प्रज्ञापारमिता

言語活動(言説)に依らずして、究極的なもの(勝義)は説示されない。
究極的なものを理解せずして、涅槃は証得されない。

両足寺の紅葉

2012年11月27日 | 閑話休題
車で15分程度のところに、両足寺(臨済宗東福寺派)という紅葉の名所があります。
実は行ったことがなかったので、はじめて行きました。

しかし…ちょっと時期が遅かった…!
寂しい。。。

   画像はクリックしたら拡大します。以下の写真も同じく。

ツワブキも散りかけですが、ギリギリなんとか。

  

…と、思ったら、駐車場がいちばん鮮やかに紅葉してました(笑)
陽あたりがよくて暖かいからでしょうか。
紅葉を通してバックの山もパチリ、と。

  

道すがら、新幹線と高速道路が交差するポイントを発見。
田舎の長閑な風景と、青い空、そして構造物。
私、こういうの、意外に好きです。

  
コメント

苦海を渡るには

2012年11月22日 | 仏教・思索
先の記事で、私は自分を「自称・如来蔵学派」などと格好つけて言いましたが、もちろんそんな学派も宗派も存在しません。私ひとりの自称ですが、真言宗を含む大乗仏教においては重要な思想潮流であり、とりわけ日本仏教全体については、全体を伏流する根本の立場だと思っています。
もちろん「如来蔵思想」といっても単一ではなく、経・論によって微妙なニュアンスの違いはあるわけですが、全体としては極めてシンプルで明確な理論を持っていると思います。「ここに私の立場がある」という直感は当然、そのシンプルさも含め、私はこの立場を高野山時代から堅持しているところです。

そもそも不必要に複雑な理論が世界の真理性をきちんと指し示しているのか…私にはそう思えません。真理というものはゴシック建築のような壮大な理論にあるのではなくて、実はもっと身近で単純な地点に、路傍のお地蔵さんのような姿で立っていると思うんですよね。
もちろん様々な理論は素晴らしく、結局のところ指し示すものは同じ方向だと思いますし、それら壮大華麗な理論によって目を開かれる部分も大です。大ですが、それはあくまでも苦海を渡る船なわけで、「渡る」という行為が「真」です。苦海を渡る為に豪華客船の構造を細部まで理解する必要はありません。泥船か否かを見極めるだけの知識は必要ですが、渡るには普通のボートで十分なのです。

豪華客船は魅力的ですし、その構造を知ることがボートの建造や整備に資することもあります。ですけれども、豪華客船の研究や建造に時間をかけ過ぎるよりは、早く自分のボートを作って、「渡りましょうよ」。
どういうボートが自分に相応しいのかは、それぞれでしょう。もしかしたら豪華客船が向いている人もいるかも知れません。ボートなどいらない、泳いで渡る能力がある人も稀にはいるでしょう。
でも大多数の人にとっては、そのどちらも「極端」です。自分に合ったボートを見つけて、早く早く、苦海を渡りましょう。人生は短いですよ。

以下は、「如来蔵思想」というボートの設計図あるいは航海図です。
関心がある方は、参考にしてください。


◆如来蔵思想系の主な経論◆

【先駆経典】
 ・華厳経如来性起品
 ・法華経
【第1期】
 ・如来蔵経 ★★
 ・不増不減経 ★
 ・勝鬘経 ★★
 ・智光明荘厳経
 ・大般涅槃経 ★★ 
 ・央掘魔羅経
 ・無上衣経
 ・大法鼓経
【第2期】
 ・大乗荘厳経論
 ・仏性論 ★
 ・摂大乗論釈
 ・宝性論 ★★
 ・法界無差別論
【第3期】
 ・楞伽経 ★
 ・密厳経
 ・大乗起信論 ★★
 ・(円覚経)

以上、中村元『インド思想史 第二版』(岩波全書)pp.177-178の記述を参考にしながら増補し、主要な如来蔵思想の経典・論書を時期的に3期に分類しました。
如来蔵思想を理解するために不可欠な、特に重要な経論には★・★★を付しています。
コメント (5)

大乗仏教の聖典は?

