प्रज्ञापारमिता

𝔇𝔥𝔞𝔯𝔪𝔞 𝔗𝔞𝔩𝔨, 𝔅𝔲𝔡𝔡𝔥𝔦𝔰𝔪, 𝔗𝔥𝔦𝔫𝔨𝔦𝔫𝔤, 𝔞𝔫𝔡 𝔱𝔥𝔢 𝔚𝔬𝔯𝔡

遂に師走

2011年11月30日 | 閑話休題
いよいよ師走ですなー。

その割に今日も暖かい。
このまま暖冬に…とか、甘いか。

さて。

今年こそ紅葉を見に行こうと思いつつ、なかなか行けない。

近場でもいいところ(両足寺)があるようなんだけれど…。
そろそろ時期も時期だから、行くなら早めに行かないとね。


あ。


昨日のブログのアクセス数が777だった。

…どうでもいいですが(-_-;)
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勉強会の方向性

2011年11月27日 | 仏教・思索
スカイプを使った仏教勉強会について。

色々と考えたのですが。

基本的に「仏教入門」的なテーマにして、市販の本を使い、それについて解説しながら深めていく、という感じにしたいと思います。その一冊を読み終われば、まったく知識がなかった人でも仏教史や仏教思想の全体についてのアウトラインがわかる、という感じで。
もちろん突っ込んだ深い部分までは出来ませんが、まずは全体的な見通しを付けてもらう、という感じにした方が良いかな、と。

取り敢えずその方向で。

ナツメ社のシリーズとか、他にもイラスト系入門書はいくつかあるので、それらのうちから使いたいと思います。
このタイプの「入門書」は少し信用できないというか、ちょっと「?」な解説も目立つのですが、却ってその方が、それを指摘しながら勉強出来るので良いかも知れないですね。ある意味で面白い。
また、スカイプの会議通話は音声だけですので、イラストでもあった方がスムーズに話ができるかも、とも思いますし。


これがうまく行けば、別の曜日・時間帯でいずれ漢文の原典講読のようなことをしてもいいかな、と思ってます。『起信論』『原人論』、このあたり。まぁこれは「教える」というほど私もレベルないので、一緒に講読して行く、という形になるとは思いますが…。

ということで、相変わらず参加者募集中です。今ならかなり、要望が通りますw
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読経の意味

2011年11月26日 | 仏教・思索
・質問

葬式や法事で、意味不明のお経を読んで何になるの?
そもそも、誰の為に読んでるの?

・答え

供養・回向の場において読経は亡者のためです。

少なくとも私は、遺族の癒しのため、などという気持ちで回向の読経をしたことはありません。癒しになるかならないかは、結果論ですし、もちろん色々な場面で寺がそういう役割を果たせれば…とは思いますが、しかし、読経に関しては、あくまでも亡くなった方のためです。
確かに人によっては「そうではない」という立場もありますが、その場合は親鸞聖人のように、葬儀そのものをしないのがその真摯な立場だと思います。

「意味もわからずに~~」ということに関してですが、色々な考え方が可能です。

そもそも読経について言うならば、インドであれ中国であれ、基本的には「読んでわかる」ものでした。しかし日本では漢文そのままを利用したため、一般には読経してもわからない、ということになってしまっています。
しかし少なくとも、読んでいる坊さんはその経典を理解して読んでいます(まともな僧侶であれば)。逐語的に読経と同時に…でなくとも、少なくとも内容は知った上で読んでいます。
もちろん一般の方も、「わかって読む」「わかって聴く」のがベストだというのも事実です。本来は、教えの内容を記憶する為の行為が、読経ですから(そしてその場合、いわゆる「和文」よりも「漢文」の方がリズムが良く簡潔ですから、記憶の便には優れています)。
また読経は、止観行の一環として行う場合もあります。日日の読経、勤行などの時は、私の場合は基本的には止観行のひとつとして読経をしています。

ただ今回は、「葬儀・法事に於いて」云々ということに限定した場合での読経について…ということですから、一般的な檀家さんの立場からの、それに沿った回答をしたいと思います。

さて。

さて、仏教の究極・真如というものは本来、言語道断の世界ですから、言葉以前の世界の事です。それを敢えて言葉にしたものが経典であり真言ですので、そういう意味で「経典は言葉以前の究極ところを示すものだ」と思い、意味がわからなくても「信仰で」捉える、という立場がひとつ、あると思います。
つまり薫習といいますが、たとえば「線香の香」は、その成分や製造過程を知らずとも衣に移ります。読経も一緒だと考え、仏の音声を理性以前のところに薫じる気持ちで捉えるという事。

