प्रज्ञापारमिता

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投資…

2013年02月27日 | 時事関連
以下のニュース、どう思います?

私の寺は真言宗御室派で高野山真言宗ではないのですが、僧籍は高野山にもありますし、そもそも得度も加行も高野山、大学も高野山大学ですから、他人ごとではありません。
また、この問題はひとり「高野山真言宗」ではなくて、他の諸派、他宗にとっても同様の事と推察します。たまたま今回、高野山真言宗がニュースになりましたが…。


高野山真言宗、6.8億損失か お布施など運用に失敗

【渡辺周、上田真由美、山野拓郎】
空海(弘法大師)が開創して約1200年の伝統を持つ宗教法人の高野山真言宗(総本山・金剛峯寺、和歌山県高野町)が、資金運用に失敗して少なくとも6億8千万円の損失を出していたことが、関係者の話でわかった。約3700の末寺から集めた檀信徒からのお布施も含まれている。
26日に始まった宗派の議会にあたる宗会には、宗会議員を務める僧侶35人が参加。庄野光昭宗務総長は、多額の損失を出したことについて「運用が思いにまかせず推移している。無念で慚愧に堪えない」と説明した。
宗会は年2回、全国から宗会議員が集まり人事や予算などを決める。庄野総長は内閣の役割を果たす「内局」トップだ。



まず、宗門に潤沢な資金があるわけでもなく、正直なところ火の車であることは承知です。また、投資している宗教団体は他にもある…というか、カトリックだって創価学会だって、高野山とは比較にならないくらいの投資をしていることも承知です。
そして、投資なくして資金繰りも難しい…という事も、想像します。

その上で。

私は、仏教宗門・仏教寺院が投資・運用することには、反対です。

銀行に放り込んで利子がつく分くらいは仕方ないですが(利子分は寄付するとか社会福祉に充てるとかすればいい)…。
宗門の維持にカネがかかることは認めます。昔と違って国が丸抱えしてくれるわけでもなく、東南アジアみたいに国家の優遇措置があるわけでもない以上、組織維持は世俗の延長線上にあらざるを得ず、従って資金も必要である。それは当然、わかります。
ただその場合であっても、その資金は基本的には布施の範囲内で賄うべきであって、それじゃ足りないというのであれば、全体の規模縮小もやむを得ない。仏教の団体であれば、そのくらいの覚悟と言うか割り切りは必要かと。
そのせいで高野山真言宗が弱体化したり高野山大学が潰れたりしたとしても、それは「そこまで」のものだったと。この点では「原理主義」を押し通すべきです。
弘法大師以来の伝統を弱体化させるに忍びない…のであれば、投資じゃなくて布教伝道して信徒を増やしましょうよ。そっちが本筋でしょう。また、宗門隆盛の証が土木工事・建設工事であるかのような風潮もいい加減、やめましょうよ。

「運用が思いにまかせず推移している。無念で慚愧に堪えない」

こういうコメントは悲しい。
無念で慙愧に堪えないのは、運用の失敗ではなくて、仏様に捧げられた布施・仏教伝道のための浄財をバクチ同然の資産運用に投下することに対して何の疑問も抱かない宗門の見識です。
末寺で「少欲知足」だの「カネや地位よりも大切なことってありますよね」と説法している私たちの立場もなくなります。宗門が末寺の真剣な伝道を「二枚舌」のように宣伝してどうするんですか。「布施は六波羅蜜であり修行徳目、喜捨であり、功徳であり、財施は仏道の為に使われるものです」といったその布施が、高リスク投資で損した…なんて、一般の人にはどう見えるんですか。私たちが仏法を説いても、そりゃ冷やかな目で見られますよ。私が一般人でこのニュースを見たなら、キレイ事を抜かしている田舎坊主の戯言など今後は冷笑して見ますよ。
寺院・僧侶は、一般レベルの倫理で満足していては、決してダメです。世俗内の単なる儀礼機関に過ぎなくなります。存在意義がなくなります。

時代遅れと言われようが、非効率と言われようが、その行為が伝道を妨げるものであれば、それは避けるべきです。布施によってサンガ(それが菩薩ガナであれ)が成立するという原則を謳うのであれば、布施の範囲内ですべて決済すべきです。
それがどうしても無理ならば、布施に手を付けるのではなく、事業をすればいい。まっとうな事業で資金を確保するほうが、布施を高リスク投資に回すよりもよほど、マシです。

