प्रज्ञापारमिता

𝔇𝔥𝔞𝔯𝔪𝔞 𝔗𝔞𝔩𝔨, 𝔅𝔲𝔡𝔡𝔥𝔦𝔰𝔪, 𝔗𝔥𝔦𝔫𝔨𝔦𝔫𝔤, 𝔞𝔫𝔡 𝔱𝔥𝔢 𝔚𝔬𝔯𝔡

犀の角

2012年01月31日 | 閑話休題
同じ心ならん人と、しめやかに物語して、をかしきことも、世のはかなき事も、うらなくいひ慰まんこそうれしかるべきに、さる人あるまじければ、つゆ違はざらんと向かひゐたらんは、ひとりあるここちやせん。
たがひに言はんほどの事をば、「げに」と聞くかひあるものから、いささか違ふ所もあらん人こそ、「我はさやは思ふ」など、あらそひにくみ、「さるから、さぞ」ともうち語らはば、つれづれ慰まめと思へど、げには、すこしかこつかたも我とひとしからざらん人は、大方のよしなしごと言はんほどこそあらめ、まめやかの心の友には、はるかに隔たる所のありぬべきぞ、わびしきや。

~徒然草・第十二段~
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3年先の目標

2012年01月30日 | 仏教・思索
国訳一切経や新国訳大蔵経。
いくら国訳とは言え、今の私ではこれらを現代語と同様にスラスラ読む…というわけにはいかない。どうしても理解するにはそれ相応の時間がかかります。
そもそも仏典に限らないけれど、経書にしても史書にしても、漢籍というものは背景知識が命ですから、スラスラ読めない原因のひとつは私の知識不足にあるのは間違いありません。そういう意味で、周辺知識の不足が痛く、悲しい。
同様に、訓読体のリズムや規則が血肉になっていない…というのも問題。

なるべく必要な知識を十全に身につけて、現代語と同程度のストレスで国訳を読みこなせるようになりたいものです…というわけで、「3年以内に国訳仏典を読むストレスを現代語並にする」という目標を立てました。
もちろん仏典ですから、小説みたいに読めるわけではないのですが、少なくとも現代語の専門書を読むのと同程度にはしたい。そうしないと、いちいち読むのに時間がかかって結局は死ぬまでに何ひとつまともに読めなかった…となりかねませんから…。
そのためには、基礎的な漢文のお浚いも含めて訓読体のリズムと流れをもっと体に馴染ませていくことと、仏教教理・専門知識の蓄積。このふたつを改めて徹底してやっていきたいな…と。
これが出来るようになれば、儒道史書その他の漢籍の学習にも資するわけだし、とにかく3年間は地道にコツコツ頑張って行きたいと思います。今まで以上に。
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漢学塾

2012年01月24日 | 閑話休題
江戸時代から明治初期にかけて、日本各地に「漢学塾」というものがありました。
官立の昌平黌や各地の藩校では朱子学が教授されていましたし、大阪・懐徳堂や京都・古義堂、山口の松下村塾などの私塾も各地に大小様々あったわけですけれど、現在、すべて見る影もなく消滅しています。
もちろん東大や阪大、あるいは二松學舎大など、その原点に漢学塾の存在がある大学はありますが…それはもはや往時の「漢学塾」とはまったく違います。
それでも時々「漢学研究会」的なものがありますけれど、大抵はビジネスにどう論語を活かすのか…とか、易占絡みのものか…そういう「実利的」方向のもの、或は安岡正篤の本を読んだりする程のことで、とてもじゃないけれど朱子学だの陽明学だのの世界観的な部分まで扱っていないようです。
というか、そもそもそういう「場」すら上方・東京以外にはないわけで。

私はあくまで仏教者ですから、宗教的な意味で必ずしも朱子学だのを学ぶ必要性があるわけじゃないんですが、しかし漢学の素養は、東亜の仏教者として当然の教養として知っておくべきです(そうしないと、俯瞰的に漢訳大乗仏教世界を総覧できない)。それを学ぶ場が、かつての寺院や漢学塾だったのだと思いますが、今やどちらもダメ。寺院僧侶に漢学の素養はなく(漢文訓読の素養すらも)、塾は皆無。
私も現代教育を受けた者ですから、当然の如く、素養ナシ。

