प्रज्ञापारमिता

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宗教書の氾濫

2011年12月26日 | 仏教・思索
いま、宗教を知りたいという記事がasahi.comに出ています。
実際に書店では「一個人」や「Pen」などの宗教系特集を組んだ雑誌が目立ちますが、まぁ内容は大同小異、粗製乱造の極みで、別に買って読むほどの価値があるものは皆無です。書いてる人も小池龍之介とか玄侑宗久とか、一昔前のひろさちや、瀬戸内寂聴の亜流みたいな人ばかり。
一時の慰みにはなるかも知れないけれど、それだけ。

ただまぁ、こういう軟派なのがウケるんだろうなぁ…。

まぁ軟派なのはいいですが、でも、善悪正邪の判別もできない読者がこういうのに無批判に惑わされると、一部の人は更に変な方向にシフトしていく危険性もあるんじゃないかと。そこは危惧します。
事実、「スピリチュアル」を標榜する「新・新・新宗教」的な、従来型の教団宗教とはまったく違う形のサークル型・非組織的カルト・ムーヴメント、例えばレ●キだとか、そういうものの陥穽に嵌まる人も現実に多いわけで…。
もちろんそういうタイプの「宗教」は昔からあったんですけれど、ここ最近また数を増しているというか。多分、「宗教団体はイヤ」なタイプの層は、こういうところが「獲得」していくのでしょう(団体所属志向の人にももちろん、真●苑だの親●会だの、選り取り見取りで従来型のカルトがあります)。

いずれにしても、宗教書が多く出ることは…仏教者として、個人的には歓迎すべきことのようですが、質が低すぎる場合は問題も出てくるような気がしています。

井上順孝・国学院大教授の言うように、「いつの時代も宗教や呪術的な力への関心はあり、法律やメディアなどの抑制が弱まると盛り上がる。今はオウム事件前の状況によく似ている」。
そういうこことなんだと思います。
確かに宗教伝統の中には素晴らしい「宝」、何ものにも替え難い最高の真実・真理が輝いています。しかし同時に玉石混交であり、こういう世界には魑魅魍魎が跋扈するのは古今東西の現実、努々、踊らされないように…御用心。
宗教に関心があるのなら、地味かも知れませんが、伝統的で評価の定まった、古典的で堅実な良書を幅広くまず読むべきですね。

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仏教書の読み方

2011年12月24日 | 仏教・思索
仏教学者と仏教者。

仏教学者とは基本的には文献学者です。
緻密厳密な筋道を、文献を基礎として辿りつつ、その限りにおいて客観的な論証を積み上げていく。それが仏教学。つまり、出された結論については、文献学的な土俵で反証可能であるし、(現在ある文献あるいは遺構など資史料の範囲内で)万人が認める結論を出す事も可能。
一方、仏教者というのは、自分の生き方において仏道というものがいったいどういう意味を持っているのか、その「道」を歩くとは何か…どう仏道を生き死ぬのか、苦を超克するとは何か…等ということを、リアルに実践して行く者のことです。

この「仏教学者と仏教者」は、両立可能です。
両立可能ですが、どちらか一方であることもまた、可能です。
そして真剣に仏教に関わっている大概の人は、このどちらかでしょう。

私は「仏教者」であって仏教学者ではないので、いわゆる文献学については専門書・研究書の類を読ませていただいて糧にするばかりですが、この「専門書・研究書」の読み方について、少し注意を要することがあります。

まず、専門書のような体裁の「独善的宗教書」があるという点。
あたかも文献学的に立証された「事実である」という体を装いつつ、無意識的・意識的に、いわゆる「切り文」のような事をして、都合のいい事実を提示しているだけ、という事があります。「群盲、象をなでる」という本です。書いてる「事実」そのものは確かに正しいのだけれど(そもそも事実が「正しくない」のもたくさんありますが)、一面的である、ということですね。他の面をバッサリ書いていない。一部の上座部系や法華系のカルト新興宗教の文献に多いと思いますが、他の宗教本でも同様でしょう。
次に、確かに文献学的専門書なのだけれど、事実誤認がある場合。
これは文献の読み方が根本的に間違っている場合、論者の解釈が特殊である場合、自分の信条を過度に入れ込み過ぎて資料を誘導的に使ってしまう場合…。特に密教や如来蔵思想について批判的に論ずる学者にその傾向が強いと私は思うのですが、これも注意を要します。
いずれも、単なる知識不足に起因する場合もありますが、意図的なところも多々ありますので、その場合は多分、普通に読んでいたら「騙される」ことになります。