2012年11月21日 | 仏教・思索
・質問

大乗仏教共通の聖典とは何ですか? 何を読むべきですか?
「宗教的情操の涵養」「実践」という点も含めて、教えてください。

・答え

キリスト教なら「聖書」、イスラームなら「クルアーン」、ヒンドゥーなら「ギーター」、神道なら「古事記」。宗教に聖典はつきものですが、とにかく「基本」「まずはこれ」というものは、それぞれにあります。
翻って大乗仏教に関しては、実はなかなか難しいですね。
お寺に行って聞いても、宗派によって違うものを指示されるでしょうし、「大乗仏教」という括りで「これ!」というものが何なのか、なかなかわかりにくいのが現状です。

因みに「仏教を知りたいのですが」という質問については、入門書としてかつてブログで挙げた事がありますが(http://blog.goo.ne.jp/harch75/s/%CA%A9%B6%B5%A1%A2%BA%C7%BD%E9%A4%CE%B0%EC%BA%FD)、あれはあくまで一般書で、「聖典」そのものではありませんでした。
ですので今日は、思い切って「大乗仏教を全体として把握するための基本聖典とは」という点で、ちょっと考えてみたいと思います。

以下は私の立場(自称・如来蔵学派)としての意見ですから、他の僧侶に聞いたらまったく違う答えが返ってくる 危険性 場合が多いと思いますので、ひとつの参考としてお聞きください。

まず大乗仏教の基本は、どう考えても「空」「中観」ということになると思います。ですので、般若経典や『中論』というものがまず念頭に浮かびます。もちろんこれらこそ「基本聖典」に相応しいですから、答えはこれだ、と言っても良いでしょう。
良いでしょうが、現実問題として、座右に置いて味読する聖典としては、般若経典は大部に過ぎますし、『中論』は難解です。宗教的情操に…という意味でベストかどうかも微妙です。また、『中論』などは理論書ですので、実践に直結するかどうかは難しいかも知れません(実践と言う面では、大乗の場合は「菩薩行」「六波羅蜜」という重要な思想があります)。

以上を考慮に入れて考えた場合、私としては『入菩提行論』がまずは適切な選択のひとつではないかと思います。中観を基本に六波羅蜜を実践的に説いたものとしてはやはり、秀逸です。
同時に六波羅蜜という事では、『大乗起信論』も実は良書です。これは大乗仏教の一大潮流である如来蔵思想をベースに俯瞰的に大乗思想を構想した論書で、六波羅蜜についても簡潔に実践論を述べています(私が依拠しているのは『起信論』です)。

以上の二書には大乗仏教の基本があり、またひとつの到達点を示すものと私は思っています。

が。

両書とも「論」であり「経」ではありません。「聖典」というからには、「論」だけでなく「経」も示しておくべきだと思いますので、これも考えましょう。

結論から言いますと、「どれでもいい」という立場です。「経宗」の人には怒られそうですが、私は基本的に「論宗」の立場ですから、それが答えです。
これは「経」を蔑にしているのではなくて、あくまで「経」は「仏説」だからです。仏説というものは万人に開かれ、同じ言葉でありながらそれぞれの性質や境涯によって様々な働きをなします。まさに「対機説法」そのものです。ですから本来、「この経はこう考えなくてはならない」というのは、学術的にはともかくとして、信仰・実践の立場ではありません。
だから阿含経から密教経典に至るまで、すべて「その人にとって」は「同一のものごとを指し示す」教えです。凡夫の浅はかな解釈を超越していますから、私たちが客観的(と称して)仏説の上下をつけることが正しいかどうか、ちょっと疑問です。私たちが考えるのは経そのものの区別ではなくて、まずは立脚すべき論・学派・自己の立場の吟味でしょう(もちろんこの吟味も経を拝読しつつ並行的に行わなくてはなりません。恣意的な大乗思想の解釈にならないように…)。これが「論宗」である私の考えです。
このブログのタイトルである「諸大乗経顕道無異」の立場です(これは「論宗」のひとつである「三論宗」大成者・吉蔵の言葉です)。

以上を踏まえた上で諸々の大乗経典を見渡し、それらを大乗思想を踏まえた地点から拝受した場合に、「自分にとって」どの金口がより響いて来るのか、という観点で「経」については考えたら良いと思います。
ひとつではなくて、いくつか読むことをお薦めします。
具体的には、「般若心経」「金剛般若経」「法華経」「維摩経」「如来蔵経」「勝鬘経」「阿弥陀経」「十地経」。阿含では「経集」。このあたりが基本になると思います。
加えて、忘れてはならないのが釈尊伝です。「仏所行讃」という仏伝文学がありますが、これは良質の一般書でもいいので、根本として釈尊の行跡は知っておく必要があります。
更に進めば、「八千頌般若経」「般若理趣経」「無量寿経」「華厳経」なども良いのですが、大部であったり難解であったりしますから、まずは先に挙げたものをご覧になったほうがいいと思います。

