प्रज्ञापारमिता

𝔇𝔥𝔞𝔯𝔪𝔞 𝔗𝔞𝔩𝔨, 𝔅𝔲𝔡𝔡𝔥𝔦𝔰𝔪, 𝔗𝔥𝔦𝔫𝔨𝔦𝔫𝔤, 𝔞𝔫𝔡 𝔱𝔥𝔢 𝔚𝔬𝔯𝔡

定期購読誌

2012年07月31日 | 閑話休題
ちょっと前に、定期購読云々という記事を書きました。
で、定期購読誌の組み換えをしました。『寺門興隆』をやめて『東亜』等を追加すると言うだけのマイナーチェンジですが、新しいラインナップは、

・National Geographic
・月刊大和路ならら
・東亜
・大法輪
・印度學佛教學硏究(年2発刊)

こんな感じで。どうしても外せない雑誌を残しました。

ホントは総合宗教思想系の硬めの雑誌とかあれば買いだけど、ないんですよね。つまらない「団体ニュース」みたいな広報新聞はあるけども。残念…。
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夏だなぁ

2012年07月30日 | 閑話休題
8/1より、恒例の棚行ですが、今年はなんか一層、暑いような気がします。遠くの檀家さんの家は却って楽ですが(寺にクーラーはないけど車にはある)、クーラーの意味がない中途半端な距離(つまりサウナ車状態のまま)に散在している地区や、徒歩で回る近場は辛い。
そして田舎は、仏間にクーラーがない家が大多数。クーラー付きの仏間でお経、というのは、10件回って1件あるかないか。扇風機もロウソクが消えるからと、明後日の方向に向かってるし…。

法衣もクールビズないかねぇ。この時期に化繊の法衣で炎天下は自殺行為ですわ。

…。

でも、やはりこの時期のお参りは好きです。
夏はやはり、「供養」に関しては独特の空気感がありますからね。
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イジメと仏典

2012年07月19日 | 仏教・思索
色々と対応する仏典を漁ってはいるのですが、やはりこういう基本的なものが一番、しっくり来るのかも。あんまり難しい理論的なのとか、年配者ばかりの法話では使いにくい。慈悲の心が大切ですよー的な「良い話」も喜ばれるけど、前回の法話で四無量心やったしな。

以下は増谷文雄『仏教の根本聖典』他より。


『南伝 相応部経典3』

人の思いはいずこに行くこともできる。だが自己よりも愛しいものは、いずこに行くも見出されない。それと同じように、他の人々にとっても自己は愛しい。されば、自らを愛する者は、他を害してはならぬ。
自らの愛しいことを知るならば、自らを悪に結びつけてはならない。悪しき業をなすものは、ついに安楽を得ることは難しいからである。
何ぴとであれ、身によりて悪しき業をなし、語によりて悪しき業をなし、意によりて悪しき業をなすもの、その人は真に自己を愛する人ということはできない。
何ぴとであれ、身によりて善き業をなし、語によりて善き業をなし、意によりて善き業をなすもの、その人は真に自己を愛する人ということができる。
善き業と悪しき業とは、人がこの世にて作りしもの。それは彼自らのものであって、彼はそを背負って未来に行くのである。影の形に添う如く、この二つのものは彼に従うであろう。このゆえに、善き業をなして、未来の為に積まねばならぬ。


『法句経』

119・まだ悪の報いが熟しないあいだは、悪人でも幸運に遭うことがある。しかし悪の報いが熟したときには、悪人はわざわいに遭う。

120・まだ善い報いが熟しないあいだは、善人でもわざわいに遭うことがある。しかし善の果報が熟したときには、善人は幸福(さいわい)に遭う。

121・「その報いは私には来ないだろう」とおもって、悪を軽んずるな。水が一滴ずつ滴りおちるならば、水瓶でも満たされるのである。愚かな者は、水を少しずつでも集めるように悪を積むならば、やがてわざわいに満たされる。

122・「その報いは私には来ないであろう」とおもって、善を軽んずるな。水が一滴ずつ滴りおちるならば、水瓶でも満たされる。気をつけている人は、水を少しずつでも集めるように善を積むならば、やがて福徳に満たされる。

125・汚れの無い人、清くて咎のない人をそこなう者がいるならば、そのわざわいは、かえってその浅はかな人に至る。風にさからって細かい塵を投げると、(その人にもどって来る)ように。

127・大空の中にいても、大海の中にいても、山の中の奥深いところに入っても、およそ世界のどこにいても、悪業から脱れることのできる場所は無い。
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涅槃経から

