時事関連
インタビュー:日本に必要なのは産業政策ではなく競争=楽天社長

最初に言っておきますが、私は楽天やユニクロの企業理念は嫌いです。グローバルスタンダード企業と根なし草無国籍企業は違います。百歩譲って、そういう理念の企業があることは認めたとしても、それを日本文化・日本社会全般にまで当てはめて考えているらしいのには、断固として反対します。
社内英語公用語化(笑)など論外で、人類文明・歴史・伝統文化への冒涜でしかありません。豊かな文化、豊かな人類史のありかたというのは一色で塗りつぶされた全体主義ではなく、多様な文化・歴史・伝統が共存し、大小様々な世界各地の独特な遺産や思想がそれぞれ維持発展される、共存共栄と相互理解の世界です。
少なくとも、そこに向かっていく意思を共有した世界です。

で、この記事。

三木谷社長
「日本人は、強いところをさらに強め、弱い産業は断念して他国にまかせることが必要だと気づくべきだ」


最初に述べた事は、伝統的な文化思想や生活・習慣のみならず、産業にも共通することです。そもそも産業というのは、それぞれの国の生活や歴史に深く根ざして形成されて来たものです。その最たるものは農業ですが、農業に限らず様々な製造業や伝統産業など、経済効率だけで推し量れるものではありません。
弱肉強食とカネ勘定だけで生活を回している人にはわからないかも知れませんが、人類が人類である以上、それ以上に大切なことは山ほどあるものです。伝統や精神文化というものは、そのひとつです。カネにはなりませんが、人類のレーゾン・デートルそのものです。

もうひとつ、実利的・国益という観点からも、三木谷氏の考えは間違っています。
自国内で極力、多様な産業基盤を確保していないと、有事の際にはどうするつもりでしょう。日本が戦争になった時…というだけではありません。有事はどこでも起こり得ますし、現在でも世界各地で起こっています。
近い将来、必ず中国や朝鮮半島は混乱する時期が来ます。アラブやアフリカは相変わらず不安定です。東南アジアは今は好調ですが、民族問題や人権問題、格差や環境問題、対中国問題を抱えています。ロシアやインドも同様です。国情が絶対に将来も安定している保証はありません。欧米も過日の勢いはなく、自由貿易という看板の下にブロック経済化しつつあります。
そういう情勢にあっては、それぞれが自国で自国を維持できる体制を整備するのが当然の選択であって、海外に依存する度合いを高めるというのは危険に過ぎます。一旦つぶした産業が復活するのは、容易ではありません。リスクを海外に依存するということは、日本の外交力の衰退に直結します。そんなことをして得をするのは、目端の効く政商や「グローバル企業(笑)」だけ。しかしそれも一時のことです。

防衛論争もそうなんですが、基本的には自国で自立してこその対等外交です。民族自決、独立国家です。もちろん現実には完全な自足は難しいのですが、そこに少しでも近づけることは「各国すべてが目指さなくてはなりません」。そういう自立した国家同士が相互に協力し交流し影響し合い発展する。そういう全体モデルを目指さなければならないと思います。
とりわけ食糧とエネルギー、資源。これは他国依存に任せてはなりません。出来るだけ自足レベルに近づけるように努力すべきが、責任ある企業家(政治家は論を俟ちません)の姿ではないでしょうか。
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通夜

2013年03月07日 | 仏教・思索
もともと私の自坊がある地域では、通夜に僧侶は行きません。枕経のあとに僧侶が行くのは葬儀で、通夜は近親者だけで行うのが通常です。全国的にも、かつてはそういう地域がほとんどだったと思います。
が、地区の寺によっては通夜に行くところもあるようです(私の場合、会館で通夜をする場合は行くことが多いですが、当地区では今でも通夜の九割以上は自宅でやります…もちろん「通夜に来てほしい」という希望があれば、自宅でも伺いますけれども)。
時代が変わって来た…という事なのでしょうが、私も悩みどころです。
個人的には「古式」を守るということには意味もありますし、通夜は家族親族で地域の方とともにゆっくりと行う…という習慣は大切なことと思うのですが、昔と違って葬儀ではなくて通夜のほうが参列が多い、というケースも出てきて、どうしたもんかなぁ、と。
通夜を儀式ばった「通夜式」などにしてしまうと、「その時間だけが通夜である」と誤解を招き、本来の意義が薄れてしまう危惧もありますし。
「通夜には参りませんので」と枕経の時に言うと、「楽してるだけじゃないか」と悪く取られるケースも徐々に増えつつあり、困ったことです。説明はするのですが、どうもうまく伝わっていないような…。

ま、法話をして伝道する機会としては通夜は葬儀よりもやり易いですし、そういう意味では通夜も悪くはないのですが。
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