敢えてどれかひとつ…という事なら、私は「法華経」をお薦めします。が、セクト的な解説書が多く、また本文を読んだだけでは「つまらないな…」と思われる可能性もありますから、法華経を読む場合は、とりわけ適切な手引きがあったほうが良いとは思いますが、情操と実践という観点からも、法華経は最善の選択であると、個人的には思っています。
コメント

老人会の法話

2012年11月20日 | 仏教・思索
明日は老人会の会合で法話をしてくれ、と依頼されていまして、何の話をしたもんかと考えていたのですが、『常不軽菩薩と宮澤賢治』でやります。
まず『妙法蓮華経常不軽菩薩品第二十』を簡単に紹介して、定番の『雨ニモマケズ』に繋ぐ予定なんですが、まぁ、目新しくない話ではありますね…。まぁ地区の老人会なので、真言・真宗・禅宗の檀家から天理・金光・創価学会信者に至るまでの多彩なバックグラウンドの方達の前ですから、なかなか難しいですわ。
全体に「仏性普遍」の話を基本にやろうと思うので、大方にはストレスなく聞いていただけるとは思うんですが。寺でやるなら好きに話しますけれどねぇ、親睦会の前座だそうなので、ともかくも雰囲気を和やかに持っていく、という「縛り(?)」もあり、ショック療法的な話題・刺激的な話題や物言いは自粛いたします。

ちなみに私、「雨ニモマケズ」って、完全に法華経を下敷きにした詩だと思っていたのですが、実は斉藤某というクリスチャンがモデルであった、という説もあるみたいですね。岩手で迫害されながらも仕事と福音伝道に邁進した人だそうですが、その人が上京する時にこの詩を作ったという。
まぁそれが事実としても、末尾に日蓮宗の曼荼羅本尊の写しが書かれていますから、常不軽菩薩を意識していたことは間違いないので、まったく問題ないのですが(笑)

以下、法話プリントより。

…………………………………………………………………

皆さんは「命あるものは平等である」ことを、本当に理解できているでしょうか。

「あいつが」「私こそ」という気持ち、
あるいは誰かと比較して落ち込んだり羨んだり、
いつも「私とあなたは別」ということを、
無意識のうちに考えているのが私たち人間です。
悪人であれ善人であれ、日本人であれ中国人であれ、犬であれ鳥であれ、
いのちはひとつ所から出て、へその緒のようにすべてつながっています。
ひとりが傷つけば、すべてが傷つきます。
おなじひとつのいのち・同じひとつの母親と血も運命も共にしています。
その母親とは、宇宙いっぱいに広がる「仏のいのち」、
目に見えないけれども確実に流れている「ひとつのいのち」です。
どうしたらその「ひとつの大きないのち」を感じられるのか、報恩できるのか…
頭で色々と考え・学ぶことも大切です。
しかし、行動することはもっと大切です。
そのことを行動で示した方として、「常不軽菩薩」という方がおられます。
この話は、インド・中国・日本、
そして天台宗・日蓮宗・真言宗・曹洞宗など、
国や宗派を超えて古来より大切にされてきた、
代表的な仏教経典である『妙法蓮華経』に説かれています。


仏性礼拝の常不軽菩薩妙法蓮華経常不軽菩薩品第二十)

正法が滅したのち、一人の菩薩が現われた。人びとはこの菩薩を常不軽と呼んだ。
というのもこの菩薩は、相手が男であれ女であれ、僧であれ在家であれ、
人を見てはみな礼拝し賛嘆してこう言ったからである。
『我深く汝等を敬う、敢て軽慢せず。所以は如何、
汝等皆菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし
(みなさん、わたしはあなたがたを敬います。軽んじません。
なぜなら、あなたがたは菩薩の道を行じて、仏となるからです)』
こうしてこの菩薩は、経典を読誦することなく、もっぱら人びとを礼拝するばかりであった。
会う人ごとにこのように言うので、人々は怒り出し、しまいには棒で打ち石を投げる有様であった。
しかしこの菩薩は怒ることなく、逃げ出して遠くに行くと振り返って、
『あなたがたを敬います。軽んじません。あなたがたは仏になります』と
遠くから大きな声で言うのであった。こうして人びとはこの菩薩を常不軽と呼んだのである。
この菩薩は、死期が迫ったとき、虚空で、威音王如来が説く法華経の詩句を聞いてことごとく信じ、
眼、耳、鼻、舌、身、意根が清らかになり、命を永らえ、二十千万億年の寿命を得た。
そして広く法華経を説いた。
かつて菩薩を軽んじ賤しめて常不軽と呼んだ人々も悉く教えを聞くために集まり、みな菩薩に従った。



