प्रज्ञापारमिता

𝔇𝔥𝔞𝔯𝔪𝔞 𝔗𝔞𝔩𝔨, 𝔅𝔲𝔡𝔡𝔥𝔦𝔰𝔪, 𝔗𝔥𝔦𝔫𝔨𝔦𝔫𝔤, 𝔞𝔫𝔡 𝔱𝔥𝔢 𝔚𝔬𝔯𝔡

夏も終わり

2012年08月31日 | 閑話休題
いやぁ、八月も遂に終わりです。残念至極。

私は夏山とか大好きで、出来たらトレッキングとかしたいのですが、もっとも良い時期である七月下旬から八月上旬はまったく身動きできず…というワケで、まったく山には行っていません。八月下旬になったらちょっと山の雰囲気も変わっちゃうし。
山じゃなくて海にしても、今年は角島に行きたいと考えていたのですが、バタバタしているうちにベストシーズンを逃してしまいました。これも残念。近場の海は眺めに行ってましたけれども。
来年こそは…七月下旬に一日なんとかこじ開けてどこか行きたいなぁ…携帯の通じる山に(携帯が使えないと寺務に支障を来す場合があるので)。

でも本当は、数日かけてがっちり山に行きたい。本格的な登山じゃなくて、トレッキングでいいから。日本アルプスや…憧れのヒマラヤとかキリマンジャロとか(笑

あ、飛鳥散歩やサイクリングもいいか…。

よし、来年こそ…。



しかしいずれにしても妻とは行けないのだな、これが。留守番いないから。寺の宿命です。
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「近代」の決着を

2012年08月28日 | 時事関連
現在進行形の竹島、尖閣。
歴史的には南京、重慶、「慰安婦」、「強制連行」…。

日本は結構、追い詰められてきてますね。
ネットや巷では、当然のことながに、ようやく韓国や中国に対して反感が高まって来ているようですが、ともすると「韓国人キモイ」「中国人キライ」という間違った感情論的な方向に行っている場合も多々あるようです。
韓国や中国の無茶苦茶な政治的主張や誤った歴史認識、プロパガンダ愛国教育などは徹底的に批判して行かなくてはならないけれど、それが「韓国人・中国人はみんな…」と、個々への否定・非難になってはいけないと思います。
主張と人格を分別して語れない…それは本当に避けるべき。そうでないと、単なる毒づきの口喧嘩になってしまう。同じ土俵に乗ってしまう。

悪口と批判はまったく違うものです。

日本としては、冷静に(穏便に、とは違います。いざとなれば一戦も辞さない覚悟はすべきです)、各種史料・資料と論理に基づいた論証、その理路整然とわかりやすい結論を国際社会に宣伝して行き、韓国・中国内の学問を軽蔑しないまっとうな人を巻き込みつつ、自らの立場を確立して行く必要があると思います。ブレず卑屈にならず、そして論理的に相手を「徹底的に・逃げ場なく」追い詰めていく。
下手な「配慮・遠慮」こそ、トラブルの原因になり、結果として紛争・戦争の原因ともなります。平和を愛するならば、言論・学問・宣伝においてしっかりと戦う必要があります。

東亜全体の真の相互理解を醸成するためには、言論戦を通して一度は徹底的に相互の主張を戦わせ、誰の目にも明明白白なる客観的結果を示す必要があると思います(これは史観レベルの話ではなく客観的事象レベルのところから…当然、日本に不利な事実も多々ありましょう。勿論それを認める勇気も必要です)。
いずれにしても、日本も韓国も中国も、そろそろ「近代」に決着をつける時が来ているのではないでしょうか。過去の亡霊がウロウロしているようでは、東亜全体の為には絶対にならないのですから。
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釈尊の言語

2012年08月27日 | 仏教・思索
仏典の聖句についてではなくて、あくまで言語についてです。

私は大学でサンスクリットを2年くらい齧り、ギーターや法華経を文法書片手に読んでた程度ですから、以下の記述はあくまでも色々な学者の説を斜め読みして書き散らしたものに過ぎません。つまり駄文です(ただ、書く以上、意図はあります)。
ですので、私の能力不足もあり、記事への苦情・質問は受け付けられません。悪しからず…パーリ至上主義者の方は、むしろ読まないほうが良いかも知れません(-_-;)