しかし私みたいな単なる「仏教者」にとって、上のような「正しい読み」を注意深く、十全に行う事は至難です。恐らく、無理です。無理ならどうするか。
結局は「広く読む」ことしか対策がない事になります。
例えば如来蔵思想について調べる場合、駒大の松本・袴谷両先生の研究書が非常に有名で、あれだけ読んで何かしら知ったつもりになる人が多いのですけれど、実は正面から彼らを批判している学者もいるわけです。古くは平川先生、あるいは高崎先生や花野先生など、また直截的な批判はしていなくても、その立場が駒大の両先生と違ったスタンスの先生、たとえば鎌田先生や柏木先生の本なども対照して検討してみる。
もちろん竹村先生や桂先生など、また別の立場の学者もありますから、それらも勿論、読んでみる…とにかく「対立的視点も比較して検討する、早呑み込みしない」という事。これが重要。

純文献学的な土俵の問題ならまだ良いのですが、「本当の」などという枕詞を使ってある学説を批判する場合、これは特別に注意しなくてはなりません。学術書の顔をしていても、実は信仰告白書の側面もあるわけですから。
実はそういう「ちょっとアブない本」の方がセンセーショナルで確かに面白いんですけれど、それだけ危険も大きいという事だけは、しっかり理解しておきたいものです。
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念唱止観

2011年12月19日 | 仏教・思索
能所一切の有為法は無常かつ無我にして、不断に生滅する波の如くあれど、其の波底には一大海あり。
我ら不断に六波羅蜜・十善戒・四無量心の菩薩大行を修学し、無明の波に浮沈する苦悩の衆生を救拔して、倶に不一不二の一大海を覚さん。

六波羅蜜…施 戒 忍 進 禅 慧
十善戒……不殺生・不偸盗・不邪淫
   不妄語・不綺語・不悪口・不両舌
   不慳貪・不瞋恚・不邪見
四無量心…慈 悲 喜 捨


…。
書くと簡単。
理解もできる。
さてでは、これを完璧に薫習させることは?
この文の如きを完全に観ずることが出来て、
大海摂入できれば、それは如来全現です。
理解が簡単である事と、実践が容易である事とは、別。
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金正日死去

2011年12月19日 | 時事関連
北朝鮮・金正日総書記が死去したようです。
少し前には中国の江沢民元国家主席死去の誤報が出ましたが、今回はあの朝鮮中央テレビで報道されましたので、死去は確実なようです。
早速ネットでは色々な書き込みが各所でなされていますが、私は屍に鞭打つのは趣味ではないので、その類の狂喜乱舞・罵詈雑言に同調はしません。確かに生前には色々な罪を作って来た人物でしょうけれど、それはそれとして、彼の為した業が僅かなりと自性清浄の真心に薫習感応し、いつか一大海に還帰することのみを祈りたいと思います。

それより問題なのは、現実の情勢です。

権力移譲が中途半端な状態での死去は、東北アジアにとっては非常な不安定要因になります。北朝鮮国内においても、金王朝存続派と「改革開放」派、そして軍部の権力闘争は避けられないでしょう。正恩はまだ若く、カリスマ性にも欠けていると思われますので。恐らく、現体制は数年ともたないと思います。
また北朝鮮のどの勢力が勝つにしても、中国との関係はさらに従属的になるでしょう。果たして中国のプレゼンスが劇的に上昇する中で、韓国とアメリカがどう行動するのか…。最悪のケースとしては、アメリカが中国のプレゼンス増大を黙認することですが、それは十分にあり得ることです。
そうなると、日本は非常に微妙な外交を迫られることになるわけですが…果たして日本の政治家に対応能力があるのかどうか、非常に不安です。
外交的無能は戦争を惹起する…というのは古今の常識ですが、戦争・紛争あるいは混乱を回避するためには、場当たり的な外交ではなく、日本の立場を明確にした断固たる姿勢が不可欠です。腰砕け、日和見の今までの政治姿勢のままだと、大変な事になりかねません(既になっていますけれど)。
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般若仏母像

