प्रज्ञापारमिता

𝔇𝔥𝔞𝔯𝔪𝔞 𝔗𝔞𝔩𝔨, 𝔅𝔲𝔡𝔡𝔥𝔦𝔰𝔪, 𝔗𝔥𝔦𝔫𝔨𝔦𝔫𝔤, 𝔞𝔫𝔡 𝔱𝔥𝔢 𝔚𝔬𝔯𝔡

自転車…

2011年10月28日 | 時事関連
最近の「自転車報道」を見てると、なんかスゴイなぁ…と。
警察はまるで自転車に乗るなと言わんばかり。エコだの何だの言うけれど、だったら自転車イジメてどうすんのよ。実際、あんだけグチャグチャ言われたら、乗れません。

確かに歩道を走ると危ない場面は多いです。私もぶつけられたことがあります。忘れもしない、三鷹市下連雀と新川の間のバス通りの狭い歩道で、自転車ぶっ飛ばしてたオバサンに正面衝突され、「あんたね! 気をつけなさいよね! 荷物が落ちたじゃないの!」と散々に罵倒された経験。いやいやいや、あのね、あんたこの狭い歩道を飛ばし過ぎでしょうがよ…と反論する隙も与えず、「けがはなかったですか」の一言もなく、北へ向かって走り去ったババアおばさん。元気でしょうか。
まぁそれ以外にも、軽い接触なら何度も経験しています。

しかし、しかしですよ、車道を走れと。それは無理というもんです。件の三鷹のバス通りはまず無理。死にます。
私は山口市南部ですが、そこも無理でしょう。山口は市内でも確かに田舎ですが、それでも9号線や2号線などの幹線道路だと巻き込まれて死にます。うちの近くの県道・国道はかなり直線道路だったりガラガラだったりするのですが、制限速度50キロ道路でも平気で80キロ超の車が飛ばしてます。片側一車線でも、私の車は普通に抜かれます。多分、アンタそれ、100キロ近いだろ…という感じ。事故も多い。
こんな道路を、自転車?
無理よ、無理。絶対に無理。第一、横にある幅1m以上の歩道を誰も歩いてないのに、それでも敢えて車道を行けと? それはむしろ自動車への嫌がらせです。
「危険な道路はその限りではない」というけれど、殆どの道路は危険です。第一、危険かどうかなんて主観的だし、自転車乗ってる人間のスキルと体力にもよるでしょう。一概にどうこう言えません。誰がどういう基準で決めるわけ?
また、道が3m以上のところなら、「徐行」で走っていい、と…私、3mもある歩道を見たことがないのですが。そもそもそんな歩道のスペースを取れるのは、車の影も見当たらない相当なド田舎でしょうから、それこそ車道を走れるのでは? だいたい「徐行」って、話によると「時速7~8キロ」だそうな。1キロに8分? アホか、だったら歩くわ!

いずれにしても、どうせ公共工事をするのなら、都市部では自転車道をもっと大々的に整備してほしいということです。やってる地域もあるんだから、東京でも大阪でも、できないことはないでしょう。こういうところに知恵を使ってこその、行政です。
そして地方では歩いてる人間なんかそもそもあまりいない上に、やたら広い無駄な歩道があるわけで、そんなところは自転車OKだということにすべき。クソ真面目でお上に従順なお年寄りが1車線道路をママチャリでふらふら運転してる方が何百倍も危険です。
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殺生

2011年10月25日 | 仏教・思索
ダライ・ラマ法王が高野山と大阪に来られます。
が、私は諸般の事情で残念ながら行けません。大阪講演に関しては実家の母親が行くそうですから、あとで感想を聞こうと思っていますけれど。

さて、ダライ・ラマ法王の講演と言えば、一昨年くらいに北九州に来られた際、これは近場ですから私も行けたのですけれど、思い出す話があります。いわゆる「殺生に関わる職業」についてです。
北九州講演の際に法王は「漁業や狩猟は殺生だからやめたほうがいい」というお話をされたのですが、質問タイムの時、ある僧侶が「それは職業差別ではないか」という事を述べていました。
私は原理的には法王の意見のほうが正しいと思っていますし、件の僧侶のような「ヒューマニズム」は仏教的にはちょっと違うかなぁ…と感じるのですが、しかしこの問題、難しい問題を孕んでいます。

