प्रज्ञापारमिता

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大乗精神

2012年09月25日 | 仏教・思索
今日、(檀家ではない方から)電話で相談がありました。
その方は数十年、真言宗を中心とする色々なお寺で話を聞いておられるそうなんですが、ある場合には宗派主義的な「押し付け」があったり、結局「祈祷を受けなさい」とだけ言われたり、あるいは「この御本尊は御利益があるから祈れば良い」とばかり言われ、「もう仏教が何かよくわからなくなってきた」そうです。「仏教は宗派でバラバラ、結局は自分の寺の為にお金を求めるか、祈祷の勧誘ばかりで、きちんとした仏教の教えとか心の成長・実践の提示とか、そういう話しはほとんど聞かない、あっても人生訓程度で幻滅」と。
もちろん、御本尊の力を信ずるのも良いですし、宗派的な実践が悪いわけではありません。そういう事も仏教の大切な一面であり、大いに興隆すべき事柄だと思いますが、「そもそも仏教って何だろう」という根本的な疑問を持っておられる方も増えているのが、もう一方の現実ではないでしょうか。
そういう時こそ、八宗兼学・諸宗兼学的な寺院・僧侶がいれば、何程かのヒントを示せるのでは…と。というかむしろ、「大乗仏教」「日本仏教」が今後ともしっかりと続いていくためには、絶対に必要ではないかと。

かつて奈良仏教は「学問仏教」と言われて庶民とは遊離した高踏的なものだ…などと言われたものですが、庶民の仏教に関する知識レベルや知的要求レベルも現代社会では上昇して来つつあり、もしかしたら誤魔化しのない大乗仏教の根本的「学問仏教」的な話も、今の時代であればこそ、意義が再認識されても良いのではないでしょうか?
もちろんそれを真摯に、また実践論と結びながら一般に噛み砕いて提示して行く必要はありますが、それこそ僧侶の仕事の本分なわけで。
私は決して宗派の否定をするわけではありません。ただ、宗派仏教の奥に流れている「通大乗の精神」をもっともっと宣揚していかなくてはならないと思うだけです。聖徳太子以来の日本仏教の根本とは、細分化された宗派主義ではなく、もっと大らかな「大乗精神」に他ならないと私は信じています。
このブログのタイトル下には中国三論宗・嘉祥大師吉蔵の「諸大乗経顕道無異」の言葉を掲示していますが、この精神を私は持って、今後とも精進したいと改めて思った次第です。
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仏教の黙想書

2012年09月19日 | 仏教・思索
『日々の光』という本があります。これは毎日の黙想・デポーション用に編集された聖句集なんですが、キリスト教にはこういう素晴らしい本があります。
仏教徒の人はあまり御存知ないと思いますが、キリスト教には他にも『ウェストミンスター信仰基準』などという本がありまして、これは初歩的な(特に改革派)神学を聖書を基にして学ぶために必携のものです。
聖書と『ウェストミンスター信仰基準』があれば、無人島に行っても大丈夫、福音派ならこれに『ハーレイの聖書ハンドブック』でも持っていれば完璧です。

仏教の方はと言えば、残念ながら状況はお寒い限り。
確かに大蔵経の国訳はありますし、現代語訳聖典もいくつか出ています。啓蒙書や概論書、専門書の類も数多くあります。しかし大抵は簡便に過ぎる一般向けのものや分量が多過ぎるもの、専門仏教学的なもの、あるいは専門仏教学を敷衍した書物が大半で、真正面から僧侶・一般信徒のために再構成したカテキズム的なものは皆無に等しい。春秋社の『仏教要語の基礎知識』が唯一のものだと思いますが、これにしても『ウェストミンスター信仰基準』などのように詳細かつ分明なものには程遠い…。
『日々の光』のような素晴らしい黙想書・聖句集に匹敵する仏教書は、未だ私は見たことがありません(本多日生『聖語録』が多少それに近い体裁ですが、これは日蓮遺文と法華経だけの抜粋です)。

確かに仏教はキリスト教などと違い、『聖書』からだけで大丈夫、とはいきません。膨大な仏典が存在していますし、宗派や立場によって重視するものが相違するわけですから、事はそう簡単でないのは仕方がない面もあるでしょう。
しかし、こういうカテキズムや黙想書は、絶対に必要です。こういうものがないと、一般に「仏教とは何か」というのが曖昧なままで、なんとなくの宗教にならざるを得ないと思われます。もちろん専門的にしっかり学んだ人は違うでしょうが、市井のフツーの人を置き去りにして、「あなたたちはただ祈れば良い」だけでは、これからの時代、もはや説得力もなくなってくると思います。