本山に毎年何十万円も「上納」をしている末寺の信頼を、裏切らないで欲しい。そして宗門が壇信徒の信頼を失墜させる行為をしないで欲しい。まじめに、施設など粗末で慎ましくても一心に行学研鑽をすれば、必ず仏天の加護はあります。人力だけで何かをしようとしないで欲しい。
伽藍残って仏法滅ぶ、貯蓄増えて信徒減る…これだけは、避けなくてはなりません。2500年の仏教伝統、1200年の真言宗伝統に対する責任でもあります。

私の行っていることは、「キレイゴト」です。ですが、理想を説く宗教者が「キレイゴト」を捨てて現実対応だから仕方ないと割り切ってしまって、いったい何が残りますか。そんな宗教など、私は無意味だと思います。
誰に何と言われようと、現実には色々あったとしても、「キレイゴト」に向かって進んでいく気持ちだけは捨ててはならないと、私は思います。
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書斎の机

2013年02月23日 | 閑話休題
書斎…というか、書庫と言ったほうが正確かも知れませんが、そこに机と椅子を置いているのですが、ほとんど利用していません。どうも椅子に座って読むのは疲れる。集中力も続かない。
ので、それらを撤去してコタツにすることにしました。座椅子と。実際、最近の読書のほとんどは、居間のコタツか寝床ですから…。ただ居間も集中には不向きなので、思い切って書斎をコタツに転換しちゃおうという事です。

問題点はひとつ。

地震が来たら、逃げ遅れて本棚の下敷きになって死ぬかも知れません。
床もそんなに丈夫じゃないのに本棚が壁の四方に8本と小型の本棚が他に3本ありますからね(部屋への出入りは本棚の隙間をすり抜けてます)…天井もただ板を載せてるだけですから「つっかえ棒」なんか出来ないし、四方すべて襖と障子だけで壁なんかないし(笑)

耐震対策なんか出来ない構造ですから、もはや「覚悟の読書」です(ーー;)





しかし、増殖を続ける本、どうしようか。
「書庫部屋」は他に2部屋、あと廊下にも書棚を並べてるのですが、多分、数年以内に満杯になるでしょう…いらぬ本は処分したので、あとはそんなに処分できるような本もないし。困った。
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困った人

2013年02月20日 | 仏教・思索
・質問

自分勝手で困った人がいます。不快な言動を平気でするので、見ているとイライラしてどうしようもないのですが、どう対処したらいいのでしょうか。
何を言っても聞く耳も持ちませんし、自分の言動に自覚もないようです。

・答え

まず、「自分が正しく、相手がすべて悪い」と思って対処すると、それは泥沼です。
そういうことは、有り得ません。個々の事象についてはそういうケースがあり得るでしょうが、根本的な「人間性」にフォーカスして考えるのであれば、凡夫である以上、誰であれ完璧な人間などいないですし、善悪は相対的な程度の問題です。
あとは、その状況をどう受け止めて考えるか。そこがポイント。

そこを押さえた上で。

誰も他人は変えられません、基本的には。

本人にその気がなければ、どうしたってダメです。何かの「きっかけ」で自省に向かえば良いのですが、それを期待することも多くは望めないのが、現実でしょう。
釈尊なら導けるかも知れませんが、釈尊ですら限度はありました。 デーヴァダッタは無理でしたよね。そんなものです。
通常の方法で他人を御することは、まず不可能です。自分すら誰も御せないのに…。
…が、そう言うだけでも実りがありません。「私自身」は、この事態をどう考えるべきでしょうか。どう仏教的に対処すべきでしょうか。

ところで。

私も自画自賛と悪口しか言わない人、そういう人に困ったことがあります。
しかもその人は自分に問題があるとはまったく思いもしていないので、たとえば十善戒の話をした時にも、「私は全部できてる」と言って憚りません。