原理主義的にたとえば「漁業は殺生だ」というのは、そりゃ確かにそうでしょう。私たち僧侶が釣りをするのは避けるべきは当然で議論の余地はありません。まして趣味で…というなら、尚更。
しかし現実に漁師町というのがあり、先祖代々、それを生業として生きている地域・人々がいます。私の住職している地域もそうです。少し内陸に位置しているうちの檀家に漁師は一件しかないのですが、ほんの5分も車を走らせれば、そこは漁師町になります。
そんな地域で、「漁業は殺生だ、賤業だ」などと言えば、布教も伝道もできないでしょう。現実にみんなを「廃業」させるなんて、不可能です(商売にならないから自然廃業状態…というのはありますが…)。
いま、東北大震災がありますが、石巻や気仙沼に行って、復興に努力している漁師に向かって「いい機会だから悪業を作る漁師はやめましょう」などと言って、果たして支持をえられるでしょうか。仏教が忌避されて、逆伝道になりかねません。

同じ講演会で、法王は「私は肉を食べます」とも言っています。
「菜食主義者になろうとしたが、体調を崩したので断念した」ということだそうです(チベット人は代々の肉食系民族だそうですから、体質的な問題もあって菜食が難しい人も多いようです)。
ならば尚更、「殺生」を生業とする人を単純に批判することは難しくなります。社会の実際を知らない青臭い出家比丘なら平気で批判するのでしょうけれど、私のような居士法師であれば、「自分で殺していないものはOK」と言いながら肉魚を食べ、一方でその従事者を否定するのは、自己矛盾と言うべき部分が確かにあるのだと思います。

とは言え、漁業や畜産が殺生の業であることも事実で、仏教者として真摯にここをどう考えるのか、非常に難しい問題です。原理原則で突き進んで解決する問題ではありませんが、しかしカルマの問題、十善戒の問題を軽く考えていいわけでもないでしょう。
自分が菜食主義になったら相手を批判できるか…という単純なことでもないですし。それにそもそも、農業だって殺生はつきものですから。
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阿含経典の叢書

2011年10月24日 | 仏教・思索
昨日、『法句経』についてちょっと書きましたので、ついでに阿含経全般の訳書についても書いておきたいと思います。

尚、大乗非仏説についての私の考え方に関しては、昔ちょっと書いたことがありますので、そちらをご覧ください。ただこの記事では実は不十分で、大乗経典と論書の性格や位置づけ、記述形式の問題(歴史的・文化的視点)、そしてもちろんブッダとは誰か、という問題などもっと突っ込んで書かないと、下手したら現代の思考回路ですべてぶった切ってしまう危険性がありますので、そのあたりは含み置きください。
これは前置き。

さて、阿含経典(漢訳四阿含、パーリ訳では五ニカーヤ)ですが、これら諸経典こそが、まさに釈尊の実際の息吹を伝える、もっとも基本とするべき聖典となります。大乗経典の源泉も、まさにこの阿含ですから。
この阿含経典の全体を読みたい場合、では日本語訳はあるのだろうか…ということになりますが、あることはあります。
漢訳阿含なら「国訳一切経」、パーリ訳なら「南伝大蔵経」がそれです。全貌が余すところなくわかるものです。ただし前者は訓読体、後者も古風な印刷に古風な文体で、決して「現代語訳」と呼べるものではありません(なお現在、「新国訳大蔵経」シリーズで阿含経典の新しい国訳の出版が継続中です)。