この話、宮澤賢治にも大きな影響を与え、雨ニモマケズの詩が出来ました。
賢治にとってこの菩薩こそ理想の人格であり、
また実際、そのように生きた人でした。


雨ニモマケズ 宮澤賢治

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ陰ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩



私たちも「いのちのつながり」を感じ、他者を傷つけず、
皆でなかよく和合して生活することが幸せの第一歩です。
まずは「自分自身と仲良くする」こと
次に「家族兄弟」そして「地域社会」、職場の人や趣味のつながり
そして秋穂全体、山口市、山口県、日本、アジア、世界、宇宙
また、人間からペット、動物、魚、虫、植物…
自分を出発点に、どんどんとつながりを感じる範囲を広げ
仲良く和合する範囲を広げ、
比較して上下をつけるのではなく、いいところを見つけあい、
そして一緒に楽しく、仲良くやっていくことが、
「大きないのち」の本来の姿で自然なことだと
それを今日は改めて、皆さんで感じていただける場としてください。
コメント (4)

如来蔵と仏性

2012年11月20日 | 仏教・思索
某所で「如来蔵」と「仏性」はまったく同じだ、という意見を見たんですが、そりゃ違うでしょうよ。「仏性」は「性質」という意味がありますから、「仏となる性質・仏であるという本質」ということで、どちらかと言うと静的で理論的なもの、「如来蔵」は「如来に蔵されている・如来を蔵している」という点で動的・実践的な点が示されているように感じますが…。前者は「本質論」で、後者は「状態論」というか。同じ事態を指し示していると言われればそうなんですが、ニュアンスがやっぱり違うんじゃないのかと。そこを混同すると、修行不要論に陥ってしまわないかな?

かつて卒論でちょっと書いたことがあるのですが、改変して別サイトに掲示していた文章を掲載しておきます。

……………………………………………………………………

如来蔵思想は大乗仏教の代表的な思想ではありますが、中観派や唯識派などのように、特定の学派によって専門的に研究されてきた思想というわけではありません。
如来蔵思想は、『法華経』などに代表される「一乗思想」と同じくインド仏教の中で起こった思想潮流でして、大乗仏教思想のひとつの典型として、大乗の様々なグループで共有されてものと言えます。
日本では「山川草木悉皆成仏」あるいは「山川草木悉有仏性」を標榜する天台本覚論が鎌倉仏教に多大な影響を及ぼしましたけれど、この思想の根底にあるものも如来蔵思想であることは疑えないところです(直接には『大般涅槃経』の仏性思想の影響が大きいのかも知れないですが)。
また、空海密教における即身成仏思想も、如来蔵思想の展開を無視して論じることは出来ないと思います。

さて「如来蔵」という用語について、法蔵館の『仏教学辞典』には、「すべての衆生の煩悩の中に覆われ蔵されている、本来清らかな(本性清浄なる)如来法身のこと。如来蔵は煩悩中にあっても煩悩に汚されることがなく、本来絶対に清浄で永遠に不変なさとりの本性である」とあります。
まずは穏当な定義ではありますが、如来蔵とは「煩悩の中に覆われ蔵されている、本来清らかな(本性清浄なる)如来法身」ですから、凡夫が凡夫のままで認識できる性質のものではないことは留意しなくてはなりません。
つまり、絶対一元の次元でのみ真に顕現する(…という表現も変ですが)何かですので、認識レベル・言語レベルでの「定義」は、あくまでも「仮」のものであり、決して本質そのものを指示してはいない、ということです。
『大乗起信論』には「言によって言を遣る」と言いますが、まさにそれです。

尚、「如来蔵」という漢訳語からは、それを「如来を入れる蔵」というニュアンスが強く感じられると思いますが、「本来清らかな(本性清浄なる)如来法身」という定義からすると、少し違和感のある言葉かも知れません。
むしろ「仏性」と言った方がすっきりするでしょう。事実、岩波『仏教辞典』には「仏性と同じ」と書かれています。
しかし如来蔵には仏性とはニュアンスが少し違うものが示唆されていると、私は思っています。