2012年07月19日 | 仏典の言葉
以下は、仏教伝道協会『仏教聖典』からの引用です。
「大般涅槃経」が出典とのことですけれど、大蔵出版「新国訳大蔵経・大般涅槃経(南本)Ⅰ~Ⅳ」のどこに記載があるのか、パラパラ見てみたのですが見つけられませんでした。該当箇所を指摘してくださる方がいれば、お願いいたします。


暗闇の野にさす光

広い暗黒の野原がある。何の光もささない。そこには無数の生物がうようよしている。
しかも暗黒のために互いに知ることがなく、めいめいひとりぼっちで、さびしさにおののきながらうごめいている。いかにも哀れな有様である。
そこへ急に光がさしてきた。すぐれた人が不意に現われ、手に大きなたいまつをふりかざしている。真暗闇の野原が一度に明るい野原となった。
すると、今まで闇を探ってうごめいていた生物が立ち上がってあたりを見渡し、まわりに自分と同じものが沢山いることに気がつき、驚いて喜びの声をあげながら、互いに走り寄って抱きあい、にぎやかに語りあい喜びあった。
いまこの野原というのは人生、暗黒というのは正しい智慧の光のないことである。心に智慧の光のないものは、互いに会っても知りあい和合することを知らないために、独り生まれ独り死ぬ。ひとりぼっちである。ただ意味もなく動き回り、さびしさにおののくことは当然である。
「すぐれた人がたいまつをかかげて現われた。」とは、仏が智慧の光をかざして、人生に向かったことである。
この光に照らされて、人びとは、はじめておのれを知ると同時に他人を見つけ、驚き喜んでここにはじめて和合の国が生まれる。


今「イジメ問題」について仏教関係の書籍を色々と見てるのですが、なかなかしっくりくるものが見付かりませんね。この「涅槃経」の文などを利用して、応用的に話をして行くしかないでしょうかね…。

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イジメ対策

2012年07月17日 | 時事関連
大津の事件でニュースを賑わしているイジメ問題なんですが、「犯人捜しや個別事案の検討だけじゃなくて、今後の建設的な展望も考えないと」…というのは、昔から言われ続けてます。が、何も改善されていない。喉元過ぎれば、で、ニュースが古くなるとみんな忘れてしまう。
世間は忘れても、現場のイジメは続くんですけれどね。
私も小中時代には、たっぷり5年間くらいイジメに合いました。トイレで土下座、便器で洗髪、制服に唾を吐かれる、石を大量に投げられる…程度の経験はしています。弁当も誰かと食べた事はあまりないですし、体育祭や文化祭の時などは…。
まぁ、お陰で色々とモノを斜めや裏から見る、という訓練が出来たので、結果としてはイジメられて良かったと個人的には思うわけですが(当時、色々と考えたことが良くも悪くも私のペースのひとつです)、人によっちゃやっぱり死んだりする可能性があるわけですから。実際に私の周辺でもイジメ自殺はありましたし、やはりイジメ問題は深刻です。

さて、まず大前提。
イジメをなくす、というのはほぼ無理。大人社会にもあるし、世界中どこでもイジメはあるのだから。その当たり前の認識を出発点にしないといけない。「イジメを起こさない」のではなく、「起きた時にどうするか」。組織論や対策論はこれが基本。
その上で、「学校だけが社会ではない」と言う事を示す教育が大切ではないでしょうか。加害者も被害者も、そして教員も、「学校」と「家庭」という狭い世界しか知らないのだから、教育課程の中で、積極的に地域社会や多様な社会環境を体感させていく必要があると思います。現状の「社会科見学」の充実というのも大切だけど、ハッキリ言ってあんなものは(一部の児童生徒を除けば)効果がありません。ほとんど真面目に見てないですよ。メンド臭いか、或はちょっとした校外イベント程度の認識で、遠足の延長。そもそも、その道中でもイジメは続くわけです。
なので、もうちょっと強制力のあるイベントを構築すべき。
しかもグループ別ではなくて、できるだけ個々別々に(そうでないと、校内のグループ論理や上下関係が継続してしまう)。たとえば老人ホームで仕事を​手伝わせてみる。「見学」ではなくて、仕事。自衛隊で訓練させてみる。見学ではなくて、訓練。寺で修行も良いし。
または、海外研修。修学旅行などの甘いものではなくて、大人ひとりに子供3人くらいずつ、言葉の通じない地域で一週間くらい生活させる。協力しないと大変なことになる、という意識の下で。
グループを作ってやる場合でも、人間関係に関して相当な配慮のもとに組ませていく。まぁ、ここがポイントなんですが、もちろんもっとも難しいところです…。加害者グループを分割させるのは無論ですが、では、一概に加害者と被害者を分離すれば良い、という単純なものでもないので…。ケースによって、もっとも効果的な組み合わせは色々でしょう。そういう方面の専門家って、いないとは思うので、なかなか大変な仕事だとは思いますが。