また曰く。
「私は優しいし、誰からも好かれているし、きっと性根がどうしようもなく良いのだろう」「その良い人間がいると、それが気に入らない悪人がいるから、私をいじめる。そんな事をするあいつはどうしようもない人だから、はやく死ねばいいのに」云々。
私が「戒律というのは自分のためであって、他人を裁くためではない」と言うと、「私は自律できているからいいけれど、できていない人が多すぎる。だから私だけがああいう出来の悪い人間に裁かれている。あいつは地獄に落ちるよ、かわいそうに」云々。
まぁ大声で同意を求められるのですが、ホントに往生(笑)しました。

「悪意のない自讃毀他」が身についてしまっている人には残念ながら、何を言っても恐らく無駄です。通じません。悪意がある、自分が間違っているかも…という自覚が多少ともある人はともかく…。
少なくとも、実際問題として、私にの手には余ります。

そういう人に対して、私もまだ仏教を知らない時は本当に腹が立ちました。ただ、今は基本的にそんなに腹は立たないです。確かにイラっとはしますよ(笑) でも、その場だけです(今のところは。とてつもない「怪物」に直面した時にどういう心境になるのか、そこまでの自信はまだありませんが)。
どうして仏教を学んでからは多少、受け止め方が変わったかというと、四苦八苦というのがありますが、誰でもこれからは逃れられない…と学んだからです。
仮に苦のない人生なら誰でも理想的な人格になるはずです。苦があり、それに対する対応を間違うから、どんどん人格が曲がっていく。そして大抵の人は、人格が曲がっています。
私も含めて、ですよ。完全にまっすぐな人はブッダだけです。

だから「こりゃ困ったな」という人を見ると、「あぁ、苦が深いのだろうな…悪縁が多かったのだろうな」と。
本人が自覚していなくとも、確かにそういう人の抱えている苦は、根深いものです。
そういう人に腹を立てても、仕方ないですよ。きっと私も、他の誰かにそう思われている部分があるでしょう。
ですから、その困った人格を「直す」ことは私にはできなくとも、この人はどういう苦を抱えて、どういう生き方をしているのだろうか、なんとか仏教の教えの一端でも、その人の人生に縁つけられないだろうか、小さくてもいいから、意味がなくともいいから、仏法の水の一滴でもかけてあげられれば、と。
そう思うだけです。
これは「私の力」ではなくて、「仏教の力」を信じるからです。法師として仏法を少しでも伝えられれば、機が熟していればその人も何かを感じて、何かが変わっていくかもしれない…。
まぁ、大抵はその過程で、自分自身の至らない部分も同時に見えて来るものですが(笑)

実害があるならば別に具体的な対策を立てなくてはなりませんが、不愉快なだけなら、そういうことだと思います。
どうしても「無理だな、私には」「このまま関わってもどちらもマイナスにしか動かない」と思えば、敬して遠ざける。そういうことです。
遠ざけられない人も世の中にはいるのですが(ーー;)、その場合は、それこそ苦観・無常観・慈悲観を修行するチャンスです。
確かに色々と人間な関係は厳しく、ケースバイケースで一筋縄ではいきませんが、基本的にはそれしかないのではないでしょうか。
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自己肯定

2013年02月18日 | 仏教・思索
如来蔵思想が、無限定で無条件の自己(というよりも、自我)肯定に陥ると、悪い意味での「本覚思想」(私はいわゆる天台本覚思想が悪いとは思っていませんが、行き過ぎる危険性は常に持っているのでは、と思っています。その悪い意味においての、それ)に陥ってしまいます。「(悪い意味での)本覚思想」などというと「そんなの知らないよ」と言われますが、要は「あなたはあなたのままで良い」という、あの微温的で「やさしい」巷の通俗的仏教が啓発本で垂れ流している「思想」のことです。

如来蔵思想というものは、「何かに変化する必要はない、あなたの(そして「認識世界」の)本質が仏陀・真如自体だ」という思想ですが、それは「あなたはあなたのままで良い」ということとは、まったく違うことを言っているのです。ここがわからないと、菩提心も修行実践の必要性も、仏教教学の存在意義も、すべてわからなくなっていきます。