さて。

現在、仏典の「原典」といわれるものの言語(文献記録)は、パーリ・サンスクリット・チベット語そして漢語の四つです。チベット語と漢語はそれぞれチベットと中国のものですから、もちろん釈尊みずからが使用した言語でないのは当然です。これらは「翻訳語」です。
一方のパーリとサンスクリットはインドの言語ですが、もともとサンスクリットは釈尊在世の時から雅語あるいは上位言語として確立されており、王族であった釈尊ももちろんサンスクリットは理解していた筈です。これが理解できなければ、バラモン思想に近づくことは出来ない訳ですから。釈尊はしかし、サンスクリットは上位言語である為、一般民衆に対して語りかけるに相応しくないので、この使用をしなかったとされています。
一方のパーリは、俗語です。個々の単語はサンスクリットと類似しているものが多数あり、俗語の中では比較的サンスクリットと近いとされています。

問題は釈尊がパーリを使っていたのかどうか、という点です。
かつてはそう考えられていた時期もありましたし、南方仏教(パーリ仏教圏)では今でもそう信じられているようですが、結論から言うと、それは単なる「神話」であろう、という事です。最近の研究ではパーリは西インドの言葉であり、釈尊が活動された中部インドでパーリが使用されていたわけではない、ということだそうです。そして釈尊は西インドには行かれていない…と。
現在でも、中インドのヒンディー語と西部のマラーティー語やグジャラート語などは、親戚関係の言語(ドイツ語と英語の関係?)ですが、まったくの別言語です。当時は今以上に通信手段がなかったわけですから、言語間の相違は今以上にあったのでは…と想像します。
結局、釈尊御自身は伝道に際しては、パーリもサンスクリットも使用していなかった、というのが現実のようです。

現在の上座部がではなぜパーリを使うのかということですが、一般民衆への伝道の為には俗語を使用した方が良いということで、恐らく各地でそれぞれの俗語・口語を使っていたのでしょうが、スリランカに伝道した部派が使っていたのが主にパーリであった…ということなのではないでしょうか。
一方のインドの諸部派では、他宗教・他思想家との論理学を駆使した論争が不可避の状況になっていましたので、厳密ではない俗語を使っていては専門性の低下を招くと同時に、全インド的な普遍性を持てないと言う事で、徐々に俗語使用が廃れ、サンスクリット中心になっていったのでしょう(つまりサンスクリットは東亜におけるかつての漢語、また現在の英語と同様の地位を占めていたということです)。
大乗仏教はすべてサンスクリットで経・論などが記述されます。

そう考えていくと、結局のところ釈尊が使用していた言語は何であったかというのは、正確にはわからない、というしかありません。
サンスクリットを理解していたのは当然としても、主たる言語として利用していなかったのは確かですから、俗語であったことは事実でしょうが…アルダ・マーガディー(中期マガダ語)という事で指示される言語であったらしいことは確実のようですけれども、そもそもプラークリット文献の最古のものがアショーカ王碑文である以上、これも確実な事は言えないのでしょう。

なお、パーリをはじめとする俗語(プラークリット)は、サンスクリットからの派生言語が多いようです(もしくはヴェーダ語から人工言語としてのサンスクリットと、自然発生的なプラークリットが派生したそうな)。もちろんヴェーダ語と関係ないドラヴィダ系言語などとの混交も俗語においてはあるでしょうし、南部に行けばむしろ現地語にサンスクリットが影響を与えた場合も多いでしょうけれど。

まぁいずれにせよ、「パーリが釈尊の使った言葉だ」というのは、少なくとも学問的にはもはや成り立たない、ということは言えると思います。もちろん信仰としてそれを信じるのは自由ですが、無量義経における「四十余年未顕真実」を歴史的事実として他人に無理矢理押し付けるのと同じ穴の狢とならないよう、パーリ釈尊金口説も個人的な信念に留めておくのが無難ではないかと思います。
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宗教離れ?