しかし、ご安心。
もっと「こなれた」現代語訳で読むことができるようになって来ています。

まずは漢訳阿含からの翻訳である『現代語訳「阿含経典」』シリーズ。出版社がちょっと「うーむ…」というアレなんですが、編者は丘山新・末木文美士の諸先生方で信頼は出来ます。これは現在のところ四阿含のうち「長阿含」だけの翻訳です。
次に、春秋社のシリーズ『原始仏典』。監修が中村元です。こちらはパーリ訳からですが、五ニカーヤの全てではなくて、「長部」「中部」だけです。
この上記ふたつは勿論素晴らしく立派な仕事なのですが、惜しむらくは全訳ではない…ということで(?)現在、大蔵出版からパーリ訳からの全訳が進行中となっています(片山一良『パーリ仏典』)。今のところ「中部」「長部」が終了し、「相応部」の刊行がはじまったところです。恐らくこのシリーズが今後は決定版になるのではないでしょうか。

…と、書いて来たのですが、私は上記の現代語訳シリーズ、すべて持っていません。
だって高いんだもん。そうそう買えません。最新の大蔵出版のにしても、「中部」全六冊で62055円、「長部」全六巻で57225円。そして相応部は全十巻の予定(笑
その後も「増支部」「小部」が残っているわけで…。
まぁ、今のところは買えないです。もっと安くしてくれないと、せっかくの経典も普及しないよね…とは思うんですが、商業出版社ですから致し方ないんでしょうね…。

ということで、私が持っているのは現時点で「国訳一切経」の阿含部・全九巻十冊と、現代語訳では増谷文雄『阿含経典』全六巻(筑摩)のみ。
前者は既述の通り。後者は現代語訳ですが、相応部を中心に、主要な部分を抜粋編集したものです(相応部が中心であるのは、それこそが阿含の古層であり中心であるという増谷師の学的考え方によるものみたいです)。
まぁ、国訳一切経があれば用は足りると言えば足りるので良いんですけどね…。
あと加えて、岩波や筑摩、あるいは講談社から出ている『法句経』『大般涅槃経』など単独経典の翻訳やアンソロジー集は安価なので揃えています。阿含の現代語訳に関しては、これと増谷文雄『阿含経典』全六巻を併せて…という感じですかね。

あと、座右に置いて頻繁に繰って心の糧にしているのが、増谷文雄『阿含経典による 仏教の根本聖典』という本です。ページ構成は前出の増谷文雄『阿含経典』全六巻とほぼ一緒ですが、更に精選して抜粋して一冊にまとめたものです。
携帯用・日用としてはこれが丁度いいかなぁ、という感じ。ホント言うと、これに法句経と経集の全訳を加えてくれれば最高だったんですけれどね(一応、渡辺照宏先生の著作集第五巻にこのふたつの仏典の現代語訳がありますので、これも座右にしていますが)。


【追記】
ちなみに漢訳「法句経」は、大正蔵その他の漢訳大蔵経で「阿含部」には入っておらず、「本縁部」というカテゴリーに収録されております。念の為。
あと、「法句経」と並び称される「スッタ・ニパータ」は、断片的に漢訳されているようですが(未確認)、まとまった形での漢訳はありませんので、日本人がこれを読めるようになったのは、明治時代以降の事です。

【追記2】
そう言えば、講談社から梶山先生や桜部先生の編になる「原始仏典」シリーズ全十巻が出ていましたね。これも抜粋です。今、手元に一冊しかありませんが。もちろん絶版(-_-;)
それと中央公論から「バラモン経典・原始仏典」。これもとても良い本ですが、収録典籍は少ないです。例のごとく、これは絶版。こういう本って、なかなか今の時代、売れないからすぐ途切らせてしまうようですね。国民の文化レベルの低下かな…。
あと、筑摩からは一巻本の中村元先生「原始仏典」も出ています(「大乗仏典」一巻もあり)。これもよくまとまってて良い本ですが、ちょっと字が小さくて読みにくいかな。でも奇跡的にこれは絶版ではなくて、まだ入手できます。
一応、紹介まで。
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法句経