2011年12月17日 | 仏教・思索
先日このブログでも書いたように、私個人の念持仏として仏師の方に依頼していた般若仏母が来たので、まずは持仏間にお祀り致しました。



この仏像には、仏舎利を入れています。白布にくるんで、7粒。この般若仏母像が来るまでは、この仏舎利を奉安した舎利器を中央に祀っていたのですが、やっと納めるべき場所に納まってホッとしています。
取り敢えず開眼はまだです。時期を見て開眼供養したいと思っています。

実は同じ般若仏母のタンカも今、依頼をしています(これはインドの亡命チベット人絵師です)。まだ着手していないので、暫く時間もかかろうかと思いますが、完成すればこの仏像の後ろに祀る予定にしています。なので、今はまだ背景は真っ白。

まぁともかく、これで明日からまたしっかり修行できそうです。


那謨婆伽跋帝 鉢喇壞 波羅弭多曵
唵 伊利 底伊 室利 輸盧駄毘舍耶 毘舍耶 莎婆訶



因みに右の護摩札は、妻が加行中に祈念したものです。
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般若仏母

2011年12月16日 | 仏教・思索
念持仏の般若仏母(私は般若菩薩というよりも、仏母という表現の方が良いです…仏の存在基盤たる智慧そのものを象徴しているわけですから)を、仏師に依頼して彫っていただいていましたが、完成したということで、近日中にはこちらに迎えることが出来そうです。
この画像は、その仏師の方が制作したものです。



お気づきの通り、この仏像は一木からの彫り出しで、よくあるように寄木ではありません。個人的に彫り出しが好きなのと、長距離での遷座を考えて…ということで、この形になりました(将来、インド仏蹟巡拝時に同伴したいのです)。
また宝冠には青海波の模様です。
もちろんこれは如来蔵の象徴で、直接的には大乗起信論の海波の譬が由来です。また仏母、それも根源的無分別の智慧を象徴する仏母ですから、「本源的海―現象的波」の本質的同一性を顕す海波紋を使う事はまことに相応しく思います。
勿論、わたしの坊号「水波坊」もまた、同じ由来です。

ちなみに、一木彫りが良いなぁ…という最初のきっかけは、より「木の中から出て来られた」感が強いということと、もうひとつ、石窟寺院が好きだ…という単純な理由です。中でも特に、インド・エローラのカイラーサナータ寺院です。
この寺院をはじめて写真で見たのは、19歳の頃と思いますが、衝撃でした。
ひたすら一枚岩を彫刻して作り上げた寺院…まさに、岩の中から湧出してきた神の世界です。もちろんこれは仏教寺院ではなくてヒンドゥー寺院なのですが、そういう事を超越した、物凄い力を感じました。
これが「組み立て式」の普通の建築だと、確かにスゴイけれど、こう、プリミティブな迫力はあまり感じなかったでしょう。
念持仏である般若仏母についても、そういう事から、是非に一木彫で…と。そういう事で今回、無理なお願いで彫って戴いた次第です。
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サンタ菩薩供養

2011年12月15日 | 閑話休題
蝉丸P…。
これは…個人的には嫌いではないけれど、私は真似できんなぁ…。

仏式クリスマス法要・サンタ菩薩供養だそうな。



まぁ仏教はキリスト教なんかと違って、神を崇めて云々じゃなく、自心の源底を覚知する…ということで、まぁ、別に遊びでこれやったからって何がどうなるっつーわけでもないんだけれど、うーむ、この動画を見た人が色々と誤解をするかもね…。
「日本仏教はだからダメなんだ」って。
「こういう神聖なものを遊びで使うなんてとんでもない!」とか。

