प्रज्ञापारमिता

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無我と霊魂と輪廻

2012年05月24日 | 仏教・思索
高名な仏教学者である奈良康明師の文章を読んだのですが、ひっかかりました。
浄土宗出版社の新刊書です。

輪廻や魂が実際に「あるか・ないか」という事は別にして(ここでそんな水掛け論をするつもりはありません)、「無我」であればそれらは成立しない、という論が理屈としてどうして成り立つのか、私にはわかりません。
「無我であれば不変の霊魂など認められない」という論旨のようですが、それがそのまま「魂はない」ゆえに「輪廻はない」という結論に、どうしてなるのでしょうか。

私とて仏教においては「不変の実体がない」ことなど百も承知ですが(不変の実体を是認すれば「常見論」となり、異端です)、しかし現実に「この私」というものは「ある」わけです。これは縁生の現象・一時的な「状態」として「私という対象化されうるもの」が一時的に成立している、つまり「空」として「ある」わけで、それまで否定するのは「断見」「虚無論」であり、「無我論」とは異質のものになるでしょう。
霊魂が実際にあるかどうか、その問題は形而上学的なものですから私も断定は敢えて避けますが、しかし「論理的帰結としてそれらは絶対に成立しない」という考え方はおかしいのでは、と思っています。

すべて無常・無我である。しかし現象としての身体や「私」は、ある。そして、そのレベルでの霊魂があったとしても、別に問題はないでしょう。無常の、かりそめの、縁生の無我なる霊魂。
少なくとも、「不変の霊魂はない」から「縁生の無常なる霊魂もない」ゆえに「輪廻はない」という事は、理屈として成立しないと思うのですが。これが成立するのなら、私の身体も世界も、文字通り「なにもない・無」ということですよ。そんな断見的な思想は、仏教ではないと思いますけれども…。
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うつき祭

2012年05月15日 | 閑話休題
来月、奈良の飛鳥寺で「うつき祭」というものが行われます。
私、「見学でも良いので行きたいなぁ」と思いつつ、日程的にも経済的にもちと厳しくて断念していたのですが…なんと妻の方に(尼僧として法要出仕の)お声掛けがありまして、妻が奈良に行くことになりました。

正直、羨ましい。

それにしても、飛鳥かぁ…。

天気が良ければサイクリングなど良いなぁ…。

また実際の様子など、妻に聞いたらアップしたいと思います。

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凡々淡々

2012年05月15日 | 仏教・思索
「気付きの瞑想」(場合によってはsatiとも言われるけれど、それに限らず)というのが、巷では流行っている…わけでもないけれど、一部の人の間では「ジョーシキ」となっているようです。本も売れるし、講習会だのもあるそうな。
勿論それ自体は別にいいですけれどね。ま、何でもやってみるのはいいことなのでしょう。一昔前に流行した「意識の変容」ブームよりは志向も随分マシになってるとは思いますし(個人的には「気付き」という単語はキライなんですけれどね)。
でもその内容をチラ見チラ聞した限り、伝統的な日本仏教のやり方を一歩も出ていないな、と。むしろ後退しているようにすら思えます。大上段に「瞑想でござる」「仏陀直伝でござる」などと肩肘張らずとも、つまり「生活即仏道」「喰う時には喰うに成り切れ、厠では用足しになり切れ、別事なし」と同じコトでしょ。日常是道・照顧脚下でケリのつく話を、わざわざカネ払って一日潰して、特別な場所・時間を設定して非日常にこれを実践しようというのは、そもそも見当違いではないのかと。
いったい「誰が」「何を」求めているんでしょうか。「何か」を求めて右往左往しているうちは、どうしようもない。

もちろん、師たる者が「非日常でこんな事やっても、実はどうしようもない」ことを示し、右往左往している自分を自覚するきっかけになるのなら、こういう「講習会」も意味があるでしょうけれども、どうもそういう方向性ではないみたいですから…。
日常の平凡で刺激も変化もない時間に根を張って、青い鳥を追い求めず、「今・ここ」でそのまま「永遠」が沿うようなものでないと、無意味です。もちろん時にリトリートすることの意義もあります。雑然とした忙しさに思考停止してしまう事は、誰にもありますから。
ただ、しかしリトリート等が非日常に留まるものならば無駄ですし、下手をしたら「何か他のもの・時間・雰囲気…」に依存しはじめ、日常と分離した二元的思考に陥る危険もあります。こうなってしまっては、処置なしです。
修行とは、なにか別の境地を求めるものではなく、平凡な日常を深めるものです。神秘も超能力も気にしない。そんなものはあっても日常、なくとも日常。どうでもいい事。殊更に求めず、排さず。ただ、平凡な日々を感謝し、深くしていく事。それに徹する時、日常がそのままで日常の底が抜ける。
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