いずれにしても、こういう、多様な世界を体感させていく事を、毎年毎年、どんどん​させていくことで、世界を広げさせる。あまりにも認識している世界が狭いと、みんな煮詰まっちゃうから。魚も狭い水槽だとイジメが始まるけれど、広いとそれがない、というし。
世界を広げる、というのはとても大切です。子供だけじゃなくて。
日常生活で周りを見てても感じるのですが、大人の世界でも、日常生活圏・意識圏というのが非常に狭い人がいます。狭い世界の「仲良し共同体」の良さもあるのですが、外部に対して精神的にやはり閉じていると言うか、半径数キロの範囲が自己世界のすべて、という状態だと、その中での人間関係がうまくいかないと、生活すべてダメになるんです。これじゃ、うまく適応できる人は良いけれど、そうじゃない人は…。
こういう悪い意味でのムラ社会というのは、学校も似たようなものですよね。会社も。どうしても視野が狭くなりがちです。ですから、子供時代にとにかく広い世界があるのだ、ということを体感させておく。それが大切だと思います。いい意味での「精神的逃げ場」が出来るんです。煮詰まらない。そうすれば、色々な点で複眼的な対応策・想像力も出てくるし、「イジメ」というもののスケールの小ささ、ショボさもわかって来る筈です。

もちろんそれでイジメのすべてが撲滅されるわけでは更々​ないけれど、少しはマシな空気感というものが出てくるの​ではないでしょうか。こういうことは、実は学校だけじゃなくて、日本全体の課題ですよね。
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雑誌

2012年07月12日 | 閑話休題
雑誌と言う媒体は限界に来ているような気がします。

書店に行けば雑誌だらけで、次々に新しいものも創刊されていますが、恐らく部数はすべて知れたものでしょう。一方で、歴史のある雑誌は少しずつ廃刊のもの増えているようです。
電子書籍媒体は雑誌に最適のものですから、今後はそちらに移行して行くか、オンラインの配信になっていくのでしょう。更新も随時にできるし、双方向性を活用したファッション誌やオピニオン誌は、新たな方向性も可能だと思われます。
時代の流れ…でしょう。

が。

私は寂しい。

個人的には、紙媒体が好きです。アナログ人間としては、紙のほうが電子媒体より格段に読み易いですしね。「ブツ」として手元にある、という重みも好きですし、大切だと思ってます。確かに「収納スペース」という問題を紙媒体は宿命的に負っていますし、その点でも確かに電子媒体は便利です。
しかしそれでも、やっぱり、私は…。

現時点では、仏教関連の専門的論文などはオンラインで読める事に感謝しつつ、一般雑誌は是非なんとか、紙媒体を維持してほしいなぁ、と願っています。

ま、定期購読ほとんどしていない私が言うのも何ですが(-_-;)

因みに私が定期購読している一般雑誌は、以下の5種類のみ。上のみっつは完全なる趣味で、大法輪は法話の小ネタ探しの為、寺門興隆は惰性です。

・ナショジオ
・日経サイエンス
・ならら
・大法輪
・寺門興隆

紙媒体でなくなる可能性で言うと、ナショジオが一番、アブない。今でもネット配信が充実してるから…でも、ああいう雑誌はゴロゴロ寝っ転がってまったり読みたいんだよなぁ。
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本当の故郷

2012年07月07日 | 仏教・思索
故郷 作詞:高野辰之、作曲:岡野貞一

1 兎追いし かの山
  小鮒釣りし かの川
  夢は今もめぐりて
  忘れがたき故郷
2 如何に在ます 父母
  恙なしや 友がき
  雨に風につけても
  思い出ずる故郷
3 志をはたして
  いつの日にか帰らん
  山は青き故郷
  水は清き故郷

作詞の高野(明治9-昭和22)は国文学者で、日本演劇史・近松門左衛門の研究などをした元大正大学教授。作曲の岡野(明治11-昭和16)は、クリスチャンで、このふたりのコンビで生み出された唱歌として有名なものに、「春の小川」「朧月夜」そして「故郷」などがあります。
一説には、この歌は浄土あるいは天国をモチーフにしているのだ…という説もあるそうですが、作詞家の高野自身はクリスチャンではなかったため、もしその説が事実だとすれば、これはキリスト教的天国ではなくて仏教的浄土をモチーフにしているのではないでしょうか。
もちろん、立身出世の志を胸に都会へ出ていき、いつか故郷に錦を…という歌だと受け取るのがもっとも素直なわけですが、しかしとりわけ2番の歌詞は、これを浄土の情景と捉えると、より深く思う所があるように感じます。
ま、歌は聴く者の自由ですから、そういう聴き方もまたアリかな、と。
仮にそのように聴く場合、1番は、過去。幼少時代に寄せて、この命の来る源を思う。故郷とは、命の大海。2番は、現在。既に亡き親、友人などを思う。海に帰ってしまった懐かしい波々。3番は、未来。帰る先の故郷は浄土。この世の務めを果たして、懐かしい源へ帰る。

