प्रज्ञापारमिता

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弘法大師の詩

2012年02月15日 | 閑話休題
弘法大師というと、どうも偉すぎるというか、著作が理論的なものばかりで難解、人間味があまり感じられない…という声をたまに聞きます。
確かに日蓮聖人などの、和文による「湿気のある」文章や書簡がそれほど残されているわけでもなく、ほとんど漢文しかも美文調ですから、現代の私たちにとっては尚更、遠く感じてしまうのも仕方ありません。
しかしもちろん、弘法大師も「情なき人」であるはずはありません。それを彷彿させる歌をひとつ、紹介します。若かりし頃、唐・長安での一首。遠く日本を思い、また唐にある自分の姿をしみじみと思う心が伝わるような詩です。イメージされがちな難解華麗な文字ではなく、きわめて率直明快な文字を使用しています。
小山は築山、本国は日本、漢家は唐、花は牡丹。昶法和尚は、不明です。

在唐観昶法和尚小山  空海

看竹看花本国春
人声鳥哢漢家新
見君庭際小山色
還識君情不染塵


  唐にありて昶法和尚の小山を観る  空海

  竹を看 花を看れば本国の春なれど
  人の声 鳥の哢 漢家に新し
  君が庭際たる小山の色を見るに
  還た識る 君が情の塵に染まらざるを
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2012年02月14日 | 仏教・思索
やはり日本仏教の最大の問題点は、無戒
そもそも仏教の原則として、「戒・定・慧」は基本中の基本。戒学はその筆頭で、これなくして禅定・念仏・題目などいくらしても、そりゃ智慧と無縁の自己満足にしかならないのは自明。
そもそも在家信徒ですら十善戒なくしてまっとうな仏教徒ではない。ところが今の僧侶で、日日に十善戒をすら意識している者を見たことがない。戒を軽く考え過ぎなのではないだろうか。「戒=行動指針」程度の認識では困るが、現実としてはそこにすら達していない。
日本仏教の崩壊は、正しく戒の死滅に原因がある。

さてでは、大乗仏教における戒学とは何か。
在家信徒・信徒菩薩であれば、十善戒に尽きるが、大乗居士法師であればどうか。十善戒は当然ながら根本だけれど、それだけでは法師たるの要件としては不十分にも思える。法の教師である以上は、より徹底した仏道練磨への誓願・自覚が大切だからだ。
もちろん大乗菩薩道が僧俗不二の道である以上、具足戒は無用だ。これは出家の道であり、比丘を選ぶならば不可欠ではあるけれど、大乗仏教の理念上・原理上、これに拠らねばならないということは、断じてあり得ない。
伝教大師はこの立場から、大乗戒・つまり梵網戒の立場を宣揚されたわけだけれど、しかし確かにこれは「菩薩戒」ではあるが、私に言わせればこれは出家菩薩の戒である(十重禁戒に「不淫欲」がある。仮にも経典である以上、軽々に不邪淫戒などと読み替えて良いものではない)。僧俗にわたる菩薩通戒としては不徹底であろう。しかし確かに、その目的や構造には見るべきものがあるから、大乗居士法師は十分にこれを用いなくてはならない。
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今生の仕事

2012年02月04日 | 仏教・思索
最近、人と関わりたい・話をしたい・社会に参画したいと言う欲求がますます減退して来ました(政治や社会問題を外野から高みの見物…ってのは好きですけど)。まぁ、昔からそういう傾向はありましたが、ここのところそれが昂進してるような。
最低限の社会生活だけ営んで、あとは隠遁しちゃえば個人的には楽になれて良いなぁと思いつつ、しかし大乗仏教者としてはどうなのかと。そこが悩みどころです(-_-;)
時流に乗れず、引き籠り体質で、あらゆる「つきあい」は御免蒙る、本だけ読んでればいい…という社会不適応者の私ですので、多分、大乗仏教者としては失格に近いのでしょう。ただまぁ、幸いなことに人間自体が嫌いということでもないですし、仏教の話をするのだけは相変わらず好きなので、つまり私の「仕事」はそこなんだろうな、と。
勉強して、実践して、伝える。
時代遅れと言われても、需要がないと言われても、地味に修行し、しつこく勉強し、飽きずに繰り言の如く話していく。私自身の行も学も絶望的に不十分で、これでいったいに何を話すのかと悲しくなる時もあるのですが、どうせこれしか出来ないわけだし、今生の時間もあるだけしかないわけですから、まぁ、コツコツやることにします。
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三蔵の義

2012年02月01日 | 仏教・思索
唐代の円敬という僧侶の『唐故宝応寺上座内道場臨壇大律師多宝塔并序』という長ったらしい題目の本に、「三蔵」を解説した文があります。

三蔵に三義あり。
内は定慧戒を為し、外は経律論を為し、
陀羅尼を以て之を総摂す。


簡潔至極ですが、とても素晴らしい文です。
まず、三蔵法師と呼ばれた歴史上の偉大な僧は、単にそれが学解にとどまるものであれば偽者(あるいは半端者)であり、およそ「真実の三蔵法師」たるものは、学解のみならず持戒・修行実践を踏まえて智慧を把持した者である筈だ…という事です。
往々にして偉大な仏教学者が偉大な仏者でない場合があるのも、まさに「戒定慧」を兼備していないところにその原因があるのでしょう。
もちろん一方で、「戒定慧」を具備していても「経律論」を軽んじてそれに通じていないなら、「吾ただ独り」の行者としては良くとも、決して大乗の法師とは言えません。法師とはまさに、「言葉によって他者に正法を説く者」の謂いですから。
いずれにしても、理論と実践の相即がここに示されています。

最後の「陀羅尼を以て之を総摂す」の部分、これは密教の基本的な考え方に連なるものですが、念仏にしても座禅にしても題目にしても、あるいは他の様々な修行にしても、専一にまた至心にそれらを実践する「事」のうちにこそ慧が立ち上るのである…という事が根本だと思いますから、そういう意味では通大乗仏教的な思想として読んでもいいと思います。

短い文章ですが、味わい深いですねぇ。
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