そりゃま、確かにそうなんだけれどね。

ただ、クリスマスについて、たとえばセント・ニコラウスの逸話である
「ある日ニコラウスは、貧しさのあまり、三人の娘を嫁がせることの出来ない家の存在を知った。ニコラウスは真夜中にその家を訪れ、屋根の上にある煙突から金貨を投げ入れる。このとき暖炉には靴下が下げられていたため、金貨は靴下の中に入っていたという。この金貨のおかげで娘の身売りを避けられた」(by.Wikipedia)
とかいうのが「慈悲行」であって、宗教を超えた人間の仏性の顕現であり、如来の勝業の現れであり、意識していなくとも、これは菩薩行に他ならない…ということで、その「慈悲行」の人格化としての「サンタ菩薩」ということならいいのか、とか。つまり究極的には普遍的な仏性の人格化…悉有仏性だし…どうかな?(笑
まぁ、そもそも習合は仏教の十八番ということで。天部とかさ。
そういやヒンドゥー教だって、サントーシ・マーという女神はテレビドラマ発祥だし。

…。

個人的には、肯定はしないけれど、敢えて否定もしないでおこう(笑
でも何というか、私も真言宗の坊さんで良かったなぁ、とは思う。いやマジで。
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ひとりごと

2011年12月12日 | 仏教・思索
「漢語仏教圏の仏教なんかやってる奴は、パーリに基づいた正統な仏教を学んでいないから、「唯一・本当の」仏教ではなくて、間違って伝わった変な宗教を信仰しているだけだ」

最近こういう話をする人がよくいますが。

まぁ、そっちの立場の人が言うだけならまだいいんだけど、中には天台宗の僧侶だったり、浄土真宗の僧侶だったり、そういう立場でこういうモノ言いをする人がいたりするので、私はげんなりしてしまうわけ。
彼ら、大乗仏教や漢語仏教を全否定しておきながら、その看板でメシ食ってるわけです。彼らはまさか葬式でお布施なんかいただいてないとは思うけれど(だって日本仏教批判のひとつとして「葬式」そのものを全面否定してるわけだしね)、私の気のせいか、葬儀業者の僧侶派遣サイトに件の寺の名前があったりする奇怪な事も…。

これを厚顔無恥と言わずして何と言おう。いっそ大乗僧侶やめりゃ余程スッキリするのにね…って、まぁ、生活かかってるから無理だろうけれど。
でもだとしたら、おまえ、いったい誰だよ、と。

まぁいいや。

そもそも私が言いたいのは、彼らが言うように「漢語仏教やってる奴は仏教を知らない」と本当に言えるのか、という点。
何が仏教か、という定義の問題はさて措き、ハッキリ言って今は昔と違うんだから、日本語だけでも釈尊以来の全仏教の流れは俯瞰できるし、インドにだってどこにだって、大抵は行けます。サンスクリット原典訳やパーリ仏典だって学問的な立場で訳された日本語訳で読めるしさ。関連論文だって読めるしさ(最近はネットでもほとんど読める)。
漢語仏教を主に実践していたって、その程度の視野はあるんだよ。
宗門大学行けば、サンスクリットだってパーリだって講座あるし。その気があれば、勉強なんかいくらでも出来ます。独学でもね。
というか、漢語仏教者がインド仏教について何も知らないとか、そんな都市伝説はどこから出てくるんだろう? 教判思想にしたって、近代仏教学と突き合わせて考えていく程度の事は、(一部のカルトを除く)大抵の人はやってるよね…。

逆に、バカの一つ覚えみたいに「原始仏教は~~、正統仏教は~~」と言う奴、あなたたちこそ大乗仏典・論書ちゃんと読んでないでしょ? 偏った解説書を読んで講釈垂れるだけなら、カルト信者と一緒やん。
「色即是空 空即是色」は論理的に破綻しているとか言って悦に入ってる上座部の坊さんに御追従を言うだけじゃなくて、大乗の立場について、せめて常識的な範囲でいいから勉強して、それで文句言ってよね…と。私はそう思うわけです。
だいたい、日本仏教批判と大乗仏教批判は、別カテゴリーだということすら踏まえていない人までいる(これは意図的かも知れないけれど)。
文化人僧侶とかいう間の抜けたカテゴリーの人達も、大乗に属する自分を卑下しつつ件の上座部僧侶を持ち挙げてるけど、本当に痛々しい。自分を貶めることが他者を褒めることになると思ってるんだろうけれど、そうじゃなくて、相手をきちんと認識評価していくことが大切なんじゃないのかな。私はそう思う。
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仏教の行学