また、亡くなった方は現世的な分別理屈の世界(妄念の世界)を脱した仏の世界に結縁するのだから、経典の文句の一々がわかる・わからないということではなく、その本質的意味・言説を超えた真如法身の説法そのものをダイレクトに聞くことができるから、生前に漢文がわかるわからないは関係ない…と信じる。そういう捉え方。

他にも色々な考え方があるかも知れません。
ただいずれにしても、私たちの分別・妄想心の判断とは別次元の考え方で、それらは行われているのだ…という事です。それを無理に「合理化」したところで、それは世間妄念の枠内での事に過ぎません。
ただまぁ、読経による読経者の功徳と、またそれを聴く者の随喜の功徳、その回向という点はあると思います。それは前提です。

いずれにしても読経の声は「僧侶の声」ではなくて、仏界からの「仏の声」であり(坊さんはスピーカーとして仏に口をお貸ししているだけ)、それは意味分節を超えたところの本源的な「力」だと信じて手を合わせるのが、私はいいと思いますよ。

以下は一般論ですが…。

自分の経験範囲の狭い了見で四の五の言う前に、素直に感性で読経を「感じてみる」という姿勢も大切かなぁ、と。
同時にまた、「わからない」なら「学んでみる」という気持ちも大切なのではないかと思います。今の時代、ちょっと勉強する気があれば、経典の解説書や現代語訳などいくらでもあるわけですから。


【追記】

因みに。

>私たちの分別・妄想心の判断とは別次元の考え方で、それらは行われているのだ

とは言っても、いわゆるカルト的な意味ではありません。
意味もわからず盲信してやれ、というのは仏教ですらないです。あくまでも、分別妄想の心=生滅心の次元ではなく、言語不達の不二真如の根源において、という意味です。

仏教では、すべての迷い・苦は、「分別心・主客相対の心」から起こる、つまり「言葉の世界・論理の世界」は仮には成立しているし必要だけれども、究極的にはそれらはどこまで行っても「迷いの分際」ということです。
いくらテレビ画面に映るものが素晴らしくとも、ハイビジョンでいくらキレイになったとしても、それらは電気信号でしかないし、幻のようなものでしかない、ということです。言葉・論理も、どこまで精密にしても、どこまでやっても、それは「妄想」です。
そういう妄想次元のものも、「本物」を指し示す「縁」にはなりますから、大切なものです。テレビがあるから、外国の事も学べます。でも、それ自体は幻です。
言葉とはそういうものですから、読経についても、その応用として、ご自身で考えてみてください。
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ミニ麻原

2011年11月25日 | 仏教・思索
群馬の女性殺害、通報した夫を殺人容疑で逮捕 本人否認


昔から思っていたんですが、たとえばやたらカウンセラーになりたがる人は、往々にして自分がカウンセリングを受けるべき人だったりします。
また、こういうニューエイジやレイキだのスピリチュアル系に安易に流されていく人も、施術を受ける側の人が(自分の事が何一つ解決などしていないのに)血迷って「やる方」に行きたがる事がままあります。

恐らく…人格的に問題のある・精神的に問題のある人が、こういう方向に「逃げる」ことで偽りの安心を得たい、という事なのでしょう。これは「癒し」という名の「隠蔽」でしかないのですが、そこがわかっていないので、いつまでも人格的にも「霊的にも」向上はしない。「した」という妄想だけは得られるのかも知れませんが…。

あるいは、まともな職につけない状態の人が「精神的に八方塞がりの自分に対する救い」をそういうところに求め、一方にはそれを「金づる」にする人もいて、鬱々とした人たちを巧妙に誘導する、という現実です。そして、「精神的ねずみ講」ではないですが、鬱々としていた人の中には、こういう組織や方法論に対して「心の救い」のみならず「金銭的救い」を見出す人がいるのも事実でしょう。

「僧侶になりたい」、特に真言密教系に関心が強い人も似たような傾向を感じます。もちろん全員ではないけれど、明らかに適性のない者ほど、こういう「指導者」になりたがり、また実際になっています。ネット検索するだけで、あやしい坊主、あやしい団体が目白押しです。