サンスクリットでは、如来蔵は「タターガタ・ガルバ」といいます。
タターガタは、サンスクリット辞典によると「being in such a state or condition」あるいは「Buddha」で、ここでは後者の意味になります。漢訳語では「如来」と漢訳することが多いでしょう。
ガルバは、「The womb, the belly」です。これは一般には「子宮・胎児」という意味になります。
つまりタターガタ・ガルバは、サンスクリットでは属格限定複合語として「如来の胎児」、もしくは所有複合語として「如来の胎児を有する(衆生)」あたりが妥当なものになると思います。

ところでガルバには「子宮・胎児」という両面の意味があります。「ガルバ」という語にはそちらの意味が含意されていると思われますので、訳語としての「蔵」にも、両面の意味があるのは当然です。つまり如来蔵を単に仏性と訳してしまうと、「可能性の内在」の意味がクローズアップされる反面、「成長する=修道論」の意味が欠落してしまう危険性があるのでしょう。

「仏性(ブッダ・ダートゥ、あるいはブッダ・ゴートラ)」は成仏の「因」としての仏性が我々に内在することを単に示すものであることに対し、「子宮・胎児」両面の意味を示す「如来蔵」は、我々が「如来の胎児を有すること=仏性を持つ」であるとともに、「如来の子宮に蔵されている存在である=自らが胎児として成長していく存在」ことをも示し、修行の必要性・成長の必要性を喚起する点において、微妙なニュアンスの違いがあるのでは、と私は考えています。
コメント

考えるということ

2012年11月18日 | 仏教・思索
色々な事を知っている「物知り」「専門家」はたくさんいる。
情報を要領よくまとめる者もたくさんいる。
物事を整理してうまく仕事を采配できる人もいる。
どうしたら事態が打開できるか悩んでいる者もたくさん。
困ったり喜んだり迷ったりする人は更に多い。

でも、「考える」人はどのくらいいるだろう。

「考えているつもり」で、その実「思っている」「困っている」「悩んでいる」「情報をインプットして整理している」「目先の事象を追っている」「過去を反芻している」「未来を妄想している」だけ人が多いのではないだろうか。
「考える」とはそういうことではなくて、まず根本的であるということ。それは「考える」ということの意味を「考える」、「考えている私」とはどういう事態であるのかを「考える」、この事象に意味があるのか、そもそも「意味とは何か」を考える、ということ。
これは知識量云々ではなく、シンプルに、根源的に「見る」という作業に近い。
そうして、根本的である、根源的に見るという、そこを突き抜けたところにあるものは雑多な客観的事象ではなく、「見る」というものが通じない、ある極点における「全的ななにか」に「なる」と言う事。ここまで来ると「見る」も「見ない」もない。「考える」もない。

知識は邪魔にはならない。必要な分だけは必要だけれど、それらは「足場」でしかないのだから、いずれ捨てるべき時が来る。知識を磨くことも結構だけれど、そんな足場を飾り立てたところで、家は永遠に建たない。
「考える」ということは、足場を組み、利用して、捨て去るという一連の流れすべてを意味している。主客分立の妄想分別世界の住人たる私たちとしては、ここまで「意識して」「考える」ことが、無分別の極点に至る(何が?)唯一の道なんだろう。

ところで私自身は「考えている」だろうか。
率直に日常を振り返った時、残念ながら「思っている、困っている、迷っている、情報処理している」だけの事がほとんどだ。一生は短く、大切なことはとても深い…まずはよくよく「考える」生活・一生でありたいものだと、そして真実の意味で「考えなく」なれば最高(何と比較して?)だと、本当に心から思う。
コメント (4)

江行

2012年11月10日 | 閑話休題
江行 魚玄機

大江横抱武昌斜        
鸚鵡洲前萬戸家        
畫舸春眠朝未足        
夢為蝴蝶也尋花
        

大江 横に武昌を抱いて斜なり
鸚鵡洲前 萬戸の家
畫舸の春眠 朝 未だ足らず
夢に蝴蝶と為って 也 花を尋ぬ



作者は魚玄機(字は蘭、晩唐の人)。
高級官僚の李億の妾となったものの、正妻の嫉妬によって道士となった美貌の女流詩人として有名。二十八歳の時に、恋愛のもつれから道観の侍女を殺して死罪となった人です。
漢詩というとオトコの世界、というイメージがありますが、薛濤や日本の江馬細香など、女流詩人にも良い人はいます。
魚玄機は伝記を見てもわかるように、情の非常に激しい人だったようですが、この詩などとても穏やかで艶もあり、素晴らしいものだと思います。人間の心の機微って、複雑ですよねぇ。
コメント (2)

裁くな!