「ふるさと」 小鳩くるみ
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議論…

2012年07月01日 | 閑話休題
以下は特別の「誰」ということもない一般論です。

さて。

日本人は議論・討論が苦手と言われます。確かにそれはそう思います。もちろん色々とネットを見ていたら、必ずしも特に日本人だけが…とも思わないのですが、基本的に、日本人が全体的には議論下手の方だ、というのは当っているとは思います(ただ私は、アメリカ人流の自己主張的議論は面倒くさくて嫌いですが)。

議論とはそもそも、何だろうか。

それは、きちんとした根拠を示して行う、あるいは「私の意見である」ことを明示して議論する、「声が大きい方が勝ち」ではないと知る、もっとも大切なことは「議論の勝敗・結論は第三者が行う者であり、当事者の癖に勝利宣言する奴はアホの極み」と悟る…なんてことを前提にして、言葉でもって、理性的に、その限界を自覚しつつ、所信を提示し合い、共通点と相違点を明らかにして行く事。これだと思います。

まぁ、「議論の定義」なんか他にも色々と作れるだろうし、私のは一例というか、一側面に過ぎないことですけれども。ただ、それなりに議論のあり方についての基礎ではあると思います。

で。

そんな事など無視して非建設的議論をする人は馬鹿もしくは非常識だけど、上記のような建設的議論と非建設的議論を識別できない奴は更にタチが悪い。議論という議論すべてを「争いだ」と拒否して「とにかくみんな仲良くしなきゃね」という思考停止主義はどうなんだろうか。
多分そういう人は、「意見と人格」の区分もままならず、意見否定即人格否定になっちゃう幼いタイプなんだと思う。

あと、通俗的経験主義も困りもの。「経験した事だけが真実で、経験していない事柄には触れるべきでない」というやつ。抽象的議論や文献学的議論なくしては床屋談義にもならないんだけれど、床屋談義と建設的討論の区別もついていないとしか思えない。

とりわけ、ネットの世界は、難しい。

いや、

現実も似たようなものかな…。
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神とは

2012年07月01日 | 仏教・思索
某サイトに私が書きこんだものを、備忘の為に転載しときます。
掲示板的でのやりとりなので、前後の文脈もあるのですが、そこは無視。

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神道の立場から主神、という考え方が成立するかは知りませんが(するとしたら、それは多分クニトコタチかな?)、仏教の立場では、ヒトラーであってもその本質は善なるもの(ただ誤解のないよう付言しますと、仏教での善は善悪二元論の善ではなくて、善悪不二の善、つまり善悪の彼岸にある絶対的な真如です)と考えます。無明によってその善性が隠没されているだけです。
但し「それを証明せよ」というのは土台ムリな話で、聖書の神だってかなりサディスティックですよね。あれが「完全なる善」なんて、そりゃちょっと怪しいところです。イエス・キリストにしても、冷静に客観的に見れば、まぁ偉人でしょうけれど、人類史上、他の追随を一切許さぬほど突出して素晴らしい…という程の卓越性はないように思えます。結局、キリスト教に於いても「信仰の有無」に真理性は担保されているわけです。仏性の存在証明についても同様で、そもそもそれを信じない立場の人には言うだけ時間の無駄、ということになります。こういうのを「水掛け論」と言います。
因みに「神」というものに関してですが、仏教において「神」というのは基本的には「迷いの分際」でして、人間よりも高位の生命段階ではありますが、それは「業の結果としての現状」ですから、その恵まれた状況にあっても現在、悪業を積んで行くことは可能ですから、必ずしも「神」だから表層の行為もすべて「善」である、ということにはなりません。力能は卓越していますが(だからこそ祀られます)。
結局、神に倫理性を求める、というのはセム系一神教の特徴であって、神道あるいはヒンドゥー、古くはギリシャ・北欧・エジプトに至るまで、神は力能の故に祀るのであり、倫理のゆえに祀るわけじゃない、という方が一般的なんじゃないでしょうかね。だからこれは「世界観の相違」であって、キリスト教的観点を他の宗教に強制するのは、端的に間違いです。
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