2012年08月26日 | 仏教・思索
「宗教離れ」が言われて久しいですが、私個人の感覚では、必ずしもそういうこともないのでは…と思っています。確かに団塊の世代くらいの方達の中には明確な「反宗教」という方も散見されますが(とは言えちゃんとした知識はそんなにないようですけれど)、全体的に見て、仏教や神道に対する関心自体は、むしろ高まって来ているように感じます。
が、その「関心の高まり」が既存の寺院とは必ずしもリンクしていないのは確かで、そういう意味で、いわゆる「僧侶・寺院サイド」から見たら「宗教離れ」と見えるのかも知れません。
キリスト教会においても、例えばメインラインの日本基督教団などはジリ貧で、礼拝に来るのは年寄りばかり…との声をよく聞いたのですが、一方で福音派などは若者も多いようです。
結局、「宗教離れ」ではなくて、一般社会における宗教の受容の仕方や傾向が変わって来ていて、その変化を自覚していない・対処できない既存の「保守的組織離れ」というだけなのではないかと思えます。

また、こういう問題と親和性のある事ですが、檀家制度に対する批判も散見されます。
私個人としては、檀家制度の利点も過去には確実にあったと思っていますし、現在でも多少の利点はあろうかと思うのですが、しかし同時にデメリットもあります。
そのあたりの事を正確に踏まえて議論すれば良いのでは…とかつては思っていたのですが、恐らく議論以前に、いずれ檀家制度的寺院体制は徐々に崩壊の方向に進むでしょうから、殊更に批判せずに黙って推移を見てるのが正解なのかも知れません。
檀家制度の是非を議論する段階はとうに過ぎて、今は個々の僧侶が檀家制度の歴史的・現在的実態を見極めて、どうすれば仏法が日本に根付くか、伝道できるか、個々人の生き方の指針として再生して行けるか…という方向での新しい寺院のあり方、否、サンガ・ガナのあり方を考えていかなくてはならないでしょう。

いずれにせよ、宗教・仏教の持つ力そのものに対する期待は依然としてありますし、学びたいという方も結構、おられます。そういう「人そのもの」は今も昔も、そう変わらないのではないかと。
変わったのだとすれば、それはむしろ寺院・僧侶のサイドで、法の伝道と実践ということを閑却して適当な布教パンフや「大会」でお茶を濁し、あとは伝統芸能の宗家みたいな存在になってしまって、本山も末端も儀礼と経済と建設だけが主な仕事となってしまい、挙句に僧侶自身が仏教に対する知識も情熱もないという…それじゃ真剣に求めている人ほど、寺なんかには寄りつかなくなるのは必然です。
私自身もそういう「伝統的保守的檀家寺」の住職です。もちろん檀家制度のメリットもあるのでそこは活かしながら、ただ、その上に、今後の日本における仏法伝道・復興のために如何に動いていくべきなのか、何ができるのか、そういう点をしっかりと考え、いずれどうにかして動いていきたいと考えています。
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勤行表白之文

2012年08月19日 | 仏教・思索
毎朝七時半から三十分ほどの例時日課勤行をしているのですが、その時の「表白」を掲載します。簡潔単純な文ですが、それなりにまとまってると思ってます。自分で言うのも何ですけども。


勤行表白之文

当寺御本尊・薬師瑠璃光如来の御誓願に、衆生の諸難諸病を除き、現世に資生を施すとあれば、福楽寺檀信徒並びに本日参詣の諸人の、無明による三毒煩悩の病を離れ、大医王仏勝方便の御光に照らされて、身体健全・厄難消除・所願成就せん事、並びに先祖代々の諸霊得脱をも、至心に祈り奉る。
そもそも能所一切の有為法は無常かつ無我にして、不断に生滅する波の如くあれど、其の波底には一大海あり。我ら不断に四無量心・六波羅蜜の菩薩大行を修学し、無明の波に浮沈する苦悩の衆生を救拔して、倶に不一不二の一大海を覚さん。