2011年10月23日 | 仏教・思索
法句経(ダンマ・パダ)は釈尊の息吹を伝える最古層の経典として名高く、近代以前にはあまり日本では重視されていなかったのですが、現在では邦訳も色々とあります。
大乗仏教徒であれ南方仏教徒であれチベット仏教徒であれ、仏教であるからには釈尊こそがその原点であるべきで、阿含経典とりわけ法句経と経集に親しむことは非常に益が大きいものと思います(言わずもがなですが…釈尊が原点であることと釈尊至上主義とは別物であり、釈尊至上主義からの大乗非仏説論は見当外れの議論です…念の為)。

で、邦訳ですが、特に法句経については数多く出ていますので、以下に「全訳されているもの」の主なものを列挙してみたいと思います。私の手持ちの範囲内ですが…。
断片訳・抜粋訳、あるいは「講義系」「啓蒙書系」のもの(宮坂宥勝師・松原泰道師・大谷徹奘師・山田無文師…等々)もありますが、今はそれらは省きます。本文そのものを読ませる、という趣旨の本だけを挙げることにしましょう。


【片山一良 『ダンマパダ 全詩解説』 大蔵出版】
道元禅の立場を踏まえた方の本ですが、法句経に関してもっとも詳しく記述してある本で、因縁譚も収録した決定版的なものです。詳しく法句経について調べたい時には重宝しますので、持っていて損はしません。ただし、一万円近くします。
ちなみに同著者による『ブッダのことば パーリ仏典入門』(大法輪閣)は、阿含経典に関する最良の入門書ですので、併せてお薦めしておきます。

【友松円諦 『真理の詞華集 法句経』 講談社】
【友松円諦 『法句経』  講談社学術文庫】
古来から名訳の誉れの高い友松師の法句経です。
前者は文庫大ハードカバー函付、後者は文庫本で、両書はほとんど同じ内容なんですが(同じ経典の同一人の訳だから当然ですが)、実は構成がちょっと違います。
現代語訳が掲載されているのは学術文庫版なので、訓読文・文語体がしんどい人は、学術文庫版を買えばいいと思います。また実際的に、書店でも学術文庫版しか置いていない場合が殆どですが…。
学術文庫からは、同著者の『法句経講義』も出ています。

【中村元 『ブッダの真理のことば 感興のことば』 岩波文庫】
学問的にはしっかりしたもので、安価ということもあり、もっとも売れているのはこの本でしょう。まぁ文学的かと言われれば微妙ですが、正確できちんとした注釈も含めて、基本になるテキストではないかと思います。

【渡辺照宏 『渡辺照宏著作集 第五巻』 筑摩書房】
私が常用している本です。
ジャイナ教文献を常に参照して不明確な部分の復元に努められ、注釈もほとんどなしの本文だけで意味がスッキリ通る、極めて明快平易な現代語訳をされた、素晴らしい名訳だと思います。
因みにこの第五巻には【スッタ・ニパータ】の全訳も収載されていますが、これも名訳です。中村元『ブッダのことば』と併せて、是非みなさんにも読んでいただきたいものです。
…が。
絶版なんですね、この著作集は。ネット古書店では著作集の全巻セットはいくつか出ていますが、第五巻だけのバラ売りはあまり見当たりません(アマゾンのユーズドにはありました)。
こういう名著が埋もれるのは非常に惜しいので、是非、著作集全巻じゃなくていいので、第五巻だけでも復刊して欲しいものですね。オンデマンドでもいいから。
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寺院と僧侶とカネ

2011年10月18日 | 閑話休題
私がブログで時々(頻繁に?)「お寺の経済」「税金の話」などについて話すのは、世間に基本的な点で誤解が蔓延しているように思えるからです。
まぁ正直なところ、お金の話は私はキライですし、出来たらそういうのから離れて暮らしたい気持ちは山々で、ブログでも純粋に仏教の話を書いていたいわけですが、現実には貧乏寺も含めて「坊主丸儲け」と揶揄される場合もあり、また典型的な事実誤認として「税金払っていない奴が偉そうに…」と思われている節もあり、実情はこうですよ…という「事実」だけは知っておいてもらおうと、そういう気持ちで書いています。