これじゃいかんと思って、以前から片手間に勉強はしているのですが、愈々このままじゃダメだと、最近になって本当に勉強しないとな…との気持ちが強くなっています。
とは言うものの、山口にそんな場があるわけもなく、完全独学の茨の道が眼前に続くだけ…。

しかしそれにしても、漢学・漢籍というのは宝の山なんですけれどね。
千年以上も日本の骨格を形成してきた漢学(広義の国学もそうですし、もちろん漢訳仏典に基づく硬質な日本仏教も含め)を捨ててしまって表層的な事象や経済性に翻弄されるだけの現代日本が、絶望的なくらい精神性の薄っぺらい国になったのも当然です。
時代は変わると言いますが、温故知新とも言います。過去と断絶した現在などあり得ないのに、それを敢えてしてしまうと、根っこもなく茎と花だけを愛でるような、脆弱な人間しか生み出されないことでしょう。
自分を土着の土から離して、別の根っこに接木してしまうなら別ですが(その是非は問いませんが、現実として現代日本人は既に土着の土から掘り出されてしまっていますので、いずれにしても根を下ろすべき土を見つけなくてはなりません…個人として、日本民族として、日本国として、東亜また世界の一員として…)。
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覚性還本

2012年01月23日 | 仏教・思索
私が死を迎えるその時は、目と鼻の先にある。
しかしだからと言って、長生を望むべきだろうか。

宇宙はいずれ終焉するし、その遥か以前に太陽は冷たくなる。
太陽が冷たくなるよりも以前に地球は焼け落ちるだろうが、
その瞬間を人類が目にすることはないだろう。
人類が滅ぶのはそのもっともっと以前の事だろうから。
そして私の死は、見える距離だ。
如何に長生したところで、時間の問題に過ぎない。

波はどれほど大きくとも、いつか凪になり、大海は鏡面となる。
虎は死して皮を残し、人は死して名を残すとは古人の言。
しかし宇宙の 否 地球の 否 人類の 否 
「この私の」死という現実の前に
いったい何程の意味があろうか。
積み上げたものはすべて、移り変わり、滅する。
モノもカネも名誉も友人も家族も愛も悲しみも誇りも。
人生とは何か…生きるとは何か…なぜいのちがあるのだろうか。
いずれすべてが
掛値なく すべて が夢幻と消え、跡形もなくなり、見る者もいなくなる時が来る。

静寂。

その静寂を感じる者はどこにもいないだろう。
誰も感じない静寂など、果たして静寂ですらない。

この人生は、それだけでは無意味だ。
何をなすべきか。
移りゆくものは美しい。愛しい。しかしそれだけでは無意味だ。
何をなすべきだろうか。

静寂の根源にあるもの、存在それそのもの、見る者なき主客孤絶の__

「それ」…という指示代名詞で指示せない「それ」 __
それをこそ覚しそれに還ること。
還るとはいえど、それは不動の還帰行。
それこそが、移りゆく無常の宇宙の本当の姿だ。
それこそが、移りゆく無常の我々の本当の姿だ。
それを知らぬなら、諸行は果てしなく美しい幻花に過ぎない。

幻花を愛でるのをやめよ。
幻花を通して実花を看よ。
実花を看てこそ幻花は真実に輝く。


移りゆくものは、なんと美しいのだろう!
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社会思想社

2012年01月21日 | 閑話休題
かつて社会思想社という出版社がありました(2002年に倒産)。まぁ、名前の通り確かに「そっち系」で、左翼がかった書物も出していたのですが、この出版社の命だったのは「そっち」では決してなく、紛れもなく「現代教養文庫」シリーズの存在でした。
小学生・中学生時代には私も随分とお世話になったものです(FFシリーズや雑誌『ウォーロック』含め)。
特に山室静・井村君江の北欧神話&妖精学関係等、ヨーロッパ文化系の知識の基礎は、この時期にこのシリーズの本から吸収したものが大きいんですが、特に山室静『サガとエッダの世界』は本当に素晴らしく、実は仏教に関心を持った原因のひとつはこの本にある、と言っても過言ではありません。まぁ「風が吹けば」の類で、話すと長くなるのでそのあたりの話は省きますが。