2011年12月12日 | 仏教・思索
求道心のある僧侶は、昔は色々な場所で修行したものです。たとえば日蓮聖人なども若き日には比叡山・四天王寺・高野山などを巡り、あるいはそれ以前の「八宗兼学」南都僧などもその典型です。近年でも、曹洞宗の沢木老師も若い頃には法隆寺の佐伯師について唯識を修めていたり。
中国でもインドでも、色々な場所・色々な師に従って修行を重ね、みずからの仏道を形成して行きました。

残念ながら今の日本仏教は宗派主義がどうも行き過ぎのように感じています。弘法大師や伝教大師の一宗分離方針にはじまり、特には「専修・選択」が原則の鎌倉仏教の影響なんでしょうけれど、仏教道場・学問の場は本来もっと開かれるべきものだと、個人的には思っています。

結局、そういう志のある者は二重僧籍という非常手段を取らざるを得ないという現実もあるようですし、あるいは転派を繰り返す、あるいは宗派に属しながら自己流に色々な流れの行学を実践するなど、いずれにしても苦労をしています。また、ひとりではどうしても独りよがり、また不十分な成果しか出せないという問題もあるでしょう。
もちろん特定宗派のプロパーになるのであれば別ですが、あくまでも仏教修道という観点からは、特に若い頃・修道中にあたっては、色々な場を巡っていける…という環境があればいいのにな、というのが私の考えです。

その点、台湾は得度までは各派共通の戒壇で行い、その後に各宗派にわかれていくらしいのですけれど、そういう感じは良いな、と思っています。
たとえて言うと、大学の教養過程までは学科に分かれておらず、3年生から分離して行き、転科も比較的自由、というシステム、あるいはドイツの大学のように、大学すら自由に移動できるシステム。そんな感じでしょうか。

いつの日か、もっと柔軟性のある日本仏教界になればいいんですがねぇ…。
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高野山真別処

2011年12月02日 | 閑話休題
高野山で修行するには、いくつかの場所があります。
一番スタンダードなのが、高野山専修学院、次いで高野山真別処円通律寺。
高野山大学の学内で加行する場合は、学生加行なんてのもあります。
尼僧の場合は、うちの妻も修行した高野山尼僧学院(高野山専修学院尼僧部)がありましたが、現在は休止中だそうです。
最近になって学生加行が学生減少のためにほとんど廃止となって、真別処に送られるようになったという噂はありますが、少なくとも私の頃は、男はだいたいはこの三つから選択して、修行をすることになってました(もうひとつ一応「院内加行」といって、山内塔頭寺院で個人加行する人もいますけれど…)。

私は高野山真別処円通律寺。

高野山のどの道場でもそうでしょうが、修行中って、理不尽な指導員がバカな事で怒り狂ったり、行者同士で仲間割れしてみたり、まぁ、色々あるものです。缶詰めでストレスたまると、みんなちょっとおかしくなるようです。
私の場合はもともと「ひきこもり」の性質が多分にありますし、酒も飲まないため、精進潔斎の缶詰め生活はそんなにストレスではなかったのですが、活発な子は大変だったんでしょう。とは言え、ストレスが蔓延する雰囲気の煽りは当然、食らうことになりますが…。

ま、しかし、総じて言うと、やってる時はキツい事も多々あったんですが、今にして思うとそれも含めて「またやってみたいなぁ」と思えるのが不思議。
修行って、色々あるけれど、それでもやっぱり清々しい環境であることは事実です(特に峠の向こうの山の中にポツンとある真別処は格別)。生活自体シンプルで、一心にそれだけに集中して日々を送れるなんて、こんな幸せな事はないですからね。

またやりたいなぁ、と思います。いやホントに。
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