外車を乗り回して派手な俗服を着、新地や祇園や銀座で飲み歩く坊さんがまだいるようですが(ミナミや歌舞伎町で「遊ぶ」坊さんもいるようです)、そういうのが目立つあまり、僧侶全体に不信の目が向けられ、挙句は「坊主丸儲け」云々の批判が出てくるのだと思います。
つまり僧侶としての道徳心・倫理観の欠如が、「カネ」の問題に集約されて批判の俎上に上るわけです。
確かにそういう僧侶はいます。それも結構な数で(高級な新地や銀座のクラブはともかく、そこらの飲み屋街や風俗街をウロウロしている坊さんはかなりの数、います)。
そのこと自体は仏教界の自浄作用がない以上、どんどん一般からの批判を通して「粛清」していく必要がありますが、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」とばかり、事実無根・事実誤認の知見に基づく批判でもってすべての僧侶を一緒くたにして否定されてしまうのは、私は非常に残念に思います。

ダメな僧侶・寺院については批判し、また改善点を指摘して欲しいと思います。
ただ、建設的な方向でないと、何も生み出しません。僧侶も信徒も、建設的な方向で話し合いができる、という雰囲気が全体として醸成されてくれば良いのですが…なかなか。
疑念を持たれるのは「おカネ」に関することが多いわけですから、繰り返しになりますが、その点について基本的な情報を提示する必要があると思い、私はこういう場所で皆さんにそれを書いています。
誤解に基づく事実誤認が先に立ち、信徒もゴニョゴニョ裏で不満や悪口を言っているだけでは、何も解決しません。まずは正しい知識、認識です。その上で、糺す(正す・質す)べきはそう進言すべきです。

仏法は素晴らしいです。
それに比べれば、はっきり言って「カネ」の問題なんて非常に下らない問題です。こんな下らない事が原因で組織や僧侶個々人に疑念を持たれ、一般の人を仏法全体から離れさせてしまっているとすれば、これは僧侶としては最も憂うべき事態です。 
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勉強会…2

2011年10月15日 | 仏教・思索
10/14日の記事の続きなんですが、色々と検索かけてみても、やっぱり「仏教の勉強会」らしきものはほとんどないですね。チベット仏教系を除けば、テーラワーダ系や親鸞会が殆ど、ごく少数の真宗・日蓮宗系のもの。
真宗や日蓮宗の場合、これも地域が極限される上、内容が檀家に限定されていたり、特定宗派の勉強内容に偏り過ぎていたり、もうひとつ魅力に欠ける…。

いずれにせよ、ほぼすべて三大都市圏。

信者人口1%のキリスト教ですら、各地にある教会の大多数(特にプロテスタント系)で聖書研究会を毎週定期的に開いていて、未信者でも聖書の読み合わせ・祈り会に参加できる場所が(一定以上の町であれば)どこにでもあります。
それに比べて、なんと伝統仏教の反伝道的体制か!
もちろん一方通行の講演会的なもの(在家仏教協会とか)や、南無の会の系列(日蓮系8割)の喫茶店説法会は一部の地方都市にもあるにはあります(中国地方にはありませんが)けれども…。

まぁ、自分の寺の檀家以外に対して積極的に伝道しない理由はあるんですけれどね。馬鹿馬鹿しい理由が…詳しくは書かないけど、それは僧侶の資質問題と寺檀間/寺院間の問題、とりわけ後者。
そんなことを言い訳にしてちゃ伝統仏教なんか生き残れない訳だけれど、その枠内にいると、これが結構、重い足枷になるわけです。私ひとりの問題ならいいけど…檀家の意向とかさ、行事や葬儀の時の助法の問題とかさ、人徳問題にすり替えられて却って信用を落として法務そのものに支障を来してしまう場合もあるわけでさ…。
難しいわけですよ、実際。
それはよくわかるので、別に寺院を責めようとは思わないんですけれど、それでも何とかしなくちゃいけないよなぁ…。

(身動きがとれなくなるので)既存の寺とは別にして、何をかせねば。
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大乗空と如来蔵