『ウェストミンスター信仰基準』のようなガッチリした教理学的書物を作るのは、確かに専門的な仏教学者の力が必要で、私みたいな凡僧には手が出せないところではありますが、『日々の光』のような黙想書は、一般の僧侶でもやって出来ないことはないと思います。
全366日、阿含経典と主要な大乗仏典から類似する思想的・実践的箇所を抜粋して現代語訳して編集し、勤行時などの観想・黙想・静坐などで使用する…これは、出来そうです。膨大な仕事にはなるでしょうが…。
中国三論宗の大成者・嘉祥大師吉蔵は「諸の大乗経は道を顕すに異なること無し(あらゆる大乗経典は仏法を明らかに示すという点において、それぞれ異なるものではない)」と述べています。これは真実だと思います。それを示すためにも、こういう「聖句集」はあって然るべきでしょう。
残念ながら今の私には、それを為すだけの知識も能力も所蔵文献も欠けています。見識もありません。出来れば誰か、こういう仕事をしてくれる人が出てくることを祈っていますが、ダメそうならば、私自身しっかりと研鑽を積んで、いつかそれを為すだけの力をつけられるようにしたいです。向後10年程度じゃ無理でしょうし、死ぬまでに出来るかどうか心許ない限りですが、もう少ししっかりと仏教を学んで、そういう縁が熟すようならば、いつか手を付けてみたいな…と思います。自信はまったくないですし、畏れ多い仕事で怖いのですが、それだけの価値はあると思っています。

でも出来たら、もっと能力と見識のある人がやってくだされば仏法のためにも最高のことだと思うので、この記事を見た方で「私がやろう」という方がいらっしゃれば是非、どうぞそういう仕事をやってください。その時には『日々の光』を入手して検討していただければ幸いに思います。
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今こその仏教

2012年09月17日 | 仏教・思索
私は最近、軽々に政治の話はブログに書かないようにしてます。フェイスブックには多少、そういう方面の事も書きますが、あくまでも客観的な情報レベルのことだけです。

実際の檀務の場面でももちろん政治のお話はタブーですし、一切、そういう事は言いません。仏法伝道の場面において、政治的な事は言うべきでもないですから。
ですので、竹島や尖閣の問題についての個人的な考えも、実際の場面で述べると言う事は当然ながらしていません。法事の際に話をふられる事もあるのですが、それでも言いません。

ただ、国と国の関係って、人間関係ととても似ている部分がありますね、という事は言います。そして、色々なニュースがありますし、世間には色々な問題もありますが、それらはすべて「自分自身にひきつけて考えてこそ、仏教的な意味があります」と述べています。

東日本大震災にしてもそうなんですが、テレビの向こうの遠い世界の出来事、あるいは「自分とは関係ない」と思って漫然と眺めているだけでは、少なくともそれは仏教的には無意味です。
自分が当事者であればどうなのか、たとえば
・大震災で家族が死んでしまったとしたら、自分はどうするだろう
・津波で職場がなくなったら、自分はどうするだろう
・中国の暴動で殺されかけたら、自分は中国人に対してどう思うだろう
・兵士なら、現地の漁民なら、政治家なら、日本人なら、中国人なら…等々
あらゆる出来事を「自分の問題として」考え、それでも冷静に・慈悲の心を基本にして、果たして自分は考えて行動できるのだろうか、と。
完全な慈悲の心で受け止めることは、確かに至難です。それは致し方ないのですが、それは何故なんだろう、釈尊ならどうするのだろう(What would Buddha do?)…。

仏教は特殊で夢想的な教えではありません。リアルな、現実の教えです。
苦である現世において、如何に人は動くべきか、私は生き・考えるべきか。
現実は無情なところがありますし、悲劇的な事もあり、また喜劇的な事もありますが、そういった場面において、他ならぬこの私はどうするのか。そういう局面で立ち現れてくるのが、本当の「教え」なのだと思います。仏教徒としては、いかなる場面にあっても智慧と慈悲、これだけは手放さないよう、地上には仏国土・人には仏性が必ずあるのだという事を信じて、色々なニュースを「自分のこととして」見ていきたいものです。もちろんそれは綺麗事や希望的観測で動け、ということではありませんが。
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怒りと仏者