で、何が言いたいのかと言うと。

もちろん社会思想社は倒産していますので、現代教養文庫も絶版になり、入手困難になっています。古書店ではたまに見かけますが、御世辞にも良い状態といえるものは少ないです。
が。
実は文元社という出版社が「教養ワイドコレクション」という名前で、現代教養文庫(の一部)を復刊させています。良書が軒並み闇に葬られていくだけの昨今、なんともまぁ嬉しいことです…が、高い。価格設定が高すぎる…。
現代教養文庫は基本、500円~800円まででしたけれど、復刊されたそれは3000円~4000円が中心価格帯。ちょっとこれはなぁ…そのくらいの設定じゃないと採算も採れないんだろうけど…。
子供でも気軽に買える学術入門書、というのがかつての私には嬉しかったんですが、この価格設定では子供は無理でしょうね。それは少し残念なんですけれど、まぁ、それを差し引いて考えてもやはり素晴らしい事業ですし、こういう良書は息長く出版され続けていって欲しいものです。
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宗教と文学

2012年01月19日 | 仏教・思索
評論家の宮崎哲弥が近著で、「宗教的な方向に向かう人間と、文学をやるような人間はクロスしない」的な発言をしていました。
ま、なんとなくわかる気はするんですが…。
巷には宗教文学という分野(?)があって、古典は別にしても、例えばドストエフスキィやトルストイ、あるいはジッドもそうだし、日本だと宮沢賢治や倉田百三、遠藤周作、三浦綾子…まぁ、色々といるにはいますが…ただ、宗教文学を書いている人が宗教的人間とは限らないですし、宗教的人間が書くものが果たして「文学かどうか」というのも難しい問題ではあります。実は信仰告白書の類ではないのか、という見方もあるわけですから。
そもそも宮崎哲弥の言う「文学と宗教」の定義自体が不明確ではあるのですが、具体的なカタチ自体というのではなく、両者の抱えている性向・世界認識の相違というレベルでの話であれば、それは何となく、わからなくもないです。
私も高校時代は相当に近現代文学(日独仏露&SF)を読んでいましたが、ある時期からパタリと読まなくなりました(古典は読みますけど)。何というか、(少なくとも近現代の)文学と宗教の空気感・世界観の違いは、確実にあると思います。ただ、どんな人にも、どんな作家にも、この両者が絶対にクロスしないかと言われると…それも難しいけれど。
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復興バブル

2012年01月19日 | 時事関連
仙台が「復興バブル」というニュースを見た。

夏以来、国分町という歓楽街がバブル期以来の大繁盛で、連日満員でドンペリは入るしカネ払いも上々、キャバクラの新規出店ラッシュ、ホステスの時給も東京並の平均3500円に上昇。水商売業界はウハウハのボロ儲け。また高級時計や外車の販売も絶好調で、百貨店の売り上げも爆上げ中。
その理由としては、まず建設復興需要の増大でカネが仙台などの都市部で回り始めているかららしいけれど…まぁ確かに、「消費も復興支援だ」とばかりにマスコミも散々煽って来たわけだし、事実そういう側面も否定はできないんだけれど…うーむ…バブルねぇ…浮ついたカネとモノの洪水…ねぇ…単なる「復興支援」とは違う臭みを感じざるを得ませんけれども。

なんだかこういう派手な動きを見るほどに、私はうら寂しい感じがします。
それにしても、こんなんで良いのですかね…復興支援を錦の御旗にしてればこういう風潮も肯定されるのでしょうか…私にはよくわからん。
「東北の光と闇」という特集だったんですが、どうしても私はバブルの仙台が「光」には見えないんですよね。被災地と別の意味で、仙台もかなりの闇の中に感じました。仙台は…というか、「人間は」と言うべきかも知れませんが。


…私は現実逃避して本でも読みます。
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平安ブーム?

2012年01月18日 | 閑話休題
一時期の江戸ブームが下火になり、最近は平安時代が微妙に流行ってるの?