2011年10月15日 | 仏教・思索
私が『金剛般若経』を持経にしてると言うと、「なんで禅のお経を?」と思われる方がいるかも知れません。六祖・慧能がこの経典の「応無所住而生其心」という句に啓発されて以来、主に禅の方面で重視されて来たからです。
また、この経典について書かれた本の大多数が、禅宗系の僧侶によるものという事実も、「金剛般若経=禅」という風聞を強めているのでしょう。

…が。

私がこの経典を敢えて持経にしているのには、禅云々はほとんど関係ありません。

もともと『大乗起信論』をその精華とする如来蔵思想を奉じるのが私の立場なのですが、大乗仏教であるからには如来蔵思想と雖も決して「実体論・実在論」に堕してはならず、根本はあくまでも「大乗空」の立場を堅持しなくてはならないのは当然です。
その意味で、私は敢えて如来蔵思想の代表的経典『勝鬘経』ではなく、この『金剛般若経』を持経として選択したわけです。これが受持の理由の第一。
そして、受持したのが他の般若経典ではなくて他ならぬ『金剛般若経』である理由として、実はもうひとつ、実践的なポイントがあります。

「大乗空」こそ仏陀の本質、法の本源、真如の実相、如来蔵そのものですが、これを人格化した存在が「般若仏母」です。この般若仏母の真言が、実は「金剛般若経」末尾に説かれています。
この真言は敦煌で大流行して以降、しかし中国・日本ではそれほど重視されなかったようですけれど、根本般若仏母と金剛般若経の讃嘆として随一のものであり、如来蔵思想と般若思想は、まさにこの真言において一致を見せていると私は考えています。
基本的な修道階梯・理論としては『大乗起信論』を私は依用していますけれど、その中の「止観」における「止」の段階について、私はこの真言の念唱三昧という手法を実践(実験?)している次第です。

如来蔵思想については色々なアプローチが可能です。例えば浄土教から、あるいは法華経から、あるいは密教から…。どれも実り多い成果が得られることと思いますけれど、いずれにしても「大乗空」の根本を失ってしまえば非仏教に堕していくわけで、やはり大乗空思想と如来蔵思想との会通こそが基本になると思います。

…ということで、私にとっての『金剛般若経』は、いわゆる禅宗的な理解でそれを考えているのではなく、紛れもなく如来蔵思想の立場で(また真言念誦という手法が密教的と言われればその立場でも)これを選択し、持経としているものです。
西域仏教・敦煌仏教の復活…と言うと聊か大袈裟に過ぎますが、大乗仏教の信仰史・教理史の可能性を、昔のやり方を参照しつつ拓いて行くという温故知新的な意味でも、これもひとつのアプローチの仕方かなと、そう考えています。


【追記】

ちなみに、以下が般若仏母の真言です。
読み方や詳しい解釈は…まぁ、ここでは書きますまい…。

那謨婆伽跋帝 鉢喇壞 波羅弭多曵
唵 伊利 底伊 室利
輸盧駄毘舍耶 毘舍耶 莎婆訶
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勉強会…

2011年10月14日 | 仏教・思索
gooを使って「仏教 勉強会」で検索したら、ひっかかるのは親鸞会が8割、残りはテーラワーダ系。これでは流石にいかんよなぁ…。もっと大乗仏教の正統的な勉強の場が、僧侶にも一般の人にも必要だと思うんだけれど、ほとんど「場」がない。
まぁ東京・大阪・名古屋あたりなら東方学院とか、その他の組織も多少はありますけれども…地方にはそういう場がほとんどない。カルト宗教やキリスト教系ならポツポツと見当たるんだけれど…。
とは言え、うちの寺でやっても交通の便も悪く人が集まらんし(それでも毎月8日は法話やってますが…)、誰か協力して都市部で常設の仏教勉強会やりませんかね?
私が協力できるとすれば、広島か北九州になるとは思いますが…。

と。

前々から時々、こういう話はしているのですが、なかなか道が見えない…。
でも、そろそろ真剣に考えたいと思う今日この頃。
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漢文経典