ミニ麻原だらけです。

その末路が、こういう事件の多発です。

十把一絡げに「宗教はキモイ」となってしまうのも、こういう事件が多発している以上は致し方ないのでしょうが、一宗教者・一仏教者としては、やりきれない。
仏法そのものは素晴らしいものです。そこは間違いないのですが…。
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仙台沿岸の汚染

2011年11月25日 | 時事関連
阿武隈川から海へ1日500億ベクレル 放射性セシウム

岩沼市というと、もうほとんど仙台。

この量が「毎日」流出しているわけですよね…。

とてもじゃないけれど、東北の太平洋岸の漁業を再開している場合ではないと思うんですが…長期的な影響などが不明のまま見切り発車でやって痛い目を見た経験は、水俣など、日本の過去にあった筈です。
港湾整備はやればいいでしょう。
検査漁もやればいいと思います。
しかし、商業漁業はまだ、早いです。
政府・東電が漁師の生活保障を徹底的にやり、商業漁業は、とりあえず数年間は停止すべきだと思います。
原発コストの算定において、安全よりも何よりも、原発保全のためにコストをとにかく低く算定することだけに躍起になっている経産省や原発関係者が跋扈している今、全体的な現状もまだ不明確、健康への影響も未確定、だいたい被害総額すら算定できていないのに、いくら何でも、商業漁業は無謀でしょう…。
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skype仏教勉強会

2011年11月24日 | 閑話休題
スカイプの仏教勉強会について。

まぁ、どんなもんかわかりませんが、一応、試しにやってみる価値はあるかな、と。
うまくいきそうなら継続しますし、ダメならやめちゃうかも。

それでもいいという方は…。

詳細は、一行目をクリックしてください。

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帰る場所

2011年11月22日 | 仏教・思索
お寺の役割、あるいは僧侶の役割というのは色々あるんだろうけれど、そのうちのひとつとして、「帰って来る場所」というのはあると思う。
とは言っても、それは物理的な場所ではなく、精神的な部分でのことだけれど。

で、その「精神的な意味で、帰ってこられる場所」と言う場合、ふたつの意味がある。

ひとつは、日本人にとっての「日本」ということ。

現代日本においては、外国との交渉も昔よりずっと多くなったし、その気になれば外国にだって住むことができる。仕事で毎日毎日、外国と関わる人も多いだろう。日本の街自体どんどん無国籍化している。英語くらい喋れないと、今後は仕事もままならなくなるかも知れない。
それはそれで時代の趨勢だけれど、でもやっぱり、日本人は日本人でありたいと思う人もいるだろう。そもそも文化的・精神的な根なし草では、国は成り立たない。経済国家としてはもちろん成り立つだろうけれど、それはもはや拡大した企業国家・管理国家でしかなく、伝統に培われた豊かな「人間の国」ではないと思う。
寺院・僧侶、特に寺院はそういう「人間の国」を象徴する場であることが出来るし、また、そうでなくてはならない。昨今は目先の経済的変遷に追随する企業寺院ばかり目立つようになったけれど、本来、寺院はそういう社会の趨勢から身を引いたところで、十年一日、めまぐるしい時間の流れを超えた場所であるべきだろう。
人間の国であった豊かな日本的原風景、というと陳腐だけど、でもやっぱり、寺院はそういう場所であるべきだと思う。寺院まで経済国家の構図にがっちりはまっていては、なんともやり切れない。

もうひとつ、それは「信」ということ。

人はいくらお金を持っていても、物質的に満たされていても、取り巻きがたくさんいても、しかし死ぬ。誰もが死ぬ。
死ぬことの存在論的な意味、生きることのそれ…そのことを(単なる思考停止や投げ遣りな諦観じゃなく)深刻に自覚した時、果たしてめまぐるしいこの経済至上の現代社会に追いまくられ、また追いかける人生が、どれだけのリアリティーを持つのか、どうしたって疑念を抱かざるを得なくなる。
この経済至上社会を「勝ち抜く」ための自己実現…勝ち抜いた先に、ずっと先には何があるのか。死、輪廻、そして宇宙の壊滅と宇宙的輪廻…私たちはどうしようもなく、そんな流れの中で溺れているのに、それを見ずに闇雲に生きている。そんな状態で「勝ち抜く」…誰に? 「自己実現」…自己とは何?