3年前に出た学術文庫の『御堂関白記』の現代語訳出版を嚆矢に、今は『権記』の現代語訳が出版中で、大河は「清盛」、映画では『源氏物語』の公開…。

考え過ぎか(笑

しかし、てっきり今年は古事記絡みで神話ブーム到来かと思っていたんだけれど。まだあんまりその兆候がない。神話ブーム来ないかなぁ。

…と、言いつつ。

私はマイペースに、寝る前に布団で『太平記』をつまみ食いしています。これ読んだ後は、平安時代ものでも読もうかな…『御堂関白記』まだ読んでないし(-_-;)
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坊主丸儲け?

2012年01月18日 | 閑話休題
いまだに「坊主丸儲け」で税金をまったく支払っていないと思ってる人がいるらしい。
また、お布施はそのまま僧侶の収入になると思ってる人も。
「だから」僧侶にでもなれば安泰だ、失業したから坊さんに…などというアホも出てくる。

そんなわけないやんw

たとえばうちの寺は住職である私と、一応は副住職格の妻とふたりでやっています(ふたりとも勿論、真言宗籍を持つ法師です)ので、いわゆる大寺ではない所謂フツーの檀家寺です。
行事あるいは法事、葬儀の際に「お布施」をお預かりして、それで寺院運営をしているわけですが、この「お布施」の考え方に、ふたつあります。

ひとつは宗教的な考え方。
簡単に言うと、布施は基本的にはすべて「御本尊にあがったもの」ですので、僧侶の個人的なものではありません。その御本尊に上がったものを「寺院の維持運営&宗教実践&仏教学等の学習&基礎的な生活費」に使わせていただいている、と言う事です。「基礎的な生活費」の「基礎」の解釈が問題ですが、「なるべく贅沢しない」という事です。基本的には、「お布施」は寺院の維持運営と伝道活動その他のためですから、それをする為の生活に使うという事です。高級外車に乗る等(しかも寺の経費で!)、その目的を逸脱する部分は当然×でしょう。

もうひとつの考えは、世俗的な部分。
いわゆる「布施」は「法人収入」です。「法人収入」である以上、きちんと帳簿が必要であるのは言うまでもなく、僧侶個人の取り分は「給与」として、一定額が決まった日に支払われる、という形になります。つまり「法人所得」はあくまでも「法人所得」ですので、好き勝手に使ったら背任になります。犯罪です。
さて、この「法人収入」については、公益法人として確かに免税です(但し、境内地以外の法人名義の土地があれば、固定資産税は課税されますし、駐車場等の事業をしていれば普通に税金がかかります…うちは事業は何もしてないですが…)が、しかし僧侶個人の収入である「給与分」については、これは普通に所得税がかかりますし、住民税その他、すべて一般と同様です。

こういうこと、あまり知られていないんですよね。

そもそもの話ですが、一部の大寺院を除けば、「法人収入」のトータルでも年間500万円以下、という寺院が地方では大多数です(500万あれば、中の上です)。ここから境内の維持運営、行事采配、そして給与を取る…なんて、ほとんど不可能。ですから兼業僧侶が多くなるわけですが、幸い私の住持している寺はギリギリのラインであれば僧侶に専念できるので幸せな事ですけれど、それでも法人収入の総額で公務員平均給与と同程度のレベルです。
寺院維持には想像以上のお金がかかる(常に古びた建物の修繕をしなくては住めないし、本山への宗費、かなり高額な火災・地震保険その他、莫大に出費がかさみます)し、また将来の改築のための貯金もしなくてはなりません。給与がどの程度になるか、推して知るべし。とてもじゃないけれど「坊主丸儲け」とは程遠いのが現実です。