2011年10月10日 | 仏教・思索
昨日、仏教を学ぶのに必要な言語は何かということを書きました。
結論としては、生活上の指針として仏教を学ぶ信徒の立場としては現代日本語だけでも良いが、出来れば和漢混交体の文章も読めた方が良い、法師・僧侶なら和漢混交体は必要、という事でした。
その上で、進んだ研究をしたいならば漢文やサンスクリット等の古典語が出来れば良い、勉強のためであれば英語などの現代語は特に必要ではない、ということも書きました。

さてしかし、ここで問題がひとつ、あります。

確かに勉強するためだけであれば以上のようなことですが、日本仏教において日々に読誦している経典は漢文です。現代日本語でもなければ、和漢混交体でもありません。丸っきりの、漢文。
読経については、確かに意味がわからずに読んだとしても意義はあります(薫習、あるいは三昧という側面に於いて)が、そもそも仏陀の教説なわけですから、意味がわかって読む方が良いに決まっています。
そういうわけですから、「勉強のためには漢文は必須ではない」にせよ、読経のためには漢文が必要になります。少なくとも法師・僧侶には。
一般信徒に漢文の知識まで求めるのはちょっと酷ですから、法師・僧侶がその知識をもって信徒に経文の内容を教示し、「いったい今、どういう教えを説いているのか」くらいは説けなくてはなりません。オールマイティーな漢文力までは求めないにしても、日常使用している経典くらいは、読経しながら意味が取れるようにはしておきたいものです。
漢文から直に意味が取れると、非常に効率的だということがわかるでしょう。現代日本語を読むよりも、実際に便利です。

また、漢文経典の読経には実は他にもメリットもあります。
現代日本語で読経しなきゃ意味ないじゃん、という意見もあるのですが、それには問題点があります。第一に、冗長であるということ。恐らく漢文と比べて倍くらいの時間が読経にかかるでしょう。第二には、現代日本語のリズムが非常に悪いということ。特に語尾の締まりが現代日本語(口語文)は悪いので、読んでても気持ちが良くない。その点、漢文はリズムが取り易いのです。
和漢混交体での読経ならば第二の問題点はある程度クリアできますが、やはり第一の問題点は残ります。
また、記憶の便も漢文の方が勝ります。
サンスクリット原典においても、経典は散文と韻文があり、同一内容を繰り返しているのが常です。散文は説明的なのですが、韻文は記憶の便を図るためです。和漢混交体や現代日本語と漢文も、似たような関係性でとらえられるかも知れません。

ということで、法師・僧侶はもちろんのこと、一般信徒でも、出来ればある程度の漢文の素養はあった方が良いとは思います。漢文の素養があれば、和漢混交体の文章も読み易くなりますから。


【追記】
ちなみに「漢文の勉強を」ったって、別にそんな難しい事をしなくちゃならないわけではありません。高校生の句形参考書・問題集を片っ端からやっていくとか、今更ちょっと「違うかな」ですし。
返点や雁点の基本を押さえて、代表的な再読文字・返読文字を覚えれば、あとは漢文と訓読の対照してある文献をひたすら読めばいいだけです。そのうち慣れます(笑
あとは常用経典の漢文を、同様に訓読と対照して分解してみるとか。
あくまでも「最低限度、漢文経典の読経のため」ですから、四書五経や漢詩・史書を読めるようになる必要はありませんので、テクニカルタームも仏教用語だけで大丈夫です。もちろん格義仏教が~~とか、仏典の深い意味が~~とか言い始めるならば四書五経も読めなくてはなりませんが、これは現代語訳も出ていますし、漢文訓読対照本もたくさんありますから、問題ないです。
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仏教と言語

2011年10月09日 | 仏教・思索
日本人が仏教を学ぶには、どういう言語を知っておくべきかということ。

基本的には、信徒・信者としてなら現代日本語だけで十分です。

というのは、仏教は学問ではなくて「法・ダルマ」ですから、「如何に生きるべきか」という事がすべてで、この指針を仏教に求めた場合、必要十分な情報は現代日本語で得ることが十全に可能です。
ただし、基本的な教義や歴史の学びには、ある程度の専門的な言葉を知っておく必要はあります(この知識も現代日本語で得ることはできます)し、それなりに「硬い文章」を読むだけの読解力は必要ですが。