乃至法界平等利益 
大乗之法師〔智秀・浄覚〕 敬白



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起信論・読誦用

2012年08月18日 | 仏教・思索
『大乗起信論』という仏典は、一般にはあまり知られていません。『起信論』「立義分」は、真言宗では御馴染の「読誦経典」です(正確には「論典」ですけれど)ので、真言宗僧侶の人は「立義分」というのは読めるのですが、内容はおろか、これが『起信論』の一部であることもよく知らない人が多いのが実情です。
この仏典の細かいことについては寺のウェブサイトでも若干ほど書いていますし、検索していただければそれなりの情報は得られると思いますから書きませんけれど、私は一般の方にもこの『起信論』を「読誦」していただきたいと以前から思っていまして、その「読誦テキスト」を下に掲載してみたいと思います。
これは「立義分」(「摩訶衍者~一切菩薩皆乘此法到如來地故」まで)の部分に、冒頭の「帰敬序」(「歸命盡十方~佛種不斷故」)と末尾の回向頌(「諸佛甚深廣大義~普利一切衆生界」)を加えたものです。

字数としては般若心経よりすこし少ないくらいですが、非常に奥深くて素晴らしい『起信論』の世界を簡潔に示した部分です。是非これを憶えていただいて、受持していただければ幸いです。


 大乗起信論

歸命盡十方 
最勝業遍知 色無礙自在 救世大悲者  
及彼身體相 法性眞如海 無量功徳藏 
如實修行等    
爲欲令衆生 除疑捨邪執
起大乘正信 佛種不斷故

摩訶衍者。總説有二種。云何爲二。一者法。二者義。
所言法者。謂衆生心。是心則攝一切世間法出世間法。
依於此心顯示摩訶衍義。何以故。
是心眞如相。即示摩訶衍體故。
是心生滅因縁相。能示摩訶衍自體相用故。
所言義者。則有三種。云何爲三。
一者體大。謂一切法眞如平等不増減故。
二者相大。謂如來藏具足無量性功徳故。
三者用大。能生一切世間出世間善因果故。
一切諸佛本所乘故。一切菩薩皆乘此法到如來地故。

諸佛甚深廣大義 我今隨分總持説    
迴此功徳如法性 普利一切衆生界
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戦争・仏教

2012年08月18日 | 仏教・思索
政治・領土問題・経済問題あるいは歴史問題で東アジア諸国が揺れていますが(根本原因は韓国・中国の無茶な主張かつ反日侮蔑日的姿勢にありますけれど、日本政府の事勿れ・土下座外交にも責任はあります)、政治的立場・日本的立場ではなく仏教徒としての立場から少し、コメントしておきたいと思います。
仏教徒としては、出来得る限り実際の戦争になることは避けなくてはなりません。「泣くのは庶民」というサヨクの常套句にも一定の真実があります。力のない者が不幸になるという事態は、仏教徒として積極的に容認することはできません。

私たち仏教徒が現在、しなくてはならないことは、

・仏教の教えを正しく知ること
・日中韓の仏教の歴史を正しく知ること
・日中韓の仏教徒が政治的立場を離れた仏教的立場で交流すること
・一般社会に対して仏教の教えを知らしめること

以上の四点を、取り敢えず大切なこととして提起します。

国家間の争いや歴史問題については、残念ながら現時点での速やかな解決は不可能ですし、もちろんそれはとても大切な事ではあるのですが、根本的に重要な事は仏教徒として個々の人間が心の平和を達成すること、友好的な関係構築に向けて努力すること…これは政治よりも大切です。ダライ・ラマ法王がチベット問題で暴力的対応を拒否している事は、私たちも鏡とすべきでしょう。

このような原則を個々人のレベルではしっかりと持ちつつ、現実の問題に対処して行かなくてはなりません。領土問題や歴史問題の政治的対立がそのまま、今生きている私たちの憎しみや排除につながることは、良い事とは思えません。