まぁ私の場合、好きでこの道を選んだわけですから、個人的には金銭的に不満もなくこれで結構なんですけれど(維持できなくなれば維持できないんだろうと、それはそれだけの事ですしね)、ただ、「坊主丸儲け」という色眼鏡で見られてしまうと、現実的に「やりにくいなぁ」と困ることがあります。勝手に「寺は金持ちだから、うちらとは違うしねぇ」と思い込んでいる人もいますので、そうなると斜に構えられてしまい、どうにも仏法の話もやりにくい…という場合があります。
ま、寺の建物自体が大きいので、そういう誤解をしているのかも知れませんが、建物も法人の建物ですから、別に僧侶の持ちモノじゃないですからね。住職(法人代表役員)を辞任したら退去しなくてはいけない。
他にも24時間年中無休、旅行どころか夫婦で昼間に外出すらほとんど出来ないし、地域で人の目は注がれるし、人間関係は複雑になるし、風邪引いても代わりが効かないから葬儀・法事・行事は這ってでもやらなきゃいかんし。それで給与は初任給以下、ボーナスなし、国民年金、下手したら兼業しないと食えない…。
というかそれ以前に、そういう「食えない寺」ですら、一般家庭出身者はなかなか入ることができないのが現実です。

仏教が好きで、これに一生すべて懸ける覚悟じゃないと、まず、やってらんないでしょう。実利的に考えれば、割には合いません。自由もなく、お金もないんですから。

ということで、失業したからとか、職がないからとか、なんとなく楽そうだからとか、そういう安易な理由で坊さんになりたいという人は、どうぞ、他の道をお薦めいたします。
逆に、最低限度の生活であっても、仏教が好きで、仏教の行学を真剣にやっていきたいという人がいれば、どんどんこの道に進んで欲しいものです。これからの時代は今までと違い、本当に真剣に精進する宗教者・仏教者だけが求められていく時代です。
決して経済的には「坊主丸儲け」ではありませんが、自分の人生にとってはこれ以上の「益」なる道はないと思います。本当の「利益」を「丸儲け」したい人にとって、単なる「世俗の自由」ではない「本当の自由」を得たい人にとって、仏教者になる事は理想の道だと思います。
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現世利益

2012年01月17日 | 仏教・思索
当寺の本尊は、薬師如来です。

薬師如来といえば現世利益が注目されがちで、確かにそういう人の願いも受け止めていかなくてはならないわけですが、しかし根本はやはり「三毒煩悩(貪り・怒り・愚かさ)の病を調伏すること」、これに尽きます。
諸行無常である限り、体の病はいつかは受け入れなくてはならないし、人の命には限りがあります。天寿は如何ともし難い。釈尊も他の覚者・先師・諸菩薩の方々も、皆、その道を歩まれて、形色の身体を去りゆかれました。
では、薬師如来の真の御利益とは何か。
それは、三毒煩悩の病をこそ超克して如来蔵一大海を覚し、もって現世に菩薩行を生きる者となることです。諸々の現実的な病を癒す等等という資生の誓願も、結局はその「菩薩行を生きる者となる」為の勝方便と受け止めなくてはなりません。
「祈った、癒された」…それだけでは、無意味です。
「祈った、仏性を感じた、信じた、他者の仏性を拝む…あぁ、自他不二だったのか」。現世利益を通して、本当の実相に目覚めることこそ肝要です。そして真剣な祈りは、必ず、そこに到達します。それが「信」です。
具体的な癒し・現世利益ついてはその後に来る筈のものです。現実に不思議な「しるし」があり、病が癒えることもあります。しかし事ここに至った時、その人の利益観は劇的な変容を遂げていることでしょう。
繰り返しますが、単なる現世利益は、ただそれだけのことです。
本質をしっかりと見極め、自分自身の本有の仏性をこそ覚すべく祈りの生活をしたいものです。

毎朝の勤行時に読み上げている表白があります。

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勤行表白之文

夫れ惟みるに、福楽寺御本尊・薬師瑠璃光如来の御誓願に、衆生の諸難諸病を除き、現世に資生を施すとあれば、当寺檀信徒並びに本日参詣の諸人の、無明による三毒煩悩の病を離れ、薬師如来勝方便の御光をもって、身体健全・厄難消除・所願成就せん事、また先祖代々の諸霊得脱をも祈り奉る。
観行之文に曰く、
能所一切の有為法は、無常かつ無我にして、不断に生滅する波の如きも、其の波底には一大海あり。我は無尽の大乗法門を修学し、諸の善巧方便もて、無明の波に浮沈する苦悩の衆生を救拔して、倶に不一不二の一大海を覚さん。

乃至法界平等利益 敬白
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