2012年09月07日 | 仏教・思索
何かしらの問題が惹起された場合、敗北主義・事勿れ主義で譲歩してしまうのではなく、それでいて怒りの心や自我意識を持たずにパワフルにそこに対処していく事は難しい。人間の表層的な心はとても弱いから、何にしても「行動の力」というものを、もっとも安易な「怒り」に源泉をもとめてしまい勝ちだ。
怒りというものは、その本質を保持したまま様々な形態を取るものだけれど(高慢や自己弁護、冷酷や無関心、あるいは野合や孤立への逃避も「怒り」と根は同じだったりする)、それらすべてを慎重に見極めて排除しつつ、冷静に事象を見つめて公正な判断を下し、それでいて力強く卑屈も先送りも介在させない…果たして凡夫にそんな芸当が可能であろうか。恐らく、完璧には無理だろう。
しかしあくまでも仏教徒であれば、そうあるべきが理想である。そうあらんがために仏法はあるのだから、理想を胸に置きつつ、七転八倒しながら生きていくことが、結局は私たち仏教徒の生活、ということになるのかも知れない。
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Nondenomination Movement

2012年09月02日 | 仏教・思索
日本のキリスト教の流れのひとつに、内村鑑三の無教会主義というものがあります。
私はこの流れは、仏教にとっても非常に参考になると思われます。…否、単なる「参考」以上です。大乗仏教を基盤としつつ、宗派仏教を超えながら、同時に「なんでもあり」の無秩序に陥ることを防ぎ、盲目的な「原始仏教」賛否に堕することもない…という方向性は、こういう「無教会」の理念は大いに研究すべきでしょう。

ウィキペディアによると、

無教会主義のキリスト教徒は「イエス・キリストは無教会であった」「パウロは無教会であった」との理解を共有することが多い。また、無教会主義は「教会」よりも「キリストの十字架」を重んじると言われる。実際、内村鑑三はキリスト教は十字架教であると言っている。無教会主義は、教会主義・教会精神からの脱却を目指す主義であって、キリスト教の福音信仰そのものを否定する主義ではない。無教会主義は、ある意味では教会に所属する所属しないと言ったことに無頓着な主義であるとも言える。そのため、教会に所属しながら無教会主義であることも可能である。

…とあります。
これはそのまま仏教的無教会主義(Nonchurch Movementに対して、Nondenomination Movementとでも言いましょうか)にも応用できます。例えば…

無宗派主義の仏教徒は「釈尊は無宗派であった」「龍樹は総合的な一大乗僧であった」との理解を共有することが多い。また、無宗派主義は「寺院・宗派」よりも「真如・仏性・空性」を重んじると言われる。実際、●●●●は仏教は成仏教・仏性教であると言っている。無宗派主義は、宗派主義・宗派精神からの脱却を目指す主義であって、仏教の多様な豊饒性そのものを否定する主義ではない。無宗派主義は、ある意味では宗派に所属する所属しないと言ったことに無頓着な主義であるとも言える。そのため、宗派に所属しながら無宗派主義であることも可能である。

まぁちょっと無理がある部分もありますが、少なくとも無教会主義がプロテスタント的であるのと同程度に、無宗派主義が仏性思想に立脚する大乗仏教的であるという一定の枠を決めていれば、あまり無理なく仏教にも当てはめられる筈です。

今後の日本仏教の在り方、それ以前に、自分自身の仏教とは何か…ということを考えた時、私はNondenomination Movementに一定の可能性を見ます。
更に研究をしてみて、いずれこの趣旨に沿った「仏教の集会」を実現出来たら…と夢想しているのですが、果たして同志・同行の人は現れるのでしょうか…?
仏教革命・仏教刷新とまでは言いません。所詮は大河の一滴でしかないかも知れません。そこにすら及ばないかも知れませんが、宗派主義的仏教の伝統にどっぷり浸かった日本仏教の蘇生の為には、こういう試みにおいて「捨石」となる者も必要なのかも知れません。
私はまだまだ未熟者で、とても現時点ではそういう「運動・Movement」を組織する力もないのですが、将来の抱負として、胸に温めておきたいと思います。
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