現在のところ確かに韓国政府の出方は日本に対し「超敵対的」であることは事実です。中国も然り。ロシアもまた然り。日本側も政府レベル・防衛レベルでは戦争も辞さないと言う断固とした対応は必要なのですが(非暴力不服従運動のガンディーは「もし卑怯と暴力のいずれかを選ばなければならないとすれば 、私は暴力を勧める」…つまり不名誉な土下座敗北主義よりは戦いを選ぶべきだ、と言っています。消極的「非暴力」だけでなく積極的「不服従」も大切で、重大な覚悟を要します)、そのことが国民相互の憎悪や戦争肯定論に直結してしまうのはやはり仏教徒としては幼い考え方です。戦う事は辞さないけれども、それを望むわけでもないし、国民相互の仏教的紐帯はあくまでも歴史的経緯や現実状況を超えて、いかなる事態に及んでも決して手放すべきではありません。
ただ、危惧もあります。特に韓国仏教界は歴史的に「愛国仏教・国士仏教・民族仏教」の伝統が強いため(これはかつての朝鮮半島での仏教の微妙な立場に由来する面も大きいのですが)、政治問題と仏教が密着しているので、そのあたりの区別をやはり立てていかないと、仏教が融和ではなくて戦争の一要素となってしまいかねません。中国も中共の一部門と化した国家仏教ですから、同様な面があるでしょう。
もちろん日本仏教も完璧ではありませんが、状況としては中韓は非常に悪いように見受けます。

仏教徒とて現代人であり、一国民です。色々な政治的な思想信条はあろうかと思います。立場もあるでしょう。その事は否定すべき事ではありませんし、大乗仏教というのはそもそも現世の状況に関して積極的にコミットしていく流れでもありますから、政治的発言をすること自体は否定的に考える必要もないと思います(出家の比丘はともかく、私のような大乗法師は在俗ですから尚更)。
ですから色々な立場はいいんです。その範囲で議論したらいいし、喧嘩したらいいんだと思います。自国・相手国の姿勢・政策を批判したり、歴史歪曲を非難することは大切です。正しい情報戦は推進すべきです。しかし「菩薩行」「慈悲行」「覚り」という大乗仏教の大原則がそのことで蔑にされていいわけではありません。それでは仏教の自滅行為です。
日中韓の仏教的紐帯はもっと幸福な状態であるべきであり、今のような対立的な国家関係に仏教まで巻き込ませては、東亜仏教史上の先人に合わせる顔がありません。政治と仏教は関係していますが、現代に於いて決して政治上位で仏教を壊してはならないと思います。
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日本の周辺状況

2012年08月17日 | 時事関連
私のブログには一応、時事関連カテゴリーというものを作っています。時事関連という以上、昨今の中国・韓国ならびにアメリカ・ロシアによる日本包囲網・日本四面楚歌についても語らざるを得ない訳ですが、言いたい事や言うべき事が多過ぎで、正直なところどう書いていいか途方に暮れています。
ですので、最近の日本周辺の状況について、全般的なところを書きます。あれもこれも書いてたら政治ブログになっちゃうので、何か劇的な変化があれば別ですが、取り敢えず全体図だけで、細かい事はいちいち書きません。

さて。

現在は色々な意味で「戦争」に近いということ。これは事実でしょう。特に対韓国について言うと、普通なら開戦直前の状況です。日本政府が腰抜けの負け犬であるおかげで韓国は命拾いしてキャンキャン吠えていられるのですが、普通の国なら黙ってないですよ。李大統領の宣戦布告スレスレ発言は決定的です、普通の国ならば。
まぁもっとも、大東亜戦争前夜の状況とも似ている現在、いくら追い込まれつつあるとは雖も、あの時みたいに後先考えずに全方位戦争やるわけにもいきませんから、なんとか包囲網を崩して、「平和的に(これは土下座外交ではなくて、戦争を回避するために情報戦・外交戦をもっと真剣に戦え、という意味)」事態を軟着陸させなくてはならないでしょう。
アメリカは信用ならないのですが、一応は同盟国らしいので別としても、中露韓の中でもっとも手を組み易いのは、現状ロシアではないかと。韓国は親中シフトですから、構図としては日露‐中韓に出来たら持っていきたい。あわよくば日露-中-韓というふうに三極化できれば、万々歳。
ロシアは信用出来ないけれども、中国とは決定的に手を結ぶと考えにくいので、手を突っ込む余地がある筈だと私は思います。対中韓という重大な懸案の解決のためであれば、北方領土は譲歩する価値があります。二島返還で手を打つことも選択肢ではないでしょうか(というか、そもそも解決の糸口がつきかけた事もあった北方領土が解決できないなら、絶対に譲ってはならない竹島や尖閣の解決なんてもっと無理)。
本当は尖閣をまとめて中国と結べればいいのですが、日本の腑抜けた政治家が中国と対等に外交交渉やれるとは残念ながら思えませんし、尖閣問題の出口も見えていないので、ちょっと危険過ぎます。…韓国は論外。手を結ぶというか、メインの敵対国家ですから。
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僧侶の学