2012年11月07日 | 仏典の言葉
法話のために『超訳 仏陀の言葉』を使ったので、前記事に引き続いてもうひとつ引用します。

この世では虚勢がはびこる
悪や下品さが大手を振る
それほど、この世はがさつなものだ
だから、恥知らずで烏のようにやかましく叫び
図々しく我を通すような人はこの世でたいそう暮らしやすいものだ
この世でなかなか暮らしがたいのは、恥を知り、清らかに生きようと努め
つつしみ深く、仕事に専念しているような人だ
しかし、おまえは後者を選べ
                            ――ウダーナ・ヴァルガ 27


仏典を読むときの難しさは、時にそれを「他者を裁くために用いる」場合がある、ということです。
たとえば上の聖句を読んで、自分を「悪や下品の側」に置く人が何人、いるでしょう。また、「悪や下品」といって、「他の誰か」を想像して「自分を是・他者を悪」だと分別してしまう人も多いと思います。そうなると聖句は自分自身を高める言葉でなく、相手を裁いて自分を弁護する道具に堕します。

無意識であれ意識的であれ、言葉で誰かを「裁く」時、人は無明の沼地にあることを知るべきでしょう。それは恥であり、不潔であり、慎みなく、散漫な生活をしている証拠です。そしてほとんど誰しもが、大なり小なり悪や下品の要素を抱えているでしょうし、私など、自分自身を省みる度胸すら欠けているのです。
それこそが、現実です。

仏教聖典の場合、指し示される「善悪」というものは基本的にすべて、「私のこと」です。
このウダーナ・ヴァルガの場合でも、自分自身の中に両面がある、ということを言っています。その上で、「後者を選べ」ということです。この聖句を聴いただけでは「まだ選んでいない」のです。だからこそ、今「選べ」と言われるのです。
コメント (6)

湖心

2012年11月07日 | 仏典の言葉
白鳥春彦『超訳 仏陀の言葉』(幻冬舎)から、明日の縁日法話用の文章を拝借。
毎月、フツーの檀家さんにもわかりやすいものを選んでお話しています。経典からセレクトしてプリントを作る場合が多いのですが、今回はスッタニパータで一般の方でも読み易い本を見つけたので、そこから。
太字は抜粋、その下は私のコメントです。

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

こだわるな かかずらうな
心を沈めるな 考えすぎるな
ただ、清らかであれ
        ――スッタ・ニパータ 3


無関心ではなく、無視でも無感情でもなく、あるものをあるがままに受け止め
良いことに舞い上がらず、悪いことにグズグズこだわらない
そうして目の前の色々な無常の事に振り回される生活をやめて
世界・いのちの根源にある唯一不動の光・清らかさをこそ、大切にすること


深い湖のように生きてみなさい
静かで 澄んでいて 清く 冷たい湖のように生きてみなさい
わが心を深い湖のようにしなさい
風に動かず 陽光にも暖められず どんな音にもたじろがず
凛として そこにある湖 あなたの胸に 湖を持って生きなさい
                             ――スッタ・ニパータ 1


湖には風も吹く、船も浮かぶ、ものも落ちてくる
色々な事が起こるけれども
しかし「それ」が過ぎ去れば、鏡のような、深い、澄んだ湖に戻る
湖自体はいつも、清らかで、静かなもの
(「冷たい」というのは「冷酷」ではなくて「冷静」の意)
ただ一時、「何か」がやって来て波がたつことはあるが
それはそれだけのこと
「それ」が去った後にも波を自分で立て続けるのは道理に合わないし
波が立っている最中も、実は湖の中は何も変わらない
表面だけを見てすべてと思うから、波が現実より大きく見え、迷う

注意すべきこと… 湖は無感情ではない それでは慈悲がない
慈悲のないものは仏ではなく 仏教でもない
感情に踊らされずに自分が感情を冷静に把握してコントロールすることを言う
コメント (5)

buddha in car

2012年11月05日 | 閑話休題
         

車にステッカーを貼りました。
これは長野県のお寺さんが制作したものですが、こういうの、いいなぁ、と。
baby in carなんかは昔からよく見ますし、昔tigars fan in carというのを大阪で見たことはありますが(笑)、さすがにbuddha in carは今までなかった(笑
コメント