仏教を「指針」として学びたい、という事ならこれだけで良いのですが、もうちょっと突っ込んだ、専門的な事も勉強してみたいと思った場合、あるいは法師・僧侶であるならば、現代日本語に加えて、古典日本語の知識も必要になります。
古典日本語には「和語」と「和漢混淆文」がありますが、取り敢えずは「和漢混淆文」が必要です。これは「国訳」「訓読体」とも言いますが、要は漢文にテニヲハを付けて書き下した日本語のことです。
例えば…

「是の如く我れ聞きぬ。一時、佛、舎衛国の祇樹給孤獨園に住まりたまへり。爾の時、世尊、諸の比丘に告げたまはく「退不退の法、六觸入處有り。云々」(『国訳一切経』阿含部一)

こういう感じ。これをストレスなく読める事。

現代日本語と和漢混淆文が読めれば、仏教の勉強についてはほぼ大丈夫です。漢訳仏典の主要なもの、マイナーなものも、かなりの文献が和漢混淆文で読めます。
『国訳一切経』『新国訳大蔵経』が代表的な叢書ですが、これをすべて読むだけでも、数年じゃ無理でしょう。十年・二十年はかかると思います。まして内容まで理解しようと思えば、他の参考文献(日本語)を渉猟しつつ…ということですから、一生の仕事です。
また、インド仏教やチベット仏教、南方仏教、中国仏教に関する研究論文や専門書・原典翻訳も、現代日本語で良いものがどんどん出てきていますから、仏教学・仏教史に関する基礎的な知識はそれでほぼカバーできます。

一般の仏教徒は言うに及ばず、法師もここまで出来れば、最低限の線はクリアしていますので、あとはこの範囲での勉強量と、何より実践の問題ということです。

もっともっと、更に深く仏典の研究に進みたいと思った場合は、いくつかの選択肢があります。
ここから先は、実践としての仏教に必要というより、仏教学研究の世界です。もちろんこういう学びを実践にフィードバックさせていくことはできますし、また必要なのですが、一般の信徒や法師にとって必須ということではありません。

漢訳大乗の世界を深めたい、日本仏教思想の世界を深めたい場合は、漢文です。漢訳大乗仏教は、インド学全盛の仏教学界では冷遇されがちですが、中国仏教のみならず西域仏教・ベトナム仏教・朝鮮仏教の世界など、まだまだ追求するに値する素晴らしい世界が待っています。また、日本仏教の諸宗派を突き詰めるにも、漢訳仏典はもちろん、祖師・高僧の著作の多くは漢文で書かれており、国訳されていない文献も多数あります。それを読み解くには、漢文です。
また、漢訳仏典の原典の多くはサンスクリットです。インド大乗仏教と漢訳仏教の相違点や呼吸の違いを比較検討するには、この知識が必要でしょう。また、南方仏教(≠原始仏教)の知識を得るにはパーリ語、チベット仏教にはチベット語が必要です。

漢文、サンスクリット、パーリ、チベット。
現代日本語、和漢混淆文に加えてこのどれかが出来れば、最高だと思います(もしあなたが専門の仏教学者になりたいのなら、これらすべてに加えて英語・ドイツ語なども必須ですが)。

学者になるのでもない限り、現代語の英語やドイツ語、中国語、ヒンディー語は必須ではありません。もちろん各国語で仏教書も出てますから出来るに越したことはないですが、仏教書のレベルとしては現代日本語(明治期の近代日本語含む)の方が質・量ともにレベルは高いと思いますので、個人的な仏教の学び・勉強・研究には必要ありません。
ただ、国際的な交流を望むのならば、残念ながら現状で英語が必須だと思いますが、これは別に仏教云々の問題ではないですね。世界的な趨勢です。
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