2012年08月10日 | 仏教・思索
迂闊にも、「印度学仏教学会」には学者しか入れないと思い込んでいて、『印度學佛教學硏究』収載の論文もオンラインでつまみ食いしていたのですけれど、実は「準会員」という制度があって、大学などに所属する研究者でなくても『印度學佛教學硏究』の購読会員にはなれるんですね。つい最近、やっと気付きました。
もちろんオンラインで読めるっちゃ読めるし、いちいち会費を払って準会員になるメリットなんかないのでは…という考え方もあるかも知れませんが、私は紙媒体でないと頭に入らない体質ですし、「いつでもどこでも」という事で言うと、やはり『印度學佛教學硏究』は雑誌形態で読みたいので、さっそく準会員申請をしました。

そもそも仏教は医学における「研究医」と「臨床医」の役割分担と同様、文献学者と現場の僧侶の連携がとても大切です。文献学的知識の裏付けがない僧侶はやはり貧しい仏教認識に陥る場合が多々ありますし(ネット等で浅薄で頓珍漢な御高説を垂れて一般人を惑わすアホ僧侶のなんと多いことか)、現場を無視する文献学者の研究は字面の解釈学だけで宗教的意味は汲み取れていません。かならずお互いに補完しあう必要があります。
とは言え、現状ではやはり、現場の僧侶の知識不足の方が深刻ですから、たとえばこういう『印度學佛教學硏究』のような学会誌はもっと僧侶は読んで置くべきでしょう。年間わずか数千円で読めるんです。
にも関わらず「ひろさちや」や一般啓蒙書あたりを斜め読みして誤魔化すようでは、仏教専門家・法の教師として活動すべき僧侶としては情けない限りです。『家庭の医学』だけ読んで手術する医者はいないように、僧侶ももっと真剣に仏教学を学ぶべきです。専門雑誌だけではなくて、仏教学の専門書や原典注解書もたくさん出ています。僧侶の「仕事」は修行と学問です。「行・学」です。
日本には南都仏教における学問仏教の伝統がかつてありましたし、比叡山や高野山にも学問仏教の伝統がありました。残念ながら今は大概が形骸化・儀礼化して実質がないですが、そのような伝統があったことを思い起こし、近代仏教学・文献学の恩恵を感謝して受けつつ、文献学者とはまた違った「僧侶の学」というものを復権・構築していかなくては、と強く思います。
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自然科学。

2012年08月07日 | 閑話休題
私、高校は普通科じゃなくて「国語科」という専門学科のため、理数系の勉強をほとんどしていません。高一の時の「数Ⅰ」「理Ⅰ」しかやっていないので(高二以降はすべて文系科目のみ)、一般の高校生程度の理数系の勉強はまったくしていないわけです。
にも関わらず自然科学系分野には昔から興味だけはありますので、今でも『日経サイエンス』なんか読んだりしているわけです。勿論この程度であれば日本語が読めれば記事の言いたいことは概略わかるので問題ないんですけど、基本的な概念がイマイチつかめていない部分もありますから、今更になって勉強をやり直すべく、小学生レベルの理科テキストから高校レベルまで読み直そうと考えてます。いわゆる「第二分野」と生物・地学、あと化学と力学の基礎を、高校程度まで理解しておけば、もうちょっと自然科学分野の本も深く読めるようになるかなー、なんて思っています。
特に生物学・生命科学と宇宙論・地球科学という、専門家に言わせれば「シロート受けする分野」が私も好きですので(私もシロートなんだから上等です)、そちら方向は出来たら大学教養程度までは学んでみたいなぁ、と。それ以上は無理ですが。数学はまったくもって出来ないですから。
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