現象に引きずられているだけでは、虚しい。
しかし現実の生活のためには、虚しい現象でも追わざるを得ない。

その葛藤の中に浮かび上がるのが「信」であるのだと思う。
寺院と僧侶、とりわけ僧侶は、この「信」について考え、修行の中でそれを把握していくために生きる存在であるわけだから、生活者にとっては「指針・ともしび」でなくてはならない。
だから僧侶まで虚しい自己実現幻想に踊らされ、あくせく毎日を「戦って」はならない。僧侶は「福田」というけれど、田そのものは自分を耕さないし、種もまかない。田は人の為に、揺るぎない基盤とならなくてはならない。揺るぎない基盤となるための行為を僧侶はしなくてはならないけれど、それは決して、経済至上主義に彩られた現代的「自己実現」ではないだろう。


「精神的な意味で、帰ってこられる場所」。
寺院の場合、そして僧侶の場合…いざ自分を省みると、甚だ心許ないけれど。


【追記】
「福田云々」については、阿含経典に出てくる「福田」の教説とは少し表現に違いがありますが、まぁ、それはそれとして、あくまでも比喩としてのそれだと考え、ご寛恕ください。
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2011年11月20日 | 仏教・思索
如何に生きても人は死ぬ。

必ず。

目の前から人はいなくなる。

私もまた。

今まで生きて来た年月を思う時、

残りの人生のなんと短いことだろう。

この短い時間でなすべきことは、

「ほんとう」のことだけ。

心を酩酊させるものはいらない。
 
心を遠くに彷徨わせて刺激を求め、

泡のようにはかない物質的充足を得、

人とのつながりを増やすことに価値を見出し、

それらに一時の慰めを得たところで、

死にゆく私にとってそれがいったい何になるだろう。

高慢と欺瞞を増長して「ほんとう」のことから遠ざかり、

気がつけば、私も泡となって死ぬ。

影を追うな。

形象は影だ。

言葉は影だ。

私は影だ。

あなたもまた。
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スカイプと仏教

2011年11月20日 | 閑話休題
パソコンなどを使った無料通話システムのスカイプを導入したのですが、これ、同時に複数人と無料通話も出来るようです。映像付きは料金がかかるみたいですが、音声だけだとタダみたい。
ということは、複数人との仏教書読書会とか勉強会も出来なくはないですね。
せっかく双方向だし、顔の見えない状態での「法話」「説法」というのもどうかと思いますので、例えば何かテキストを決めて、それを読み合わせて、簡単な解説を述べた後に質疑応答やディスカッションなど。

テキストをもし使うとすれば、amazonあたりですぐ手に入るものが前提として…

「お勉強」ということであれば、『仏教要語の基礎知識』(春秋社)とか『仏教入門』(東大出版会)あたり、「聖典を読む」ならば、『阿含経典による仏教の根本聖典』(大蔵出版)くらいが妥当かな…。
あとは参加者次第だけど、誰でもいつからでも参加可能ということを重視すれば、一回完結のものも利用したいなぁ…とは思います。その場合は『法句経』とかいいかも。
私は比較的、夜には時間が取れるので、曜日を変えて別々に2冊くらい並行でもいいし。

いずれにしても、あくまで実際的な読み方をしたいものです。正確な知識に基づくのは当然ですが、単なるお勉強であれば本を読んでいればいいわけで、ディスカッションをする以上は、それぞれが日常にフィードバックできる形のものが理想ですよね。

うーん、まだスカイプ自体の使い方もマスターしていないのですが、ちょっと検討する価値はあるのかも知れませんね…。
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ベンガリー・トラ

2011年11月18日 | 閑話休題
今日は雨。明日も雨。
でも暖かいです。
しかしそろそろ、寒い季節が近づいています。嫌やのぅ。

さて、寒い冬に向けて、(専門書の合間に読むような)心暖まるような本が何かないものかとアマゾンで物色していたら、『ヴァラナシ ベンガリー トーラー 』という写真集を発見。

ベンガリー・トラ。

懐かしい…。

インド・バラナシにある、私の大好きな路地です。
You tubeにもここの動画がありました。

バラナシ ベンガリートラ路地散歩 Varanasi Stroll in Alley


あー、私、やっぱりこういう場所が好き。

因みにYou tubeの画像では1分9秒のところで左折してますが、私が泊まってたのは右折したところにある「ラクシュミー・ゲストハウス」でした。ベンガリー・トラの北端のゲストハウス。

懐かしいなぁ。

写真集、買おう。
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