ポイントは、自己肯定と自我肯定の相違です。

絶対的な主客不二の極点を前提とした自己肯定(そこには既に自己否定の介在する余地すらない)と、自他相対の巷に生きる「わたし=自我」肯定とは、次元がまったく違うのです。
もしそれがわからないのであれば、「あなたはあなたのままで良い」ということと「無我=非我」はどういう関係にあると言えるのでしょうか。また、「自灯明」という時の「自」とは何なのでしょうか。それは、「魂」「霊的な意味における個別アートマン」と仏教はどういう関わりを持っているのでしょうか。自己肯定と自我肯定を混同する者は、いつまでも「如来」を「何らかの神格」の変形として拝むだけの「信仰」にとどまらざるを得ないのではないでしょうか(人間崇拝も含めて!)。
自我肯定には菩提心も行も学も不要です。それは、日常的分別心の嫡子です。
しかし自己肯定は正しく、仏道の眼目です。肯定しうる自己など、私たちは誰も生まれてこのかた、想像すらしていなかったのですから。これを「顕現」させるには、(一部の宗教的天才を除く凡夫人には)菩提心と行学が必須です。
そうしてはじめて、肯定するものも否定するものもない、ただただ「ある」…「有無を超えた」「ある」という事態が成就されてくるのだと思われます。その境地を私ももちろんまだ味わったことはありませんが、その世界「認識」の方向性が正しいという「信」を持っています。細かい教学など以前の、全体的直感と言いましょうか…。

いずれにせよ、このような「仏教」が本筋だと、私は考えています。
「あなたはあなたのままで良い」。然り。本質論としてはその通り。しかし、現実にはそれでは迷いの分際にあり続けるのみで、苦海に沈む分断された自我はいつまでも漂流して、繰り返し溺れ死に、また苦海に生まれてくるだけなのです。
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再起動

2013年02月15日 | 閑話休題
色々と思うところや諸々の出来事があり、ちょっとスランプではあるのですが、明日からはまた新しい気持ちで、仏道に邁進したいと思います。やはり私にはこの道しかないと思っているのですが、どうもここ暫くは慣れというか弛みというか、行も学もルーティンになってしまっていた部分が、正直なところあったと思います。また日常の色々なことを手前勝手に合理化している部分も。
こういう「気の弛みと甘え」が一番、仏道を歩む足を腐らせるところなんでしょうから…気持ちを新たに、また六波羅蜜を意識して、得度した頃の自分を思い出し、精進して参りたいと思います。
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五根の応用

2013年02月11日 | 仏教・思索
仏教では五根といって示されるものが、ふたつあります。

ひとつは「眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根」で、感覚器官です。これは有名ですが、もうひとつ、覚分法としての五根というものもあって、それは「信根・精進根・念根・定根・慧根」です。これは信力乃至慧力の達成の根拠となる能力のことですが、実践上とても大切なものです。

とりわけ意識すべきなのが、その順序です。

まず、仏陀に対する正しい信があってはじめて迷いのない修善の努力精進が可能になります。そうすれば仏説を記憶・憶念する力も十全に発揮され、平等心に基づいた不執着の一境集中の禅定力も身につき、苦の滅尽と菩薩行の両立した仏智へ至ることができるようになる…わけです。必ず、この順序です。
また、「慧根」があれば他の四根は自然に備わるために、とりわけ「慧根」が大切にされるのですが、足場がなければ家が建たないように、他の四根なくして慧根はありません。そういう意味で、五根すべて大切、そしてこの順序が大事です。

思うに、この「五根の順」というものは、何もただ仏道修行に関わるだけではなくて、あらゆる場面で大切な事ではないでしょうか。

たとえば「大学受験」を考えてみても、ゴールが「合格」だとします。これが「慧根」でして、根本的な大切なことが「合格」ただひとつだとしても、合格をイメージするだけでは受験は失敗するでしょう。
必ず、まず「このテキスト、この先生」を信頼して選択し、努力して勉強して記憶し、集中力を養成して、そして合格するわけです。順序は崩してはなりません。「集中力がないから、勉強の前に集中力養成セミナーに行こう」という人は、多分、所期の成果を挙げられないものです。実際の勉強を通して、集中力は養うものです(かつて大学受験に失敗してドロップアウトした私が言うのも何ですが、失敗者だからこその実感ということで、勘弁してください…笑)

仕事について、芸事について、生活習慣の改善について、すべて推して知るべし。

仏教というのは机上の空論ではありませんし、古典芸能や儀礼でもありません。まして布施強奪の虚業でもありません。人生全般、ありとあらゆる場面における生き方の指針が満載されています。そしてそれだけではなくて、その先にはそれらの実用を超えた真実の智慧に至るための教えがあります。
学べば学ぶほど、日々「素晴らしいなぁ」と思うばかり。
まぁなかなか、「常にキッチリ実践する」のは難しいのですが(私は腰の座らない凡夫なうえに、なんせ生来の怠け者)、少なくとも「ここが理想だ」「これが指先の月だ」という、確固不動の「仏法」があることは知っています。それだけでもありがたいな、と。増して、それをなんとか敷衍して紹介するという「役割」を持った法師であることは、どれほど幸せで畏れ多いことか。
感謝して、精進したいと思います。
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小僧が通夜に

2013年02月05日 | 時事関連
僧侶見習いが通夜、遺族憤慨 名古屋の寺「修行の一環」

詳しい経緯がわからないけれど、記事の通りだと仮定すると。

仏教的には、通夜は小僧が行っても問題ないかな、とは思う。遺族の心情はともかくとして。本来、通夜は遺族だけでするもので、僧侶が行くことが必須でもないわけだから。必ず行くべきなのは、枕経と葬儀。
ただ、最近は都市部では通夜の方が葬儀よりも盛大(というか、参列が多い)だったりする場合もあるみたいで、僧侶の読経がないと…という事なんだと思う。むしろ都市部あたりで、枕経に行かない方が問題あるんじゃないかと。
だから、今回のケースでも通夜に小僧が行って読経をすること、そのこと自体がダメだとは思わない(ただ、枕経はちょっとどうかと思うけれども…そもそも伝授を受けてないでしょ? 印契とかどうしてんの?)。

さて、一方で「心情論」として遺族の気持ちはわかる。

ちゃんとした僧侶が来るかと思いきや、実は小僧でした…となると、「バカにしてんのか」となりますわな、普通。しかも名刹だから、失望度合いも倍増。その上「修行の一環」と言われた日には、ンなもの寺の都合であって、遺族にとっては関係ないことじゃねーか、と。自分の大切な人を送る場面はたった一回の厳粛な時であって、半人前の修行の場では更々ない。
だから、仏教的に問題がないとは言え、それはあくまでも理屈の上の事であって、遺族が了解していない以上、やはり小僧を独行の導師として通夜を任せるのは、ちょっと行き過ぎだと思う。小僧を脇につかせた…という事なら全然okだけども…それは葬儀であっても。
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漫画

2013年02月02日 | 閑話休題
私、今までほとんど漫画は読みませんでした。
中学生くらいの時はちょっと読んでました(『3×3 EYES』とかゆうきまさみ)けれど、ジャンプだのマガジンだのサンデーだの、ほとんど買ったこともありません。中学生の頃でもどちらかと言うと漫画より小説で。
ところが最近になって、漫画を読むようになってしまった…と言っても、ほぼ「和モノ」中心なんですが、以前からは考えられません(笑) 外国では「日本人は漫画なんか大人も読んで、おかしい」と言われるようですが、アメコミなんかと比べて、やはり大人にも耐える作品が多いからなではないかと、最近は思います(ベストセラーには小便臭い漫画も多いですが)。

で、ここんところハマってる漫画をいくつか。

●「乙嫁語り」
  十九世紀英露のグレートゲームの舞台・中央アジアの民俗や風俗を元にした漫画。
●「とめはねっ」
  高校書道部の学園もの。私は書道はあまりしませんが、勉強になります。
●「あさひなぐ」
  高校薙刀部の正統派青春学園モノ。「帯をギュッとね!」に近いかな。
●「宇宙兄弟」
  宇宙飛行士になった兄弟の物語。宇宙開発の小ネタが面白い。
●「あさきゆめみし」
  古い漫画ですが、源氏物語をそれなりに忠実に書いてて勉強になります。
●「ぶっせん」
  仏教漫画…かな。何の参考にもならないけれど、道場経験がある人は笑えます。

私の傾向としては、部活ものと和モノ、何かしら勉強なるものが好きなようです…。
こういう傾向で面白いものが他にもあれば、どうぞ教えてください。
あんまり秋葉原的な萌え系絵柄は無理です(笑)
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